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30/12/2005

E=Mc^2

 E=Mc^2、有名な式だ。最初に知った時には、そう衝撃でもなかった。それまで、質量は質量、エネルギーはエネルギーと思っていたのだから、本当なら衝撃的なはずなんだけど。おそらく、この式が「実感できる」ものじゃなかったからだ。

 さて、唐突に歌の話である。「お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜や」という歌詞があったとする。この歌で「あ」と「ほ」の音の周波数の比は一定じゃなくてはいけない。つまり、「あ」と「ほ」の音程は一定なのだ。最初の「お」の音の高さ、つまり周波数を自由に決めるのはいい。けれども、「お」が決まれば、「や」に至るまでの音の高さは決まってしまうものだ。歌というものは、そういうものだと思いこんでいた。
 ところが、浄瑠璃とか「語りもの」の日本音楽を聴いていると、「あ」と「ほ」の音の周波数の比、つまり音程は一定じゃなくてもいいようなのだ。でも、全く勝手というわけではない。音程が変わるのと同じ効果を得られるように、音量やテンポを変えなくちゃいけないらしい。
 単純化してしまうと、「あ」に対して「ほ」を高い音にする代わりに、「ほ」の音程を下げ、音量を上げるという感じである。
 それまで、歌においては、音の高さ、大きさ、長さと間隔というのものは「別物」だと思っていたのが、音の大きさを強さに替えてもいい歌があるらしい。そう感じただけで、ホントかどうかは知らないが、それに気付いた時は、けっこう衝撃的だった。質量がエネルギーに変わるよりは、実感できたし。
 じゃあ、その変換式は、というとワカラナイのだが。

 私が昔に、歌とはそういうもんだと思っていたリクツはヨーロッパ伝来の歌のリクツだ。そのリクツでは、周波数が2倍になる間のうち12の音しか使わずに歌うようなのだ。無限にある周波数のうち、なぜ12だけかというと、複数の周波数を合成した場合の聞こえ方が、周波数比が単純な方が、ヒビキというのがいいかららしい。それだけじゃなく、いろんなリクツがあるんだろうけど、そういうリクツの結果、ヒトリで伴奏無しで歌っても音程というのは歌の基礎なのだ。
 日本の楽器でも、このヒビキのリクツは三味線の調子とかに見られる。ところが、浄瑠璃の場合など、三味線に「つかず離れず」なんて言う。日本の歌にどういうリクツがあるか知らないのだが、ヨーロッパ伝来の音楽でとても大事なヒビキやメロディとは別のものを大事にするリクツがあるようで、その結果、音程が決まっているわけじゃないという歌もあるようなのだ。

 今、日本の昔からの歌を聴いてもいいと思うものは多いし、ヨーロッパ伝来の歌もいいと思うものが多い。中国や中近東の歌でもいいなと思うことがある。そういう古くからの歌だけじゃなくて、最近の歌でもいいと思うものはある。それぞれの歌にどういうリクツがあるのかわからないのだが。
 けれども、明治に、日本にヨーロッパ音楽が入ってきた時には、「うまく」取り込むのは簡単じゃなかったような気がする。
 この時期から出来た歌というのは、何か貧粗な感じがして、聴く気にならないのだ。唱歌、軍歌、歌謡曲の類だ。きっと、日本の音楽とヨーロッパの音楽のそれぞれのリクツを整合させるような「統一理論」が作れなかったからじゃないのかと思う。それとは逆に、日本の歌も、ヨーロッパ伝来の歌も歌えなくても、それでも歌える歌という感じなのだ。だから、自分で歌うにはいいんだろうけど、聴いて感動するようなもんじゃないという気がするのだ。
 演歌とかだと、和風の「だし」も取れない、洋風のスープも取れない、だから味に深みの出ない煮物をキムチで味付けしたような感じがする。
 まあ、茶漬けでいいや、という感じの良さも歌謡曲にはあるだろうし、酔っぱらった時には、ちゃんと味わえるもんじゃなく、軍歌やなぜかよく似たアニソンなんていいのかも知れない。、
 さて、大晦日。「御馳走」は正月に食べることにして、蕎麦ですますかというののが「年越し蕎麦」か。同じように、正月休みに劇場に行くことにして、大掃除の仕上げの「ながら」には歌謡曲がいいのかも知れない。でも、やっぱり、私は、歌番組は観ないだろうな。野球拳がなくなったのが残念だ。

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28/12/2005

オペレッタ狸御殿

img053 オダワラジョーは新幹線から見えたと思う。だから、何度となく見てると思う。でも、ほとんど印象が残ってない。オダギリ・ジョーも出演作をいくつか見てるはずなんだけど、やっぱり印象が残ってない。チャン・ツィイーもよく知らない。そんなわけで、オダギリ・ジョーとチャン・ツィイーという「オペレッタ狸御殿」は映画館に見に行かなかったし、DVDも出てもしばらく見てなかった。
 つまり、期待せずに見たのだ。ところがこれが良かった。このあたりの経緯は「下妻物語」と一緒。そして、狙って作ったおバカ映画というところも一緒。
 主役はオダギリ・ジョーとチャン・ツィイーなんだけど、映画を支えているのは平幹二朗と薬師丸ひろ子。この二人が無意味なほど大げさな芝居を繰り広げるのだけど、美術が舞台風なので妙にはまる。 舞台仕立てでも、こんなことやってみたら面白いかもと思っても、舞台じゃ絶対に出来ない映像ならではのお遊びというか、おバカなシーンが繰り広げられるのだけど、適度にエエカゲンでも、決して安易に流れないのだ。
 そもそも、狸姫が何で唐の国からなのか。結果として中国語が混じるわけで、台詞も含め、音楽的な変化が出て面白い。たぶん、それだけなんだろう。でも、その効果は絶大。
 花四天や御殿女中が4人組で、少女が3人組とか、妙に和洋折衷で様式的なので安心感がベースにある。だから、デタラメぶりが素直に楽しめる。
 由紀さおりのひるぜん婆が死ぬシーンは最高。ケンで決着と言って、じゃんけんで負けて、バカバカしい歌を歌いながら昇天する。
 主役2人は、1回、死にかけて、生き延びて、また死んで、生き返る。これだけでも、まともなストーリー展開じゃない。ダンスもテクニック的にはたいしたことない。だいたい「オペレッタ」に「狸御殿」自体が古くさい。でも、カラっと陽性に古くさい上に、平気で、その古さを壊してくれるので、かえって新鮮。
 意味とかを超越した、おバカな世界の気持ち良さにひたれる。
img054 この極楽カエル、欲しい。
 でも、美空ひばりは余計かも。

