« 修羅雪姫 | Accueil | 鞍 鐵 »

28/11/2005

プライド

img022 昨今、何かと話題になっている「A級戦犯」、つまり「a項違反の戦争犯罪人」についての映画だ。スポンサーが東日本ハウスということであり、東条英機を美化した、単なるプロパガンダ映画と思われている。
 なので、どういう風に美化してるんだろうと思って見てみた。ところがである、プロの監督なのだ。スポンサーのお気に召すまま作っているというわけじゃなさそうなのだ。
 まず、最初の方で東条がインタビューを受けるシーン。マッカーサーを「部下を置き去りにして逃げたのは軍人として感心せん」と評価する。このシーンは何のためなんだろう。普通なら、一方の司令官をこう評したら、もう一方、つまり東条はどうなんだ、と誰でも思うだろう。
 日本軍の戦死者は「殺された」人数に対して、餓死、病死、自殺が非常に多い。いわば、補給も考えない無謀な作戦、戦況が明かなのにズルズルと戦争を継続、そして、生きて虜囚の辱め受けずの戦陣訓と、部下を置き去りにするどころか殺したのが東条というのは、映画で描かれなくても多くの観客は知っている。
 そして、裁判シーンを前にして、烏丸せつ子の切腹シーンがある。ピストル自殺に失敗した東条の前で戦争未亡人が切腹する。このシーンは東条の無能と無責任を告発するためのものだろう。
 続いて、東条と重光との会話。フィリッピン、インドネシア、マレーを独立させるんだ、なんて会話が出てくる。スポンサーはアジア解放の戦争だったと主張してると喜ぶかも知れない。でも、ここに韓国は出てこないし、後のシーンで溥儀が出てくることで、東条の言う「独立」が何だったのかが、何も考えずに観ているんじゃなきゃ思いあたるわけである。
 そして、罪状認否で無罪を主張するように言われた際の東条の台詞。「犯罪者じゃなくて、責任者だ。」
 裁判シーンに移る前に、こういうシーンがあるわけだから、東条の責任というものを踏まえて、東条の台詞を聞くことになる。
 裁判のシーンは、基本的には、スポンサーの意向に添ったものだろう。勝者が敗者を裁く不当性のみを強調しているし、戦争の相手を殺すことは「犯罪」にならないと、ことさら主張している。
 多くの俳優が抑制された演技をする中で、キーナン検事と東条はことさらに大げさな演技をしており浮いている、つまり、戯画化して描かれている。勝者の代表としての役割で東条を告発するキーナン検事を戯画化している。一方、烏丸せつ子の映像が入って来て、東条が相手国への犯罪者でないとしても、自国民を殺した責任者であることを思い出させるシーンでは東条に歌舞伎風の隈まで入る。歌舞伎の様式の中では隈取りはヒーローであっても、写実的な映像の中ではギャグである。権力者であることを戯画化しているわけだ。
 東条の台詞ではナチと同一視することに反発している。そうだろう。ナチは少なくともドイツ人まで組織的に殺していない。一緒にしちゃいけない。
 そして、東条が自己矛盾に陥る。戦争犯罪の責任がないと主張するなら、天皇に責任があることになると聞くと、泣き出すのだ。犯罪を否定し、自分の責任を肯定していたのだから、その主張の延長上に、天皇には犯罪も責任もないことになる。ところが、ここで、犯罪と責任について、完全に混乱した東条が描かれる。
 この映画はフィクションだ。けれども事実を元にしたフィクションだ。そして、争うこともなく認定されている事実を踏まえて観れば、東条を美化するように描きつつ、演出的には、東条の自国民に対する犯罪を告発しているとしか思えない。相手国への犯罪ではないという主張も、自国民への犯罪行為を浮かび上がらせる役割をはたしているのだ。
 裁判で東条は自衛のための戦争を強調する。もちろん連合国側も自衛のための戦争という名目だ。国際法というか不戦条約では自衛のための戦争は犯罪でないからだ。つまり、常に戦争は互いが「自衛」という名目を掲げて行われるわけである。
 そして、東条は何を自衛するつもりだったのか。国民を消耗させたのだから国民であるはずはない。戦略もなく、ピストルも使えないが、数字の暗記やチマチマと文を書くのは得意なだけの軍官僚の「プライド」だったのだろうか。正体のない「自衛」の欺瞞も描かれている。
 占領軍の権力による裁判を否定的に描いているという体裁をとっている。いくら、判決や手続きを否定しても日本はそれを受け入れており、国際的にも確定しているわけだし、裁判で明らかにされたことは、なかったことにはできない。それよりも、結局、裁かれることのなかった東条の日本人に対する「権力犯罪」を改めて告発した映画としか思えない。いわば、権力というものの醜さを描いているのだ。
 このような裁判の経過と併行して、インド独立やインド人のパール判事のエピソードが挿入される。スポンサーは無罪を主張したからパール判事のエピソードを入れたと思い、喜んだのだろう。けれども、映画では裁判に対して無力であったということを強調し、戯画化した元権力者や新権力者に対比する役割を与えて、好意的に描いている。
 映画でも演劇でも、プロなら、生の台詞に主張を込めるなどということはしない。観客に考えて貰うものだ。極東軍事裁判の不当性を描くという名目でスポンサーに金を出させて、観客には権力というものの犯罪性を告発するというアクロバットを見せてくれる映画だった。
 表面的なプロパガンダに共鳴したり、反発するだけじゃなく、自分のアタマを頼りに観るべき映画だ。

|

« 修羅雪姫 | Accueil | 鞍 鐵 »

Commentaires

Poster un commentaire



(Ne sera pas visible avec le commentaire.)




TrackBack

URL TrackBack de cette note:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23135/7356677

Voici les sites qui parlent de プライド:

« 修羅雪姫 | Accueil | 鞍 鐵 »