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30/04/2005

エロとバカについて再考察

 バカとエロについてのロジックなテキストについてであるが、私は、もし「えびボクサー」がなければ、すんなり借りられる筈の「いかレスラー」をためらいながらも、レンタルビデオ店で借りて見たということは言っておこう。
 今は「シベリア超特急」になぜ松嶋屋一門が出たのか、見ておかねばなるまいと思っている。
 さて、世の中にはバカがより恥ずかしい人とエロがより恥ずかしい人がいる、という話のパクリ元の「思想家は、より邪悪を憎むか、バカを憎むかに分けられる」というのは、あるblogにあった話なのだ。
 自慢じゃないがフランスの哲学者のことなど全く知らない。かろうじてニーチェというのは、2001年宇宙の旅のオープニングの音楽の原作者だと聞いたことがある程度だ。
 だから、この話の本筋はわからんのだけれど、後半を読んで思いあたったのが「勝ち組」と「負け組」というコトバなのだ。
 このコトバが最初に使われたのは、第2次大戦後の南米だと思う。日本は戦争に負けたというのは謀略で本当は勝っていると思いこんでいたのが「勝ち組」で、負けたことを信じたのが「負け組」だったはず。それで、これを「勝ち組@元祖」「負け組@元祖」とでも言おう。
 最近の「勝ち組」「負け組」というのは、違う意味で使っているようで、もっとストレートな意味なのだが、このblogで紹介されていることは、最近「勝ち組@元祖」が増えていると読める。それで、いわゆるオタク系のオレ様とかを、けっこうネット上で見かけるので、なるほどと思ってしまったわけだ。
 「LEON」と「UOMO」という雑誌については知らなかった。なので検索してみたのだが、高収入層がターゲットで、つまりは「勝ち組」向けなのだが、読むことで「勝ち組@元祖」になってしまうことになる。優秀なアスリートならいろんな種目で勝つこともできる。でも、勝てる種目は限られる。それなら、負けてる種目はあっさり負けを認めればいい。そうしなければ、勝とうとすることも出来ない。負けている種目で勝ったと思っても、それは「勝ち組@元祖」でしかない。
 元々の「勝ち組@元祖」が生まれたのは、リアリティのない情報を願望が寄り切った結果だろうし、当時の社会情勢から仕方がなかったかも知れない。現代の「勝ち組@元祖」も願望で事実認識を歪めている。そのことに、気付こうともしないバカだから恥ずかしい。
 ロジックなテキストでは、バブル以降の社会状況について、欲望が肥大したままであり、欲望を隠さないのを恥ずかしいと感じている。
 でも、思うのだ。隠そうとして隠せるものなのか。そこで、ロジックなテキストの専門分野に踏み込んで申し訳ないが、ハゲとヅラはどちらが恥ずかしいかという話になるのだ。ロジックなテキストで例示されている雑誌の恥ずかしさは「ヅラのカタログ」の恥ずかしさだと思う。
 金があってもてたいのなら、何も高い服を着ることはない、高い服を買ってやればいい。これがまっとうなオヤジのもてかたであり、恥ずかしくないエロオヤジだ。こういう単純なロジックに気付かないのは、欲望を隠さないからというより「勝ち組@元祖」化だ。欲望を自慰で満足させようとしているからだと思う。「自分でやってるところを見せなさい」というのは、立派な羞恥プレィのひとつだ。
 肥大化した欲望が縮小させられないのなら、隠すよりも露出方法を考えることだ。つまりは欲望を芸とすることだと思う。エロもバカもネタ化していれば、つまり芸として昇華できていれば恥ずかしくないとロジックなテキストでも言っているし、以前にエントリーしたアホとアホ芸の差でもある。
 ロジックなテキストの中の人には、ビール飲みながら野球中継見ているようなオヤジがいるらしいが、オリエンタルな紅茶には中の人などいないことになっている。ファンの夢を壊したくない。

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29/04/2005

スクリプトのページ

 scriptを使ったwebページに、設問が並んでいて回答を選択してゆき、最後に[判定]をクリックすると総合評価が出てくるというのがある。
 とある「コスプレ作家」のサイトに、こういう形の「チェック」というページがあったので試してみると「理想です。結婚してください。結果をお知らせください」という判定だった。どう答えてもそういう結果が出るのかも、という疑いもあったのだが、まあ、単純に喜ぶことにした。
 おなじように、スクリプトを使って政治的立場を判定するページに日本版ポリティカルコンパスというのがあったのでやってみた。結果は、リベラル右派だそうだ。けっこう「勝手」というか個人主義的な指向があるので、政治的にはリベラル、経済的には市場派と判定されたようだ。
 さて、このポリティカルコンパスは、いろんな人が試してみて、作者のblogにコメントしたりTバックを送り、いろんな感想をあげている。中にはおバカな感想もあり、自分は右よりだと思っていたのになぜ左派か、もしくは左よりと思っていたのになぜ右派かというのがある。
 経済政策に関する立場は、公共重視を左派、市場重視を右派としているために、2ちゃんねら的な「ウヨ」と「サヨ」の概念しかない人は混乱してしまうらしい。
 中国が自由経済路線を突っ走り、日本が世界で最も成功した(過去形)社会主義経済と言われているわけだから、もはや近代のイデオロギーと経済は連動しないようで、結果をプロットした図を見ると、どうも、保守派左派とリベラル右派が多いようだ。つまり、政治的なコンサバ派は社会経済派で、リベラル派は市場経済派という傾向になっている。社会重視か個人重視かということで立場が決まるなら当然で、両極端にファシズムとアナーキズムを置けばわかりやすい。むしろ、いにしえの保守=自由経済、革新=計画経済という構図の方が不自然なわけだが。
 このポリティカルコンパスというのは、元々はアメリカにそういう趣旨のサイトがある。そして、日本人がやるとやたらにリベラル左派になるらしい。
 というのは、まず、コンサバかリベラルかの判定にキリスト教道徳に関する設問があること、単一民族神話のない国なので移民がらみの設問がない、両軸とも5択のうち両端が「Strongly」なので、日本人は避ける傾向がある、という分析をしている人がいる。これを試して、設問を読んだはずなのに、自分は日本では右翼と言われるが世界ではこれでも中道左派だと言う不思議な評価をする人もいる。
 それで、日本版の作者は、日本向きの設問を作って、5択も「同意」「やや同意」に変えている。
 さて、こうやって「立場」を4方向のどれかがわかってどうなんだと言うと、今の政党というのは「マーケット」に対応した「商品」を用意できていないのだということがわかった。次に、こういう自分にたいして知識のない政治経済についてのエントリーを書くのは、少し恥ずかしい。だから「コスプレ作家」の「チェック」のことにも触れて、それを緩和するという、自分の羞恥的立場もわかってしまったのだ。
 なお、最後には羞恥の話になったけれども、ロジックなテキストにインスパイアされたエントリーは、別に書きます。

