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08/04/2005

アホ芸

 藤山寛美のアホ芸の正当な後継者は上岡龍太郎であった。決して坂田利夫ではない。というのが私の持論だ。
 アホというのは状況判断ができないヤツというのが上岡龍太郎の定義だ。決して知識がないのではない。
 藤山寛美のアホ芸というのは状況判断をしない芸なのだ。世間体だとか様々なしがらみ、様々な予定調和に対し、アホだから状況判断をしないで、自然なあり方を提示する。つまり、御店の商売だとか、世間体はアホやしわかりまへん、けど、人間の情はそんなんちゃいまっしゃろ。という芸なのだ。
 劇中の設定という枠組みではなく、アホであることで、より大きな枠組み、つまりは観客のマインドという枠組みに訴求するというのが、藤山寛美のアホ芸の構図なのだ。
 さて、上岡龍太郎は、笑福亭釣瓶とのトーク番組で、盛んに鶴瓶に「あほかー」と言われてた。
鶴瓶というのは「常識人」だ。芸能界の序列を重んじ、社会的な常識を尊重します。尊重するからこそ、適度に逸脱して笑わせるという芸だった。
 上岡龍太郎は、その常識を小理屈でもって否定する。常識という枠組みでの状況判断をせずに、リクツという枠組みを持ち込むことで、観客に「確かにそやな」と思わせ、鶴瓶に「あほかー」と言われるという構図だった。
 つまり、テレビでの「規範」という枠組みでの状況判断をせず、より大きな枠組みである「論理」でモノを言うという構図だった。
 藤山寛美の観客層は、人情ということが共有できる価値基準であり、共感を得られる枠組みだった。上岡龍太郎の時代の観客層は不特定多数のテレビの視聴者だから、共感は得られないかも知れないが、リクツというか「論理」という不特定多数が共有できる枠組みに変わってはいる。
 しかし、芝居の設定や、テレビ的常識という、誰もが当然と思う枠組みからは状況判断をしない、つまりアホであることで、一面の真実を提示して異化効果を得る芸ということでは、上岡龍太郎も藤山寛美も同じ構図なのだ。

 さて、このblogにしても、世間に晒されているわけだから、多少は芸をしないといけないと思う。こういうアホ芸ができればいいのだが、なかなか難しい。

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Commentaires

 上岡龍太郎はその外見と共に、しゃべり方というか小理屈こねな所が好きでした。テレビで見なくなって寂しい(;_;)
 う??私は結局小理屈こねる男に弱いのか??

Rédigé par: みるきい | 08/04/2005 23:57

 小理屈こねられる。。。つまりは、理性レベルを「論理」で、感情レベルを「不条理」で責められる。そういう2所責めに弱いのかと。。。。。

Rédigé par: 南郷力丸 | 09/04/2005 00:19

>>そういう2所責めに弱いのかと。。。。。
 そう来たか(^^:
 いや、顔(視覚)とか優しい(性格)とか一面だけでこられても、私は「素敵」とか思わないという風に考えていたのですが(^^:
 正確には「論理」「不条理」「眼鏡おやじ」の三点に弱いという事ですね(笑)

Rédigé par: みるきい | 09/04/2005 23:46

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