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29/11/2005

鞍 鐵

貴船口 11月は異様に混む叡山電鉄だが、以前に撮った写真が出てきた。写ってる人たちの服装から冬だ。誰と一緒に行ったか覚えており、その人とは10年来の知人だったが、一緒に出かけたりしたのは、その間の一時期なので、この写真が10年近く前のだとわかる。
 「鞍鐵」というのは1942年までの呼称「鞍馬電気鐵道」のことで、10年くらい前までは、その当時の看板が残っていたわけである。今はもう看板はないが、建物は変わっていないと思う。

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28/11/2005

プライド

img022 昨今、何かと話題になっている「A級戦犯」、つまり「a項違反の戦争犯罪人」についての映画だ。スポンサーが東日本ハウスということであり、東条英機を美化した、単なるプロパガンダ映画と思われている。
 なので、どういう風に美化してるんだろうと思って見てみた。ところがである、プロの監督なのだ。スポンサーのお気に召すまま作っているというわけじゃなさそうなのだ。
 まず、最初の方で東条がインタビューを受けるシーン。マッカーサーを「部下を置き去りにして逃げたのは軍人として感心せん」と評価する。このシーンは何のためなんだろう。普通なら、一方の司令官をこう評したら、もう一方、つまり東条はどうなんだ、と誰でも思うだろう。
 日本軍の戦死者は「殺された」人数に対して、餓死、病死、自殺が非常に多い。いわば、補給も考えない無謀な作戦、戦況が明かなのにズルズルと戦争を継続、そして、生きて虜囚の辱め受けずの戦陣訓と、部下を置き去りにするどころか殺したのが東条というのは、映画で描かれなくても多くの観客は知っている。
 そして、裁判シーンを前にして、烏丸せつ子の切腹シーンがある。ピストル自殺に失敗した東条の前で戦争未亡人が切腹する。このシーンは東条の無能と無責任を告発するためのものだろう。
 続いて、東条と重光との会話。フィリッピン、インドネシア、マレーを独立させるんだ、なんて会話が出てくる。スポンサーはアジア解放の戦争だったと主張してると喜ぶかも知れない。でも、ここに韓国は出てこないし、後のシーンで溥儀が出てくることで、東条の言う「独立」が何だったのかが、何も考えずに観ているんじゃなきゃ思いあたるわけである。
 そして、罪状認否で無罪を主張するように言われた際の東条の台詞。「犯罪者じゃなくて、責任者だ。」
 裁判シーンに移る前に、こういうシーンがあるわけだから、東条の責任というものを踏まえて、東条の台詞を聞くことになる。
 裁判のシーンは、基本的には、スポンサーの意向に添ったものだろう。勝者が敗者を裁く不当性のみを強調しているし、戦争の相手を殺すことは「犯罪」にならないと、ことさら主張している。
 多くの俳優が抑制された演技をする中で、キーナン検事と東条はことさらに大げさな演技をしており浮いている、つまり、戯画化して描かれている。勝者の代表としての役割で東条を告発するキーナン検事を戯画化している。一方、烏丸せつ子の映像が入って来て、東条が相手国への犯罪者でないとしても、自国民を殺した責任者であることを思い出させるシーンでは東条に歌舞伎風の隈まで入る。歌舞伎の様式の中では隈取りはヒーローであっても、写実的な映像の中ではギャグである。権力者であることを戯画化しているわけだ。
 東条の台詞ではナチと同一視することに反発している。そうだろう。ナチは少なくともドイツ人まで組織的に殺していない。一緒にしちゃいけない。
 そして、東条が自己矛盾に陥る。戦争犯罪の責任がないと主張するなら、天皇に責任があることになると聞くと、泣き出すのだ。犯罪を否定し、自分の責任を肯定していたのだから、その主張の延長上に、天皇には犯罪も責任もないことになる。ところが、ここで、犯罪と責任について、完全に混乱した東条が描かれる。
 この映画はフィクションだ。けれども事実を元にしたフィクションだ。そして、争うこともなく認定されている事実を踏まえて観れば、東条を美化するように描きつつ、演出的には、東条の自国民に対する犯罪を告発しているとしか思えない。相手国への犯罪ではないという主張も、自国民への犯罪行為を浮かび上がらせる役割をはたしているのだ。
 裁判で東条は自衛のための戦争を強調する。もちろん連合国側も自衛のための戦争という名目だ。国際法というか不戦条約では自衛のための戦争は犯罪でないからだ。つまり、常に戦争は互いが「自衛」という名目を掲げて行われるわけである。
 そして、東条は何を自衛するつもりだったのか。国民を消耗させたのだから国民であるはずはない。戦略もなく、ピストルも使えないが、数字の暗記やチマチマと文を書くのは得意なだけの軍官僚の「プライド」だったのだろうか。正体のない「自衛」の欺瞞も描かれている。
 占領軍の権力による裁判を否定的に描いているという体裁をとっている。いくら、判決や手続きを否定しても日本はそれを受け入れており、国際的にも確定しているわけだし、裁判で明らかにされたことは、なかったことにはできない。それよりも、結局、裁かれることのなかった東条の日本人に対する「権力犯罪」を改めて告発した映画としか思えない。いわば、権力というものの醜さを描いているのだ。
 このような裁判の経過と併行して、インド独立やインド人のパール判事のエピソードが挿入される。スポンサーは無罪を主張したからパール判事のエピソードを入れたと思い、喜んだのだろう。けれども、映画では裁判に対して無力であったということを強調し、戯画化した元権力者や新権力者に対比する役割を与えて、好意的に描いている。
 映画でも演劇でも、プロなら、生の台詞に主張を込めるなどということはしない。観客に考えて貰うものだ。極東軍事裁判の不当性を描くという名目でスポンサーに金を出させて、観客には権力というものの犯罪性を告発するというアクロバットを見せてくれる映画だった。
 表面的なプロパガンダに共鳴したり、反発するだけじゃなく、自分のアタマを頼りに観るべき映画だ。

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27/11/2005

修羅雪姫

img021 レンタルビデオ屋で見かけた「修羅雪姫」。キルビルが当たったので、DVD化されたのかと思い、借りてきた。でも、私が思っていた「修羅雪姫」ではなかった。リメイクされたらしくて、そっちの方だった。
 そして、この「修羅雪姫」の感想でも書こうと思ったけど、書けません。なぜなら、15分くらいで見るのを止めたから。これから面白くなったのかも知れないが、待ちきれなかった。
 バカ映画ならツッコミ入れながらも見てられるけど、それが可能なほど酷くはないということである。つまり、「キャシャーン」や「デビルマン」よりはマシということである。

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26/11/2005

トヨタケさん

img020 古本屋の前で、1冊100円で売ってた中に、稽古本が混ざっていたので買って来た。「寺子屋」と「合邦」。たぶん、既に買っているとは思うが、書き込みがないのと、100円ということで買ってしまった。高山書店だと1000円だし。
 お店のおじさんに、浄瑠璃本がちょいちょい出るのか聞いてみたら、たまに出るが誰も買わないとかで、「昔はトヨタケさんが寄ってくれた」らしい。
 この古本屋は越路大夫の住んでいたマンションから徒歩10分くらい。稽古ついでに誰かが寄ったのか、豊竹さんや竹本さんじゃ、誰だかわからない。。。。。そういや、あるトヨタケさんの通勤路にも近い。
 それで思い出したのが、10年近く前の新聞記事の見出しで「鶴澤氏が人間国宝」。当時、団六さんが既になっていたかは忘れたが、順番から言えば、竹澤、野澤のはずで「え?清治さん?」と思ったら淡路の友路さんだった。芸能や文化の記者なら、こういう書き方はしないだろうが、社会面や整理部の記者が書いたのだろうか。ともかくも「鶴澤じゃわからんだろ」と思った。
 元彌ちゃんが逮捕されたらしくて、このページで記事が紹介されているが、「和泉は云々」と書かれている。読んだ当初は「野村」や「茂山」と表記するのと同じような違和感を感じたのだが、よく考えるとこれでいいのだ。もはや狂言師じゃなくてプロレスラーなんだから、「橋本」「小川」が不自然でないように「和泉」でいいわけである。

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23/11/2005

増殖したドロンジョさま III

 このblogに辿り着く検索ワードは、解析を付けて以来ではあるが、最多が「ドロンジョ」だ。
 ちなみに、2位が「しっぽく」、3位が「寝違い」、4位が「まんこの画像」ということになっている。
新着のドロンジョさま 1位の「ドロンジョ」は画像検索のケースが多いのだが、せっかく探しに来てくれるので、その後に増殖したドロンジョさまを貼っておく。