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27/04/2005

鈍感な人、敏感な人

 ここでは、あんまりニュースの話題とか書いていない。けれども、福知山線の事故については、近くのようなので大丈夫でしたか、というメールも来ていたので、そう近くもないのだが、返事代わりに。
 今のところ、他人事ですむかどうか不明、という状況です。
 この線は、ピッコロシアターやアイホールに行く時によく利用したし、確か、近松公園というのもこの現場の近所のはずだ。事故を起こした車輌と同じ形式の電車もよく利用する。けれども「自分が乗っていたらと思うと他人事ですまされない」と思うほど、想像力は豊かでない。
 これで知人やその縁者が事故に遭遇していれば、他人事ではなくなるんだけど、当然ながら、そうであっても、なかっても、本人からの連絡はないから、今のところ不明なのだ。
 ということで、この事故に関しては、まだ自分の立場もはっきりしないし、ニュースを見たり、情報をチェックするだけで、まだ、書くことはない。
 まだ何も書くべきことがないというのは、私が鈍いのかも知れないが、事故当日に早くもこの事故の利用方法を考えてらっしゃる方がいるのには、かなり驚いた。

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25/04/2005

祝祭/축제

img055 知人に奨められた「祝祭/축제」のDVDを見た。
 伊丹十三監督の「お葬式」という映画があった。その後、日本で同じような葬式映画が作られた。それもあって、この「祝祭」をレンタルビデオ屋の棚で見た時も、DVDのジャケットだけを見て、同じようなもんかと思い、興味を示さなかった。「西便制」や「春香伝」と同じイムグォンテク(임권택)監督ということさえ気付いてなかった。
 見て、偽善者と偽悪者とが理解しあう、伝統の「カタチ」と「リクツ」の理解しあう映画だなと思った。
 主人公は作家であり、別に偽善者というわけではない。悪い人ではないし善人なのだが、郷里を離れているので祖母の面倒をちゃんと見られていない。夫婦間にも問題がある。それは、自分の至らなさと思っているのか、名声を得ているのが負い目になっているように見える。だから、自分を偽善者と言われても否定はできないという人だ。
 偽悪者というのはその姪で、一家を破産させて自殺した長男の婚外子だ。叔母達にやっかい者扱いされ、家出をした女性だ。その女性が祖母、つまり、作家の母の葬式にやって来る。自分には優しかった祖母の葬式だから、自分が歓迎されないこともわかっていても、あえて来たのだ。
 韓国の葬式の様子が丹念に紹介される。葬式というのは、生活風習の中でも、最も変化しにくい行事だ。だから異文化の人間にはわかりにくいはずだ。でも、この映画では、韓国での、というよりこの作品における「死」の概念について、2種類の方法で説明する。ひとつは、作家の友人たちの会話によって、もうひとつは、作家の書いた童話の劇中劇という形で。
 だから、異文化の観客も、葬式の意味というか「リクツ」がわかる。その上で葬式の「カタチ」を「へぇ」と思いながら見ることができる。そうなると、この偽悪者である姪は、都市的で現代的な存在であり、土俗的で伝統的な葬儀の「カタチ」には外れているのかも知れないが、最も「リクツ」に忠実だということがわかる。
 主人公の作家は、土俗的な「カタチ」に忠実に葬式を行おうとする。親族も一緒だ。そして、参列者たちは羽目を外し出す。けれども「リクツ」としておかしくないから、作家も苦笑するだけだ。長生きし、赤ちゃんに戻った祖母の葬式は「カタチ」は違っても「リクツ」からは、祝祭でいいのだから。
 作家は、伝統的な「カタチ」に沿わない偽悪者の姪が、実は葬式の「リクツ」に忠実なことを知る。姪も叔父が無自覚な偽善者ではないし、伝統に「カタチ」だけ従って儀式を行っているのではないことがわかる。
 ラストシーンは葬式の最後の一族の記念撮影だ。自分は入れてもらえないと思っていた姪を、作家は一緒に入るように呼び、姪も喜んで加わる。そして一同が笑って写る。
 作家以外の親族が、この姪を受け入れたかどうかはともかく、写真の中央に位置している作家は、しかるべき位置を姪に与えたのだ。
 「西便制」や「春香伝」を撮ったイム監督だから、韓国の伝統を愛しているんだと思う。そして、「伝統」の「カタチ」だけではなく、現代に通じる「リクツ」があるからこそ大事にしたいんだろうと思った。
 極めて土俗的な題材であっても、「リクツ」の話だから異文化の人間が見てよくわかり、「カタチ」が好奇心に訴えて、飽きさせない。だからこそ、現代では、土地の「リクツ」にあった地域性や伝統が国際性を持ちうるわけであり、無個性な近代が克服されるべきものになってしまっているのだが、近代という時代が忌まわしい韓国なら、なおさらのことだろう。
 ひとつ、読み間違えたのが、姪が唄に来た人を酔い潰したところ。その会話に、昔は芸妓が唄いながら送ったという台詞があったので、この姪が唄うことになるのかと思ったが、違った。そんなベタな展開にはならなかった。
 今まで見た韓国映画、といっても6本だけだが、で最もおもしろかったし、いいと思った。でも、映画館で見たいとか、DVDを買おうと思うのは、むしろ「西便制」の方だ。題材からの「絵ヅラ」の問題だが。

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23/04/2005

論理演算

 うら若き女性が「ヤクザvsマフィア」というビデオを買うというのは羞恥プレィになるそうだ。ロジックなテキストでそう書いてあったのだが、私も論理的に正しいと思う。
 今日、レンタルビデオ店で「服部半蔵vs陰陽師」というビデオが置いてあるのを見た。これは微妙だ。
 「ヤクザvsエイリアン」「服部半蔵vsプレデター」なら羞恥プレィにならない。ここまで外れると、明らかにネタだし、立派なオバカ映画であることが明確だからだ。
 ところが「ほりえもんvsミナミの帝王」のような外れ方だと、やっぱり恥ずかしい。竹井みどりvs乙部というネタを友近がやるのはいいが、明らかに賞味期限の違うネタをvsでくくって映像パッケージとしてしまうのは、恥ずかしいと言わねばならない。
 ここまで考察して気付いたのだが、vsというのは一種の論理演算なのだ。AvsBによって、羞恥度がtrueかfalseかを返すわけだ。
 そこで「服部半蔵vs陰陽師」だが、これが微妙なのは、服部半蔵の値が一定ではないからだ。もし「キルビル」がなければ、明らかにtrueなのだが。

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オペラ8

 Opera8がリリースされた。そのオペラのプレスリリースによれば、4日間でダウロード数が100万になったら、CEOがノルウェイからアメリカまで泳ぐそうだ。
 早速、ダウンロードしようとしたら、Mac用はOpera 7.54u2までしか出ていない。別に、今のブラウザでいいんだけど、100万というのは達成不可能な数字でないだけに、協力できないのは残念だ。