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27/12/2005

男たちの大和

img052 DVDじゃなく、劇場映画である。三丁目もキングコングもSAYURIもやってるのに、なぜ「男たちの大和」かと言えば、あの「北京原人」の監督だから、ウパーな作品かもしれないと思ったから。。。。。じゃなくて、たぶん、動員数上位に位置するカラクリの所以だと思う。
 さて、歴史にifはない。でも、つい「あの時に止めておけば」と言ってしまうことがある。
 太平洋戦争もそう。開戦の何年も以前に遡ってそうなんだろうけど、止められずに、負けとわかってもズルズルと犠牲者を増やしていった。
 大和もそう。大艦巨砲時代の遺物で、後に「世界三大バカ」とも「天下の三大バカ査定」とも言われ、結局、デカイだけの役立たずというのが後の評価だ。
 そして、佐藤純彌監督。あの「北京原人」の前は「超能力者 未知への旅人」。この2作はあまりに強烈だ。もうすぐ公開される「単騎、千里を走る」に高倉健が出演するに至ったエピソードに出てくる「君よ憤怒の河を渉れ」だって撮ってるのに。
 そして、上演前の話題と言えば、制作と主題歌のしゃぶしゃぶコンビ。この人たちも「あの時に止めておけば」のクチだ。角川春樹の日本映画への功績というのはかなりのもんだと思うが。
 そういう「あの時に止めておけば」が大集合。逆境の中で起死回生の作品となるかの、いわば「特攻出撃」のような映画なのだ。
 さて、観てまず感じるのは、何か散漫な感じがするということ。一応、大和に乗り込んだ少年兵が60年後に、当時を回想するという形式なんだけど、何人かのエピソードを並列に繋いでいて、それらを繋ぐシンが見えないのだ。そのシンにしたかったのは、「あの時に止めておけば」死なずにすんだ人たちの「死んだ意味」であり、生き残った人の「生きた意味」なんだろうとは思うのだが。
 「死んだ意味」を「愛する人を守るため」とするような欺瞞は描かれていない。映画の中でも「愛する人」は死んでしまうし、実際、大和の特攻出撃は何の役にも立っていないわけだし。映画の中では「死んだ意味」など出てこない。つまり「ああいう無意味な死に方だけはしたくない」と思わせるのが、唯一、死んだ意味だろう。そういうことが言いたいのかなとも思うのだが、ヒントになるような台詞を言うのが長嶋一茂で、戦闘シーンが嘘くさいんでは、実感として伝わらない。
 実物大のレプリカを作ったそうだが、壊れないのだ。壊れる前のシーンとパーツが壊れたシーンを煙や炎で繋いでいるだけ、その間には水兵が飛ぶシーンも挟まるのだが、壁や床はもちろん手摺さえ、壊れるシーンが映らずに、炎と煙と水滴でゴマカしてるので、ゴチャゴチャしてるだけで、やたら嘘くさい。
 機銃も、撃っても前後せずに銃口で火花が散るだけ、たまに前後するのも混じるから、余計にチャチに見える。実写のニュースフィルムを混ぜるもんだから、より鮮明なセットシーンが嘘くさい。米軍機が映っても、乗組員と同じカットに映らないので、緊迫感が伝わらない。「敵機は1秒に160mの早さで突っ込んでくる」という台詞がある。映画なんだから、台詞で説明するだけですますなよ、絵でも感じさせる工夫をすべきだろと思う。
 だから「やられました、沈みます」という「記号」としての戦闘シーンという感じで、臨場感がなく、「死」というのものの「重み」が伝わらない。ああ死んだのだなぁ、と思うより、ハイ、カットで起き出すんだなぁ、と思ってしまうという感じといえばいいのか。
 映画を通して、何かメッセージを伝えたかったのなら、「何が伝えたいの」という感じだ。かといって、ドラマがあるわけじゃなし、ウパーほど笑えもしない。鈴木京香が仲代達也の船に乗るに至る、あまりに強引な「偶然」の組み合わせは、けっこう笑えるが。
 トクをしたのは中村獅童か。唯一、キャラが立っているし、寺島しのぶのアシストもある。しのぶちゃん、出たシーンでちょっとよろける。それだけで、恋人に逢えるので急いでいるのはもちろん、それまでの恋人との関係を想像させるという表現が出来るし、やっぱり表現力はすごい。獅童、映画に出まくってるのもわかる。嫌味になる手前で自分を立てるのがうまい。歌舞伎じゃたいした役にはつかないし、やっぱり、目指すは叔父さんか。
 なお、この獅童は軍の病院を抜け出して、大和に密航し、沈没後は駆逐艦に助けられたようだが、そんなことが出来たのかとか、そういう謎を置き去りにしちゃうあたりや、製作費のコストパフォーマンスが不思議なのは、やっぱりウパーなのだった。
 なお、本田ウパー博太郎も出てる。どこに出てたか気付かなかったけど。