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22/11/2005

地震が悪いと言えない業界

 ワコールのオンラインショップからデータが流出したそうな。
 どうやら不正アクセスがあったらしい。ワコールのサイトのサーバーをチェックしてみたら、OSはSolarisで、サーバーソフトは Apacheだ。
 ところが、なぜかオンラインショップについては、

OSはWindows 2000とNT4/Windows 98、そしてサーバーソフトは、Microsoft-IIS/5.0 とMicrosoft-IIS/4.0のようだ。

カカクコムが不正アクセスを受けて閉鎖した時と同じ会社の製品のようである。
 もちろん、不正アクセスした方が悪いのであって、ワコールとしては、万全の対策をしていたのだと思う。
 ところが、建設業界ではそういうことにならない。震度5で倒壊した場合、地震が悪いのであって、万全な対策をしていたとは言えない。それで、正規の頭髪と偽装した頭髪を混ぜていたという疑惑の建築士のことがニュースになっている。
 「21棟のうちマンション12棟は不動産会社のヒューザー(東京都千代田区)が建築主で、その多くを含む少なくとも13棟は木村建設(熊本県八代市)が施工を請け負っていた。」と報道されている。
 その木村建設のサイトが「ただいまリニューアル中ですので、しばらくお待ちくださいませ。」ということになっている。グーグルのキャッシュには、11月18日のデータが残っており、「11階建のビジネスホテルを6ヶ月で施工」なんてコピーも残っている。この土・日か月曜日にリニューアルを始めたようだ。注目が集まっているのに。
 そこで、ひょっとして、安全性に問題があってということかな。。。と思って、チェックしたら、LinuxとApacheだった。別の理由でリニューアルしているようだ。

22日、追記
 グーグルのキャッシュは、21日クロール分に変わってしまい「リニューアル中」になっている。
 と、思う間もなく、木村建設は1回目の不渡りを出して、事業も中止したそうだ。会社がなくなれば補償もないわけだ。シゴトが素早い。

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21/11/2005

赤目四十八瀧心中未遂

img018 「ヴァイブレータ」の寺島しのぶが凄かったので、見てみた。
 「40年前に書かれた原作を30年前に映画化したものだが、今でも通用する」という感じだった。別に、どこと言って気に要らないところはない。150分と長いが退屈というわけではない。私は好きじゃないが、こういう話が好きな人もいるんだろうと思う。評論家なら「なぜ今」とか言い出すんだろうけど、単なる観客としては、見逃したかつての話題作という感じで、ハナシはともかく寺島しのぶの表現力は、やっぱりすごいなぁ、と思ってみていた。
 で、その寺島しのぶだが、映画初出演は「シベリア超特急2」らしい。中村福助も出ていた。ところが、それより後に作られた「娘道成寺〜蛇炎の恋」の紹介記事に「映画初出演の中村福助」という記述を見かける。どうやら「シベリア超特急2」への出演はキャリアに入れなくていいらしい。そこを、あえて入れている寺島しのぶだから、おバカな映画にも出てほしい。

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20/11/2005

ちょっと改装

 タイトルバックを長崎県から岩手県に変更し、「しりとり」がここんとこ寂しいので、こっちにもリンクを付けてみた。

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18/11/2005

なな?

 「黒子」には意味によって3種の読みがある。「ほくろ」というのは、皮膚に出来る黒い点。「くろこ」というのは、昔、ロゼット洗顔パスタのCMに出ていたアニメキャラクターで白子さんと黒子さんというのがいた。今のオセロみたいなもんだ。そして「くろご」というのが、歌舞伎とかで黒い着物を着て後見とか道具の出し入れとかをしている人だ。
 ところが、この「くろご」をつい「くろこ」と言ってしまう。服部幸雄さんという歌舞伎の研究者の人が、つい放送番組で「くろこ」と言ってしまい、後で、放送局に「ご」と録音してもらいに行ったという話をしていたから、「くろこ」と言ってしまう人は多いんだろう。
 マチガイとわかっててよく言うのは「けしょう」坂の少将。これは、文章で書くときに「けわい」じゃ変換されないんで。「けしょう」と打ってるうちに言うようになった。
 さて、忠臣蔵の「判官切腹」と「一力茶屋」はそれぞれ何段目か。四段目と七段目である。「よだんめとひちだんめ」と答えるが正しいのだろうか。
 「にだんめ」「さんだんめ」・・・「ごだんめ」だから、本来なら「しだいめ」だけれど、慣例的に「よだんめ」と読んでいるのだと思っていた。そして「ろくだんめ」・・・「はちだんめ」だから、「ひちだんめ」でいいはずだ。
 同じように、初代、二代目、三代目・・・ときて、四代目は「よだいめ」、そして「七代目」は「ひちだいめ」と読んでいる。
 こんなことを考え出したのも、この記事がきっかけ。東京の人なので「ひちだいめ」と言わずに「しちだいめ」と言うんだろうけど、お茶では「ななだいめ」と言うと直されたらしい。
 そして、私も、日常会話の中では、つい「ななだいめ」と言ってしまいかねないが、どう読むと聞かれれば「ひちだいめ」と答えるし、「ななだいめ」には違和感を覚える。お茶の世界じゃ、こんな風習があるのだろうか。それとも、リンク先の人の流派だけなんだろうか。詳しそうな人に聞いてみたくなった。

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16/11/2005

最近のTバックspam

 このところ数件あったトラックバックであるが、トラックバック先は、女性のblogで、記事は数件。だいたい1週間くらい。そして、トラックバックを送って来た記事自体は、寂しいとかいう内容で、その前に寂しいので出会いサイトに登録したという記事があって、そこにリンクがある。
 削除したけれど、その後で、そのトラックバックタイトルで検索して見ると、かなりの多くのblogに同じようなトラックバックを送っている。
 ちょっと見ではspamと気付かれないしくみだろう。。。。。
 という、この記事にも送って来るかな?
 送ってきたら面白いので、日付を操作して、しばらくトップに来るようにしてみようかな。でも、そうすると、更新通知も届かないのかな。どうなんだろ。

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15/11/2005

再就職

 ウィルスをばらまいたり、でたらめなパーミッション設定で個人情報を公開して、ネットセキュリティの世界では最も有名な議員だった島さとし元議員の再就職が決まったようだ。
 ソフトバンクの社長室長だそうだ。ネットに無知なことで有名になっただけに、なぜ、ソフトバンク?
 それよりも気になるのは、社長はズラを被っていないけれど、社長室長はどうするんだろうだ。
 この記事に写真があるが、微妙にわかりにくい。

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14/11/2005

千葉という食品

 先の食べるカエルの話は、全面的にボツにしたネタだが、部分的ボツというのもある。
 そのひとつが「千葉」という食べ物について。千の葉、フランス語だと「millefeuille」ミルフィユだ。白山や猫舌とかいうお菓子もあるんだから、千葉があってもいいんだけど。
 千葉の韓国・朝鮮語読みは천엽(チョニョプ)。韓国・朝鮮語では、枚数を数える単位として、「葉」と「帳」を使い分ける。つまり「千葉」というのは「千枚」という意味になり、つまりは日本語で言う「センマイ」。牛の第3・第4胃のこと。
 それで、韓国語の方は原稿になったが、フランス語の方はボツ。「センマイとミルフィユが同じ意味」というネタは「センマイ ミルフィユ」で検索してもヒットしないから、一般的じゃないのかな。
 なお「ミルフィーユ」というのが「ミルフィユ」の誤用以外にあるらしい、画像検索して知った。

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スウィングガールズ

 DVDの感想を書いているが、書いていないものの方が多い。それなりに面白かったとか、つまらなかったものは書いていない。たぶん、自分で特にいいと思ったもの、特にひどいと思ったもの、つまり、特に印象的なのだけを書いている。洋画はほとんど感想を書いていないのは、そういう理由がある。
img017 さて、気に入って何か書いておきたいと思いながら、書きかけて止まっていたのが「スウィングガールズ」について。「気に入った。でも、リクツじゃ褒めようがない」というのが正直な感想。
 陳腐で、ご都合主義としか言えない展開だし、エピソードも整理されていない。でも、なぜか、話の世界に馴染んでしまう。
 俳優が特訓してジャズの演奏をする。かなり昔、20年くらい前だけど「上海バンスキング」というお芝居を見に行った。やはり俳優がジャズを演奏した。オープニングは客席に俳優が散って演奏していた。それだけではないが、この舞台は今まで観た演劇のベスト10には絶対入る。生のコンサートとメディアに乗った音楽では費用が10倍以上に違う。それでも、人は生のコンサートに行く。生だからこそ、俳優が演奏する意味があるわけで、別録音が可能な映画で、俳優が特訓して演奏しましたって言われても、そうですかってだけ。そこに意味があるとは思えない。でも、やっぱり、コンサートシーンには浮き立ってしまった。
 山形の置賜が舞台だ。日本全国、どこの風景も似ている。日本の風景だなってわかる。でも、似ているようでも、地域地域の特色はある。同じ山形でも、内陸と庄内はどこか違うし、置賜と村山だって違う。せっかくの置賜なんだから、もっと風景を使えるだろうにと思ってしまう。それは、もっと絵になる背景もあるのと同時に、彼女たちがジャズを始める動機のひとつ、日常からの飛躍をシンボリックに表現するように、盆地地形が使えないものかと思う。
 コトバもそう。山形に女性の知人は何人かいる。庄内と村山が多い。山形弁で喋ってくれるのは村山の人で、主人公達より渡辺えり子に近いけれども、彼女は村山弁で考えて村山弁で喋るのに対し、この映画だと、いかにも翻訳した山形弁という感じで、何か不自然なのだ。そういう「置賜」へのこだわりが中途半端な気がする。
 かように何か書こうとしても、不満しか出てこない。竹中直人のセコセコした芝居も、いい加減にしてくれという感じ。でも、この映画は気に入ってしまったのだ。「ぢょしこうせい」の魔力としか言いようがない。特に、ペットとトロンボーンとドラムの子。

