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29/05/2005

今日の森青(5/29)

 今日、見かけたのは、まず、3mくらいの高さの樹上で寝てるやつ。これは遠すぎて撮影できず。
Rhacophorus arboreus 05 アジサイの低木の葉っぱの上で寝てる5cmくらいの。これは、わりと普通の寝方か。

Rhacophorus arboreus 06Rhacophorus arboreus 07 そして、なぜか樹上でなく、石垣にへばりついてた7〜8cmくらいの大きめのやつ。たぶん臨月で地上に降りてきたのだろう。

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27/05/2005

カカクコム再開

 カカクコムのカクコム代表取締役社長兼CEOの穐田誉輝氏が「価格.com」への不正アクセス被害事件についての総括的な記者会見を行ったそうだが、受けた攻撃の詳細については語らなかったそうだ。
 焦点の1つとなる「今回攻撃された点が同社の独自アプリケーションの欠陥によるものか、プラットフォームとなっている汎用部分の脆弱性であるか」との質問に対しても、穐田氏はやはり「お答えできない」とした。
 でも、こういうの見れば、だいたい予想がつくと思うんですけど。
 そして、同社が攻撃の詳細を公表しなかったことについて、同じような攻撃への対策ができないということで、批判が出ているようだ。
 でも、同社は「システムに対して必要なセキュリティパッチはすべて当てていた」らしい。ということは、同じような攻撃を防ぐには、カクコム社が行ったのと同じ対策を取る他はないということじゃないんだろうか。
 そうなると、カクコム社を批判するのは筋違いということになる。
 ともかくも、いろんなサイトにアクセスするのに、そのサイトがどんなサーバー・ソフトで動いているかまでチェックしないといけないとは、大変ですね。。。。

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25/05/2005

今日の森青(5/25)

 近々、ケロリストたちで、モリアオガエルを見に行くという予定があるので、近所の生息地の状況を、数日おきにチェックしている。
 行くのは、夕方なので、まだモリアオガエルは寝ている時間で、そう姿は見られない。今日は、葉っぱと一体化して寝ているやつと、地上を跳んでいた小型のやつにお目にかかった。小型のはシュレーゲルアオガエルかな。



Rhacophorus arboreus 03Rhacophorus arboreus 04 葉っぱと一体化してオヤスミ中のモリアオガエル



Rhacophorus<br />
schlegelii 01 地上に降りている4cm級のシュレーゲル?

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23/05/2005

続・森青Frog

Rhacophorus arboreus 02 先日、モリアオガエルを見てきた寺に、今日は知人を案内して来た。案内するからには、見られる確率をあげるために、日没時刻に着くように行ったのだが、何とか、枝の上のとか、幹にへばりついてるのを見ることが出来た。
 その帰り、うちの近所のコーヒー屋に寄った。モリアオガエルを見てきた帰りという話をしたのだが。
「モリアオガエルって、木に泡みたいな卵、産むカエルですね」
「そう」
「○○さんの池におったけど」
 この○○さんというのは、このコーヒー屋さんの近所で、うちからも数分の山裾にあり、神社というよりも、祠みたいなとこで、近所の小学校の裏にある。私も以前に卵塊を見かけているので、モリアオガエルを見たいという話が出た時に、すでにチェック済みなのだ。
「あの池、ないで」
 ということで、直径2.5mくらいの水たまりみたいな池だったのだが、池自体がなくなっている。というか、私も、マスターも、卵を見かけたのは小学生の頃なのだ。
 他にも、うちから徒歩30分程度で以前に卵塊を見かけたところが数カ所あるのだが、近々、チェックしておこうかと思っている。

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22/05/2005

国民の道楽

 80年代、「価値相対主義」の中でコドモだった私は、それをいいように解釈して育ったわけである。宮台真司はコドモ向きじゃないので、井上陽水だったけど。
 ともかくも、さまざまな社会問題と傘がないのは同価であるらしいと理解したわけで、価値観というのは自分のアタマの中にあって、他人のアタマやテレビの中にあるわけじゃないと思ってしまった。
 そうなると「世のため、人のため」というのは、実は、世や人にとって大きなお世話じゃないかという疑いも出てくるわけである。世なり人なりが、どういう価値観を持っているかを理解した上でのことなのか、自分の価値観をそのまま世の価値観、人の価値観だと思い込んでるだけというケースもあるかれないと考えることになる。
 もうちょい考えると、なぜ人を殺してはいけないのか、なぜ人のモノを盗っては行けないのかというのは、たぶん、日本の人は宗教的な価値観とか伝統的な価値観で考えているわけではないと思う。自分や自分の周囲の人が殺されるのは嫌だから、自分のものが盗られるのが嫌だから、という相対主義なんじゃないかと思う。だから、人を殺すように訓練するには、まず自分の命を粗末にすることを叩き込む必要があったんじゃないかと思う。
 だから「価値相対主義」の世の中では、お互いの「自分の価値」を尊重することが、社会の基本的なルールになる。
 そういう中で、私は道楽者を目指すことになる。道楽というのは、つまり、自分のアタマにある価値に正直であり、他人のアタマにある価値にちょっかいを出さないということである。道化者となるほどの才能はないし、道徳者というのは、他人のアタマにある価値観を理解する能力が必要とされ、極めて高度なコミュニケーション能力が必要とされるので難しい。同じような決意、というほどタイソウなもんでもないが、をした人は多いと思う。
 シアワセなことに、道楽をしていても生活に困るような社会ではなかったというより、ソコソコの生活でいいやと思うと、ソコソコの道楽は誰にでも出来る世の中であった。
 ただ、世の中には、コミュニケーションが苦手な人がいる。道楽を指向した人のうち、こういう傾向を持った人は「おたく」と呼ばれた。もちろん、道徳を指向している人にもコミュニケーションが苦手な人がいる。道徳を説くには他人の価値観を理解することが出発点になるのに、それをせず、自分の価値観を他人が理解できないのは、それが絶対的なものではないからだと気がつかず、社会がワルイとか、誰かの陰謀だと思いこむ人も出てくるわけだ。その点でも、道徳より道楽の方が健康的だ。
 「価値相対主義」の最大の成果は、道楽の普及にあったのじゃないかと思う。いまや日本の産業を支えているのは道楽だ。道楽を仕事にした人は、資本を労働者のものとすることに成功した人と言えるかも知れない。
 「価値相対主義」の中でも、やはり、絶対的というか共通する価値というのはあるわけで、例えばお金だ。その絶対的な価値を目標にしていながら、ついには中途半端にしか届かなかった人は、今頃になって道楽にあこがれているらしい。
 数年前まで、ネットの世界というのは道楽者の世界だった。シゴトになるようなコンテンツをタダで公開する人はいない。道楽で作ったコンテンツだがら、タダで公開できる。逆に言えば、道楽のない人は公開すべきコンテンツを持っておらず、生身の自分を切り売りすることになる。
 掲示板とかblogとかだと、誰でも書ける。私の場合は、まとまってコンテンツになるほどでない、日常の様々な道楽を小出しにしている。けれども、道楽がなく、生身の自分を切り売りすることもできない人の中には、他人のアタマにある価値を借りる人も現れる。そこで出てきたのが、適当な判断停止のための「道徳」だ。ある価値観に基づいたわけではなく、単なる空気というか、連帯感のためだけに「道徳」が復権した。
 道楽なんて、すごいのはすごいわけだが、ささやかなもんだってある、野球中継を見ながらビールを飲むのも立派な道楽だ。野球解説者のアタマを借りずに観ることが出来ればいい。
 世の中の価値が相対的だというは、もう後戻りはしないだろう。そういう中でコミュニケーションの苦手な人たちが共存するには、自分の価値観が相対的なものだと自覚できることが必要だと思う。そのためには、自分にしか意味がないと自覚できる価値を見つけることがひとつの方法だと思う。個人が道楽を確立することだ。
 国民の道楽の確立が望まれる所以である。