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しっぽくうどん

img051 今日のお昼。そういえば、以前にメニューの画像だけアップして、現物は載せてなかったので。

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ほっときたいまずしさ

 ほっとけない世界のまずしさ、というキャンペーンをみかける。貧困というのは「何千年も続いてきたのに、私たちの代で途絶えさせていいのか」という意見は見られない、なくしたいと思っている人の方が多いようだ。
 世界のまずしさは、それが理由で死んでいく人が多いわけだし、自分がその立場になったら嫌だし、ほっとけないと思う人が多くて当然なんだろう。
 ところで、私はピアノが弾けない。たぶん弾けた方がいいと思うが、弾けないことで特に困っているわけではない。私のピアノ演奏のまずしさをほっとけない、そういう人がいても大きなお世話だ。
 さて、食べ物がうまいトコに、不味いと言う、陶器の便器が割られないのに、便所のマナーが悪いと言う、そういうのは不当だろう。けれども、食べ物がうまくて、陶器の便器が割られないトコにも、他に改善すべきことは多い。だから、それを批判するのはアタリマエだ。ところが、そのアタリマエの批判を悪口と思い込む、そういうアタマのまずしさは、ほっとけばいいのか。
 アタマのまずしさは、気づきさえしなければ、本人はシアワセなのである。私だって、オカシナことを書いていることにウスウス気付いているが、この程度のアタマのまずしさは、生きるか死ぬかの問題じゃないから、私にとっては受忍限度内なのである。だから、私のアタマのまずしさはほっといてくれてもいいのである。
 それで、アタマのまずしさをほっとけないとどうなるか。アタマのまずしさを指摘されることは、アタマがまずしいほど、改善の手がかりではなく、単なる「悪口」と思ってしまうわけである。私のアタマのまずしさはそこまでは行ってないと、たぶん思うので、ほっとけない人も安心してくれていい。でも、私のフトコロのまずしさをほっとけない人の方がウレシイ。
 さて、アタマのまずしい人は、食い物がうまいからいいトコだ、なのに批判するのは悪口だ、というアクロバット的論理と同じように、ピアノ演奏ができるし便器の知識もある、なのにその意見への批判は悪口だ、悪口を載せたシステム管理者に文句を言ってやれ、と思ったりしかねない。
 そんなわけで、私の場合、他人のアタマのまずしさは基本的にほっておく。ところが、そういうアタマのまずしさをほっとけない人もいる。
 以前に「パッチギ」の感想にトラックバックを貰って、それ以来、定期的に読んでいたblogが全く更新されなくなった。最近になってわかったのは、使っているblogシステムにログインできなくなったらしい。理由はわからない。なおかつ本人もシステムの管理者が全面的に悪いとは思っていないフシがある。だから、私はほっとけばいいんだろう。
 けれども、ログインできなくなった理由のひとつ、要素としては大きなものではないかもしれないが、使っているblogシステムのトップに紹介されている人のblogの論理に対し、そのアタマのまずしさがほっとけなかった、というのがあるようだ。
 だいぶ以前のエントリーで、「ネットは並列的な異文化を作るように言われたが、実際は階層化を進めた」というコメントがあった。
 こういう例を見ると、アタマのまずしさは、やはりほっとくしかないと、ますます階層化が進むのかなぁと思う。
 天皇の後継問題についても、表面的には「男系維持」「女系容認」「やめちゃえ」という意見に分かれているのだろう。けれども、もっと大きな差を最近、感じる。
 冒頭にあげたような「存在」と「当為」の混同をせず、いずれかの意見を主張する人、つい混同してしまうが論議の結果「当為」論に辿り着く人、まったく混同に気付かないで主張する人、そしてY染色体云々とか言い出すトンデモさん。この4階層の差の方が大きいんじゃないかと思う。

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26/12/2005

鳥居

 知人に心臓ペースメーカーを付けている人がいる。若年性の心臓疾患ではなく、高齢で身体の各所がままならなく、心臓もそのひとつだからだ。
 だから、一緒に出かける時には、ある程度の介護が必要になる。うどんを食べに行くのでも、まずタクシーを呼ぶ、タクシーの中からなじみのうどん屋に今から行くと連絡したりする必要がある。だから、一緒に出かけるには携帯電話が必需品だ。
 もっと元気であっても、心臓ペースメーカーを付けている人、つまり健康に不安のある人には、緊急連絡等のため、携帯電話の必要性は高いと思う。だから、携帯電話の電波が心臓ペースメーカーに与える影響については、研究や対策が行われ、装着者も医師に相談するだろうし、適切な対応方法を行っている。
 誤作動が起きても深刻な事態にはなることはない。携帯電話よりも影響の大きい万引き防止ゲートで倒れたという話も聞かない。けれども、誤作動は避けた方がいいに決まってる。
 一方、混んでる電車の中や、隣の席で携帯電話を使われると迷惑なのだ。だけど、世の中には、他人の迷惑を気にしない人や気付かない人が多い。そういう人は私だけじゃないのだ。
 それで、迷惑だと言わずに、オマエの行為で人が死ぬかも知れないぞと言った方が効くと思った人がいたのかも知れない。それで「携帯電話によるペースメーカーの誤作動」というレアケースを針小棒大に誤解させることが意図的に広がってしまった。一種の迷信だ。
 ちなみに、携帯電話の電波とどちらが影響が強いのかは知らないが、警察無線を持っている鉄道警察官に「混んだ車内では警察無線のスイッチを切るのか」聞いたことがあるが、切らないそうだ。
 その迷信がいいことなのか悪いのかはともかくも、その迷信を信じ込んでいる人は多い。列車内での携帯電話の使用の可否は、迷惑かどうかで判断すればいいのに、「心臓ペースメーカー装着者のため」と、レアケースをことさらに取り上げる人は、ペースメーカーの装着者のことをリアルに考えたことがない人だろうと思う。
img048 いわば、ペースメーカーは「立小便除けの鳥居」なのだ。「立ち小便するな」では効かないから、鳥居を付けて、バチが当たるぞ。と言うわけだ。信仰心のある人なら、そんな目的に鳥居を使わない。たぶん、カミサマがバチをあてるのは、鳥居に立ち小便をした方ではなく、むしろ、立ち小便除けに使った方だろう。
 こういう「鳥居」みたいな使いかたをされるコトバって、けっこう多いみたいだ。

