続・オサレか羞恥プレイか
以前にパンツは履き忘れるのか、という話があったが、個人のwebサイトとblogは、どう違うのだろうか。
私の場合だと、webサイトは「手持ちのデータを公開した」という感じ。いろいろ興味があって、集まったデータをデジタル化していて、こんなもんでも興味のある人がいれば勝手に見てね、という感じ。それで、公開するならと、それなりの見せ方を考えるという手順になる。
一方、blogの場合は「とりあえず作った」。中身は、イキアタリバッタリ。コンテンツがあるわけではない。でも、晒されるものだから、それなりにネタも見せ方も考えながらという感じ。
だから、webサイトの方はネタ勝負で何とかなるが、blogの方は、変わったネタがあればいいが、いつもあるわけでなし、少しは芸をしないといけないと思ってしまう。
世の中には日記サイトもあれば、blogでコレクションを紹介している人もいる。だから、使い方によって違うのだろうが、更新の手間や構造からは、私のような使い分けが一般的だろう。
「手軽、簡単、誰でもできる」blogは、「パンツを履いていない不安がなく」大股開いたり、どんな格好でもしてしまう。blogは持ち物勝負ではなく、芸勝負になる。つまりは、いい服を持ってるかではなく、オサレ感覚や立ち振る舞いが問われる。
世の中には、いろんな美意識の人がいて、いろんな程度のバカがいるが、それがなかなかわかりにくい。特に、ネット上では、つい出くわすことも多々ある。ネットというのは、都市よりも都市的なのだ。だから、お互いの美意識はサイトのデザインや感想的な文である程度知ることができても、バカさ加減はよほど論理的な文か論理を無視した文がなければわかりにくい。
webサイトならば、データ勝負のところがあるから、あまりリクツは要らない。どんな人が作っていても、データの質次第。それに、サイト同士の連携もリンクだけだから、一方的。
一方、blogの場合は、変わったデータがいくつもあるわけでなし、結局、美意識と論理が問われてしまうことになる。その加減で、オサレ自慢か羞恥プレイになってしまう。
そこで、ここに私のバカさを理解していただけない人に来ていただくのはツライ。オサレのつもりで書いているのが羞恥プレイをしていると思われてしまう。それを許容するマイク・ミズノほどの度量はない。でも、互いに許容範囲と思える人には来て欲しい。
webサイトが、勝手に来てねという姿勢で作っているのとは、そこが違う。
だから「バカにしか見えない服」のような文を書いてしまおうとして、トリッキーで、わかりにくい文になる。そして、手間をかけないとわからない文にしてしまう。
昨日のエントリーの「どぶ板野郎のダレ味噌野郎」というのは助六の台詞だ。ヒーローが悪役に言う悪態で、カッコいい台詞なのだ。「フナじゃフナじゃ」というのは忠臣蔵の師直、つまり吉良上野介で悪役の悪態だ。この台詞にキレて刃傷事件が起こる。お芝居の知識がないとわからないかと言えば、検索すればすぐわかる。検索窓にコピペ2回で、あとクリックが2回。でも、普通はそんな手間はかけない。内容に興味のある人はチェックするだろうし、ない人はスルーしてねというサインでもある。
ここで「面白いことになってる」と紹介したblogは、どうなろうとかまわない。人を殴ることを是とする人は殴られてもしようがない。ただし、誰に殴る資格があるかという問題はある。ともかくもblog主自体が反応していない。
ただ、彼のblogにコメントした人にまで害が及んでいる。彼のデータは有益だと思っている人が、彼の論理にも賛成だ、ネット人格を肯定していると思われているわけだ。
このblogの場合、あまりエロネタは出てこない。ここを見に来る人は「リアルなエロ」は嫌いらしいので、需要のない芸はしづらくて、他でやっている。
もし、書いても、今、コメント欄に掲載している人たちはスルーするだけだろう。でも、検索でここに来た人が、このblogによくコメントしているくらいだから、同じくらいエロな人なんだと思い込むようなことはありうると思う。
特に、政治的な話は問題だ。何しろ、全くの専門外だが、ニュースは入って来る。つい、バカなことを書きかねない。でも、民主主義の世の中だから、国民は政治的な意識を持たなくてはならないと、親切な方がいっぱい啓蒙しようとしてくれる。
これまで、韓国にいる知人のblogにトラックバックは送っているが、その知人のblogにリンクしたことはない。私が、もし時事問題について何か書いて、それを指導しようとした人が、あちらのblogにまで行く可能性も少し考えたからだ。
こういう配慮は、都市のシモジモの世界にいるのなら必要なことだろうが、やはり窮屈だ。嫌ならスルーしてくれればいいし、バカだと思うなら無視するなり、自分の領分でネタにするだけにしておいてくれればいいのにと思えてしまう。このあたりが、今のblogでは世論を形成するに至らないという理由だ。世論形成に必要なプロセスである、まず違いを明らかにするための意見表明を控えようという動きが出てしまうわけだから。
コミュニケーション自体は歓迎したいと思う。特に違う意見だ。自分の持ってるものより他人のものの方が興味深い。あくまで一般論だが男性も女性も、自分の所有していない器官に興味を持つようだ。って、これは動機が違うか。
ともかくも、同じ意見でも違う意見でも、コミュニケーション抜きは困る。コミュニケーションの最初は共有できる概念を確かめることだ。
私には、コミュニケーションのない連帯感と愛のないセックスは必要ないのだ。例外はあるが。
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