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20/05/2005

ハンドル

 10年くらい前、dosマシンのユーザーは、Macユーザーはパソコンに名前を付けると不思議そうに言うことがよくあった。当時からMacには標準でネットワーク機能が付いていた。ネットワーク機能が付いているから、各端末を識別する必要がある。だから名前を付ける必要があった。
 パソコンをネットワークで使うという感覚がない人には、猫に名前を付けているのと同じように受け取られていたのかも知れない。
 さて、Macのノートパソコンを買った時に、当時、ネットワークを組む可能性があるマシンが5台だった。それで、デスクトップ機に「弁天小僧菊之助」、ノートに「南郷力丸」という名前を付けた。仕事場の他のマシンは「日本駄右衛門」とか名付けてくれなかったが。
 そして、当時、インターネットより普及していたパソコン通信にノートパソコンを使用していたので、そのままマシンの名前をHNに使った。
 最近は、HNの由来を聞かれると、インターネットは駄右衛門が仕切っているので、その子分の名前にしたと説明している。「メール・駄右衛門」からメールを貰ったことは誰でも経験があると思う。インターネット上には、他の役割を持った駄右衛門も多い。
 webサイトを開設した時は、本名の署名を入れている。基本的に手持ちのデータを公開したもので、このデータに関する分野では、ネットよりもリアルでの知人の方が多く、そういう知人には本名の方が私のサイトだとわかりやすい。
 このblogを始め、ネット上では基本的にパソコン通信時代からのHNを使用している。やはり、ネット上では当時から継続しての知人も多いし、ネット上での「つきあい」というのは、基本的に個人的なものであって、リアルな社会的活動とは無関係なのに、本名だと、それを検索されることによって、無関係でなくなるおそれもあるからだ。といっても、ネットを通じた知りあった人で本名を知ってる人は多いのだが。
 例えば、パソコン通信の時代、フォーラムという掲示板のグループがあった。現在では考えられないことだが、当時は本名での書き込みを義務づけていた趣味のフォーラムもあった。社会的な活動と個人的な趣味を結びつけられるのが嫌だったので、書き込むことはなかった。
 普段、使用しているのとは別のHNを使うことも多々ある。エロなチャットとか。やっぱり、普段のHNは気恥ずかしいということがある。そして、その別のHNで知り合い、本名を知っているという人も少なからずいる。チャットだけですまなくなったら、名前くらいは知っておきたいと思う人が多いからだ。
 掲示板とかでは匿名で書くことも多い。単に、その場限りのコメントとかは、読む方にとっては、書いた内容だけが問題であって、誰が書いたかを識別する必要がないからだ。書いた内容が伝わらなければ、それ以上書くのも面倒なだけだし。
 結局、仕事であっても趣味であっても、リアルな社会的な活動と結びついた方がいい場合は、ネット上でも本名を使うし、基本的にネット上での関係が基本となる場合は、識別と一貫性のために、それぞれHNを使うし、他人と識別される必要がない場合は、名なしさんということになっている。それぞれの文を書くサイトをどう考えているかの差だ。
 というのが、名乗るリクツだ。

 ところが、blogにコメントを書かれた場合、webサイトを通じてメールを貰った場合、掲示板等でコメントを書かれた場合、それぞれに書かれた名前は、知っている名前か知らない名前かが最も重要だ。
 知っている名前であれば、本名であろうがHNであろうが、以前からの「その人像」があるわけだから、趣旨がくみ取りやすい。
 そして、知らない名前の場合は、内容で判断するしかない。結局、本名かHNか匿名かよりも、内容次第ということになる。blogのTバックとか、コメントに自サイトのURLがあると、書かれた内容の背景がわかりやすいのだが、目を通す気になるかならないかは、書かれた内容次第だ。
 よく、本名の方がHNより重みがあるとか礼儀正しいと思っている人がいる。でも、リクツにあわないことを本名で書く人、まともなことを匿名で書く人もいるわけだから、始めて見る名前であれば、名前があろうと無かろうが読む方にはどうでもいいことだ。
 むしろ、リアルな活動とは無関係なことについて本名で書いている人には、妙に生真面目な人が多いように思うし、本名に重みがあると思ってるのか「負けず嫌い」のことが多い。
 最近、創造論のことを調べていて、その方面のサイトを見たのだが掲示板が本名使用というルールになっていた。私は、本名の創造論者よりも匿名の進化論者が書いていることの方を、たぶん信用する。
 本名で書く人のイメージと言えば、パソコン通信時代に見かけた「マジメな人」による偏見があるかも知れない。一例だが、CMソングの替え歌とかを見て、著作権法違反だと、条文まで列挙して、文理解釈だけで「親切心からのアドバイス」をしてくれるような人だ。「知っていることを書き並べて自慢したいだけ」なんてことはないだろう。たぶん。そういう人には、そもそも著作権法の法益とはなんて話をしても無駄で、ますます意固地になって粘着してしまい、jasracやIPSに通報して「勝ったつもり」にならないとお引き取りいただけない。通報された方も迷惑だろうに。
 だから、私は、知らない名前の場合には、本名らしき名前の方が、取り扱いに注意した方がいいと考えている。
 その場限りなら、名前はどうでもいい。そして、継続して書いてくれるなら、本名でもHNでも、それで「その人像」が形成されていくわけだから、名前は付けておいてくれた方が2回目以降の意志が通じやすくなる。
 これが名乗られる側のリクツだ。