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25/12/2005

殺しの烙印

img049 書いてアップし忘れてた。アップするほどのもんでもないが、画像の通しナンバーに抜けが出るのも気色悪いし、日付を遡ってエントリーしておく。
 「ピストルオペラ」が「殺しの烙印」のリメイクだそうなので、「殺しの烙印」の方も観てみた。
 1967年の映画だそうだ。なのにモノクロ。最初の方で、1957年型の車を用意したというような台詞があったし、その後の絵も、当時のさらにヒトムカシ前という感じ。ストーリーはあってないようなもんで、殺し屋のランクを巡る話である。「烙印」というのも「ランクイン」のダジャレかと思う。それほどストーリーはどうでもいい。
 それで、何の映画かと言えば、ヒトムカシ前の「カッコ良さ」を戯画化した映画かと思う。意味ありげで、実は「意味」はどうでもいいんだろう。例えてみればボディビルダーの筋肉美。無意味に鍛えた筋肉。アスリートの筋肉の美をさらに追究したら、元々の「運動能力」はどうでもよくなってしまったようなものか。
img050 左の絵は真理アンヌとのシーン。彼女は、後に「おなかが凹むインド式ダイエット」を出版する。

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24/12/2005

さいでんなー、ほーでんなー

img047 近所の学校の飾りでんなー。

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23/12/2005

ぶらーん記念日

img045 12月23日は、東条英機らが絞首刑になった記念日だ。その東条英機や岸信介とかの資金源が阿片であり、その取引を行っていたのが通称「里見機関」というらしい、ということは以前から知っていた。
 けれども、その「里見機関」の里見甫のことや、東条英機、岸信介への資金の流れなどがどうなっていたのかとか、そんなことまでは知らないので、読みはじめてみた。
 それで、記念日の今日までに読み終わるかと思ったのだけど、まだ半分くらい。

12月28日追記
 他のblogで、現天皇の誕生日に処刑を執行したのが陰険だという記事を見かけた。ゾルゲが処刑されたのがロシア革命の記念日だったので、死刑囚の記念日に処刑するというのは、当時は一般的なことだと、ろくにチェックもせず思っていたのだが。
 ゾルゲを処刑した日本と、戦犯を処刑したアメリカ軍だけが陰険だったのか、一般的なことだったのか、どっちなんだろう。

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キーホルダー

img044 Cafe Roomさんの「キーホルダーに何を求めるか」というエントリーにトラックバックです、というSHINOblogさんの
「キーホルダーに求めるもの」というエントリーにトラックバックです。
 錠のところの門灯が自動点灯じゃないので、ペンライト。あと、外出する時、あると便利な「ハサミ」や「ピンセット」「キリ」のついたアーミーナイフ。つまり、外出時の実用品のみ。

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皿うどん

img043 img042
 一般に長崎の皿うどんは、硬いパリパリ麺だ。でも軟らかい太麺、チャンポンの麺のようなのを使ったのもある。それを福岡では「博多風皿うどん」と言うらしい。たまたま、見かけた1軒でそう言ってるだけなのか。けれども、食べたのはチャンポンだった。
 ξ、具材は一緒で、皿うどんは流動性のない「あん入り」、チャンポンは「あん無し」。

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22/12/2005

九州も雪

img041 雪の八千代座。20年ぶりくらいだとか。

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20/12/2005

端の席

img040 新幹線ではコンセントを使いたい時、座席指定の際に端にしてもらう。それ以外は注文しないので、テキトーな席に座らされる。
 電車で割り当てられた席で、変わっていたのが、500系「のぞみ」の先頭の席。海側はA〜Cの3席並びが標準なのに、先頭の2列だけは2席になっている。これは、先頭の形状の都合で屋根が下がっており、天井も低くなっているため、荷物棚がない。それでC席をつぶして荷物置き場にしているためだ。そのA席に座ったのだが、車体断面も丸っこくて窮屈だった。
 航空機で割り当てられた席で、変わっていたのが、ボーイング747-400の国内専用の上階最後部窓側。目の前に下に降りる階段があるが、巡行中は扉が閉まっていた。テーブルは前の座席に付けることが出来ないので、窓の下から出てくる方式だった。
 とにかく、航空機の中は窮屈な感じがするのだが、この席だけは妙に開放的で、かえって不安な感じがした。

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19/12/2005

小改装

 ここ1週間ほどに、ちょっとした改装をしてみた。
 ひとつは「MyblogList」を「Myblog」から「BlogPeople」に変えたこと。「Myblog」が「ドリコムRSS」に変わるらしいが、このblogリストくらいにしか使っていないので、そのメリットが全くなく、むしろ「ドリコムRSS」のインターフェースが使いづらく、あっさり、乗り替えた。
 もうひとつはアフェリエイトを始めた。といっても、儲かるとも、儲けようとも思っていない。DVDの感想とかにジャケット画像を使うのに、アマゾンとかから勝手にパクって来ちゃマズイかもしれない。。。ということで「アフェリエイト」ということにしたのだ。
 もちろん、感想が主で、画像は従だし、何についての感想かも書いているので、正当な引用ではあるが、念のためにそうした。
 だがら、ジャケット画像をクリックしても画像が拡大表示されるわけではない。うっかりクリックするとアマゾンに飛ぶ。ハマチャンじゃないけど。

