すずがも・八丈・藪鴬
スズガモで思い当たった「八丈」


ついでに、Turdus naumanniのナウマンさんはナウマン象のナウマンさんのお父さんで別人。



というのも、スズガモと書こうとすると「鈴ヶ森」が予測変換で出てきた。鈴ヶ森といえば東京の地名で、かつて刑場があった場所。今も学校名や公園名に残っているので刑場だったから忌避したというわけでもないと思うのだけど、地名としては消えている。別に行ったこともないし、知人が住んでるわけでもないのに「鈴ヶ森」が候補に出てくるのは芝居とかに出て来るので、近所で見られない「スズガモ」より使用頻度が高いからだ。
鈴ヶ森の芝居というのは、まず「御存鈴ヶ森」。
「ご存じ」というくらいだから「鈴ヶ森」といえばこの芝居というのは広くご存じされてるのだろう。1823年の四世鶴屋南北作の「浮世柄比翼稲妻」の一幕で、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。片岡孝太郎の権八を金比羅歌舞伎で見たことくらいしか覚えてない。
むしろ 私の場合は「鈴ヶ森」といえば、人形浄瑠璃というか義太夫の「恋娘昔八丈」の七段目「鈴ヶ森の段」である。初演は1775年だから「御存鈴ヶ森」より半世紀ほど早い。そして、この「鈴ヶ森」からハチジョウツグミの名前の由来に行き当たる。
「ご存じ」というくらいだから「鈴ヶ森」といえばこの芝居というのは広くご存じされてるのだろう。1823年の四世鶴屋南北作の「浮世柄比翼稲妻」の一幕で、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。片岡孝太郎の権八を金比羅歌舞伎で見たことくらいしか覚えてない。
むしろ 私の場合は「鈴ヶ森」といえば、人形浄瑠璃というか義太夫の「恋娘昔八丈」の七段目「鈴ヶ森の段」である。初演は1775年だから「御存鈴ヶ森」より半世紀ほど早い。そして、この「鈴ヶ森」からハチジョウツグミの名前の由来に行き当たる。
江戸時代中期における「八丈」
この「恋娘昔八丈」の元になったのは、亨保年間の1726年に、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」で、長女のお熊らによって夫であった入り婿が殺された事件で、翌1727年にお熊は市中引き回しの上獄門となった。その際にお熊が黄八丈の小袖を着ていたことが、当時の人々に大きなインパクトを与えたようである。

なお、当時の江戸南町奉行が大岡忠相だったので、この事件はずいぶん後に大岡政談として脚色されてゆくことになるが、八丈の衣装は引き継がれていく。
事件から約半世紀、安永4年、1775年の夏に江戸で初演されたのが、人形浄瑠璃の「恋娘昔八丈」である。まだ大岡忠相は出せない。この芝居では、店の名は「白城屋」に、主人公の名は「お熊」から「お駒」に変えられている。
事件から約半世紀、安永4年、1775年の夏に江戸で初演されたのが、人形浄瑠璃の「恋娘昔八丈」である。まだ大岡忠相は出せない。この芝居では、店の名は「白城屋」に、主人公の名は「お熊」から「お駒」に変えられている。

この「恋娘昔八丈」のラストの場面が「鈴ヶ森の段」。
上はその床本の最初と最後のページ。お駒やその両親、代官堤弥藤次よりも、冒頭のちょい役の野次馬の会話を語り別けるのに難儀した覚えがある。野次馬は江戸っ子なんだけど義太夫節なんで上方アクセントというのも何か変。ともかくも、芝居では、結局、お駒は違法性阻却事由が明らかになり、「お駒が命赦免の状」が届き、釈放される。
そして、お駒が着ていたのも、最後のページの4行目に「重ねて黄八丈。昔語ぞ今ここに」とあるように黄八丈。タイトルにもなってる織物の「八丈」。
この芝居は大ヒットする。初演の翌1776年に大流行した風邪、旧型コロナウィルス感染症だったのだろうけど、それが「お駒風」と名付けられたくらいだ。織物の「八丈」も大人気となったとメーカーのサイトにもあるくらいだ。

そして、お駒が着ていたのも、最後のページの4行目に「重ねて黄八丈。昔語ぞ今ここに」とあるように黄八丈。タイトルにもなってる織物の「八丈」。
この芝居は大ヒットする。初演の翌1776年に大流行した風邪、旧型コロナウィルス感染症だったのだろうけど、それが「お駒風」と名付けられたくらいだ。織物の「八丈」も大人気となったとメーカーのサイトにもあるくらいだ。