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22/04/2005

鳥肝

 鳥肝のいいのが売ってたので、買ってきた。少量の酒と生姜を刻んだものに漬けた。
 しばらく、漬けてから、昆布だしと醤油だけで煮るつもりだった。昆布だしは、だしを取るところから始めるのは面倒なので、粉末のを使っている。
 ところが、いざ煮ようと思ったら、粉末の昆布だしがない。コンビニに買いに行っても売っていない。
 ところが、粉末のうどんだしが売っていた。内容はこんぶだしと醤油、かつおだしとかだった。それで、そのうどんだしで煮てみた。煮てから、庭で山椒の新芽をちぎって来て載せた。けっこう美味くできた。
 不味いのは嫌だが、美味いのもちょっと悲しい。

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21/04/2005

brotherhood/태극기 휘날리며

 韓国映画で「西便制」と「春香伝」が気にいったのなら、「祝祭」も見ればどうかと奨められた。いつも寄る店では貸し出し中だったので、最も大量に置いてあった、韓国映画史上最大の動員を記録したという「태극기 휘날리며(太極旗を翻して)/brotherhood」を借りてみた。
img054 朝鮮戦争の映画だ。朝鮮戦争の映画というと「MASH」や「トコリの橋」とか、けっこうアメリカ映画の題材になっている。そして、これらの映画では韓国軍は脇役というか「背景」だった。この映画では主役と敵役の両方をやっている。
 朝鮮戦争というのは、北朝鮮と韓国、人民軍と国連軍、共産軍と自由主義の戦争ということになっている。そして、物語は韓国軍の兵士となった兄弟の話だが、兄弟の敵は朝鮮人民軍だけではない。朝鮮人民軍も出てくるのだが「背景」にしかすぎない。この映画では「私」と「公」の戦争が描かれている。
 朝鮮戦争の勃発により家族で避難中、弟が無理矢理に徴兵され、兄がそれを助けようとして、一緒に徴兵されてしまい、家族と引き離される。国という「公」によって家族という「私」が引き離される。
 人民軍に圧され、韓国軍は南に追いつめられる。兄は、勲章が貰えれば、弟が除隊して貰えると聞き、必死で闘う。何とか軍から抜けようとしていたのが、「私」のために戦いはじめる。
 米軍がイムチョンに上陸し、形成が逆転する。兄は、戦うことが自己目的化していく。最初の動機は「私」なのだが、もはや「公」として戦っている。いい兵士を演ずるために「公」のタテマエを借りることもある。けれども、本当にいい兵士になってゆくのだ。北の兵士となったかつての友人を、アカだから、捕虜にすると足手まといになるからと、「公」のタテマエで殺そうとするに至ってしまうのだ。それを止めるのは「私」を失っていない弟だ。
 中国義勇軍が参戦し、また形成逆転する。退却しながら、郷里のソウルに兄弟は立ち寄る。
 ここで、兄の許嫁が殺される。彼女は、麦が貰えるからと、貧しいからと共産党組織に接触したから、韓国の防諜組織に殺される。「私」の理由でも「公」に接触したから、敵対する「公」に殺されるのだ。助けようとした兄弟は捕らえられ、別れてしまう。そして兄は弟が殺されたと思いこむ。
 南北は均衡を保ち、休戦を前に38度線付近で陣取り合戦が行われている。弟が韓国側に殺されたと思った兄は、人民軍側に加わり英雄になってしまっている。
 元々、同じ民族だから、軍服を着替えれば、それで簡単に変われるのだ。軍服だけではなく「イデオロギー」も着替えなくちゃいけないはずだけど、そんなもの、この兄弟にとっては、どうでもいいことなのだ。「私」の都合で簡単に着替えることができる。
 結局、最後まで「私」を守った弟は、「公」に翻弄された兄を「私」に取り戻すのだが、兄は死んでしまうという話。
 弟は「私」を守ったけれども、知らない人は簡単に殺しちゃう。その殺された相手にも、この兄弟のような物語はあるはずだ。でも、徹底して、この兄弟、それも弟の個人的視点で描くというシンプルさで、弟にしか感情移入を許さない。その弟が死なないのは最初のシーンでわかってる。テンポもいい。お金もかけてるから迫力はある。だから、安心して見てられる。
 戦闘シーンでは足がもげたり手が取れたりしてけっこうグロい。でもだんだん馴れてくる。たくさん、それもあっさりと登場人物が死ぬ。それにも馴れてくる。だから泣ける映画とか言う割には泣けない。馴れちゃうのだ。兄弟がだんだん立派な兵士になり、「私」から「公」に馴れてゆくようにだ。
 馴れないためには、DVDという日常的なメディアで見るより劇場で見た方がいいと思う。でも再度、劇場で見るという気にはならない。
 民族と言うより、家族が「公」に翻弄される悲劇を描いた作品だ。そして、この「公」というのは、結局、今の6カ国協議の6カ国に帰結する。現在も世界の半分以上を支配している「公」なのだ。とりあえず自国にさえ注意していればいい国とは違った韓国の事情が背景にある。
 というのが私の見方なのだが、監督がそういうつもりで作ったのかは知らない。イデオロギーとか国家とか、そんな悪い夢から覚めようとまで言うつもりはないかも知れない。でも、いろんな見方ができる方が、いろんな趣味の人が楽しめる。だからこそ、ヒットしたんだろう。

 アメリカ軍の飛行機が3カ所出てくる。南に追いつめられた韓国軍が反撃しようとする時に、制空戦闘機の編隊が上空を飛ぶ。韓国軍が北へ攻め込もうとしている時には戦略爆撃機の編隊が上空を飛ぶ。38度線の戦闘では艦上攻撃機が対地攻撃を行う。制空権を取り戻す編隊、無差別爆撃を行う編隊、近接支援の戦闘機と、アメリカ軍は戦況を表現するための「背景」に使われているのが、妙に印象的。冷戦時代のアメリカ映画では点景にもならなかった韓国人兵士の「私」が主役になり、主役だったアメリカ軍が点景に使われた映画だ。

 韓国らしい、大作らしい映画だと思う。でも、疑問がひとつ。映画は朝鮮戦争の50年後の現代のシーンから始まる。そして、最後に、現代のシーンで終わる。。。と思ったら、戦争直後の弟の帰還シーンが付いてくる。なぜなんだろう。意味があるからそうしてるはずだ。単に、ほっとするシーン、未来志向のシーンで終わらせたかっただけではあるまい。やっぱり、韓国映画ってラストが不思議だ。