 結局、名前は識別のためなのだ。ネット上では、本名かHNかの差はどちらが識別の上で利点があるかの違いでしかない。本名の方が重みがあるとか責任ある文が書けると考えるほど、実績や知名度を私は持ち合わせていない。

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19/05/2005

森青F

Rhacophorus arboreus 01 近所、といっても徒歩30分くらいのところのお寺で見かけたモリアオガエル。夜行性なので、明るいうちは樹上で寝ている。6cmくらいの大き目。
 産卵は、まだ先で梅雨に入ってからだろう。

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風景

img063
 数年前に群馬県で人形芝居のイベントがあった。その時に撮った写真なのだが、何の演目かわかるだろうか。
 と言っても、人形芝居自体に馴染みのない人の方が多いだろうからわかりにくいと思う。そして馴染みのある人にもわかりにくいと思う。実は「野崎村」なのだ。
 関西の人は、生駒山とはあまりに違う山並みをはじめ、背景の景色を不思議がると思う。でも、群馬の東部の人にとって、初梅の咲く頃の在所の風景というのは、こういうイメージなのだ。
 これは極端な例だけど、風景というのは、同じように見えても微妙に違う。どこが違うとは説明しにくいのだが、平凡そうな風景でも、どのあたりか見当がつくということがけっこうある。

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15/05/2005

まつり

 近所のスーパーに行こうとしたら、そこらの道にやたら人出が多い。うっかり、忘れていたが、今日はまつりの日だった。
 どういう由緒か詳しくは知らないのだが、おそらく、新しく町を作った時に、従来から住んでいた人に、ご挨拶に行ったということが起源だったのかなと思っていた。けれども、おまつり自体はそれ以前からあったそうだと最近に知った。いずれにせよ千年・二千年の単位のハナシだ。
 このまつりをやってる神社の人が、そういう由緒ある神社にもかかわらず、新興宗教の支配下におかれたことがあったと口惜しそうに話してくれたことがある。そのあたりも、私の新興宗教嫌いの理由かも知れない。
 以前は、牛車で見に行ったようだが、駐車場所を巡って、おばちゃんだかおねえちゃんだかが揉めたそうだ。そういうことも影響してるのか、近頃は、まつりの行列にだけ牛車が出てきて、見物人は乗らない。
 その昔、このおまつりのバイトをした。パンフレット売りで、歩合だったので、行列に出るよりも、実入りは良かった。そして、パンフ売りは、行列に先行してショーバイするので、あまり行列自体を見たことはなかった。
 ひさしぶりということで、しばらく見ていた。

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13/05/2005

何枚買おうが

 100円の馬券で、1300万円の賞金だって。
 ニュースに出てる人、1000円なら、1億3000万って言ってるけど、1枚しか売れてないということは、普通に考えれば、何枚買っても1300万円だと思うが。

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12/05/2005

今度はギロンについて

 打ち切るつもりだったblogのハナシだけど、追加で考えたこと。というか、とあるコメントへの返事代わり。
 従来、日本語の話しコトバによるギロンというのは、あまり耳にする機会はなかった。アタリマエで、会議室や寝室、酒場や床屋で行われてきたからだ。ところがネットが普及すると書きコトバのギロンが目に付きやすくなる。
 ネット上で行われるギロンで、誰でもが参加できるのは、政治や世相についてのギロンだ。こういった社会に関するギロンは、こうするのがイイというハナシになっても、現実の社会とは相当の距離がある。飲み屋で「この後、相撲を取りましょう」「いやそれはマズイです」とギロンするのとは、はるかに切実感が違う。
 だから、社会に関するギロン、特に政治的なギロンは、成果に結びつきにくいがゆえに、単純に「勝った・負けた」というディベートになりやすい。そして、ディベートのテクニックというのは、えてしてゴマカシと混同されがちだ。理解させる技術と錯覚させる技術は全く違うのに。

 難しい話が苦手な私は、「社会というのは、お約束で成り立っている。法律だとか慣習とか。だから社会に関するギロンというのは、お約束が適切であるかどうかをギロンするものだ」と、はなはだシンプルに考えている。
 例えば、夫婦別姓問題というのは、つきつめれば「夫婦は同姓」というお約束が適切かどうかだ。「適切だからお約束にする」ままか、「守りたくない人もいるからお約束にしない」かというギロンだと思う。その場合、どちらがイイか判断する理由の方は、人によってとても複雑だ。だから、どの理由を優先して言うか、複雑に言うか、シンプルに言うかというのはテクニックの範疇だ。
 ところが、「100%」か「100%でなくていいか」のギロンに、同性と別姓とどっちがイイだのどっちが多いだの話を持ち込むのは、ギロンのスタートに立ってないか、もしくはゴマカシだ。
 稚拙なゴマカシを使うのは、とても恥ずかしい。
 例えば、「お約束」が不適切だというために「太陽が西から昇ると決めれば、西から昇るのか」といったり、適切と言うため「太陽が昇る方向を西と決めれば、それに従うのがルールだ」というのが、最も稚拙な例だ。
 こういう「お約束」と「事実」を混同させたり、「お約束」自体のギロンに「お約束」は守るものと言い出すようなゴマカシは、簡単にカラクリがばれる。だから、たいへん恥ずかしい。中にはゴマカシだと自分でも気付かずに使っている人もいる。使ってる本人は恥ずかしくないが、一緒にギロンするのは恥ずかしい。
 ディベートにゴマカシを持ち込むと、そのゴマカシの通用する度合いが同じ程度でないと、とても恥ずかしい。それゆえに、ギロンの場合には、参加者を選別するためのフィルターとして、ゴマカシを使うという方法もあるのだが。
 靖国問題も、つきつめれば「半世紀前のお約束」と「一世紀前のお約束」のどちらが適切かという国内の問題になると思う。その一方で、日中共同宣言というお約束があるために、そっちのお約束を、首相が「守ってない」か「守ってる」かという外交問題になってしまっている。
 この2つの問題を混同し、「内政干渉」とか「周辺諸国への配慮」というのは、本来の問題のギロンにとっては、スタートに立っていないかゴマカシのどちらかだ。そして、現実には、自覚的か無自覚は別に、本来のギロンをしないためのフィルターとして機能しているように思う。

 ネットのギロン、特に社会的な問題を扱ったギロンは、異文化を理解しあうための努力よりも、ギロンのスタートに立てない人、ゴマカシより負けるのが嫌という人に、どうおひきとりいただくかの努力が必要になってしまったように思う。
 その結果、あるblogでは、必ずしも一般的でない社会科学の書籍への共通理解を内部のコミュニケーションツールと外部へのフィルターの両方に使用し、淡々と社会問題についてのギロンが進んでいる。そういうところに、いかにも反知性主義というコメントをするのは恥ずかしい。
 その一方で、あるblogでは「ブサヨvsネットウヨ」のレッテル合戦や、勝手に勝利宣言をしている人がいる。こういうところに、まともなことを書くのは、それこそ「空気嫁」だ。