こちらは人形浄瑠璃から歌舞伎に移された「恋娘昔八丈」で、さらに後の幕末の月岡芳年の絵。黄八丈といえば、黄色地の濃色の細い格子が現在では一般的だけど、当時の「八丈」にはこういう色合いも多かったようだ。こういう鳶色がメインのものも含めて、黄色の色を使ったものの総称を「黄八丈」と言ったらしい。
堀田正教の「観文禽譜」
この芝居の大流行が田沼意次の時代。田沼意次に代わって老中となったのが松平定信。寛政2年、1790年に松平定信の引き立てで老中に次ぐ地位の若年寄になったのが、近江堅田藩主の堀田正教。
この堀田正教は、江戸時代の鳥類図鑑として有名な「禽譜」とその解説書「観文禽譜」を編纂し、寛政6年、1794年に一応の完成を見ている。
この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、「八丈つぐみ」も載っている。
この堀田正教は、江戸時代の鳥類図鑑として有名な「禽譜」とその解説書「観文禽譜」を編纂し、寛政6年、1794年に一応の完成を見ている。
この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、「八丈つぐみ」も載っている。

当時の認識としては、「八丈」というのは地名じゃなくて、大ヒットした芝居にも出てくる織物のことだったわけで、ハチジョウツグミというのはビロードキンクロと同じ発想のネーミングだったわけである。そもそも「八丈島」という地名さえ織物の「八丈」の産地ということで呼ばれたのが由来だとか。
八丈を地名と考えた珍説
なお、ネット上では「八丈島で捕らえられた」とかいう由来をよく見る。たぶんWikipediaの記述か、その出典として載っている「安部直哉『山溪名前図鑑 野鳥の名前』」からだ。この本では、他の部分では出典の記述があるのに、「昔、たまたま八丈島で捕獲された」には出典がない。そしてツグミとハチジョウツグミの繁殖地についての記述が通説とは逆になっている。その程度の信頼性だろう。
柏書房の「図說・日本鳥名由来辞典」では「はちじょうつぐみは八丈島に住むつぐみの意であろうが、特に八丈島に住むわけではない」とあって、八丈を地名と考えた一般論を書くのみで断定は避けている。
それよりも、この本では琉球つぐみもハチジョウツグミとしているけど、「観文禽譜」での記述ではワキアカツグミに近いのが気になった。
さらには、日本で最初にハチジョウツグミが記録されたのは、八丈島ではなく、1857年の函館なので、適切な和名とはいえないという記述も見られる。その「記録」よりも半世紀以上前からハチジョウツグミと言われてるんだけど。
柏書房の「図說・日本鳥名由来辞典」では「はちじょうつぐみは八丈島に住むつぐみの意であろうが、特に八丈島に住むわけではない」とあって、八丈を地名と考えた一般論を書くのみで断定は避けている。
それよりも、この本では琉球つぐみもハチジョウツグミとしているけど、「観文禽譜」での記述ではワキアカツグミに近いのが気になった。
さらには、日本で最初にハチジョウツグミが記録されたのは、八丈島ではなく、1857年の函館なので、適切な和名とはいえないという記述も見られる。その「記録」よりも半世紀以上前からハチジョウツグミと言われてるんだけど。
藪鴬のこと
ついでに「御存鈴ヶ森」でも気になったこともあった。台詞に「阿波座烏は浪花潟、藪鶯は京育ち、吉原雀を 羽交につけ……」というのがある。
阿波座というのは現在も地下鉄の駅名になっている大阪の地名。阿波座烏というのは、「阿波座に住むカラス」でも「たまたま阿波座で捕獲された烏」でもない。大阪の新町遊郭の冷やかし客のこと。「買う買う」と言いながら群れてるからだとか。
吉原雀というのは江戸吉原の冷やかし客。「よしはらすゞめ」というのは、先の「観文禽譜」にも載ってるが「剖葦」つまりヨシキリのこと。
阿波座というのは現在も地下鉄の駅名になっている大阪の地名。阿波座烏というのは、「阿波座に住むカラス」でも「たまたま阿波座で捕獲された烏」でもない。大阪の新町遊郭の冷やかし客のこと。「買う買う」と言いながら群れてるからだとか。
吉原雀というのは江戸吉原の冷やかし客。「よしはらすゞめ」というのは、先の「観文禽譜」にも載ってるが「剖葦」つまりヨシキリのこと。



「連子窓の向こうをウロウロしてるから」かと思ったが、客は吉原のように窓越しに相手を選んで入店するのではなく、島原では入店してから別の店から呼んでもらうろいうシステムの違いがある。けれども連子窓があることは確認できた。
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