祝祭/축제
知人に奨められた「祝祭/축제」のDVDを見た。
伊丹十三監督の「お葬式」という映画があった。その後、日本で同じような葬式映画が作られた。それもあって、この「祝祭」をレンタルビデオ屋の棚で見た時も、DVDのジャケットだけを見て、同じようなもんかと思い、興味を示さなかった。「西便制」や「春香伝」と同じイムグォンテク(임권택)監督ということさえ気付いてなかった。
見て、偽善者と偽悪者とが理解しあう、伝統の「カタチ」と「リクツ」の理解しあう映画だなと思った。
主人公は作家であり、別に偽善者というわけではない。悪い人ではないし善人なのだが、郷里を離れているので祖母の面倒をちゃんと見られていない。夫婦間にも問題がある。それは、自分の至らなさと思っているのか、名声を得ているのが負い目になっているように見える。だから、自分を偽善者と言われても否定はできないという人だ。
偽悪者というのはその姪で、一家を破産させて自殺した長男の婚外子だ。叔母達にやっかい者扱いされ、家出をした女性だ。その女性が祖母、つまり、作家の母の葬式にやって来る。自分には優しかった祖母の葬式だから、自分が歓迎されないこともわかっていても、あえて来たのだ。
韓国の葬式の様子が丹念に紹介される。葬式というのは、生活風習の中でも、最も変化しにくい行事だ。だから異文化の人間にはわかりにくいはずだ。でも、この映画では、韓国での、というよりこの作品における「死」の概念について、2種類の方法で説明する。ひとつは、作家の友人たちの会話によって、もうひとつは、作家の書いた童話の劇中劇という形で。
だから、異文化の観客も、葬式の意味というか「リクツ」がわかる。その上で葬式の「カタチ」を「へぇ」と思いながら見ることができる。そうなると、この偽悪者である姪は、都市的で現代的な存在であり、土俗的で伝統的な葬儀の「カタチ」には外れているのかも知れないが、最も「リクツ」に忠実だということがわかる。
主人公の作家は、土俗的な「カタチ」に忠実に葬式を行おうとする。親族も一緒だ。そして、参列者たちは羽目を外し出す。けれども「リクツ」としておかしくないから、作家も苦笑するだけだ。長生きし、赤ちゃんに戻った祖母の葬式は「カタチ」は違っても「リクツ」からは、祝祭でいいのだから。
作家は、伝統的な「カタチ」に沿わない偽悪者の姪が、実は葬式の「リクツ」に忠実なことを知る。姪も叔父が無自覚な偽善者ではないし、伝統に「カタチ」だけ従って儀式を行っているのではないことがわかる。
ラストシーンは葬式の最後の一族の記念撮影だ。自分は入れてもらえないと思っていた姪を、作家は一緒に入るように呼び、姪も喜んで加わる。そして一同が笑って写る。
作家以外の親族が、この姪を受け入れたかどうかはともかく、写真の中央に位置している作家は、しかるべき位置を姪に与えたのだ。
「西便制」や「春香伝」を撮ったイム監督だから、韓国の伝統を愛しているんだと思う。そして、「伝統」の「カタチ」だけではなく、現代に通じる「リクツ」があるからこそ大事にしたいんだろうと思った。
極めて土俗的な題材であっても、「リクツ」の話だから異文化の人間が見てよくわかり、「カタチ」が好奇心に訴えて、飽きさせない。だからこそ、現代では、土地の「リクツ」にあった地域性や伝統が国際性を持ちうるわけであり、無個性な近代が克服されるべきものになってしまっているのだが、近代という時代が忌まわしい韓国なら、なおさらのことだろう。
ひとつ、読み間違えたのが、姪が唄に来た人を酔い潰したところ。その会話に、昔は芸妓が唄いながら送ったという台詞があったので、この姪が唄うことになるのかと思ったが、違った。そんなベタな展開にはならなかった。
今まで見た韓国映画、といっても6本だけだが、で最もおもしろかったし、いいと思った。でも、映画館で見たいとか、DVDを買おうと思うのは、むしろ「西便制」の方だ。題材からの「絵ヅラ」の問題だが。
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