 こういったネットのギロンの状況は、やはり、異文化並立より以前に、まずバカっぷりの階層化を目立たせたように思う。より正確には「バカの自覚レベル」の階層化なんだけど。
 それが、なぜかというのが、実は、最近、考えていたことなのだ。やはり、自覚レベルということで「勝ち組@元祖」に見られるリアルな階層化の影響だと考えた方が合理的なのだ。それを文章にするのは「アホ言うヤツがアホや」みたいなので、どうにも面白くない。

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11/05/2005

かめ

かめ
 先日、近所の寺付近に行った時に見た池の亀。のさばっているのはミシシッピーアカミミガメだが、市街地から外れているので、まだクサガメ、イシガメもいる。
 ミシシッピーアカミミガメを駆除したいところだが、お寺の池だから無理かな。

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 文頭

 連休の頃から、今のblog界の状況というより、現象についてイロイロ考えていた。その過程で、まとまらないまま、思いついたことを書き殴ったりした。で、何となく、リアルな社会状況とシンクロする格好で、「こういうことかな」と思えてきた。
 それをまとめるのがいいんだけど、まとまってしまうと書くのが面倒になった。
 ホントは、異文化の軋轢みたいなカタチでまとめられれば良かったんだけど、上下というか、階層の話になったのも、気にいらない。

 それはともかく、ココフラッシュとかで、新着一覧を見ると、行下げをしていない人が、している人より多い。このあたりの違いの理由が気になった。

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10/05/2005

ロンギとディベート

 ここはクダラナイことばっかり書いているようで、皆様、放置プレィ気味だが、たまにロンギが行われる。直近のロンギというのは、同じ目的、つまり近頃の世相を考えるのに、違うコトを言い合い、聞き合い、イメージを固めるロンギだった。
 世間には、どっちがイイかというロンギもある。イイかワルイかというロンギもある。でも、そのイイの基準がたまに微妙に違うこともある。
 例えば、ある人と相撲を取りたいとしたら、嫌だと言う。相撲が絶対に嫌いならしようがない。今日はもう眠いもしようがない。相撲は嫌いじゃないがあんたと取るのが嫌いというのもしようがない。でも、簡単に相撲を取る人間と思われたくないとか、相撲好きと誤解されたくないとか、取ったのが親方に知られるとマズイとか、今日はマワシを持っていないとか、相撲をとるにヤブサカではないが「取らない理由>取る理由」ということもある。こういう場合には解決法がある。
 さらには相撲は嫌いだから嫌という場合でも、レスリングやボクシングをするくらいなら取ってもいいということになるやもしれない。
 同じように、イイ・ワルイのロンギでも、イイの基準が違う場合は、どっちもイイという解決法を出すのがロンギの成果だ。
 相撲の例だと、解決法があればいいと思いつつ、嫌と言う相手なら、解決法が探しやすい。解決法があるのに、最初から取らないと決めてかかってる相手だと解決法が探しにくい。
 そこで、テクニックが必要だ。いい相撲を取る自信がなく、取らないと決め込んでいる相手だったら、「自信を持て」と言うのは無意味だ。「キミはこれこれで、いい相撲が取れる人だ」と褒めると勝手に自信を持ってくれる。さらには、相手が自分より相撲下手と思いこんでる人を例示し「あの人はこれこれこうで、いい相撲が取れる」と言うと、もっとワタシはいい相撲が取れると自信を持ってくれる。相手の身になって考えれば、簡単にわかることだ。
 ロンギにおける、こういうテクニックをトレーニングするためにディベートというものがある。一種のゲームだから勝ち負けを決める。
 相撲取りがシコを踏むのはトレーニングのためだ。たくさん踏める方が相撲には有利だろう。だから、たくさん踏む競争とかもするんだろう。でも、「シコの回数、抜群につきヨコヅナに推挙す」ということにはならない。
 ロンギが勝ち負けを決めるために行われることは少ない。だから、ディベートで勝つのは、ロンギで有利になるだけで、勝つことを考えていても、ロンギの結果がいいことになるとは限らない。
 ロンギは目的を達するためのものなのだ。だから、自分の目的と相手の目的を把握するのが出発点になる。そして、ロンギ好きには、トレーニングにすぎないディベートが実が好きという人も多い。こういう場合は、相手が勝ったと思い、こっちの目的を達するのが到達点だ。つまり、ロンギというのは、自分の言うことを考えるより、相手の目的を考えることが大事なのだ。
 世の中のロンギには、相手に勝つことより、どういうカタチで相手を勝たせるか、を考えた方がいい場合が多いと思う。

 ところで、ロンギ、ギロン、どっちの用語を使うのがいいんだろう。ギロンしてみるか。

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08/05/2005

黄揚羽

img058 近所のミツバにキアゲハの幼虫がいた。終齢幼虫は緑に黒縞だけど、まだシマウマ状。うちには山椒と榎を植えて、アゲハ類やタテハ類の需要に応えとうとしているが、キアゲハ用にパセリも植えようかな。

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何か近所が騒がしい

 ここ数日、近所に警官が多い。ASEM外相会議というのがあって、中国と韓国の代表が来ているからと言う。このところ、中国や韓国が嫌いな人が多いらしい。

 北京の故宮の中に暢音閣という京劇用の舞台がある。劇場というより、舞台だけが独立して建っている。その写真を撮ろうとしたら逆光だった。
 日本にも歌舞伎の舞台だけの建物があるが逆光になったことはない。なぜなら、舞台照明が発展する以前の建物だから、太陽光を利用できるよう、南向きに建てられている。
 清朝の建物で、北向きの舞台はリクツにあわない。いわゆる「天子北辰南面」のせいなのだろうかと専門家に聞いてみたら、その通りだった。「面子を重んじて損をする」という例だと、笑いながら言われ、中国にそんな言い回しがあるのを知った。
 たぶん、出された料理を残すというマナーも「面子を重んじて損をする」のひとつなんだろうし、琉球王朝と中国の関係もそうだったのかと思う。
 さて、日中国交回復の際、中国人は「面子を重んじて損をした」と思っているのだろうか。台北政府が賠償を取らなかったことで、北京政府も取らなかった。「軍国主義者は日中両国人民の共通の敵」ということで手打ちにした。つまり損をして重んじた面子があるわけで、それを潰すようなことをすると怒るのかと思う。もちろん怒りの表現は中国人それぞれによって違うだろうけど、マスコミではデモ隊と政府首脳の2種類しか報道されない。人数で言えば13億人のうち、何人だろう。
img057 このように、私の中国のリアルなイメージというのは、北京の京劇舞台を、中国の研究者や学生と観て回った際のもので、それが中国を考える手がかりになっている。左の写真は大学の先生と研究生。
 その時に会った人、研究者や学生、卒業生で車を提供してくれたアニメ会社の社長、京劇団の人、宿の近所の間口1mの食品店の親父、その裏の四会院で昼間から現金を積み上げて麻雀してたオヤジ達、夜中に健康体操に集まっていたオバチャン、王府井で声をかけてきたポン引きのねえちゃん、こちらも13億人のうちの数人だ。
 そして何より、中国に芝居好きのぽっちゃり目のメガネっ子がいて、自分の個性をアピールする手段をわきまえていたということが、私が考える中国の「民度」の基準だ。