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リトルトーキョー殺人課

img039 先日の「鉄砲まつり」のエントリーのコメントで、秩父の話になり、思い出したのがオペラの「ミカド」。「ティティプ」という、やたらと死刑にするのが好きな「ミカド」が統治する国が舞台になっている。その「ミカド」の音楽にのって進行し、クライマックスが「ミカド」の上演劇場でのシーンだった映画が、翌日のエントリーでふれた「ファール・プレイ」。
 この「ミカド」は、19世紀末の英国で「日本」が、どのように見えていたのかがわかる、というだけでなくて、その見え方の違いがけっこう笑えてしまう。こういう、文化の見え方の違いで笑えるのを狙って作ったみたいなのがキルビルだろうし、はたして、狙ったのかどうなのか、ネタかマジかワケわからんが、その違いっぷりに爆笑できるのが、この「リトルトーキョー殺人課」だ。
 「日本」の「勘違い」の大胆さでは、以前から評判を聞いており見たかった。そして、見てわかったは、単なる勘違いだけの映画じゃないということ。映画自体の作りも、おバカ映画の王道なのだ。
img046
 やたらに見かける「大売り出し」の幟、「盆栽クラブ」の女体盛りと女相撲、「ロサンゼルスの警官、2人、殺すのよくない」と言って脱出するシーン、喉を突く「切腹」、「曉公衆浴場」の乱闘、主人公の素晴らしい別荘と露天風呂、そして最終決戦に臨む主人公の袴に陣羽織と鉢巻きというプロレス的な衣装、そして最後のチャンバラとネズミ花火と「ありがとうございました」とお辞儀する人たちと、名場面がいっぱいだ。
 でも、それだけじゃない。ヤクザから救い出した歌手を人質にとられ、あっさりヤクザに捕まった主人公たちだが、なぜか後のシーンでは、人質におかまいなしにヤクザ連中と撃ち合ったりとか、そういう不思議な展開もたっぷりなのだ。
 「知る人ぞ知る」じゃなくて、もっと有名になっていい名画だ。
 先日、ネット上で「日本の伝統文化の復興と保持を目指し、日本人本来の「心」を取り戻すべく創立された日本最初の歴史文化衛星放送局」というサイトをみかけた。ところが、そこで「伝統文化」として紹介されているのが新興宗教に浪花節なので笑ってしまった。この映画も「世界に誇る日本の伝統文化」とかいうフレコミでオンエアすればどうだろうか。

 なお、ジャケット画像を使ってる関係上、クリックするとアマゾンに飛ぶ。このDVDが2625円で売っているが、「DVD生活」だと606円だ。念のため。

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18/12/2005

8人の女たち(8Femmes)

img038 私は、映画に関する知識が極めて乏しい。この「Huit Femmes」でも、カトリーヌ・ドヌーブの他に聞いたことがある名前は原作のロベール・トマくらい。フランスの演劇のことも、ほとん知らないのだが、トマが60年代のブールヴァー劇の脚本家だということ、(ブールヴァー劇ということは脚本家というより戯作者といった方がぴったりだろうか。)それで、日本では「罠」がよく上演される、その程度の記憶だけがある。
 つまり、トマというのはベタな芝居の作者なんだという思いがある。ベタと言っても、日本とフランスじゃ観客の好みが違うので、ベタの方向はもちろん違う。その、たぶんベタな原作を、きちんとベタな映画にしたということだと思う。といっても、ベタがいけないわけじゃなくて、気持ちのいいベタ。安心して楽しめるベタなのだ。
 60年代風に作ってあるけれども、それがマニアックな感じとか、懐かしいだろうというような押しつけがましさではなく、むしろ、現代の感覚から見ての素朴さや素直さに感じられる。
 たぶん、現代風の映画をきちんと作りあげる技術もある人が、素材を活かすために、あえてベタに作って、それがかえって今風という、いわばヌーベル・キュイジーヌという趣なのだ。
 その素材の8人も、それぞれが単純なキャラクターで終わっていないのに、他の誰とも違う味であり、まず「出」で濃い味を出して、そこから複雑化していくわけだが、メイドや妻の妹のオールドミス役は見た目までガラッと変わるのに、きちんと統一感を持っている。
 劇中の歌も至って素朴。それぞれの役に歌うシーンがあり、古くさそうな振り付けがしてある。インド映画的な唐突なもんじゃなくて、そういや、日本の60年代頃の時代劇でも道中シーンにこんなのがあったなという感じで、こんなベタなのも楽しいなと思わせる。
 普通に考えれば、出ているのは「悪い」女なんだけど、そういう「悪さ」が、かえって人間的に素直だと思わせてしまう。
 古い映画から、古さを取ったような、気持ちのいいベタベッタ・どんどんどどーん。。。だった。

