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30/12/2005

E=Mc^2

 E=Mc^2、有名な式だ。最初に知った時には、そう衝撃でもなかった。それまで、質量は質量、エネルギーはエネルギーと思っていたのだから、本当なら衝撃的なはずなんだけど。おそらく、この式が「実感できる」ものじゃなかったからだ。

 さて、唐突に歌の話である。「お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜や」という歌詞があったとする。この歌で「あ」と「ほ」の音の周波数の比は一定じゃなくてはいけない。つまり、「あ」と「ほ」の音程は一定なのだ。最初の「お」の音の高さ、つまり周波数を自由に決めるのはいい。けれども、「お」が決まれば、「や」に至るまでの音の高さは決まってしまうものだ。歌というものは、そういうものだと思いこんでいた。
 ところが、浄瑠璃とか「語りもの」の日本音楽を聴いていると、「あ」と「ほ」の音の周波数の比、つまり音程は一定じゃなくてもいいようなのだ。でも、全く勝手というわけではない。音程が変わるのと同じ効果を得られるように、音量やテンポを変えなくちゃいけないらしい。
 単純化してしまうと、「あ」に対して「ほ」を高い音にする代わりに、「ほ」の音程を下げ、音量を上げるという感じである。
 それまで、歌においては、音の高さ、大きさ、長さと間隔というのものは「別物」だと思っていたのが、音の大きさを強さに替えてもいい歌があるらしい。そう感じただけで、ホントかどうかは知らないが、それに気付いた時は、けっこう衝撃的だった。質量がエネルギーに変わるよりは、実感できたし。
 じゃあ、その変換式は、というとワカラナイのだが。

 私が昔に、歌とはそういうもんだと思っていたリクツはヨーロッパ伝来の歌のリクツだ。そのリクツでは、周波数が2倍になる間のうち12の音しか使わずに歌うようなのだ。無限にある周波数のうち、なぜ12だけかというと、複数の周波数を合成した場合の聞こえ方が、周波数比が単純な方が、ヒビキというのがいいかららしい。それだけじゃなく、いろんなリクツがあるんだろうけど、そういうリクツの結果、ヒトリで伴奏無しで歌っても音程というのは歌の基礎なのだ。
 日本の楽器でも、このヒビキのリクツは三味線の調子とかに見られる。ところが、浄瑠璃の場合など、三味線に「つかず離れず」なんて言う。日本の歌にどういうリクツがあるか知らないのだが、ヨーロッパ伝来の音楽でとても大事なヒビキやメロディとは別のものを大事にするリクツがあるようで、その結果、音程が決まっているわけじゃないという歌もあるようなのだ。

 今、日本の昔からの歌を聴いてもいいと思うものは多いし、ヨーロッパ伝来の歌もいいと思うものが多い。中国や中近東の歌でもいいなと思うことがある。そういう古くからの歌だけじゃなくて、最近の歌でもいいと思うものはある。それぞれの歌にどういうリクツがあるのかわからないのだが。
 けれども、明治に、日本にヨーロッパ音楽が入ってきた時には、「うまく」取り込むのは簡単じゃなかったような気がする。
 この時期から出来た歌というのは、何か貧粗な感じがして、聴く気にならないのだ。唱歌、軍歌、歌謡曲の類だ。きっと、日本の音楽とヨーロッパの音楽のそれぞれのリクツを整合させるような「統一理論」が作れなかったからじゃないのかと思う。それとは逆に、日本の歌も、ヨーロッパ伝来の歌も歌えなくても、それでも歌える歌という感じなのだ。だから、自分で歌うにはいいんだろうけど、聴いて感動するようなもんじゃないという気がするのだ。
 演歌とかだと、和風の「だし」も取れない、洋風のスープも取れない、だから味に深みの出ない煮物をキムチで味付けしたような感じがする。
 まあ、茶漬けでいいや、という感じの良さも歌謡曲にはあるだろうし、酔っぱらった時には、ちゃんと味わえるもんじゃなく、軍歌やなぜかよく似たアニソンなんていいのかも知れない。、
 さて、大晦日。「御馳走」は正月に食べることにして、蕎麦ですますかというののが「年越し蕎麦」か。同じように、正月休みに劇場に行くことにして、大掃除の仕上げの「ながら」には歌謡曲がいいのかも知れない。でも、やっぱり、私は、歌番組は観ないだろうな。野球拳がなくなったのが残念だ。

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Commentaires

12音西洋音階がかくも世界中にのさばった理由は、それが学校で教えるのに便利な体系だからです。むろん、現象としてはヨーロッパの帝国主義が世界中を植民地化したことに端を発しているのですが、それ以前に、ヨーロッパキリスト教文化の伝統的な悪癖である強い論理志向、あるいは普遍志向が関係しているように思えます。

バルトークやシベリウスもヨーロッパの辺境から「統一理論」を画策していたと言えるでしょうね。

Rédigé par: 非国民 | le 31/12/2005 à 02:15

「スケール」という言葉は、「尺度」「縮尺」を意味すると同時に、「音階」という意味も持ちます。
このようなスケールの概念が確立されたのはルネサンス人文主義の時代です。それは、人間の身体を中心に置いて複数のディメンション間を統合するシステマティックな秩序であり、同時に、世界を弦(モノコード)に喩えた分割配分のシステムだったのです。
そこにあるのは、万物が尺度単位の加算的操作によって把握され得るという意識であり、絶対的尺度としての人間を規準にしたフィクショナルな美学です。少々大袈裟に言えば、スケールこそは、人間と世界=宇宙の関係を整序するための基本原基たるシステムに他なりません。

ただし現代においては、スケールの最良の具現体であった建築も音楽も、もはや世界=宇宙の秩序原理を表象するものではありません。もちろん、それで良いのだと私は思っています。

Rédigé par: 非国民 | le 31/12/2005 à 03:00

 西洋音階がのさばった理由には、記号化があるんでしょうね。文字を持たない言語が途絶していくのと同じ理由。
 論理志向と普遍志向については、そのレベル如何じゃ毒にも薬にもなる思うのですね。ある意味「普遍指向」の竹中と「反普遍指向」の安倍が野合してるのを見ると、まずは論理や普遍を一通り押さえておいた上で、それを相対化するのが必要かなとも思います。
 そういえば、WTCの崩壊を、インターナショナルスタイルの建築の終焉として見るというのもあるのかな。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 31/12/2005 à 14:43

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