 韓国についてはリアルなイメージはない。その上で韓国を理解する上で、ヒントになっているのが、韓国には、日本の歌舞伎、中国の京劇に相当する芸能、つまり近世演劇がないという話だ。そういった芸能の土壌となる近世市民社会がなかった。文化史的には中世からいきなり日帝36年になったという話を聞いたことだ。
 中国の映画は馴染めるのに、韓国の映画に馴染めないのは、近世演劇の蓄積がないことによって、何らかの違いがあってのことだろうかとか考える。そうすると、私が韓国映画になじめないし、韓流ドラマを見る気もしないのは、日本のせいなのかと思う。
 もうひとつ馴染めないのがインド映画で、通称「ぼんなご」という映画だけしか、最後まで楽しめなかった。だが、こういうページを見つけた。インドの近代化も植民地として行われた。つまり文化面での市民社会の成立は、独立後になるわけで、現代のインド映画が歌舞伎みたいな位置づけになるのか、と思うと、あのインド映画の様式がわかるような気がする。
 だから、韓国は、近世と近代と現代が同居している国というイメージがあって、ノムヒョンさんは、その中の立ち位置に苦労してる人で、イムグォンテクさんは失われた近世や近代への訣別を考えている人というイメージを持っている。

 日本の伝統といった場合のイメージは、古代と近世の文化だ。周囲の歴史的なリアルなモノは戦争で焼けてしまい、近代以降に再建されたものばかりだが、近世の様式だ。平安文学の世界や歌舞伎の世界というのは感情移入が出来るということで、リアルになる。中世や近代には馴染めない。歌舞伎や文楽というのは荒唐無稽な話だが、中世の規範と近世の情の葛藤が描かれる。近代と現代の葛藤に置き換えて観てしまう。
 だから、マンガの日野西の殿様のような、平安のなれのはての近世の「負け組」のオヤジにはあこがれてしまう。以前の目標はバカボンのパパだったが、最近はこの人が目標だ。薫子もカワイイ。
 現代がいかに近代を乗り越えるかと考えた場合、先のことは考えにくい。現代においてはムラの社会というのは再建が不可能に思うし、自分は「勝ち組」ではない。だから「伝統」というと、平安的な「負け組」のサロン文化、近世の市民社会の文化みたいなところをイメージしてしまう。
 リアルな世界で出合っていれば、おそらくお友達にはならなかったろうと思う人で、ネット上で知り合ったためにお友達になった人がけっこういる。おそらく、ネットの世界というのが都市的であり、さらにそのコミュニティが「負け組」的なためだと思う。「勝ち組」はリアルでつるむ。「共有できるものだけ共有すればいい」というのが都市のリクツだ。
 そういう所で「共有すべきだ」という「ムラのリクツ」に出合うのは悲しい。

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07/05/2005

続・オサレか羞恥プレイか

 以前にパンツは履き忘れるのか、という話があったが、個人のwebサイトとblogは、どう違うのだろうか。
 私の場合だと、webサイトは「手持ちのデータを公開した」という感じ。いろいろ興味があって、集まったデータをデジタル化していて、こんなもんでも興味のある人がいれば勝手に見てね、という感じ。それで、公開するならと、それなりの見せ方を考えるという手順になる。
 一方、blogの場合は「とりあえず作った」。中身は、イキアタリバッタリ。コンテンツがあるわけではない。でも、晒されるものだから、それなりにネタも見せ方も考えながらという感じ。
 だから、webサイトの方はネタ勝負で何とかなるが、blogの方は、変わったネタがあればいいが、いつもあるわけでなし、少しは芸をしないといけないと思ってしまう。
 世の中には日記サイトもあれば、blogでコレクションを紹介している人もいる。だから、使い方によって違うのだろうが、更新の手間や構造からは、私のような使い分けが一般的だろう。
 「手軽、簡単、誰でもできる」blogは、「パンツを履いていない不安がなく」大股開いたり、どんな格好でもしてしまう。blogは持ち物勝負ではなく、芸勝負になる。つまりは、いい服を持ってるかではなく、オサレ感覚や立ち振る舞いが問われる。

 世の中には、いろんな美意識の人がいて、いろんな程度のバカがいるが、それがなかなかわかりにくい。特に、ネット上では、つい出くわすことも多々ある。ネットというのは、都市よりも都市的なのだ。だから、お互いの美意識はサイトのデザインや感想的な文である程度知ることができても、バカさ加減はよほど論理的な文か論理を無視した文がなければわかりにくい。
 webサイトならば、データ勝負のところがあるから、あまりリクツは要らない。どんな人が作っていても、データの質次第。それに、サイト同士の連携もリンクだけだから、一方的。
 一方、blogの場合は、変わったデータがいくつもあるわけでなし、結局、美意識と論理が問われてしまうことになる。その加減で、オサレ自慢か羞恥プレイになってしまう。
 そこで、ここに私のバカさを理解していただけない人に来ていただくのはツライ。オサレのつもりで書いているのが羞恥プレイをしていると思われてしまう。それを許容するマイク・ミズノほどの度量はない。でも、互いに許容範囲と思える人には来て欲しい。
 webサイトが、勝手に来てねという姿勢で作っているのとは、そこが違う。

 だから「バカにしか見えない服」のような文を書いてしまおうとして、トリッキーで、わかりにくい文になる。そして、手間をかけないとわからない文にしてしまう。
 昨日のエントリーの「どぶ板野郎のダレ味噌野郎」というのは助六の台詞だ。ヒーローが悪役に言う悪態で、カッコいい台詞なのだ。「フナじゃフナじゃ」というのは忠臣蔵の師直、つまり吉良上野介で悪役の悪態だ。この台詞にキレて刃傷事件が起こる。お芝居の知識がないとわからないかと言えば、検索すればすぐわかる。検索窓にコピペ2回で、あとクリックが2回。でも、普通はそんな手間はかけない。内容に興味のある人はチェックするだろうし、ない人はスルーしてねというサインでもある。
 