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20/04/2005

アクセス解析の目的

 アクセス解析を付けてみた。特に目的があったわけではないのだが、付けている所をよく見るので何がわかるのかな、と思った程度だ。
 タブブラウズをすると、正確にわからないんじゃないかなという疑問だが、確かにそうだ。でも正確にわかったところで、面白くも何ともない。それに、アクセスの70%がタブブラウズのできないブラウザを使用している。でも、不便は感じないのだろうか。
 もうひとつ意外なのは、javscriptをoffにしている人がほとんどいない。まあ、知ってる人やリピーターならそれでもいい。けれどもwindowsでIEでscriptがonで初めてのサイトを見る人がいるのだ。自分が被害にあうだけじゃなくて、自分が踏み台になり、あちこちに被害を与えることも考えてほしい。
 検索ワードはいろいろだ。ドロンジョさまの画像検索で来る人がかなりいる。
 「糞女優」というキーワードで来る人が複数いた。歌舞伎に女優がでないことと、相撲の表彰の問題と、味噌と糞を一緒にしてほしくないというエントリーが引っかかったようだ。で「糞女優」って何だと思った人、調べない方がいいと思う。調べたいのなら画像表示をoffにして調べた方がいい。
 検索画面で、ここが、期待した内容のサイトじゃないことは明らかだろうに、なぜ、アクセスするのか不思議だ。
 コウガイビルで検索してる例があった。昨年の7月のエントリーだけど。リンク元の検索画面を見ると、時々見てるし、コメントを付けあったりもした人のblogの昨年12月のエントリーが並んでいた。そのエントリーは見落としていたので、昨年7月の記事から、昨年12月の記事にトラックバックを送ってみた。
 ともかくも、意外なワードで検索されているのを発見する。アクセス解析を付けている人の最大の目的は。たぶんこれだと思う。

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18/04/2005

訃報

 1973年は、南海ホークスが最後に優勝した年だ。この時のヘッドコーチで、攻撃面の指揮を取っていたのが、ドナルド・ブラッシングゲームで、燃える男というニックネームから、ブレーザーを登録名にしていた。そのブレーザーが亡くなったそうだ。
 優勝の大きな要因は、前年に東映から移籍してきた江本、そしてこの年に加わった山内と松原と、先発投手のコマが揃ったからだ。その松原、後の福士投手の葬儀の記事が、ブレーザーの訃報の誌面に載っていた。
 この年は2シーズン制で、阪急ブレーブスとのプレーオフを制して優勝したのだが、そのブレーブスも今はない。日本シリーズの相手は常勝巨人軍。讀賣は今でもあるが「常勝」は、お亡くなりになって久しい。
 1973年当時から唯一残っているのが、この年にはじまった「あぶさん」くらい。大阪球場は、もっと後にだけれど、何度か行ったことがある。大阪球場も南海ホークスもなくなり、関係した諸々がなくなっていく。けれども、そんなに寂しいとは感じない。
 やっぱりプロ野球というのは他人事なんだと思う。でも、自分が草野球をして遊んだ場所がなくなってしまい、そこで遊ぼうという気はないにしろ、同じように遊んでる子どもが見られない。同じ体験が伝承されない。こういうのは、とても残念だ。
 妙な例えだけれど、引退していた越路大夫や燕三が亡くなった方が大きなニュースだがそう寂しくない。けれども、個人的に話をしたりした緑さんや八介さんが亡くなった方がずっと残念に思う感覚だ。
 公共工事が必要なら、不要な施設やその敷地を使えばいいのに、どうして子どもの遊び場を取り上げたのかな。
 草野球のグランドとして使われていた、京都御苑の饗宴場跡地の工事現場のサイトを見て思った。

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タブブラウズとアクセス解析

 最近、tabブラウジングを常用している。自分のblogのチェックとか作成とかをする場合にも、blogとしてまとめてあるブックマークをtabで開くことになる。他を見るにしても、その度にブックマークを開くより、予めtabで開いておいた方が面倒がないからだ。こういった場合、見なくとも、tabで開いたサイトには接続していることになる。
 そして、blogにエントリーする場合、他のtabで、トラックバック先のサイトを開いたり、参考にするサイトを開いたりして、どのtabがどのサイトかわけがわからなくなり、結局、ブラウザを終了して、またblogカテゴリーをtabで開いてしまう。
 こういうことを繰り返していると、全く見ていないにもかかわらず、tabで開いたカテゴリーのサイトには、何度もアクセスしてしまっていることになる。
 たぶん、tabブラウジングの出来るブラウザを使っている人は、こういう使い方をしている人が多いと思う。
 アクセス解析というのを付けてみたのだが、こういった、見なくても接続してしまうtabブラウジングの普及に対して、解析が出来るのだろうか。ちょっと気になった。

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悪い男/나쁜 남자

img053 昨日の「島」と同じキム・ギドク(김기덕)監督作品の「悪い男/나쁜 남자」を借りてきた。
 「島」は良かったが物足りない。だから同じ監督のものが見たくなったのだ。「島」を観るきっかけになった知人も、やはり「島」の翌日にこれを観てる。たまたま、この監督特集があったのかも知れないけれども、その気持ちはわかる。
 やはり、平べったく言うと「SMによる恋愛映画」なのだが、作品の完成度は「島」より高いと思った。
 ダウンタウンの松本に似た雰囲気のヤクザが主人公だ。やっぱり、主人公はほとんど喋らない。
唯一、喋るのが「ヤクザに愛なんて」という意味の台詞だ。その通りで、このヤクザ、女子大生に一目惚れしてしまう。でも自分はヤクザなのだからと、世間一般の恋愛の形はとらないのだ。
 そこで、彼は徹底的に彼女を虐げる。そして自分も彼女に虐げられようとする。ヤクザだから、そういう形でしか愛せないのだ。彼女をシアワセにして、自分もシアワセになるというのは、ヤクザのすることじゃないと思っているのだ。彼女を不幸にして、自分も彼女のために不幸になることが、彼の愛なのだ。
 「島」では痛みによるマゾヒズムだったが、この作品では屈辱によるマゾヒズムだ。娼婦になったあこがれの女子大生を抱くことはできる。けれども決して抱かず、他の男に抱かれるのを見ることで屈辱を味わう。そして、彼女に自分を憎むように、罠にはめたことを知らせる。
 そして、最後には、そんな形の彼の愛が報われるという展開だ。
 ヤクザと、そのヤクザによって娼婦になった女の話なのだが、この2人の間の性関係は描かれない。というより、ないことを暗示している。性関係よりも深い性的関係があるという「純愛映画」ということも出来ると思う。
 「ハン」には「白い恨」と「黒い恨」があるという話を聞いたことがある。男への恋を自傷に求めた「島」の女は「白い恨」で、女子大生への恋を彼女と虐げあうことに求めたこの悪い男は「黒い恨」なのだろうか。
 話はわかりやすいし、それゆえに描写が説明的でわかりやすいのも、かえって気にならない。赤色をポイントに使うというベタな演出も、ベタゆえの良さがある。
 でも、やっぱり、くどさは感じる。「島」と同じくラストシーンも余計に思う。このラストシーンがなければ、恋愛が成就したとたん男は刺されて死に、女は海に入って死ぬという予告されていた結末と、このラストシーンのような2通りの結末が想像できる。その余地を許さずに「メデタシメデタシおしまい」という形で終わるのは余計な気がする。