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13/11/2005

しのぶ、すごい。すごい。

img016 しのぶと言っても、シダ植物でも福島の山でもなく、女優の寺島しのぶだ。最初に寺島しのぶの芝居を見たのは、かなり昔「近松心中物語」だった。主役と対比される、心中し損なう役。もはや記憶は定かではないが、その時に、寺島しのぶの表現力はすごいなと思った。彼女たちが心中し損なうシーン、まじめくさった演技で、笑わせながら、せつなさ表現し、主役達の劇的効果を高める役だった。母親は存在感の俳優、父親が表現力の俳優なら、姉の芝居は父親似、弟の芝居は母親似かとも思った。
 「ゲロッパ」という映画に、本筋とは無関係なひとつのエピソードに出ていたけれど、今、この映画の「空気」を思い出すと、この人の出てたシーンなのだ。
 そして、この「ヴァイブレータ」だ。
 ヒトコトで言えば「しみったれたメルヘン」。部分、部分で、「ある。ある。」と妙にリアル。淡々とした展開だが飽きさせない。
 相手役は松尾貴史を若くしたような人。オトコがよくわからないオンナに対する時、相手を探りながら、ある種の役割を演じながら接することってあると思う。そういう「演技」しているオトコを「演技」じており、彼の心境は描かれない。彼女にせいいっぱいのオトコの役割を演じているのが、彼の優しさだと、彼女を通じて語られる。
 そして、やっぱり、思うのは彼女の表現力のすごさ。
 例えば、最後の方に「すごい。すごい。」という台詞がある。最初の「すごい」に僅かの間隔を置いて、やや低く、ややゆっくり「すごい」。そして、彼女の笑顔。これで、この話を語っている。
 もちろん、この台詞だけでは映画にならない。要所要所で彼女の心境が字幕に出る。「彼を食べて、彼に食べられた。」「それだけのことだった。」この映画に描かれた彼女の体験はこのように字幕で説明される。それが最初の「すごい」に、そして、「ただ、」「あたしは自分が、いいものになった気がした。」と字幕では説明されている、体験を通じた彼女の心境が、次の「すごい」に込められているように感じられる。
 以前から「大きな芝居」のできる人と思っていたが、「細かな表現」もできる、その表現力の幅広さが、この映画を見てよかった映画にしている。

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今日のモリアオガエル(11/13)

img013 気温が下がり、動きは鈍い。以前のように餌に近づいて行って跳びかかるという感じじゃなく、近くに来た餌に跳びかかる感じ。そのわりには体型がぷっくりしてる。シュレーゲルっぽいがモリアオ。
img014 たまに茶色くなっているのがいる。アオガエルも体色を変えるらしいが、あまり茶色っぽいのを見たことがなかった。鉢植えも常緑ですまいのインテリアの色合いは変わらないのに、このところ、時々、茶色くなっているのがいる。
img015 一番、大きかった、おそらく昨年生まれの「ひょっとしてシュレーゲル」。大きさでは、差はなくなりつつあるが、体色は最も鮮やか。最も大きくなったモリアオガエルとは、山手線と常磐線くらいの色の差があるので、見分けはつく。

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11/11/2005

謎は深まる

 「女人禁制」ついでにネットを漁ったところ、富士山に最初に登った女性についての謎に当たってしまった。
 「1867(慶応3)年、イギリス公使ハリー・S.パークが、夫人同伴で、当時女人禁制だった富士山に登ったことで、婦人運動家が10月15日を「女人禁制破りの日」と提唱した。」こういう記事が多く見られる。一般的に「パークス」と表記されるところを、「ハリー・S.パーク」と表記しているので、元ネタは一緒だろう。
 ところで、登山史関係の記述では、パークス一行の登山は、旧暦で慶応3年9月10日、新暦で1867年10月7日とされている。この10月15日が新暦なのか旧暦なのか、そして、なぜ日付に食い違いがあるのか。さらに、この婦人運動家って誰。
 もうひとつは、この記念日が、高山たつの登山日である旧暦の万延元年9月26日、新暦で1932年10月25日を根拠としなかった理由だ。
 セクシャリティとしての女性では、高山たつが先だが、ジェンダーとしての女性ではパークス夫人ということなんだろうか?

 太政官布告の原文もまだ見てないし、ネットだけじゃこれ以上は調べられないな。。。と思っていたのだが、調べてどうするんだ?
 どうもしないけど、わからないと調べないといけないような気になる。もし、興味を持った人がいたら、調べて教えて下さい。

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10/11/2005

チェックしないと

 さて、先日以来の大峰山に関するエントリーに関して、気になることがある。
 1872年の太政官布告、「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」(明治5年太政官布告第98号)だ。
 この年、修験道廃止令が出されており、「僧侶肉食妻帯蓄髪並ニ法用ノ外ハ一般ノ服着用随意タラシム」(明治5年太政官布告第133号)というのも出されている。
 国家神道という新興宗教をでっち上げようとしていた明治政府の、1868年からの一連の神仏分離令により、神道強制、廃仏毀釈の動きが行われたが、1871年頃には有力寺院との妥協が成立しだしたが、土着の根強い信仰への弾圧は、さらに強化された。というのが教科書的な時代背景だ。
 その中でも、国家神道の権威を高めるために、仏教寺院の俗化につとめ、さらに修験道への弾圧は継続され、17万人の修験者が山を降りた。
 この「女人結界」の廃止はその一環と見るのが、最も素直な解釈であり、私も、修験道破壊のためと解釈している。少なくとも、明治政府がこの時期に女性差別の解消を図ったというのは無茶な解釈だと思う。

 気になったのは、源淳子という人の説で、「これは、1876年(明治9)、東京で開催される初めての内国勧業博覧会に先立ち、来日する外国人たちが京都を訪れるであろうことを意識して布告されました。」という説だ。
 第1回内国博覧会については、「大久保利通は岩倉具視らと欧米の政治・経済・文化についての視察の際,日本から24人の技術伝習職人が派遣されていたウィーン博覧会(1873年)に立ち寄った.当時の日本の産業の発展や貿易振興には,内国博覧会の開催が必須なことを認識した大久保は,自ら建議を行い,また総裁となって博覧会開催を推進した.」〔参〕石塚裕道《日本資本主義成立史研究》という記述を見つけた。
 この記述通りだとすると、1872年には、内国勧業博覧会は企画以前ということになる。
 女性差別の解消を推進する立場から、この太政官布告を好意的に解釈したのか、それとも何らかの根拠があるのか、気になるところだ。
 内国勧業博云々はともかくも、外国人の観光というのがいつ頃から意識されだしたのか、国家神道確立のための他宗教への干渉以外の可能性があるのか、そのうち、調べようと思う。

11/11追記
 1867年、大政奉還の1ヶ月前に、イギリス公使パークス (Harry Smith Parkes)が、夫人同伴で、当時女人禁制だった富士山に登った。。。。という記事を数多く見かける。ということは、外国人が夫人同伴で「女人禁制」の地に入る可能性は、1872年には認識されていたようだ。
 なお、富士山には、1832年には、高山たつという女性が男装して富士講行者とともに登っている。(旧暦9月26日)
 にもかかわらず、パークス夫人を以て「女人禁制が破られる」という記事が多い。普通、「Parkes」は「パークス」と表示するが、この件に関する記事は、皆「ハリー・S.パーク」と表示しており、ネタ元は同一のようだ。「男装」したなら「女人禁制」に触れたことにならないという解釈だろうか。
 

