パッチギ
不良少年がケンカするというハナシは嫌いだ。それで敬遠していたのだが、つい魔がさしたのか見てしまった。
プロが作った映画なんだなと思った。うまいのだ。そんなに達者とは思えない主役達に対して、いろんな濃い俳優が絡んでいく。まず、笑福亭松之助での掴み、中盤のケンドー・コバヤシやキムラ緑子、そして、出番は少ないけど長原成樹や笹野高志とか、観客を引き込む釣り針を巧に忍ばせて、出町の三角州の乱闘とラジオ局と出産がオーバーラップするクライマックスシーンに盛り上げていく。この3つの全く異質ではあるが、「暴力」と「音楽」と「赤ん坊」というリクツじゃなくて感情を直接揺さぶる要素を盛り込むという作り方自体が暴力的かもしれない。でも、過剰じゃない。文字通りの「暴力的」なシーンは多いのだが、どこか脱力感があって、生々しくない。
さて、1968年のハナシである。冒頭の駐車場のシーン。ひっくり返されるバスは1980年代の日野自動車のバスだ。後方には、やはり1980年代の富士重工のバスが写っている。そして、1950年代の∞型のフロントグリルのクラウンが並んでいる。別に、どうでもいいことだ。けれども、かように1968年の風景というのは簡単には再現できないのだ。京大西部講堂の前でも、九条の陸橋でも市電がなければいけないし、鴨川の堤防のシーンでは京阪電車の線路がなきゃいけない。それこそ莫大な美術費をかけたりCGを駆使しないと再現できないほど「遠い昔」のハナシなのだ。でも、今の風景に看板を付け替えただけでも、充分にリアリティがある。この、時代への距離感のゆらぎというか、現在と全く別の時代なのか続いているのか、よくワカランという微妙な過去なのだ。そのわかりにくさの使い方がとてもうまいと思うし、それが、つい、いろんなことを考えさせる。
主役の在日朝鮮人の少年の目標は、「祖国に帰って、サッカー・ワールドカップに出る」ことだ。今の視点の観客は、祖国に帰っても、どんな過酷な目に遭うか、なんてことが言える。でも、もうひとつ突っ込んで言えば、ワールドカップに出るというのは、今の観客でないと理解できない目標なのだ。当時の普通の日本人は、日本のサッカーは世界で3番目だと思っていて、ワールドカップなんて、在日朝鮮人とよほどのサッカーファンしか知らなかったはずだ。当時と今、前者での違いは簡単にわかる。でも、後者の違いには気付きにくい。そういう微妙な距離感のある時代なのだ。
昨今流行の「玉蹴りナショナリズム」への皮肉のつもりでもなく、単なる偶然なんだろうけど、この時代への距離感のゆらぎによって、見る人によって、いろんなメッセージを感じ取ることが出来ると思う。それは、生のメッセージを俳優に喋らせるような素人監督と、プロの映画監督の大きな違いだと思う。ラジオ局のディレクターのベタな台詞もあるが、あくまで、本筋とは別のメッセージだし。
最後はハッピーエンドなんだが、何組かのカップルが描かれている。「祖国に帰って、サッカー・ワールドカップに出る」目標を、子供が生まれたのであきらめた在日朝鮮人の少年も、結局、その方がシアワセなんだと今なら誰もが思う。在日日本人の方の主役の毛沢東にかぶれていた教師が、サンドイッチマンになっている。でもロシア人ストリッパーと結ばれてとてもシアワセそうだ。
どんなメッセージを受け取るか、人それぞれなんだろうけども、他人のアタマで行動するよりも、自分のココロというか下半身に正直に行動した人がシアワセになっていることを描いているのだけは確かだ。
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