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17/04/2005

島/섬

 以前にも書いたのだが、レンタルビデオ店に韓国映画特集という棚が出来ているけれど、私は韓国の現代劇の映画をあんまり見る気にならない。
 でも、知人のblogで見た映画評で面白そうだと思ったのが「島/섬」という映画。それで、DVDを借りてみた。
img052 「砂の女」とはまるっきり違った話だった。と、全く違っているのに「砂の女」が出てくるのはどこか似ているからだけど。それで、この映画はラブストーリーであり、心中映画だ。
 ただ、ラブストーリーといっても、不条理な行為の許容によって愛情を表現する。平たくいえばSMだ。ただし、普通のSMな行為が行われるんではなくて、SMな自慰行為が行われる。
 男女とも相手の自傷行為によって拘束されることを望んでしまう。男の方は自殺志願だったようだ。その破滅願望の結果にマゾヒズムに目覚めたようだ。女の方は男が好きになった結果、男による不条理な行為を期待するのではなく、男に虐められる自分を自分で作っていく。
 だから、内容の展開は面白い。けれども、描写に関しては、淡々と描いてるわりにくどいのだ。
 始まって、しばらく、やたらと細かいカットが多くて、それも意味ありげで、引いた絵が少なくて、どうも疲れる。
 男の方は自殺しようとしていのだが、その理由って説明する必要あるんだろうか。観客へのサービスカットなんだろういか。
 マゾヒズムは単なる破滅願望じゃないよ、サディズムと表裏一体のものだって説明したいのか、人間だけじゃなく、魚や小鳥相手でも嗜虐的なシーンが出てくるのだが、数が多いわりに、それぞれの描写があっさりしている。薄味のわりには盛りだくさんでお腹いっぱいになる。
 そして、妙に説明的なラストシーン。わかりやすくしすぎで、観る方が勝手に補う余地がないのだ。SMだから内容は不安感が漂のに、描写に読み間違う不安感がない。物足りなさがないのが物足りない。
 観て良かったと思う。韓国映画を敬遠することもないなと思った。でも、映画館でも見たいという気にはならなかった。

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16/04/2005

ジャンプも面白そうだ

 スキーというのは、雪の上で、歩いたり、上ったり、滑ったり、飛んだりする道具だ。
 元々、歩くために始めたのだけど、ここんとこ、滑る方しかしていない。で、飛ぶというのはやったことがない。
 スキー場で何かの大会の日程とぶつかり、旅館の乾燥室で、ジャンプ用の板が並んでるのを見たけれども、デカイ。こんなの担ぐの嫌だなと思った。
 さて、今シーズン、ヒソカに、ジャンプペアというのが流行ってるらしい。今のところ競技用という感じで、素人ができるもんじゃないようだ。
 混合ペアができたら、やってみたいな、と思った。

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味噌と糞

 歌舞伎に女優は出演できない。そういう伝統だから。
 というのは正確ではないと思っている。歌舞伎に女優が出ないのではなくて、近世様式の芝居で、女優が出ないのを歌舞伎と言ってるのだ。
 どこまでが本当か知らないが、歌舞伎のはじまりは風俗嬢の踊りだったわけで、それがケシカランということになって、やおいショーになり、それもケシカランということになって、野郎歌舞伎になって、そのショーで芝居を演じたから女優は出なかった。
 男が女を演じるにあたっては、違和感がないように技術を磨く必要がある。芳沢あやめとをはじめ、様々な名優が女形の芸を磨いていった。
 さて、そのケシカランと言ってた幕府がなくなったわけだから、芝居に女優が出ても良くなった。それで女優が出る芝居が出来、あいかわらず男だけでやってる芝居もある。ということになる。女の役を演じるのは女優の方が自然だ。だから、新しい形の芝居には女優がアタリマエになる。その一方で古い形の芝居だって人気があるし、男ばっかりでやる方は、そっちをやった方がいいようだ。
 ということで、女優が出ないで、昔からの形でやってる芝居を歌舞伎という。そのおかげで、女形の技術が伝承されてきた。
 例外もある。芝居は本職だけがやるもんじゃない。村芝居で地元の人が演じる芝居だったら、女の役は女性がやった方が出来がよくなる。東宝が歌舞伎をやってた頃は、俳優が足りないもんだから、御殿女中とか目立たない役は女優がやってたし、13世片岡仁左衛門の娘さんも地方巡業に付いていって、人手が足りない場合には舞台に出たそうだ。
 ついでに、男ばっかりでやる芝居があるなら、女ばっかりでやろうというアイデアも生まれる。歌舞音曲の訓練をした女性といえば芸妓だから、芸者歌舞伎なんてのも生まれた。
 もちろん、ファンが容認するなら、今からでも女優の出る歌舞伎は出来るはずだ。でも、私としては女形の技術は伝えてほしい。ひとつの技術は新しい技術を創造する資源にもなる。女優がアタリマエになったら、女形は廃れるんじゃないかと思う。女形が廃れた京劇に第2の梅蘭芳は期待しにくい。歌舞伎もそうなったら寂しいので、女優の出ない芝居も続けてほしい。
 エンターティンメントでも文化でもいい。選択肢は多いほど、私は嬉しい。だから、せっかく伝わったんだから「伝統」も継承してほしいわけだ、
 
 祇園祭の山鉾には女人禁制のところがある。江戸時代の初め頃はそんな風習はなかった。ところが中期から「女性は血を流すから穢れている」という迷信が広まった。まあ、戦国の記憶が残ってるころなら、血を流すのは男だろ、という話にもなったかもしれないし、何か必要あってのことだとは思うが、そういう迷信が出来た。
 もちろん、そんな迷信は、今はない。そうなると、女性もどうぞという鉾が当然現れる。一方で、長い間そうして来たんやから、別に変えんでもええという鉾もある。
 祇園祭というのは、それぞれの地域でやってるわけだから、本来は私がとやかく言うこともない。女性と同伴で宵山に行くと、上りたいという人もいる。それで、断られるのは嫌だ。だから、今さら、そんなこと言うんはおかしおっせ、くらいは言うけど、決めるのは、やってる人だ。
 そして、どこの鉾も、当然、祇園祭の歴史は知ってるわけだから、伝統ですとは言わない。。。。と思う。もし、言ってたら、ちまきを買ってやんないから。

 相撲が「伝統」だから女性は土俵に上げないらしい。どういう意義のある「伝統」かは知らない。私にとっては、どうでもいいことだ。合理的な理由があるならいいけれども、迷信に基づくのなら、歌舞伎のファンとしては、一緒に扱われるのは腹が立つ。

 なぜ、こんなことを書いたか。最近、「伝統」について妙な解釈をするというか、概念規定もせずにコピペだけで「伝統」というコトバを使うblogが多いもので、ここ数日、いろいろと見て回っている。そういう「伝統」に相撲や歌舞伎や祭礼が引き合いに出される例が多いからだ。
 話が通じそうな方には、随分と古いエントリーにもトラックバックをしたけれども、迷惑だったかも知れない。トラックバックは勝手に出来るから、その役割を踏まえて勝手にした。送られたトラックバックの削除も勝手に出来るんで、迷惑なら勝手に削除してくれるだろう。
 笑ったのは、「「伝統」を持ち出す人間は、すべて詐欺師だと思っていい。」と書かれたエントリー。私は、これには反論できない。