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09/11/2005

しつこく大峰山

 ジェンダーフリーと言う場合の「ジェンダー」には2種類の概念があるらしい。一般的にジェンダーと言うのは「gender」で社会的性差であるが、このサイトによると、URLのように「jender」というのもあって、この場合は生物学的性差も含むらしい。というのは、このサイトでは、男女混合での騎馬戦、身体検査とか、あらゆる性差否定の例をあげている。このサイトのプロジェクトチームの座長は、南カリフォルニア大学の政治学科に2年間留学したと以前は称してたから、スペル・ミスなんかじゃないと思う。
 「ジェンダー」に2種類あるなんて、私は全然知らなかったし、きっと同じように、世間の人は、性差を巡る諸問題について、かなりの混乱があるんじゃないかと思ってしまう。

 かように、性差を巡る諸問題には疎いのだが、「山」や「伝統」の話には興味があるので、またまた大峰山の件である。
 性差の問題のこのような状況があることに加え、これだけネットが普及しているにもかかわらず、ネットで簡単にわかるようなことを無視した感想が、そのネット上に多く見られる。
 大峰山の「女人禁制」の撤廃については、前にも触れたが、まず、明治の初めの修験道弾圧による太政官布告がある。次に、1997年に寺側が撤廃を提案したが、地元が納得せずに、撤廃されなかったという経緯がある。この2つの、反修験道の立場と、修験道の立場からの撤廃の動きがあったことは、ネットで簡単に調べられる。
 私は、日本の伝統的宗教観については、信じてはいないが尊重するし肯定的である。そして、それを破壊しようとした新興宗教を嫌っている。
 だから、一方で国家神道を肯定するようなことを書き、一方で、伝統だのと書き、そして、大峰山の宗教性を過大に尊重するような立場の感想の多くは、支離滅裂としか感じられなかった。その結果が、最初のエントリーだ。

 また、登山を目指した一行が、一旦解散した後、3人が登山を行ったと報道された。この報道で、公言しなければ女性も登れるのだということが誰でもわかる。ところが、3人が登ったことで、1300年の伝統が破られたなどと、1300年間全く登った女性がいないかのような感想があるのだ。非難するなら、登ったことじゃなく、登ったことを公言したことだろうに。このように、調べればわかるどころか、報道だけでもわかることも無視した感想には呆れるしかなかった。そこで、2番目のネタ化したエントリーを書いてしまった。まあ天皇ネタも絡んでるので、歌舞伎ネタでカモフラージュしてるけど。

 このような状況の中で、少なくともネット上では、まともに「問題提起」なんか出来ないだろうなと思ってしまう。それに、大峰山の宗教性を過大に尊重することはないが、無視したり過小に貶めることもない。あまりバカバカしい質問、子供のケンカの「そんなこと何時決まった。何年何月何日何時何分何秒?」に類するような質問は、あまりにも稚拙な方法だろう。
 私も、ネット上のおかしな感想の方に気を取られてなかったら、このグループの稚拙さにもっと反感を持っただろうと思う。

 もし、問題提起したいなら、もっと適当な相手があるだろうにと思う。
 差別をなくす「運動」として「運動会」を開けばどうだろう。例えば、性同一性障害を持つ人たちの運動会を3月半ばにすることとして、大阪府立体育館の使用を申し込むのだ。地方自治法の244条に「公の施設」に関する規定があり、不公平な扱いを禁じているし、太田知事には、施設の管理者に必要な指示をする権限がある。

11/.11追記
 その後、トラックバックされた記事を初め、実際に霊場巡りをしている人、「女人禁制」というルールはあるが実態はない祭礼に関わってる人など、状況を把握した上での記事も目にしました。
 結局、当初に見られた記事は、状況を理解できないというよりは、「gender」ではなく「jender」の論者のように、元々の意図があって状況を無視して、あまりに稚拙な連中を利用したということや、むしろ、こういう反応を呼び起こすことに注目した記事だったようです。それで、すぐにエントリーしたということでしょうか。

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外務大臣レース

 東京都に青ヶ島という島がある。たまたま、この島のことを調べていたら面白いページに行き当たった。
 コトの発端は、159回国会の議事。当時の総務大臣のアソ太郎が、青ヶ島と竹島についてハナシをしている。青ヶ島という人口200人を切った小さい村があって、住んでいることが大きな負担に国としてはなっている。でも、竹島に住民がいれば(国に負担をかけても)竹島の問題はなかった。そういうことを判断すべきが大蔵省だったが、財務省に変わって違ってきた。
 原文は何を言いたいかわからないが、こういうことらしい。
 この発言を、こう要約している人がいる
 「同じ過疎の村でも、竹島にあれば意味があるけど、青ヶ島にある村は国に負担をかけてるだけだ。」
 だから、国会議事録が文字化を起こして読めなかった時に、「フロッピー麻生はヒトコトも謝罪せずに、議事録から該当箇所をサクッと削除して、ナニゴトも無かったかのようにトボケやがったのだ。」と判断している。
 もう一人、菅田正昭さんという人は、この発言を「青ヶ島の村は、国に負担をかけてるが、それによって領土問題が起きないという効果もある」と好意的に解釈したらしい。というのも、文字化けの際に、「もし、青ヶ島が天明の噴火の際、八丈島へ避難したまま「還住」しなかったら、青ヶ島以南は、少なくとも《SCAPIN−677》以降、どこの国の領土になっていたか、解らないということを、この「文字化け」は示している。当然、ここには沖ノ鳥島が含まれる。文字化け実行部隊の愛国無罪のハッカー連中(ただし、日本語がわかるようなので獅子身中の虫かもしれない)は、八丈島以南も自国の領土・領海にしようと虎視眈々と狙っているのである。」と判断してるからだ
 そして、この2人は知人同士らしい。

 ともかくも、原文がマトモな「日本語」じゃないから、「とっとこ」じゃない太郎さんがどういう意味で言ったのかは、さっぱりワカラナイし、知人どうしが、全く異なった反応を示しているのが面白いと思った。

 ただ、このように、日本語に不自由で、軽率発言にはことかかない人だし、いずれ外務大臣もクビになるんじゃないかと思う。というか、小泉首相より高齢のポスト小泉ってのはオカシイし、この人じゃ選挙に勝てないのは誰もがわかってるから、クビにするために外務大臣にしたんじゃないかと思う。
 そして、クビになった後、外務大臣に横滑りするのは、田中外相の時と同様、環境大臣か、外務大臣に似合いそうなキャリアの「担当省ナシ」の国務大臣か、そのレースが気になる。

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作成ソフトじゃなくエディターです

 ロジックなテキストの人は、昨日のエントリーへのコメントで、血液型性格論は科学的根拠がないと主張している。しかしちょっと待って欲しい。そう決めつけるには早計に過ぎないか▼血液型にはABO型以外にも様々な種類がある。そして、血液は遺伝情報によって作られ、遺伝情報を持っている。つまりは、血液の違いはDNAの違いなのだ。ということは、人が違えば血液が違い、違う性格を持っている▼血液を作り、中に含まれているDNAが近いということは、例えABO型で違いがあったとしても、近いタイプの血液ということは可能だろう。そして、個人の性格形成で最も影響を受けるのは肉親であることが多いし、親族は似た環境で暮らすことが多い▼血液によって、個人の性格は影響を受けないとしても、遺伝情報が近い人間ほど人格形成に影響を与える要素が共通することが多い。だから、血液の類似を以て性格を判断する材料には充分になる。そうは考えられないのか▼親子や兄弟姉妹の間に性格上の類似点が見られるケースに遭遇した経験を持った人は多いだろう▼ABO型だけについてのみ取り上げている血液型占いはフィクションであり、科学的根拠はないだろう。でも血液型を数億、数十億のレベルで分類した場合にはどうだろう。血液型性格論に科学的根拠がないと教えているロジックなテキストの人に疑問を抱くのは私達だけだろうか?