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13/12/2005

ピストルオペラ

img037 最初は、江角マキコに腹が立った。下手すぎ。主役が映画をぶち壊しにしてると。
 別に下手でもいい、「お人形さん」に徹すればいい。韓英恵だって「下手」だが、棒読みの台詞と、おそらく振り付けられただけの演技で、きちんと存在感があり「はまって」いる。歌舞伎の子役が棒読みなのと一緒で、こういう様式的な映画では、下手でも下手なりの役割がある。江角マキコだって、棒読み、無表情のロボットに徹すれば、全体をぶち壊すことにならなかったろうに。
 次に、江角マキコが哀れになった。これじゃ晒し者じゃないかと。
 ロングでの静止した画面じゃ、江角マキコも絵になる。ところが台詞を喋り、表情を見せるとトホホ感しかない。江角マキコが時々、青木さやかに似てるなと思った。下品さが鼻につくのだ。
 ストーリーはあってないし、ひたすら「こんなのどうだ」と作り手の「趣味」だけをコラージュにしたような作品だ。その「趣味」がオリジナルでまとまりがあるから、共感できれば気持ちいい。
 その中で出演者も「なりきっている」。「こんなワタシはどうだ」という感じで、ストーリーの制約から離れて、自分の観せ方を競っている。山口小夜子はワンショットごとに絵になっているし、金魚の話に無意味な説得力を与える樹木希林、場の空気を一瞬で作る加藤治子、意味ありげだけの平幹二郎、沢田研二に至っては「顔」とメイクだけで見せてる。それぞれに「劇的な」表現力を競う。当時10歳だという韓英恵さえ、その表情による表現力を見せてくれる。
 その中で、振り付けられた一瞬でしか絵にならない、猫のジェスチャーもタコ踊りにしか見えないキレのなさで、表情のバリエーションに乏しく、一本調子の台詞と、江角マキコの表現力の貧困さがやたらに際だつ。見せるべき身体はあっても、見せ方の技術があまりに乏しい。素養だけで才能がないと、彼女をイジメるために作った映画なのかとさえ、思える。
 では、なぜ、江角マキコなのかを考えてみた。
 例えば、宝塚出身の女優を使えば、江角マキコ程度の絵にはできるし、さらに表現技術もあるわけで、そうなると破綻はないだろう。それで、ひとつの「趣味」は完結するだろうけど、考えてみれば、その「趣味」というのは、実は「いかがわしさ」の中の美なのだ。
 つい「清順美学」なんてコトバで、洗練された美意識に錯覚してしまうけれども、殺し屋がランキングを巡って殺し合うというバカバカしいストーリー、ペラペラのセット、茨城の列車が走る日常的な風景の中での様式美なのだ。洗練された「美」を追求しているわけじゃなく「低俗」や「悪趣味」の中に見える様式化の美であって、むしろ徒花の「美」なのだ。
 そう考えると、江角マキコが「たまに絵になるが、下品でぶちこわしている」のじゃない。逆なのだ。もともと「低俗」で「悪趣味」な映画であり、表現力もろくにないような女優が主役であるべきなのだ。「くだらない映画であるが、いろんな所で、劇的であり、美しさがある」と考えるべきなのだ。
 つまり、映像美を見せる映画じゃない。「高尚」なもんじゃない。所詮「ピストル」のオペラなんだ。江角マキコのような主役でいいというか、その方がいいのだ。それでも、刹那に劇的であり、美を感じることができる。そういうことなのかと思った。
 ちゃんとした女優を使い、破綻をなくせば、気持ちいい気分で見られただろう。けれども刺激的じゃないし、何か書いておこうとも思わなかっただろう。

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ボーイング747-400

img036 小泉首相がどっかに行ったというニュースで、政府専用機が写っていた。まだ、日本の景気が良かった頃に、黒字減らしに買わされたボーイング747だ。
 それで、この飛行機は、自衛隊に管理運営を委託しているらしいが、そこで疑問が。
 まず、政府専用機は世界中に行かなければならない。航空会社は世界中の路線を飛んでいるが、自衛隊のパイロットは日本周辺のことだけわかってりゃいい。管制システムが整備されているだろけど、県警の交通機動隊員と貸切の観光バスの運転手じゃ、やっぱり観光バスの運転手の方が遠出には馴れてると思うのだが。
 つぎに、民間の航空会社にはボーイング747がイッパイある。自衛隊が管理しているのは、政府専用機の2機だけだ。それどころか、大型機自体をほとんど運用してないんじゃなかったっけ。整備するにしろ、イッパイ持ってる航空会社の方が、効率が良くないんだろうか。
 さらに、政府専用機が導入される前には、民間機をチャーターしてた。つまり、民間で運用してたわけだ。機体が政府のものでも、民間に運営委託すりゃいいんじゃないのかな。官から民へというスローガンに反してないんだろうか。

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12/12/2005

通し狂言「遙彼方銀河合戦」大序より六段目まで

 さて、これまで「ミドリ」で見たスターウォーズだが、先月に三段目のDVDが出たので、「通し」で見てみようというバカなことを考えてみた。四段目以降は、新しい型でDVDが発売されているヨーダが、どっちの型で見たのかも覚えてないし。
 さすがに一日に見るのは辛かくて、数日かかった。先月のことだが、記憶の薄れないうちに、メモでも残しておく。
 さて、「通し」で見ると、救出の物語だったというのがわかる。各段で、様々な脱出、救出が描かれる。戦争と救出でストーリーを構成している。
 そして、トータルで描かれるのがダース・べーダー実ハアナキン・スカイウォーカーの救出だ。辺境の砂漠の奴隷から救出されたアナキンが、求める愛により暗黒に囚われ、そして、無私の愛により救出されるというのが、通し狂言のストーリーになっている。それを強調するため、六段目の切りの型も変えられている。
 いわば「愛」と「救い」の冒険活劇であって、いかにもアメリカ映画だ。さすがに「通し」でみると同じパターンの繰り返しというのがわかるが、演出とスピードで飽きさせないんだと思うし、ハナシが単純な分、いろんなディテールが面白いんだろう。


img030 大序は、アナキンの救出というか脱出劇である。でも、最初に描かれるのはパドメらのナブーからの脱出。それで、脱出途中でタトゥイーンに寄って、アナキンとパドメが出合うことになり、アナキンも辺境の奴隷から脱出することになる。
 この段では、アナキンのママの「この子には欲がない」という台詞がポイントだろうか。

img031 二段目と五段目、前半と後半のそれぞれ半ばは「道行」だ。二段目はアナキンとパドメの故郷巡りの「道行」。
 大序での女王の身代わり話は、アナキンとパドメが出合うためだけの意味かい、と思っていたら、冒頭で女王の身代わりが殺され、ツジツマが合わされた。
 後半はやっぱり救出劇で、助けられるのはケノービ。

img032 三段目で、最初に救出されるのは、パルパディーン議長だ。でも、救われたと見せかけて、アナキンを捉えるという話。
 最後に、アナキンの子ども達がべーダーから救い出される。ヨーダとチューバッカが知り合いだったとは、と妙なトコロに感心。