 ここで「面白いことになってる」と紹介したblogは、どうなろうとかまわない。人を殴ることを是とする人は殴られてもしようがない。ただし、誰に殴る資格があるかという問題はある。ともかくもblog主自体が反応していない。
 ただ、彼のblogにコメントした人にまで害が及んでいる。彼のデータは有益だと思っている人が、彼の論理にも賛成だ、ネット人格を肯定していると思われているわけだ。

 このblogの場合、あまりエロネタは出てこない。ここを見に来る人は「リアルなエロ」は嫌いらしいので、需要のない芸はしづらくて、他でやっている。
 もし、書いても、今、コメント欄に掲載している人たちはスルーするだけだろう。でも、検索でここに来た人が、このblogによくコメントしているくらいだから、同じくらいエロな人なんだと思い込むようなことはありうると思う。
 特に、政治的な話は問題だ。何しろ、全くの専門外だが、ニュースは入って来る。つい、バカなことを書きかねない。でも、民主主義の世の中だから、国民は政治的な意識を持たなくてはならないと、親切な方がいっぱい啓蒙しようとしてくれる。
 これまで、韓国にいる知人のblogにトラックバックは送っているが、その知人のblogにリンクしたことはない。私が、もし時事問題について何か書いて、それを指導しようとした人が、あちらのblogにまで行く可能性も少し考えたからだ。
 こういう配慮は、都市のシモジモの世界にいるのなら必要なことだろうが、やはり窮屈だ。嫌ならスルーしてくれればいいし、バカだと思うなら無視するなり、自分の領分でネタにするだけにしておいてくれればいいのにと思えてしまう。このあたりが、今のblogでは世論を形成するに至らないという理由だ。世論形成に必要なプロセスである、まず違いを明らかにするための意見表明を控えようという動きが出てしまうわけだから。

 コミュニケーション自体は歓迎したいと思う。特に違う意見だ。自分の持ってるものより他人のものの方が興味深い。あくまで一般論だが男性も女性も、自分の所有していない器官に興味を持つようだ。って、これは動機が違うか。
 ともかくも、同じ意見でも違う意見でも、コミュニケーション抜きは困る。コミュニケーションの最初は共有できる概念を確かめることだ。
 私には、コミュニケーションのない連帯感と愛のないセックスは必要ないのだ。例外はあるが。

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オサレか羞恥プレイか

 確か、こんな話があった。一部、うろおぼえです。
 昔、あるところに、オサレが大好きな王様がいました。王様はこの世にふたつとない服も持ってくれば、いくらでも払うとおふれを出しました。さすが王様です。他の人と違う服が欲しかったのです。皆が持っているから欲しいというシモジモとは違います。
 そんな、ある日、世にも珍しい服をお持ちしましたと、仕立て屋がやってきました。私が持って来たのはバカには見えない服です。そうして、箱の中から、一着の服を出したのです。
 ところがです。王様にはその服が見えなかったのです。シモジモとは違うオサレな王様でもバカだったみたいです。でも、自分はバカだと気付かれるのは恥ずかしいので、何とか、どんな服かわかるように考えました。
 「バカには見えない服」でぐぐって見ると1300件ヒットしました。イメージ検索だと3件です。そのうちの1件を参考に「わしには細くないか」と、おそるおそる尋ねてみました。すると仕立て屋は「はい、そのように見えますが、とても薄くて伸縮性の良い素材を使っていますので、フィットします。その上、装着感がなく、ナマと変わりません」と答えます。
 周りにいた大臣たちも、実は服が見えませんでした。しかし、仕立て屋と王様の会話がヒントになり、おそるおそる聞いてみました。「色違いのも作れるのか、王様はオサレだから。」仕立て屋は答えます「ベネトンブランドには赤系、緑系もありますが、黒系に人気があるようです。」
 こうした応答があって、王様達はどんな服か、だいたいわかって来ました。着てみると、なるほど、着た感じがしません。王様はたいそうにご機嫌になって、仕立て屋に莫大な報酬を支払った上に、お付きの小姓に命じて、仕立て屋のお世話をさせました。さすがに王様です。会話を通じて、仕立て屋が女官より小姓を喜ぶことまでわかってしまったのです。
 王様のオサレな服の話は、城下にまで伝わります。国民も、どんな服か見たがりました。王様はその服でパレードをすることになりました。この服の話は隣国にも伝わります。隣国の王様は「そんな趣味の悪い服に金を払うくらいなら、うちの国の服を買った方がいい。」とか言っています。趣味がいいか悪いかは、国によって違うのですから無茶な話です。それに内政干渉です。
 でも、いつ服を見たのでしょうか。バカでない工作員をお城に派遣していたのかも知れません。用心しなくてはいけません。
 さて、パレードの当日です。王様のオサレな服を一目見ようと、人々が集まっています。その中を王様とSPを乗せたオープンカーが進みます。
 その時のことです、群衆の一人がある子どもに尋ねました。「やあ,ネオ。王様の服はどうだい」。その子どもはバカだったようです「服なんか着ていないよ。モーフィアス。王様は裸だ」。子どもだからしようがないかも知れませんが、バカには困ったものです。
 周囲の人たちの中には、バカな子どもはほっておけばいいのに、「あの服が見えませんか。そうですか。(プゲラ」とか「服が見えない香具師は氏ね」とか「王様の服が見えないバカ、ハケーン。」とか言っている人もいます。


 さて、バカには見えない服があるんだから、バカにしか見えない服もあるんだろう。バカに見えない服を大勢の中で着ると「裸をバカに見られてる」と、かなり高度な羞恥プレイになる。
 でも、バカの加減が違うと、オサレのつもりか羞恥プレイのつもりかが見分けにくい。
 その上、世の中には許されるバカ、許されないバカ、微バカ、軽バカ、弱バカ、中バッカ、強バカ、烈バカ、激バカといろんなバカがいるので、バカの見分けも必要だ。
 農村や上流階級だと、先祖代々過去帳一切のおつきあいとかもあって、お互いによく知っているということが多い。「あのうちは、公園の予定地にかかっていて、今、買収費用で揉めている」なんてこともわかる。
 ところが、都市とかシモジモの場合はそういうわけにはいかない。回覧板もポストに入れるだけ。お味噌が足りない、醤油が切れたって時も、お隣に借りずにコンビニに行くから、おつき合いも希薄で、バカの程度がわかりにくい。