 「私達」って、おそらくこのblogで最初に使っている。でも「芸」として使っているので「私達って、あんたと誰?」というツッコミはやめてほしい。
 そして、補足しておくと、というより、こっちが本題かも知れないが、血液型の発見は前世紀の初めだった。最初に発見されたのはABO型だ。
 発見された当初は、型があるからには、人間の形質や気質の違いに影響するかもしれないとマジメに研究されたようだ。そして、無関係であることや、血液型にはABO型以外にも種類が多数あることがわかってしまった。それで科学として、血液型と気質の相関について扱うことは終わった。
 さて、現在のような血液型占いが世に出るのは、相撲がきっかけであった。相撲の歴史は野見宿禰に始まるという伝説がある。それで、昔の相撲雑誌に「ノミマサヒコとスクネグループ」という署名のお笑いコーナーがあった。そこで、相撲取りの血液型の違いと取り口をネタにしていたのが、どうも、現在の血液型占いのはじまりのようだ。
 星占いや十二支による占いだと、まず12パターンについて押さえておかないと、ハナシが始まらない。ところが、この血液型占いだと4パターンですむ。とてもわかりやすい。
 とかく世の中にはいろんな人がいるが、より少ないパターンでまとめてしまった方が、アホにはわかりやすい。ということで、最もインスタントな占いとして定着してしまったようだ。
 血液型に多くの種類があることが知られているのに、なぜ、今なお血液型占いではABO型だけを取りあげるのかと言えば、相撲から派生したからだと思う。最初に発見されたABO型だ。だから、「伝統」だということで判断停止したんだろう。

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08/11/2005

作り山伏ツアーしませんか

 世の中には、様々な「物語」がある。「物語」は「事実」と違う。だからと言って「物語」を否定するわけにはいかないし、「物語」には「物語」として付きあえばいい。
 けれども、人によって付きあえる「物語」と付き合いきれない「物語」がある。私もそうだ。だから付き合いきれる範囲でしか「物語」には付きあわない。例えば、占いだ。血液型占いや占星術の話には付きあう。けれども、占いを実生活の根拠とするような人とは、あまり親しくしたくない。
 「仮名手本忠臣蔵」という「物語」がある。作られたのは1748年。モンテスキューが三権分立を説いた「法の精神」を出版した年である。モデルとなった事件は1701〜3年。物語の設定は室町時代初期だから14世紀半ばだろうか。
 1958年に今の天皇が婚約し、翌年に結婚している。1958年にもうひとつ世間が注目した結婚は、歌舞伎界の御曹司と宝塚スターの結婚だ。この2つの結婚話をモデルにお話を作ってみる。皇室と芸能といえば、あるジャンルの雑誌の定番記事だし、売れるかもしれない。けれども、日本国の象徴や国権の最高機関の議長を下手にネタにしにくい。そうだ、戦国時代末期から江戸時代の話にして、秀頼と千姫の話とそれと出雲の阿国が結婚したという話にして作ってしまえ。。。。257年ずらすとこういうことになる。
 歴史の授業では、この「仮名手本忠臣蔵」は、江戸時代中期の文化史の範疇だ。モデルとなった元禄時代の所にも、「この事件は、後に浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。」として出てくるかもしれない。けれども、決して設定の室町時代には出てこない。「物語の内容」と「社会科学」は違うから当然だ。
 さて、私はカトリック系のミッションスクールで中等教育を受けた。生物や地学の授業も、世界史の授業も、宗教の時間もあった。地学の授業では宇宙の歴史について、生物の授業では進化論についての時間があり、科学者達が最も正確だとしている概念に沿った授業が行われた。宗教の時間には創世記についての時間があった。その内容に食い違いがあることに、私を含めた生徒も教員も誰も不思議に思っていなかったように思う。「物語の内容」と「科学」とは別物であり、それによって「物語による主張」が損なわれるものではないということを、理解できていたからだ。
 でも、アメリカでは、この違いを理解できない人たちの勢力がけっこう強く「創造論」などという新しい「物語」を作っているようで、今の大統領の支持基盤のひとつになっているらしい。
 このところ、ニュースや巡回先のblog等で、この「物語」と「科学」、あるいは「物語」と「事実」の混同に関する話題に、よく遭遇する。
 例えば、天皇についての論議だ。天皇の地位は国民の総意に基づく。「総意」というのは「物語」だが、天皇の地位は国民の意思によっているという意味であり、明治憲法の「万世一系」という「物語」の意味とは違う根拠になった。そして、国民の意思は国民の持っている天皇についての「物語」によって形成されるわけである。
 天皇が「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。」と言っても「信頼ト敬愛」の多くの部分は「神話ト伝説」という「物語」に起因してるのだ。
 明治よりも前にも天皇が存在していたのは事実である。ただし、多くの人が持っている天皇についての「物語」は、7世紀に起源を持つものもあるとしても、多くは明治以降に作られたものだ。明治以降に確立したからと言って「物語」を否定するわけではない。重要なのは「物語」の意味なのだ。だから、明治時代に出来た「物語」を、それ以前からあるように装うのは「物語」の価値を貶めるような気がする。日本史を和泉流宗家や竹内文書と同格にしちゃっていいのかと思う。
 「物語」を「事実」や「科学」と混同することも、「物語」の価値を貶めるような気がする。「室町時代初期に、日本に鉄砲はない。だから、定九郎が鉄砲に撃たれるのはおかしいので、矢に撃たれることにしました」などと言い出すと、じゃあ、一力茶屋があるのも変だとかで、結局、「仮名手本忠臣蔵」という物語を否定しないといけなくなる。
 天皇に関しては「皇統」という「物語」が明治時代以降に普及したわけである。「総意」という「物語」の背景にもなっている。ならば、その「物語」の意味するところについて考えればいいように思う。そこにY染色体云々という「物語」の作られた体系にない科学的発見を持ち込むのは、その「物語」を否定する方向にしか行かないように思う。もちろん、この「物語」の意味するところから「物語」が否定されるのはいいと思うが、「物語」を否定したくなさそうな人が、Y染色体云々と言っているのは滑稽だ。陵墓への学術調査が頑なに拒まれていることを知らないのだろうか。
 このような、「物語」と「事実」や「科学」との混同が目に付くのはなぜだろう。これも、「物語」を「事実」と思いたい「勝ち組@元祖」の影響かな、とも思う。

 ここでやっと本題に入る。先日のエントリーの大峰山の一件なのだが、「女人禁制」を維持しようとする地元も、撤廃させようとする「まともな」運動も、私は支持するのだ。
 先日のエントリーは、大峰山の女人禁制自体が主題ではなく、「伝統」に名を借りた「伝統」破壊や、社会の均質性に対する皮肉だ。それで、皮肉だけじゃなく、たまには正常位、じゃなくて、前向きなことも書いておこうと。
 結局、「女人禁制」が「物語」だと理解し、尊重するというのが唯一の解決策だと思う。
 「女人禁制」(当山には、女性差別を助長しかねない規則がありますが、当山の歴史的背景を理解いただき、当時の差別の状況をご理解いただくために、あえて当時の規則のまま、残しております)という、昔に出来た「物語」に付き物の注釈が暗黙の了解になればいいのだ。
 祇園の一力茶屋の門の前で、観光に来た知人に、七段目で由良之助が遊んだのがここね、と説明する。七段目はフィクションだから、モデルの大石内蔵助が遊んだというのも、室町時代という設定の由良之助が遊んだというのは「正しくない」というのは誰でもわかっているが言わない。
 大峰山も「女人禁制」ではあるが、事前に公表しない限りチェックはしていないし、女性が登ることは現実に可能だし、登った人も多い。でも「物語」としての「女人禁制の伝統」は、観光にとって重要な「物語」であり、寺側が撤回しようとしても、地元は賛成しない。
 中世に出来た「物語」に、性同一性障害という当時は知られていない「事実」を遡って持ち込むことも無理だろう。
 ということで、「女人禁制」という規則は維持すればいい。そして、「現実」に女性が登ればいいだけだ。

 誰か、大峰山に登りたい女性はいないだろうか。いれば一緒に行きたい。ただし、修験道の山であるので、「作り山伏」一行となって、登りたいと思う。
 もし、咎められたら、「・・・女性よと怪しめられるるは、おのれが仕業の拙きゆえなり。ムム、思えば憎し、憎し憎し、いで物見せん。」なぞと言って、鞭、、、じゃなくて、金剛杖をおつ取って、さんざんに打擲(ちょうちゃく)されることは、了解いただきたい。

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07/11/2005

そういえば。。。。

 またまた、このblogじゃ珍しくニュースネタだが、違法リフォームで、リフォーム会社「幸輝」の元従業員を2人逮捕し、会社の家宅捜索が行われたとか。
 というのも、整理中のファイルの中に、この会社に関するデータがあったからだ。この会社の専務取締役という高橋俊至氏をはじめとする3人が国際指名手配された時のデータだ。捕まってないようで、今でも手配中だ。
http://www.interpol.int/public/Data/Wanted/Notices/Data/2003/33/2003_52733.asp
http://www.interpol.int/public/Data/Wanted/Notices/Data/2003/30/2003_52730.asp
http://www.interpol.int/public/Data/Wanted/Notices/Data/2003/28/2003_52728.asp
 手配された犯罪に関してのニュースでは、この3人の個人的な犯罪というより、単に実行犯がこの3人という書かれ方だったけど。
 ともかくも、今回の容疑と、3人が手配された当時の容疑は別物なので、同じ会社の人でも、関連づけることは相応しくないと思う。ただ、忘れかけていた事件について思い出しただけである。