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15/04/2005

キョンシー映画を作ろう

 天満宮という神社がある。私は歴史には疎いので、通説や俗説をも信用しているかっもしれないけど、祀っているのは菅原道真で、実在の人物で最初にカミサマになった人らしい。
 この人は、平安時代の官僚で、当時、政権を握っていた藤原一族の政敵であったらしい。それで左遷されてしまい、結果として藤原一族が実権を把握した。
 当時は怨霊信仰が盛んであったらしい。何か悪いことがあると、道真のタタリじゃーというようになり、祟らないようにカミサマにしてしまった。
 ところが、菅原道真というのは、教養人であり人々の尊敬を集めた。敵だから祟らないようにと反対勢力によってカミサマにされたんだけど、いつの間にか、エライからカミサマになったように思われている。このように、カミサマの性格を後で変えることもできるようだ。
 中国にも、キョンシーというのがいて、生前に悪行を行った人は、死んでからも、人の脳みそを食べたりして、暴れるらしい。ともかくも、死んで祟られると困る敵は、カミサマにしてしまうというのは、日本では昔から行われて来た風習で、平将門もカミサマになっている。
 お話かわって、フランスのシラク大統領だが、ドイツと日本の安保理常任理事国入りに賛成だそうだ。フランスには、Les Nations Uniesとして戦った人だけじゃなく、ナチに協力した人もいたわけだから、国というコトバでミソとクソを一緒にしないだろう。だから、ドイツという地域にナチに反対する政権があれば、Les Nations Uniesに加えるのもいいし、相応の役割も期待するんだろう。でも、ドイツの首相がヒトラーをカミサマとして崇めれば、Les Nations Uniesには相応しくないと思うだろう。
 シラクさんは日本の首相が、連合国が戦った相手をカミサマとして崇めているのを知ってるのか知らないかは不明だが、まあ、フランス人の多くは知らないから、どうでもいいことなんだろう。
 でも、普通の感覚だとおかしいと考えるわけだ。日中国交回復時に、日本政府は「軍国主義者は日中人民の共通の敵」ということで合意したのに、今さら、カミサマ扱いするとは約束違反だと中国はいうことになる。
 それを解決するには、日本には祟られたら困る相手をカミサマにしてしまう風習があるということで、キョンシー映画を作ればどうだろう。東条英機を先頭に、軍服を着たキョンシーがぴょんぴょんと行列をはじめる。まずは都庁を占領して都知事の脳みそを食う。さらに国の中枢機関を占領しようとする。それを封印するためにカミサマにしようと、日本の首相が拝むわけだ。
 ただ、問題がひとつある。
 フランス人も死ねば仏、イギリス兵も死ねば英霊というの日本に古くからある伝統的な宗教観だ。ところが、東条英機らをカミサマにしているところは、英霊と邪霊を区別しているらしいのだ。長州兵は英霊で会津兵は邪霊だそうで、邪霊はカミサマにしていない。近代に出来た新興宗教だから伝統的な宗教観には囚われていない。だから、今さら、祟られないようにカミサマにしてるという、伝統的な考え方は許してもらえそうにない。

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14/04/2005

アホとアホ芸

img051 先日のアホ芸のエントリーに関連して。
 有名なクイズだけど、この絵はバスです、さて、どちらに走っているのでしょう、というのがある。モニターに映ってるけど、紙に描いてあるとして。
 さて、このクイズに対して「絵に描いたバスが走るはずない。止まっている」と答えたとする。こういう答えをする人をアホという。
 出題者も回答者もそんなことはわかっていて、その状況の中で、クイズを出しているからだ。その状況判断をしなかったとして、何も面白くない。
 例えば、血液型占い。こんなものを本当に信用している人はちょっと危ないと思う。けれども、私は、血液型占いの話に乗る。楽しむに値するフィクションだからだ。そんなもんウソに決まってると言っても何もならない。少なくとも、ウソだと説明してわかる判断力の人なら、最初から信用せずにフィクションを楽しんでいるからだ。
 さて、「絵に描いたバスが走るはずない。止まっている」と言った人に対して、「それでも地球は回ってる」と答えると、これはアホ芸と認められる。
 普通の生活で、地球の自転や公転を意識することはない。だけども誰でも知識として知っている。だから、地球が動いているなら、地球上の絵に描かれたバスも動いているということは理解できる。
 でも、日常生活というのは、普通は天動説を状況として採用しており、太陽が沈む時には大きく見えるとか話をしているわけだし、その状況をあえて判断しないのは意外性があるし、何より、先のアホを相対化してしまうという効果があるからだ。
 某巨大掲示板とかでは、前者のアホに対しては「空気嫁」とか書かれる。「釣れた」と書かれる場合、本来は後者の効果のはずなのだが、前者にもかかわらず、悔し紛れに書く「香具師」もけっこう多いようだ。
 それで世の中には、このバスの問題みたいに単純な問題ばかりではない。だから、このアホとアホ芸の境目というのも実に微妙なのだ。そして、この微妙な境目がわかっていない人に、アホ芸を披露してもすごく疲労するだけで、喜んでもいただけない。かえって怒ったりされる。
 このblogは世間に晒されているわけだから、たまにはアホ芸を見せないといけないのかな、と思うと同時に、世間に晒されているだけに、アホとアホ芸の境目が見えにくい話題は避けるようにしている。
 でも、やっぱり書いてみたいことはあるわけだ。それで、書こうと思うネタを練る間に、こうやって、読み方まで書いている。

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12/04/2005

ゴルフ中継

 たまたま、点けっぱなしにしていたテレビで、ゴルフ中継が始まった。さんまの番組でも見ようかと点けていたのだが。
 見る気もないのに数分見ていたのだが、全く退屈なので、当然、消してしまった。そして、この退屈さって何かに似てるなと、思いあたったのが「能」だ。
 よく、歌舞伎文楽能狂言と伝統演劇は一緒くたに扱われる。でも、私の場合、歌舞伎文楽は好んで見るし、狂言も好きではないが見るのは嫌だとは思わない。でも、能を見るのだけは勘弁してほしいと思っている。とにかく退屈なのだ。
 単に趣味に合わないということかも知れないが、ゴルフ中継の退屈さで、能だけを退屈に思う理由が思い当たった。
 歌舞伎文楽は興業として成立した経緯がある。だから観客にウケないといけない。一方、能の場合は習うモノだった。そういうことかなと思った。
 たぶん、テレビのゴルフ中継って、自分でやってる人には面白いんだと思う。でも、野球じゃ、「アホー、ボケー」と罵声が飛ぶなかでも動いてる球を打つ。なのに止まってる球を打つのに、周囲に静粛を要求するのか、さっぱりわかんない。でも、やってる人にとっては、それがわかるんだろうと思う。
 たぶん能を見てる人には、私が退屈するだけの場面でも、その動く意味、止まる意味を感じることができるから、退屈しないのかな。そして、私の場合、退屈だから見に行きたくない。それで、ますます退屈になるんだろうか。
 京劇は好きだ。日本での公演はわかりやすい覇王別妃や孫悟空の公演が多いようだけど、わけのわからん演題でも、動きや音楽が楽しめる。老旦が主人公で起伏の少ない演題でも、舞台の緊張感の流れが面白かった。単純に、わかるから、わからないからということではない。京劇というのも、成立こそ清朝の宮廷だったらしいが、その成立経緯には富を蓄えはじめた民衆への興業があったらしい。
 不特定の観衆に伝えよう、感じて貰おう、芸能にそういう意志の有無を感じてしまうのかな。