 ここで、始めてblogの話になるのだが・・・・INTERMISSION

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06/05/2005

近世市民社会の芸能

 以前に書いたコミュニケーションのない連帯感についてだが、そのサンプルが、以前の宮古市が2つできることについてエントリーについたコメントだ。
 たまたま、宮古市がふたつあっていいという点が同じ意見だっただけなのだが、その理由も考えずに、一方的ご自分の意見を書き殴ってらっしゃる。あまりお近づきになりたくなかったので、私としても、相当に挑発的な返事を書くという下品なことをしている。
 今頃になって「晒し者」にした人に、「追い打ち」をかけるというバカなことをしたのは、この方のblogのあるエントリーが面白いことになってるからだ。
 要するに、この方が2ちゃんねる的なノリで書いたエントリーに、いわゆる「コメントスクラム」が押し寄せ、2ちゃんねるで言う「祭り」になってしまっている。コメントを書いている方にも少しはまともなものもあるのだが、多くはあげ足取りや罵倒だ。
 「どぶ板野郎のダレ味噌野郎」と言うつもりだったのが、芸が未熟のために「フナじゃフナじゃ」と言ってしまい、客が大騒ぎしている感じ。木戸銭払ったわけじゃなし、さっさと帰ればいいのに、親切に芸を教えようとしている人がいっぱいなのだ。
 Aも悪いがBも悪いというのは、自分のバカさ加減を棚上げしているようで、とても恥ずかしい書き方だ。・・・って、書いているな。ここでは、両方とも悪くなくて自分が「正義の味方」と思っているのが今のblogの問題点が集約されているように思った。
 自分のコミュニケーション・スキルというよりも、流行のコトバで言えば「自分のバカの壁」がどの程度かを把握せずにblogを書く人。こちらは恥ずかしいだけですむが、無意味なコメントが大量に寄せられるという問題、これは困る。その両方なのだ。さらにやっかいなのは、両方とも、対処の方法がない。だから、当事者になったら無視するしかない。今回は他人事だから、いろいろ考えてみる。
 夏目漱石が歌舞伎について、「かなりバカだけど芸術的な人が、同じような観客に見せるために作った芝居」という意味のことを言っている。たぶん、市民社会の芸というのは、同じ程度のバカさと同じ程度の美意識によって「選択される芸」でないといけないのだろう。貴族の芸や農村の芸が、同じ程度のバカさと同じ程度の美意識を前提としているのとそこが違う。
 このblogも、バカさと美意識が互いに許容範囲の読者を想定している。というか、もっとエライ人に向けた記事は書けないし、もっとバカ向けの記事を書くのは恥ずかしい。
 検索して、以前に掲載した漫湖の画像を見に来る人がけっこう多い。たぶん期待した画像と違うのだが、誰も苦情のコメントを書いていかない。やっぱり、エロよりバカが恥ずかしい。

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続・科学的常識

 昨日のエントリーだけど、いくら何でも54%というのは酷すぎると思い、調べてみたら、2択ではなく「わからない」も含めた3択だったようだ。新聞社のページの【科学常識チェック、〇か×か】に騙されていたようだ。
 いずれにせよ、進化論についての設問は正答率を引き上げる方に作用しているところから、日本の科学的常識は米国やEUに比べて低いことには間違いないようだ。
 ちなみにy染色体に関する設問は、正答率を引き下げる方に作用しているが、調査時点が愛子の産まれる前だったから、現在ならもう少し正答率が高いかも知れない。。。。最近、話題になっている資生堂のハゲ薬の広告記事も、こういった科学的常識の欠如を前提にしているわけだから、そうでもないか。
 さて、この新聞社だが、政治記事やスポーツ記事で、印象操作を行うならわかるのだが、なぜ、この記事でやってるのか、今度はそちらが気になった。

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05/05/2005

科学的常識

 いくつかのblogで、とある新聞社のwebサイトの5月1日の記事が話題になっていた。日本の科学常識が世界17カ国で13位だったという記事だ。
 さて、そこで「web常識チェック、○か×か」
・正当な引用の条件を満たせば、web上の記事を無断で転載してもよい。
・個別のwebページへのリンクは、特別な理由がなければ行ってはならない。
 この新聞社は、私と違った常識をお持ちのようだということと、元ネタの都合のいい部分のみを紹介するのが得意なようなので、この記事ではなく、元ネタの方を探してみた。
 文部科学省の第3期科学技術基本計画の資料集で、1999〜2001年に、日本、米国、EU15カ国、EU候補12カ国で(新聞記事では、世界的な比較と誤解させるような書き方だったが)、18歳以上の成人に科学分野に関する基礎的な概念の理解度を調べた。
 その際の11問と結果が出ているが、日本の正答率は54%で米国の63%やEU平均の58%より下、EU候補国12カ国平均の52%よりましな程度だった。
 各国共通11問は次のとおり(それぞれに対して正誤を問う)
1)地球の中心部は非常に高温である。
2)すべての放射能は人工的に作られたものである。
3)我々が呼吸に使う酸素は植物から作られたものである。
4)赤ちゃんが男の子になるか女の子になるかを決めるのは父親の遺伝子である。
5)レーザーは音波を集中することで得られる。
6)電子の大きさは原子の大きさよりも小さい。
7)抗生物質はバクテリア同様ウイルスも殺す。
8)大陸は何万年もかけて移動しており、これからも移動するだろう。
9)現在の人類は、原始的な動物種から進化したものである。
10)ごく初期の人類は恐竜と同時代に生きていた。
11)放射能に汚染された牛乳は沸騰させれば安全である。
 2択だから、まったくデタラメでも50%が期待値になる。米国やEU諸国はキリスト教国であり、正解が聖書の記述に反していそうなのが3,4,9,10だから、全く科学的常識がないと32%になる。
 乱暴な計算だが、最下位のポルトガルの正答率が48%というのは、ベースの32%に対して科学的常識の普及率が24%ということになる。ベースが50%の日本で正答率が54%ということは科学的常識の普及率は8%ということで、実質的にはヨーロッパ各国と比較して、ダントツの最下位だ。新聞社のサイトだけ見て、日本の下に途上国があると勘違いした人もいるかもしれないが、私はこういう解釈だ。
 「常識」の問題だから、恐竜の概念をより厳密に考えて○にして、結果不正解という人や、赤ちゃんが男の子「である」ではなく「になる」だからとか考えるもいないだろうし。
 占いは、フィクションだとわかって楽しんでいる人がほとんどだと思ってたんだけど、信用している人が意外にいるのかも知れない。