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06/11/2005

茶色の展望車(Nゲージ)

042 やっとインレタを購入し、塗り替えた展望車に貼り付けた。歪んでる。他にも標記が入るのだが、インレタが売ってなかった。
 そういうワケで、クリア塗料でのコーティングはしていないが、組み立ててみた。床下の冷房装置を取り去るのを忘れている。

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大峰山への借りは返したい

 大峰山についてである。女人禁制を続けている大峰山への登山を目指す性同一性障害を持つ人らのグループが、結界門前で地元住民約100人と議論したそうである。で、そのメンバーの女性ら3人が登山を強行したらしい。
 結論から言えば、大峰山は女人禁制でいいと思う。
 もちろん、女人禁制を維持する合理的な根拠はないと思う。修験道の聖地であり、1000年以上前の修験道の考え方の上から女人禁制としたのだろう。宗教的な理由だから、その寺の境内なり、信徒の土地であるなら、どんなルールを設けようが勝手だ。登山道が修験道によって造られたのなら、その道を使用を禁じるのも合理的だ。
 しかし問題は、大峰山には、修験道と無縁な登山客も自由に出入りしており、さらにはパブリックな空間もあるということだ。だから、いくら修験道の聖地であるとしても、それは修験道が決めたことであり、修験道に無縁な人にまで、パブリックな空間への立ち入りを指図することはおかしいのだ。修験道の人たちが大峰山寺への立ち入りを禁じることはできても、パブリックな空間による登山自体を禁じるのは合理的ではない。
 登山を目指す人たちもそれはわかっている。だからこそ、イヤミとしかいいようのない、合理的に回答が出来ないような質問をするわけだ。
 にも関わらず女人禁制でいいと思うのは、日本の社会は修験道に対して贖罪すべきであるからだ。
 日本の宗教の伝統の最大の破壊者は明治政府だった。国家神道という新興宗教をでっち上げ、邪魔者は破壊しようとした。廃仏毀釈もその過程で起こったものだ。そして、最も破壊されようとしたのは修験道だった。修験道は、古来の山岳信仰に仏教、さらに道教や陰陽道などが集合して成立したものである。
 明治時代にでっちあげられた国家神道にとって、よほど日本の伝統的な宗教観は邪魔であったのか、修験道を破壊しようとし、修験道の寺は強制的に「神社」にされていった。
 だから、大峰山の頑なさには、時代や社会に対する警戒心というかトラウマのようなものを感じる。はたして、修験道の人たちや信徒達がそのことを意識しているのかはわからない。ひょっとしたら、信徒の中には、修験道を破壊しようとした国家神道の残党である神社に身内が合祀されていることに平気な人がいるかも知れない。
 でも、時代や社会というものが、修験道を破壊しようとした歴史があるのだから、その贖罪の意味で、時代や社会に無縁である場所を、時代や社会が修験道のために提供してもいいと思う。リクツではなくて礼儀としてだ。それで不利益を被る人がいるわけではないし、「普通じゃない」場を確保しておくことが、全てのパブリックな場を「普通」にしてしまうより健全なような気がする。その「普通じゃない」ことを担保する理由として、かつての誤った「普通」の被害者であることは適切なものだと思う。
 だから大峰山には、パブリックな空間を含め、修験道だけの論理を認めてもいいと思うのだ。女性で修験道の修行をしたい人とかもいるかも知れない。ならば、修験道内部での教義上の問題として女人禁制について論議すればいいと思う。女人以前に「時代や社会の論理」や「普通」を入山禁止にしてもいいと思う。
 なお、個人的には女人以外に入山を禁じた方がいいと思う連中がいる。修験道を破壊しようとした国家神道のでっち上げた新興宗教に、社会を代表する役職にありながら、今なお参拝するような連中だ。

追記
 なお、「女人禁制」を撤廃しようとする時代や社会の動きとして最大のものは、明治初期の太政官布告であり、もちろん、修験道を破壊しようとする目的だった。
 どのような正当な論理からであっても、「女人禁制」の撤廃の要求が、同じ目的に受け取られても不思議はないと思う。包丁で殺されかけた人は、料理人が使う包丁にさえ恐怖を覚えて当然だ。

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真夜中の弥次さん喜多さん

img012 最近、「真夜中の助さん格さん」というフレーズがやたらに脳内に去来する。このエントリーのせいだが。
 それで、本来の「真夜中の弥次さん喜多さん」であるが、「おらぁロココだ」や「ヒゲのOL」当時はファンだったしりあがり寿原作ということで観てみた。
 たまたまだが、この前のエントリーの「CASSHERN」と同じく、監督初体験の人が作ったそうだ。ただし、音楽のオマケを作っていた人ではなく、独立した作品の現場にいた人なので、食玩のラムネ菓子とレストランでのデザートの自家製菓子を一緒にするくらい失礼かも知れない。
 それで、底が知れてる「CASSHERN」に対し、底が抜けてるという感じ。理解はし難い、というか理解しようとしてもいけないんだろうが、観ていて素直に楽しめた。
  中村七之助が凄い。本当に危ない人に見える。いや本当に危ない人なのかも知れないけど、違う意味での危ない人に見える。対して、長瀬智也の芝居が寒い。もちろん下手なわけではなく、空回り気味の演技がむしろはまっているから、そうしているのだろう。
 オープニングはモノクロ、そしてカラーの画面に変わる。ベタといえばベタなんだが、こういう自然な展開の安心感で、シュールな話にすんなり導入できる。
 誰が言ったか忘れたが、ディテールに神は宿るらしい。リクツにあわなければ、ドラマティックでもないハナシを長時間観るのはツライはずだが、それが苦にならないのは各所のディテールだろう。ディテールの飛躍や仕掛けがけっこう楽しくて飽きさせない。弥次さん喜多さんのヘルメットのデザインとかも、なるほどって思ってしまう。そして、岡っ引きに捕まっても、逆らってる七之助に、これっていつの撮影なんだろうと思ったり、とか、くっだらねぇというディテールが楽しいのだ。個人的にはなぜか象の眉毛とか、サイババとかくだらない台詞に受けてしまった。
 魂の宿のCGは凄いと思った。CGであるのは確かだ。けれども実写をベースにコンピューターで処理しているわけで、その実写部分の現場での荒川良々がどうしていたのか簡単には想像し難い。CGであることを売り物にするんではなく、CGの効果を使う。これが本当なんだと思う。
 ホモのヤク中の幻影というと敬遠する人がいるかも知れないが、腐女子でなくても観て損はないと思う。

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棚おろし中

img011 ハードディスクの整理中だ。で、書きかけエントリーとかも、とりあえずまとめて、アップしているので、更新頻度が少ないこのblogであるが、エントリーが多くなっている。
 中には旬を大きく外れたネタもある。DVDを観まくってるワケでもないのだが、そういう理由で、エントリーがいつもより多い。
 なお、画像は、昨年に見かけたボーダーを撮ったもので、画像ファイル整理中に見つけたもの。このエントリー内容とは無関係だし、私じゃありません。