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宣伝トラックバックその後

 先日の「進化論」に送られて来た宣伝らしきトラックバックだが、結局、削除してしまった。
 というのも、今日、覗いてみたら、「ネットショップはじめました」だって。自分のblogの宣伝にしても何か意図があるのかなと思っていたけれど、商売に協力する気はないし。
 この方、中国や韓国を非難されている。そして、中国で日本商品をボイコットしようという動きがあることにもお怒りのようなのだ。
 それで、ネットショップを見ると、真ん中にどーんと「韓国生食」が鎮座している。
 中国嫌いな方でも中国製品をボイコットしようとする人はいない。本人が困るからだ。今の経済というのはそうなっているらしい。
 私だって、先日の「一太郎」の件では松下製品を使いたくない。中島義雄の大蔵省の過剰接待の件で、京セラ製品も使いたくない。でも、使わないと不便だし、使わざるを得ない。
 だから、中国嫌いや韓国嫌いの人でも、中国製品や韓国製品で商売をされるのは当然だと思う。そして、そういう経済関係がある限り、いくら嫌いだという主張を書いても「チラシの裏」にしかならないわけで、深刻な事態への発展を心配しなくてもいいように思った。
 なので、トラックバックを残して晒すよりも、送り逃げの営業トラックバックは削除するという方針どおり、消してしまった。

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10/04/2005

美人秘書

 コンビニの雑誌置場で「美人秘書の乙部さん」という活字を見かけ、思わず、立ち読みしたら、ライブドアの社長秘書にそういう人がいるらしい。
 それだけ。

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09/04/2005

満開の桜

img049
ついでに、まだらボケ。
img050

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ファイルの整理

 ココログのインターフェースが変わった。
 はじめた当初は、ファイルのアップロードに、ディレクトリが自由に設定できたので、スタイルシートやタイトルバックとか、各エントリー共通のファイル用のディレクトリと、各エントリーの画像用のディレクトリを設定していた。
 ところが、いつのまにかアップロード用のディレクトリが指定されるようになってしまい、以前のディレクトリやファイルの変更も削除も出来なくなってしまっていた。それに画像ファイルのアップロードも定型化されており、多少、面倒になっていた。
 それが今回、再び、自分のblog用ディレクトリ内部のファイル管理が出来るようになった。
 このディレクトリが触れなかった間、管理がしにくいので、ほとんど画像を貼り付けていなかった。というより、エントリー自体が少ないのだが。それで、以前のファイル構成に無事に戻した。記念に何か1枚。。。。無修正のまんこの画像でも貼っておこう。
まんこ
まんこ さて、以前から月や曜日の表示の言語を選べるようになっていた。ところが、例えばフランス語を選んでみると、本文の曜日はフランス語なのに、カレンダーの曜日は英語というおかしな仕様だった。それが何とも間抜けなので、面白がってフランス語の表示にしていたのだが、それが統一されるようになった。
 それで、つまんないのでアラビア語にしてみたが、自分でもわけわからんので、そのうち変えよう。

 もうひとつ、トラックバックの一括管理が出来るようになった。以前から、通販サイトの宣伝用トラックバックが来ていて気になってはいたが、面倒なので放置していたのも削除した。
 迷ったのが、現時点での最新の「進化論」へのトラックバックだ。「進化論」には触れてはいるが、意味的な関連は薄いようだ。
 このblogは、3月半ばまで赤倉観光ホテルスキー場のゴンドラから撮った、ゲレンデや遠景の野尻湖の写真をタイトルバックにしていた。このトラックバックの主のプロフィールを見ると、そのゴンドラの写真が出ているので、その縁かなとも思ったのだが、なぜ今頃?
 先のエントリーで「進化論」に触れていたので、ご自分のblogの宣伝のつもりのトラックバックなんだろうし、単なる宣伝なら削除しようかとも思ったが、何か意図があるかもしれない。
 それに、読んでみるとけっこう笑えるのだ。1軒のラーメン屋の応対で商店街の衰退の理由を論じたり、一組の夫婦の例で日本の農村に嫁姑問題はないと結論したりと、見た目は擬人化した犬のイラストのバックに「カラフルな」色使いと小学生のポスターみたいだけど、内容は何か一昔前の武将のイラストが表紙のおじさん向け処世雑誌を揶揄したパロディみたいなのだ。
 それに、ツッコミどころ満載なので、晒しておくことにした。
 こうして書いておけば、何か意図があるならコメントがあるだろうし、なければ削除すればいいんだし。

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08/04/2005

アホ芸

 藤山寛美のアホ芸の正当な後継者は上岡龍太郎であった。決して坂田利夫ではない。というのが私の持論だ。
 アホというのは状況判断ができないヤツというのが上岡龍太郎の定義だ。決して知識がないのではない。
 藤山寛美のアホ芸というのは状況判断をしない芸なのだ。世間体だとか様々なしがらみ、様々な予定調和に対し、アホだから状況判断をしないで、自然なあり方を提示する。つまり、御店の商売だとか、世間体はアホやしわかりまへん、けど、人間の情はそんなんちゃいまっしゃろ。という芸なのだ。
 劇中の設定という枠組みではなく、アホであることで、より大きな枠組み、つまりは観客のマインドという枠組みに訴求するというのが、藤山寛美のアホ芸の構図なのだ。
 さて、上岡龍太郎は、笑福亭釣瓶とのトーク番組で、盛んに鶴瓶に「あほかー」と言われてた。
鶴瓶というのは「常識人」だ。芸能界の序列を重んじ、社会的な常識を尊重します。尊重するからこそ、適度に逸脱して笑わせるという芸だった。
 上岡龍太郎は、その常識を小理屈でもって否定する。常識という枠組みでの状況判断をせずに、リクツという枠組みを持ち込むことで、観客に「確かにそやな」と思わせ、鶴瓶に「あほかー」と言われるという構図だった。
 つまり、テレビでの「規範」という枠組みでの状況判断をせず、より大きな枠組みである「論理」でモノを言うという構図だった。
 藤山寛美の観客層は、人情ということが共有できる価値基準であり、共感を得られる枠組みだった。上岡龍太郎の時代の観客層は不特定多数のテレビの視聴者だから、共感は得られないかも知れないが、リクツというか「論理」という不特定多数が共有できる枠組みに変わってはいる。
 しかし、芝居の設定や、テレビ的常識という、誰もが当然と思う枠組みからは状況判断をしない、つまりアホであることで、一面の真実を提示して異化効果を得る芸ということでは、上岡龍太郎も藤山寛美も同じ構図なのだ。