img033 四段目は、アナキンの子ども達の救出。帝国に囚われたレイアと、タトゥイーンでくすぶってるルークの脱出。
 ドロイド2体が、ルークの叔父、つまりアナキンの弟に買われるが、C-3POって、元々ここで働いていたわけで、三段目の終わりでメモリーが消されたのは、そのためかと気付く。R2-D2もアナキンのママの葬式に立ち会ってたはずなのにと思う。

img034 五段目はソロとレイアの道行き。氷の惑星から帝国からの逃走の道行きだ。最後は、捉えられる。それで例によって救出劇になり、ルークが救出に向かうが、結局、救出されるのはルークだった。

img035 大詰めの六段目、前半はソロ船長の救出劇であり、二代目デススターへの攻撃と、ダース・ベーダーの暗黒面からの救出である。
 当初のタイトルは「ジェダイの復讐」だったが、「ジェダイの帰還」に訳が変わってる。その通り、ダース・ベーダーの「もどり」がクライマックスだ。「もどり」と言えば、死にかけているのに、やたら長い台詞を喋るもんだが、わりとあっさり死ぬ。

 こうして、通しで観ると、けっこうシンプルな話だったんだと思う。やっぱり、チャンバラ、撃ち合い、追いかけっこには、観ていて面白けりゃいい。ややこしいリクツは要らん。それでいい。

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11/12/2005

DVD化希望

 ここに書いても、いかようにもなるまいが。まあ、こんな映画が好きだということで。

【ファール・プレイ】
 ギルバートとサリバンのオペラ「ミカド」に沿って、進行するサスペンス。その昔に映画館で見て大喜びした。後にTVで放映されたこともあるが、「コジャック。バンバン」という名シーンがカットされたりしてた。DVDで手元に置いておきたい。

【タンク・ガール】
 イギリスのコミックをアメリカで映画化したもので、かなり深刻なはずのストーリーなんだが、緊張感が全くなくて、テンポのいい映画。ビデオ化されており、レンタルで見て気に入り、後に中古ビデオの500円均一の山から発見して買ったが、DVDで欲しい。
 やっぱりおバカ映画なんだけど、狙って作ってる。ナオミ・ワッツ扮する「ジェット」という子が「つきあいきれない」という雰囲気でノってるのがいい。

【ボンベイtoナゴヤ】
 インド映画って、これくらいしか観たことないんだけど、それが大当たり。説明不可能の面白さ。たまたまレンタルビデオで観て、スクリーンで観たいと思っても上映されることはめったにないし、ビデオも廃盤で凄いプレミアが付いてるし。
 名古屋駅前、栄の路上や緑地、名古屋港、明治村にデパートの屋上と、名古屋の所かまわず踊るインド人と不思議そうに見つめるナゴヤ人のダンスシーンは圧巻。
img029
 日本でのビデオ化や上映時には一部カットされているが、踊るシーンはカットされず、ストーリーに必要な部分を切っているので、なお不思議なハナシになっている。
 インドじゃ海賊版のビデオがあるらしいが、正規のノーカット版のDVDが欲しい。

【直撃!地獄拳・大逆転】
 石井輝男監督の名作、香港映画にまで影響を与えたカンフー映画の最高峰。。。。とハナシには聞くが観たことない。映画館での上映もないだろうし、DVDででも観てみたい。

番外【ヘルメス愛は風の如く】
 「北京原人」と同じく1997年に制作され、「北京原人」より観客を動員し、「人として最低」なら「北京原人」よりも笑えるというウパーなアニメ。単身で上映映画館に行くのが怖くて見てない。買う気もないが、レンタルDVDでなら見てみたい。

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10/12/2005

今日は鉄砲まつり

img028 今日、明日と埼玉の小鹿野町で「鉄砲まつり」がある。この祭りに、以前は行ったことがあり、この祭りが「終わった」年にも行った。そして、それ以来、行こうとはしていない。
 今も行われているのに「終わった」というのは、意味とカタチが切り離されたからだ。
 この祭りは飯田八幡神社の祭礼で、そのハイライトは、神社にやってきた行列が、順次、神社の石段を駆け上がって、社殿の周囲を一周するという行事であり、神馬が石段を駆け上がる際に、沿道の両側から空砲が奉納される。それで「鉄砲まつり」と言う。
 空砲の奉納は、猟師が豊猟や安全を祈願してのものだ。小鹿野では猪肉料理を出す旅館があり、観光資源になっている。多くのというより、ほとんどの祭礼がそうであるように、祭礼行事と地域経済は密接な関係を持っていた。
 ところが、ある年、この空砲が銃刀法違反であるという指摘を行う馬鹿がいた。形式的に違反していても、銃刀法で保護すべき法益を祭礼の空砲が侵害するはずはない。だから、銃刀法があっても空砲の奉納は継続されてきた。つまり、指摘するヤツが馬鹿、ですむ話である。
 ところが、ハンター達の反応は違った。危険物を扱うという意識からか、より安全、絶対安全な方を指向し、馬鹿の指摘であっても「違法」呼ばわりされること自体を避け、空砲奉納を取りやめる動きが起こってしまった。
 そして、最後に私が行った年には、「猟師の空砲」はわずかしか使用されず、おもちゃの鉄砲を使用したり、「川越藩鉄砲隊」を復元している人たちの火縄銃であったりした。安全祈願も祭りの意味だろうし、「火縄銃」の人たちがが参加してもそれはいい。でも、小鹿野町で行われる以上、主役は猟銃のはずだ。
 その年の写真であるが、上の方に写っているのは猟師の服装ではない、幕末期の鉄砲隊のコスプレだ。こうして、この年以来、鉄砲まつりは「意味」と「カタチ」が切り離された。
 言うまでもないが、「伝統」に意味や価値があるのではない、意味や価値を失わないから「伝統」になる。現在も、小鹿野町では猪鍋を名物にしている旅館があり、山村であることが観光資源になっていて、猟師の空砲奉納には意味がある。だから、継続する意味はあり、祭りが「伝統」にもなる。しかし、おもちゃの鉄砲や藩兵の火縄銃じゃ、「かつて、こんな祭りがあった」と「カタチ」を再現しただけで、ビデオによる記録とたいして変わらない意味しかない。
 飯田八幡神社の祭礼は続いているし、今も意味を失ってはいないだろうけど、「鉄砲まつり」は終わり、「伝統」を偲ばせる行事として「鉄砲まつり」ごっこが行われていると思っているわけだ。現代の服装であっても「猟師の空砲」が復活すれば、いったん途絶えた伝統が継承されたと思う。