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予備知識が欲しい

 たまにDVDの感想なぞを書いている。たぶん、演劇の方がまともな「評」を書けると思うのだが、それだけに気軽に書きにくい。それで、小学生の感想文という感じで、DVDの感想を書いている。
 感想文だし、まず、どう感じたかが出発点である。ただ「面白い」「つまんない」と書くだけでは、いくら羞恥プレィblogでも、世間に公開している以上、無責任すぎるので、なぜ、そう感じたかを説明しているだけである。
 ところがである。私は映画に関しての知識が極めて乏しい。
 スポーツならルールを知らないと鑑賞ができない。ところが、演劇や映画というのは、そういう予備知識は無用である。例えば、歌舞伎座であまり楽しそうな顔をせずに観ている人というのは、イヤホーンで解説と称するものを聞いている人だ。
 だから、DVDに関しても、予備知識が乏しくても感想文が書けるのだが、この「CASSHERN」に関しては、予備知識なしに、どう感じたかを書くのが難しいのだ。
img010 専門学校の映像学科の子の卒業制作みたいなのだ。何か勉強したネタを消化せずに羅列したという感じ。だけど、ネタについての知識がないので、具体的に書きにくい。それで今まで書かずにいた。
 どう感じたかと言えば「退屈なだけ」。一昔前のソ連や東欧のアニメとかにありそうな「退屈さ」である。「退屈さ」が悪いわけではない、むしろ退屈さが心地よい時もある。例にあげた東欧アニメだと「退屈さ」の中で、「気分」を作っていってメッセージを感じさせるのだが、この「CASSHERN」の場合、その「退屈さ」とは無関係に唐突に「生」のメッセージを叫んだりで、「退屈さ」の積極的な意味を感じさせない。このあたりも、昔の東欧アニメについての知識がないので、具体的に書きにくい。
 作りとしては、大戦間に作られたSF映画という体裁になっている。1920・30年代だ。宮崎アニメとかでも、この時代の雰囲気がよく素材になっている。でも違うのは、この「CASSHERN」では、絵面だけでなく、構成手法でも、この時代の映画の作りをモチーフにしているところ。でも、何か、独自のスタイルがないので借りて来ましたって感じで、この時代を現代に消化したという感じがしない。何か薄っぺらいのだ。例えるなら、南海電車の空港特急だ。
 南海電車の空港特急も、やはり大戦間の鉄道車輌をモチーフにしているんだろうけど、畑違いの、いわば素人のデザインで、なぜ今更という感じで、どことなく間が抜けた不細工な格好だ。
 同じような、未消化感というか、上っ面感が、ビジュアルや構成手法の両方に感じてしまうのだが、やはり大戦間のデザインやこの時代の映画に関しての知識がないので、具体的には、書きにくい。
 物語は、新造がどうの、死んだはずだよ、生きていたとは。。。とか「与話情浮名横櫛」じゃないが、ともかくもキャシャーンが出てこなけりゃ、もっと整理できたのに。。。ということで、原作はむしろ不要だったのでは、と思うハナシだ。
 かように「上っ面だけの退屈な映画」と感じたものの、それを具体的に説明できないという厄介な問題があって、感想を書いてなかったのだが、こうして書いておけば、大戦間のデザインや映画、その系統を引く東欧アニメに詳しい人が、この感覚がなぜか、具体的に説明してくれるかも知れない。そう思って書くことにした。
 その意味で、感想を述べるには予備知識の欲しい映画だ。おそらく観ている時も、あ、これはあのネタだとツッコミが入れられて、退屈せずにすんだかも知れない。

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05/11/2005

ボツネタ

 ここ2年ほど、やっていた「内職」で、結局、ボリューム的にも内容的にも問題ありで原稿にはしなかったが、途中まで調べたことがある。他に使い途もないので、調べた過程でも書いておく。
img007 元々の出発点は、世界中で鳩を食べるのに、なぜ日本じゃ、あまり食べないのかという疑問だった。
 ところが、鳩だけではない。世界中で食べられて、日本に豊富にいるのに、なぜか、あまり食べられない食材が他にもいた。それがカエルなのだ。
 日本で最初にカレーが紹介されたのは、明治の初期の1872年、「西洋料理通」と「西洋料理指南」というレシピ集だそうだ。そのうち「西洋料理指南」では具材として、鶏、海老、鯛、牡蛎、赤蛙など。。。をあげている。この頃は、蛙というのは食材として一般的だったんだろうか。
img008 さて、「アカガエル」である。厳密に言うと「アカガエル」という種はいない。「ニホンアカガエル」「ヤマアカガエル」「タゴガエル」などを総称して「アカガエル」と言っている。
 さらには、カエルの分類上「アカガエル科」に属するカエルがいる。学名が「Rana 何ちゃら」なので、「ラナ」族という呼び方もする。この「ラナ」だが、いわゆるアカガエルの他、ツチガエル、トノサマガエル、ウシガエルも、この「ラナ」一族に属している。カエルらしいカエルの一族なのだ。
 さて、カエルはフランス料理では「グルヌイユ」、中華料理では「田鶏」と、世界的にも一般的な食材なのだ。
 食べるカエルというと「食用蛙」という別名で知られるウシガエルがいるが、北アメリカ東部の原産だ。ロッキー山麓男声合唱団、マウントロッキーのフロッグコーラス、んもうーん、んもーん。なのだ。それが世界に移出されて広がっている。日本には1918年に移入され、さらに戦後になって飼育されていたものが逃げ出し、各地で自然繁殖している。さらには、このウシガエルの餌として移入されたアメリカザリガニも放棄されたり逃げ出したりで、ウシガエル以上に日本の各地で繁殖しているのだ。
 だから、明治時代のレシピにウシガエルが載るはずもなければ、「グルヌイユ」や「田鶏」も、ウシガエルではなかったはずである。
 では、どんなカエルなのか。
 調べてみると、グルヌイユで高級品とされるのが、グルヌイユ・ベルトだという記述があった。「Grenouille verte」、日本語にすれば「緑のカエル」である。つまり「青蛙」だ。
 グーグルのイメージ検索してみると、「緑の蛙」のアカメアマガエルも混じってはいるが、水辺に棲むカエルで、背中の中央に色の薄い線、両側に隆起があり、身体中に斑点があって、日本のトノサマガエルよく似たカエルが出てくる。どうも、Rana esculenta、 Rana lessonae、 Rana ridibundaがグルヌイユ・ベルトの宗家らしい。
 日本で「アオガエル」というと、指に吸盤がある樹上性のカエルである。でも、フランスのグルヌイユ・ベルトは、トノサマガエルに似た「ラナ」一族のカエルのようである。
 さて、「田鶏」である。同じようにイメージ検索しても、ウシガエルしか出てこない。中国でも、近年はウシガエルが移入されているようだからだが、本来の田鶏は違う種類のはずだ。そこで日本語のページしか出てこないことで、気が付いた。田か鶏かが日本独自の字なんだと。で、「田鷄」調べた結果も似たようなものだが、ここで「鷄」の簡体字が「鸡」だとわかったので、再度、「田鸡」でイメージ検索、やっぱり生ガエルが出てこない。
 ともかくも、調べていると、浙江大学生物活性物質研究中心での「石蛙」の人口養殖というページを発見した。「石蛙」別名「石鸡」は中国南方諸省の深山密林の渓流に住んでいるらしい。で、中国最大の食用蛙で、中国人民が食用にした歴史は悠久らしい。ただし、最近では中国の肉用の蛙の生産のメインは牛蛙(アメリカのカエル?)になっているけど、肉の率や品質、味は「石蛙」に及ばないとか。それで石蛙の天然種は希少であり、人口養殖に成功したそうな。
 ともかくも、この「石蛙」は「棘胸蛙」とも言うらしく、学名は「Paa spinosa」で「ラナ」一族らしい。でも、学名は「Rana」ちゃいまんねん「Paa」でんねん。
 もう一種、トラフガエルというのも食用にしたらしい。ただし、今では国家二級保護動物で、広東省のレストランに1400匹を出荷した湖南省の人が懲役十一年になったとか。やはり、「Rana tigerina」で「ラナ」一族である。イメージ検索すると、日本のツチガエルに似ている。中国南部からインドに生息しているようだ。
 さて、どうも「田鶏」の本場は広東省らしい。で、ついに、広東省野生動植物保護管理弁公室のサイトで、「別名:田鸡」の画像を発見した。「別名:田鸡」がテキストでなくイメージなのだ。検索で発見できないはずだ。
img009 「黒斑蛙」である。何、「黒斑」? ケロリストならピンと来る。学名が「Rana nigromaculata」。何のことはない、日本にもいるトノサマガエルなのだ。
 結局、「グルヌイユ」も「田鶏」も、トノサマガエルそっくりか、そのものだったわけだ。
 さて、「田鶏」を調べていて気になったのは、中国の食用蛙が「ウシガエルではなく、アカガエルの一種で田鶏と言う」という内容の記述が方々で見られること。ここでの「アカガエル」が何か不明なのである。
 「ラナ」一族であるとするなら、ウシガエルも属するわけだから、元々「ウシガエルではないアカガエルの数種」であったが、今ではウシガエルも「美国大青蛙」として含んでいる。日本で一般に言う「アカガエル」の概念なら、田鶏のトノサマガエルも石蛙も虎斑蛙も除外される。
 ということで、結論である。
・「グルヌイユ」も「田鶏」も特定の種ではなく、トノサマガエルに近い「ラナ」一族らしい。
・たぶん、ウシガエルよりも、トノサマガエルの方が美味い。