 さて、このblogにしても、世間に晒されているわけだから、多少は芸をしないといけないと思う。こういうアホ芸ができればいいのだが、なかなか難しい。

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ありおりはべりいまそがり

 プロ野球も開幕し、楽天と讀賣のファンは交流戦を楽しみにしてることだろう。
 セリーグの例なのだが、プロ野球の各チームのファンのうち、タイガースファンは「あり」のファン、ドラゴンズやカープは「おり」のファン、ジャイアンツは「侍り」のファン、ベイスターズやスワローズは「いまそがり」のファンと思っている。
 タイガースのファンは「自分がタイガースファンである」ことが大事なのだ。だから選手よりもファンの方がエライ。だから「岡田、アホー、ボケェー」なんて平気で言うし、選手に敬称なんか付けない。
 ドラゴンズやカープは「同じ町に居る」ことが大事なのだ。「あの選手は、同じ町内にすんどるで、でりゃー応援しとるんだわ」なのだ。よく行く店の常連に選手がいるのが自慢になる。
 ジャイアンツは「栄光の」巨人軍の方がファンよりエライのだ、ファンは巨人軍に侍るわけで、選手をさん付けで呼ぶ。選手はファンに尊敬して貰わないといけない。だから選手も「紳士タレ」でないといけないらしく、タイガースのようにファンに「くそっタレ」や「あほたれ」扱いされてはダメなのだ。負けてあんまりエラくなくなると客も減るらしい。
 ベイスターズやスワローズのファンは、なぜファンなんだろうか、よくわからない。横浜だと「おり」のファンも多くなってるだろうけど。それで「いまがかり」って、どういう意味だろう。。。。。 
 って、「いらっしゃる」という意味なんだけど、長年、意味もわからず、ラ行変格活用の4動詞のひとつとしてだけ認識してたのだ。
 さて、パリーグの場合、サッカーもそうなんだけど、まず「おり」のファンを増やそうとするし、「はべり」のファンも拡大しようとしている。
 でも、「あり」や「いまそかり」のファンを増やすってことも考えてもいいと思うのだが。

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07/04/2005

進化論

 このblogでは、あんましニュースへの感想とかは書いていない。この手の話は、ネットに限らず、いろんなところに誰かが書いてるわけだし、中には同じ趣旨のもあるからだ。
 でも、最近、気になるニュースがあった。教科書に「進化論」が復活したというニュースだ。今まで、進化論を載せていなかったのか。
 教科書のことについては年中行事のように話題になっている。でも、たいして気にもしていなかった。
 官僚のトップは事務次官だ。その事務次官で逮捕されたのは3人だそうだ。文部省の高石邦夫、労働省の加藤孝元、厚生省の岡光序治だ。運輸省の服部経治という人も逮捕されているが、天下り先での収賄容疑だ。
 官僚の世界では、政策官庁は事業官庁よりエライらしいし、序列があるらしい。大蔵省や外務省にもスキャンダルはあったがトップまで及んでいない。ノーパンしゃぶしゃぶで有名になった大蔵省の過剰接待事件でも、中島義雄は主計局次長だったし、逮捕は免れて京セラに就職している。
 文部省というのは所詮、事務次官が逮捕される程度の役所のわけだし、教科書について熱心だった国会議員の村上正邦や小山孝雄も逮捕されている。
 教科の理解は、「教科書」の記述よりも、入試対策の方を普通は重視すると思う。二級官庁や逮捕議員の考え方よりも、アカデミズムと言わないまでも、それに載った方向で理解した方が、入試には有利に決まっている。だから、入試がある限り、教科書の記述は大きな影響を与えないだろうと思っていたわけだ。
 ところで「進化論」で思い当たったのは、アメリカの大統領選挙のことだ。
 アメリカ以外の国では、なぜ、ブッシュが当選するのか不思議に思う人が圧倒的だったそうだ。でも、アメリカ人には、「アメリカ大統領選挙について関心を持つ外国人」程度の情報量も理解力も持たない人がいっぱいいるからだそうだ。少なくとも「アメリカ大統領選挙について関心を持つ」アメリカ国外の人の知的レベルだと「進化論」の概念を知っている。クリスチャンでも「当時の人は、主の奇跡である突然変異も、主の意志で自然淘汰が行われたことも知らないので、こう書いている」と、創世記の記述は、時代の科学水準で読み替えるべき比喩的表現という理解をしているだろう。でも、アメリカ国内には、「進化論」は「創世記」の記述と矛盾するから信じないし、学校で教えるべきでないとしか考えられないような人が大勢いるそうだ。そういう情報量や理解力の人たちの考え方は、国外からは知る機会もない。けれども、そういう人たちは圧倒的にブッシュを支持したらしい。
 さて、日本の場合も、教科の学習に「教科書」の記述よりも、入試対策の方を重視する人ばかりではないと思う。入試科目は限られているし、そもそも入試を受けない人もいる。だから、何かと話題になってる歴史についても、教科書を信用する人とアカデミズムに沿った考え方をする人に分かれてしまうのかなと思う。
 外国の反応より、そういう「知の階層化」の方が問題じゃないかな。でも、誰もそんなこと書いてないな。ふとおもた。

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ソーシャルネットワーキングサイト

 タイトルに加入した。
 niftyにパソコン通信というのがあったのだが、それが廃止されることになった。少なくとも私の知ってる限り、そこのフォーラムというところに参加していた人たちは、niftyが用意したweb形式のフォーラムよりも、そのソーシャルネットワークに移行する人の方が多いようだ。
 私の場合も、同じく移行したわけだ。
 さて、自己紹介というかプロフィールのページに写真が3枚貼り付けられるようになっている。とりあえず自分の趣味がわかるようなものがいいだろうということで、1枚はステージ系、もう1枚はアウトドア系の写真にした。3枚目は正直に貼れば、当然エロ系になる。ところが、ネットでの知り合いで、このページを見に来る人は、こちらの方の趣味を知らない人が多い。知ってるとしても、知らないフリをすべきと考える人も多いのだ。
 そんなんで、どういう写真にするか迷っていて、ログインする度に3枚目に写真を交換している。
 最初、貼っていたけどボツにした写真をここに貼ろうと思ったけど、ここの方が問題ありそうなので、やめておこう。

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01/04/2005

DHMO

 今日はやたらにDHMOに関するニュースを扱ったサイトが多いようだ。
 DHMO自体は以前からしばしば話題になっている化学物質で、Dihydrogen Monoxideの略。水酸の一種で、ほぼ無色(ごく薄い青色)、無臭、無味。
 高温のDHMOの接触、吸引により、人体に糜爛性の症状が現れることや、固体のDHMOとの長時間の接触で、皮膚が壊死することがあることで、問題視する人も多く、外国では1997年頃から使用規制の提言が出されている。最近になって、日本でも、自衛隊のイラク派兵の目的がDHMO探索ではないかと話題になったり、インドネシアでDHMOによる死者が大量に発生したということで、とりあげているサイトが多いようだ。

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