近世市民社会の芸能
以前に書いたコミュニケーションのない連帯感についてだが、そのサンプルが、以前の宮古市が2つできることについてエントリーについたコメントだ。
たまたま、宮古市がふたつあっていいという点が同じ意見だっただけなのだが、その理由も考えずに、一方的ご自分の意見を書き殴ってらっしゃる。あまりお近づきになりたくなかったので、私としても、相当に挑発的な返事を書くという下品なことをしている。
今頃になって「晒し者」にした人に、「追い打ち」をかけるというバカなことをしたのは、この方のblogのあるエントリーが面白いことになってるからだ。
要するに、この方が2ちゃんねる的なノリで書いたエントリーに、いわゆる「コメントスクラム」が押し寄せ、2ちゃんねるで言う「祭り」になってしまっている。コメントを書いている方にも少しはまともなものもあるのだが、多くはあげ足取りや罵倒だ。
「どぶ板野郎のダレ味噌野郎」と言うつもりだったのが、芸が未熟のために「フナじゃフナじゃ」と言ってしまい、客が大騒ぎしている感じ。木戸銭払ったわけじゃなし、さっさと帰ればいいのに、親切に芸を教えようとしている人がいっぱいなのだ。
Aも悪いがBも悪いというのは、自分のバカさ加減を棚上げしているようで、とても恥ずかしい書き方だ。・・・って、書いているな。ここでは、両方とも悪くなくて自分が「正義の味方」と思っているのが今のblogの問題点が集約されているように思った。
自分のコミュニケーション・スキルというよりも、流行のコトバで言えば「自分のバカの壁」がどの程度かを把握せずにblogを書く人。こちらは恥ずかしいだけですむが、無意味なコメントが大量に寄せられるという問題、これは困る。その両方なのだ。さらにやっかいなのは、両方とも、対処の方法がない。だから、当事者になったら無視するしかない。今回は他人事だから、いろいろ考えてみる。
夏目漱石が歌舞伎について、「かなりバカだけど芸術的な人が、同じような観客に見せるために作った芝居」という意味のことを言っている。たぶん、市民社会の芸というのは、同じ程度のバカさと同じ程度の美意識によって「選択される芸」でないといけないのだろう。貴族の芸や農村の芸が、同じ程度のバカさと同じ程度の美意識を前提としているのとそこが違う。
このblogも、バカさと美意識が互いに許容範囲の読者を想定している。というか、もっとエライ人に向けた記事は書けないし、もっとバカ向けの記事を書くのは恥ずかしい。
検索して、以前に掲載した漫湖の画像を見に来る人がけっこう多い。たぶん期待した画像と違うのだが、誰も苦情のコメントを書いていかない。やっぱり、エロよりバカが恥ずかしい。
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