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パッチギ

img006 不良少年がケンカするというハナシは嫌いだ。それで敬遠していたのだが、つい魔がさしたのか見てしまった。
 プロが作った映画なんだなと思った。うまいのだ。そんなに達者とは思えない主役達に対して、いろんな濃い俳優が絡んでいく。まず、笑福亭松之助での掴み、中盤のケンドー・コバヤシやキムラ緑子、そして、出番は少ないけど長原成樹や笹野高志とか、観客を引き込む釣り針を巧に忍ばせて、出町の三角州の乱闘とラジオ局と出産がオーバーラップするクライマックスシーンに盛り上げていく。この3つの全く異質ではあるが、「暴力」と「音楽」と「赤ん坊」というリクツじゃなくて感情を直接揺さぶる要素を盛り込むという作り方自体が暴力的かもしれない。でも、過剰じゃない。文字通りの「暴力的」なシーンは多いのだが、どこか脱力感があって、生々しくない。
 さて、1968年のハナシである。冒頭の駐車場のシーン。ひっくり返されるバスは1980年代の日野自動車のバスだ。後方には、やはり1980年代の富士重工のバスが写っている。そして、1950年代の∞型のフロントグリルのクラウンが並んでいる。別に、どうでもいいことだ。けれども、かように1968年の風景というのは簡単には再現できないのだ。京大西部講堂の前でも、九条の陸橋でも市電がなければいけないし、鴨川の堤防のシーンでは京阪電車の線路がなきゃいけない。それこそ莫大な美術費をかけたりCGを駆使しないと再現できないほど「遠い昔」のハナシなのだ。でも、今の風景に看板を付け替えただけでも、充分にリアリティがある。この、時代への距離感のゆらぎというか、現在と全く別の時代なのか続いているのか、よくワカランという微妙な過去なのだ。そのわかりにくさの使い方がとてもうまいと思うし、それが、つい、いろんなことを考えさせる。
 主役の在日朝鮮人の少年の目標は、「祖国に帰って、サッカー・ワールドカップに出る」ことだ。今の視点の観客は、祖国に帰っても、どんな過酷な目に遭うか、なんてことが言える。でも、もうひとつ突っ込んで言えば、ワールドカップに出るというのは、今の観客でないと理解できない目標なのだ。当時の普通の日本人は、日本のサッカーは世界で3番目だと思っていて、ワールドカップなんて、在日朝鮮人とよほどのサッカーファンしか知らなかったはずだ。当時と今、前者での違いは簡単にわかる。でも、後者の違いには気付きにくい。そういう微妙な距離感のある時代なのだ。
 昨今流行の「玉蹴りナショナリズム」への皮肉のつもりでもなく、単なる偶然なんだろうけど、この時代への距離感のゆらぎによって、見る人によって、いろんなメッセージを感じ取ることが出来ると思う。それは、生のメッセージを俳優に喋らせるような素人監督と、プロの映画監督の大きな違いだと思う。ラジオ局のディレクターのベタな台詞もあるが、あくまで、本筋とは別のメッセージだし。
 最後はハッピーエンドなんだが、何組かのカップルが描かれている。「祖国に帰って、サッカー・ワールドカップに出る」目標を、子供が生まれたのであきらめた在日朝鮮人の少年も、結局、その方がシアワセなんだと今なら誰もが思う。在日日本人の方の主役の毛沢東にかぶれていた教師が、サンドイッチマンになっている。でもロシア人ストリッパーと結ばれてとてもシアワセそうだ。
 どんなメッセージを受け取るか、人それぞれなんだろうけども、他人のアタマで行動するよりも、自分のココロというか下半身に正直に行動した人がシアワセになっていることを描いているのだけは確かだ。

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今日は298円

 モロッコのタコ、ノルゥエーの鯖、マダガスカル沖のマグロ。。。なんてのは、ブッシュ乱心で高くなったりするが、そう値段が変わるもんではない。けれども、近海ものの場合、スポット的に大量入荷してて、目玉商品になってるってことがある。
img002 先日、はまち1尾150円で売ってた店で、今日は、もう一回り大きいのが1尾298円だった。3枚におろすとプラス30円、皮引きまでだとプラス40円と、そっちの手間も少し高く設定してある。先日は、迷った末、面倒なので、皮引きまで頼んだのだが、一回、楽しちゃうと、それがナライになっちゃうようで、よくないな。
img003 ということで、この状態で338円ということになる。
 ワンパターンだけど、今回も片身は刺身。
img004 もう片身は、適当に切って、日本酒と粉末昆布とスライス生姜に漬ける。生姜を包丁で刻まず、ピーラーで皮を剥いて、そのままスライスというのが不精だ。
img005 そして、大根と煮てみました。
 容量に余裕があるからって、こんな画像、載せることもないのだが。。。。

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04/11/2005

1時間ちょっとのプロレス的文脈

 レーザーラモンHGがプロレスデビューしたそうだ。インリン様相手に初舞台とは思えないほど見事な試合を見せたらしい。
 その前座で、和泉元彌もプロレス・デビューをはたしたそうな。恥ずかしながらプロレスはあまり見たことがない。数少ない経験から言えば、かなりの技術が必要な芸で、元彌には出来るのだろうかと思っていたのだが、相手役がプロフェッショナルで、ちゃんと自爆してくれたそうだ。
 元彌ちゃんを(生)暖かく見守っているロジックなテキストでは、試合そのものよりも元彌ちゃんが「プロレス的文脈」に組み込まれてしまうことについて、心配しているようである。
 今回の試合の結果というか、試合が組まれたことで、「和泉流宗家」というのは、「ハード・ゲイ」や「エロテロリズム」の前座程度のものだということを、世間に認知させる効果があったようで、ロジックなテキストでは、それを心配されているようだ。私としては、それが芸相応の評価だろうと思っているけど。
 私が、プロレスという芸能を評価しつつも、プロレスにあまり興味がないのは、この「プロレス的文脈」に馴染めないということがある。お笑いにしても「借金」をはじめとするサイドストーリーを背負うタレントは多いのだが、プロレスのそれって、あまりに「お約束」が過ぎる気がするのだ。つまり、大スポ(東スポ・九スポ)的ニュースを「事実」とすることが、プロレス的文脈を理解する出発点なんだろうけど、どうも「事実」とするには、構成に精緻さが足らないような気がする。つまり、フィクションとしての体系が荒っぽくて、日常的につきあいきれないのだ。


img001 でも、1・2時間なら、プロレス的文脈というのは楽しめる。「ああ!一軒家プロレス」というのは、そういうDVDだった。
 つまり、一人のプロレスラーが、難病に苦しむ愛する妻のために、その妹とともに、あえて邪道のマッチに挑み、勝利を得るという感動作。。。ただしプロレス的文脈で。。。という話だ。
 身体を作るのに無理したんだろうか、早死にしたプロレスラーの橋本真也という人が出ている。台詞芝居は下手だけど、それがかえっていい。そのウソ臭さが、ストーリーのウソ臭さとか、人魚病という病気のウソ臭さにピッタリはまっていていい。佐野史郎の普通の芝居がかえって不自然に思えて浮いていた。
 中で、唐突に出てくるのが、幸若(たぶん)を舞う人。この役、元彌ちゃんにやらせたかったが、たぶん無理だろうな。

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03/11/2005

0.37%

 ココログの容量が2,000メガバイトになったそうだ。で、ここの場合、「ご利用中のディスク容量」が7.41406 メガバイト (0.37%)だそうだ。1%にも達していない。
 まず、エントリーが少ない。元彌ちゃんが「習った」曲数よりちょっと多い程度。そして、容量を食う画像が少ない。クリックして大きな画像が表示される場合、大きな画像は別サイトに収納している。これは、容量節約というよりも、貯まったとこで単独のページにしちゃったからのせいだ。
 そして、画像だけれども、001.jpgからの通し番号を付けている。999枚はアップできるはずだ。そして099.jpgの次は100.jpgになるはずだが、同じディレクトリにやたら枚数が入るのも嫌なので、別のディレクトリを作り、また001jpgから始めた。そして現在、099.jpgに達している。198枚しか使ってないわけだ。
 さて、1%にも達していないなら、もうちょい、しょーもない画像を貼りまくろうかな。

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01/11/2005

C12も加工(Nゲージ)

040 特急牽引機の加工をしてわかったのが、マイクロエースの蒸気機関車もちょっとした加工で車高を下げるとそこそこサマになること。
 それで、スハニ35繋がりというわけではないが、お出かけが中止になってヒマだし、雨が降ってて塗装作業はできないしで、マイクロエースの似てない機関車の代表格のC12も加工してみた。
 車高を下げるのには、C51やC59はランボードと一体のボディを下げ、C62やC53は主にランボードの上でボイラーの位置を下げたが、このC12の場合は乗務員室の屋根を下げるというパターンにした。
 屋根と一緒に、乗務員室前後の妻板や炭庫も一体のまま下げている。それで、ツジツマがあわなくなるボイラーは楕円形の断面にするわけにもいかず、パイプに交換。スケール通りだと直径8.8mmだが、中村精密のNのC12が直径10mmで、それなりにまとまっていたのと、9.5mm径のパイプが手元にあったので、それを使用。
 主要部を組んでみたが、やっぱり、まだ背が高い。でも、屋根を低くしてボイラーを細くするだけのことで、かなり似てくるようだ。
041 まだ、背の高さが気になったので、乗務員室より後ろを、裾を少し削って、若干下げてみた。あまり変わらない。

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