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ヘビィローテーション

 5月の2日は連休の「谷間」だったそうだ。そういう記事を見て、何となく「谷間の百合」というフレーズが浮かんで、なぜか脳内に「えーいめん、えーいめん。。。。」という曲が流れ出した。おまけに、レコード(CDじゃない)の映像まで浮かび、それを裏返すと「びぃーいめん、びぃーいめん。。。。」という曲が流れ出す。ぼーっとしてると、すぐまた流れ出す。
 昨日になって、突然「えーいめん、えーいめん。。。。」は「谷間の百合」じゃなくて「野の百合」だったということに気付いた。曲は消えた。
 その代わり「ブリキの兵隊」の歩く部屋という記事を見て、くるみわり人形が流れ出した。くるみわり人形が率いる兵隊たちが行進している映像が浮かんでいるのだ。つい「ちゃっちゃらちゃちゃっちゃ、ちゃっちゃっちゃちゃー。。。」と鼻歌になりそうになる。
 ところが、さきほど、ありゃブリキじゃなくてナマリではという気がした。スズだったかも知れない。では「ブリキの兵隊」って、どんなのだ、と思うとくるみわり人形の曲も消えた。
 このタイトル、ベビーローションと字面が似てる。。。。

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03/05/2005

江戸の大スター

 先日のエントリー、「小金持ち」が「オタク」の価値観に影響を受けたというのは、あると思うけれど、「オタク」が安心感のために半端なツッコミを覚えたというのは、少し、違うかなと思っている。
 「負け組」が「勝ち組@元祖」になるために、連帯感を求めているという感じは確かにするし、その手っ取り早い方法が半端なツッコミだとも思うし、そういう人たちにコミュニケーション・スキルが低さも感じるんだけど、「オタク」と結びつけるのが強引かも知れないと思っている。
 むしろ「オタク」なら、おかしな連帯感があるし、一種の「勝ち組」だけれども、それにもなれなかったから、連帯感を求めているのかもしれないという感じなのだ。
 「半端なツッコミ」という言い方もこなれてない。むしろ「悪態」でいいのかなと思う。様式化された「悪態」というのは、最もコミュニケーションを必要としない連帯の方法だと思う。子どもが「バーカ、バーカ、オマエのカーちゃんデベソ」と声を揃えて言ってるようなもんだ。もう少し格好良く言うと「助六由縁江戸桜の祝祭性」だ。
 悪態を人気取りに使ってる有名人を「おまいらのガキ大将」と言うと怒るblogerもいるだろうけど「現代の助六」ならいいだろう。

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01/05/2005

揚羽蝶

img056
 アゲハチョウ。山椒があるので来たのだろう。幼虫が育って来ると、山椒の葉が食われて、お料理に使えなくなる。

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連帯を求めてコミュニケーションを取れず

 「女盛りvsエロオヤジ」シリーズは、まだ続くらしい。
 ロジックなテキストでは、「勝ち組@元祖」雑誌における連帯感について考察している。
 私が、最も警戒して接するのは鉄ヲタと呼ばれる人たちだ。なぜなら、私が鉄ヲタ用語をある程度理解できるからだ。
 普通、コミュニケーションというのは、共通の言語や共通の体験がなければ成り立たない。その共有部分をツールにして意志が伝達できる。このアタリマエのことがわからないのがバカである。例えるなら、相手の環境もわからずに、いきなり「何ちゃら.doc」というファイルをメールに添付して送ってくる人である。
 こういうバカでも、コミュニケーションが成立するのが「オタク」の世界だ。語源的に言えば「オタク」というのは、2人称の使い分けができない人が、オールマイティの2人称に「おたく」を使ったことに由来する。つまり、コミュニケーションのプロトコルを確立しない相手と、趣味についてのチョー・コスギの話が出来る人たちだ。
 さて、鉄ヲタの人たちに、鉄ヲタ用語が理解できるということが知られると、彼らは、延々と鉄道に関する話をしはじめる。相手が鉄道に興味がなくてもする人だ。少しでも理解できるとなると、うっとうしい限りの連帯を求めてくるのだ。私にとって首都圏の通勤電車に乗るのは苦痛でしかない。そんな電車は興味の対象外だ。鉄ヲタ用語が理解できるということは、鉄道に対して趣味的な興味があるのかとか、どういう趣味なのか、一切、確かめもしない。プロトコルを確立しない、従ってコミュニケーションもないままに連帯を求めてくるのだ。
 一般の趣味人とオタクが徹底的に違うのがこの点なのだ。たまたま鉄ヲタ用語が理解できることから、鉄ヲタを例に出したが、アニメやフィギュアやいろんな分野の、このような「オタク」が社会に認知されたのがバブルの時代だった。認知されたと言っても、受け入れられたわけではない。キモイとも言われることもあり、次世代産業の旗手とも言われたが、文化として認められたのだ。
 バブルから不況にかけての時代の「勝ち組」は「小金持ち」だけではなかった。実は「オタク」も「勝ち組」だったのだ。勝手に勝ったと思いこんでいただけかも知れないが、人生の価値観に沿った生き方を全うできているんだから「勝ち組」なんだろう。
 経済が萎み、ネットの普及によって社会も縮んだ。そうすると「オタク」と「小金持ち」の距離が近づくことになる。「オタク」もそれなりの年齢になってしまい、多数派と価値観が共有できる安心感が欲しくなる。「小金持ち」は自分たちと全く価値観の違う連中に気付いたのだ。「小金持ち」は、世の中に欲しい玩具のために購入に数ヶ月の収入を充てる連中、つまり「オタク」がいることに気付く。「小金持ち」の価値観に拘る限りは「大金持ち」には勝てないのだが、全く違う土俵があることを知ったのだ。何より、彼らのチョーコスギの連帯感が欲しくなる。「オタク」と「小金持ち」という「勝ち組」は、お互いに「勝ち組」ではないかもしれない恐怖に直面したのだ。
 でも「オタク」は今さらコミュニケーション・スキルを身につけることは難しい。そこで「オタク」たちは、半端なツッコミを覚えたのだ。テキスト・サイトや巨大匿名掲示板でツッコミや集団によるツッコミ「祭」を覚えたのだ。相手を理解しなくても、というか理解しない方がツッコミは楽なのだ。こうして「オタク」たちは、連帯感も持ったままで「勝ち組@元祖」になれたのだ。
 「小金持ち」は今さら、「勝ち組」の実績は捨てたくないし、新たな価値観を持つのは難しい。Macでも買っておけば、少数派が持てる連帯感くらいいくらでも手に入るのに。それに付け込んだ雑誌が現れたということだろうか。
 「勝ち組@元祖」の連帯感というのは、コミュニケーションのない連帯感なんだと思う。コミュニケーションがあると「勝ち組@元祖」でいられないからだろう。

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