 今、「伝統」と考えられているものの中には、近代になって意味を失ったものもあるし、それどころか、近代に新しい意味に置き換えられたものも多い。カタチだけが「伝統」で、意味は置き換えられたもの、意味は「伝統」であってもカタチは変わったものもある。そのどちらであれ、「伝統」に意味がある、価値があるなら、その意味や価値のゆえに残るはずである。「鉄砲まつり」のように途絶える必然性がないのに終わる、ということはあまりない。
 「伝統」だからという説明は不要だ。ただ「伝統」だから、としか説明の出来ないものは、多くは「伝統」ですらないことが多い。

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09/12/2005

鵜呑みにする人

 今さら書かなくてもわかるだろうけど、このblogは、それなりにエエカゲンに書いている。ここで書いても一銭にもならない。「読んで感動したので、一夜の伽なとお申し付けを」なんてこともない。かと言って、見境のない羞恥プレイの場ともしたくない。
 だから、マスコミに対抗できるジャーナリズムとして位置づけているようなココロザシの高いところとは違う。かといって、下流社会や希望格差社会の「自分は優秀」妄想を確かめるために「全くその通り」とコメントしあうような場にも、何ちゃらジャナーリストと自称しつつ学級新聞みたいなことを書く、そういう恥ずかしいこともしたくない。
 中途半端にエエカゲンなスタンスである。
 だから、エエカゲンに書きつつも、ネットで調べられる程度であるが、それなりに「裏を取る」という作業が発生することもある。先日に書いた「東郷ビール」はblog用じゃないが、ああいう作業だ。
 研究者だと一次資料にあたるのが原則である。私は研究者じゃないから、普段もそんなことはしない。お金になる原稿だと、まずネットでチェックはするとしても、もう一歩踏み込んで調べることもある。先日の食用蛙の件は、ネットでチェックした段階でボツにした例だ。
 ところが、このblogだと、それなりにエエカゲンなので、ネットで一通りあたる程度ですますことが多い。
 例えば、浄瑠璃の詞の部分がどうだったかとかだと、研究者なら最古の写本や複数の写本を比較検討する。私の場合、有料の原稿だと、もしあれば明治時代の稽古本程度のチェックはする。blogだと八介さんの床本ライブラリーをあたる程度。という感じだ。

 「サーロイン」の語源が、17世紀のイングランドの国王、ジェームス1世かチャールズ2世が、そのうまさに感激し、「sir」の称号を与えたことによるという俗説を今でも信じている人がいる。1911年版の百科事典(版権が切れてるのでネット上で公開されている)に、語源がフランス語の「surloin」で、腰(loine)の上(sur)という意味であるが、この俗説が後にできたという記述があるから、100年も出回ってる俗説だ。
 そんな俗説が100年も出回っているのは、俗説の方が面白いからだ。面白いからと確かめもせずに紹介をしている人が多いわけで、理由は読む人へのサービスだ。

 靖国神社の件で、極東軍事裁判のことを調べた際に、パール判事のことも少しだけチェックした。彼は「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」によって学位を得ているらしい。
 ところが「国際法で学位」と「パール判事」でand検索してみると131件がヒットする。「国際法の学位」や「パル判事」でも何件かhitするが、私には「ヒンズー法哲学」が国際法だとは思えないし、他の成果によって学位を得たという記述も発見できなかった。なのに「唯一、国際法で学位をとったパール判事」といったような文を書く人が多い。
 理由は、おそらく、パール判事の少数意見の結果だけを正当なものと主張するため、誰かが書いたゴマカシをそのまま鵜呑みにして転載しているためだろう。
 私とて、パール氏のその後の経歴から国際法についての見識がある人だという推測はできるし、極東軍事裁判に問題があるということは理解しているし、国際法での学位はどうでもいいことだと思う。
 どうでもいいことであっても、こういう経歴をチェックもせずに紹介している人というのは、自分の主張に都合のいい記述は鵜呑みにしているわけで、読者へのサービスでなくて、単に自己満足のためだろう。
 こういう、都合のいい記述だけを鵜呑みにする人というのは、その主張が結果として正当であったとしてさえ、全てに疑ってかかる必要があると思われてしようがないだろう。

 まあ、このblogもエエカゲンに書いているわけではあるが、そういうみっともないことはしたくないので、「裏」を取ったり、断定を避ける傾向がある。
 それでも、信用して不利益を得ても、私は責任を持ちませんから。

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05/12/2005

ゴジラは中に人が入ってる

img027 細かな検証は省略するが、ゴジラのような生物は存在しない。存在しないと証明されてはいないが、リクツにあわない。あれは中に人が入っているのだ。
 さて、トンデモさんの場合、科学的知識はあるので、こういうことは理解している。ところが「ゴジラは中に人が入ってる」ことでもわかるように「身長50mの人がいる」という結論に達してしまったりする。
 そこで「身長50mの人などいない」と主張するとどうなるか。「じゃあ、ゴジラが実在するのか、と、ゴジラの中には人が入っているとする科学的根拠」を並べてくれて「オマエはゴジラ実在論者だ。トンデモさんだ」と言う主張になる。
 というのは、ひとつの例だが、トンデモさんによくあるロジックの展開のように思う。
 私の場合、皇統Y染色体説というのを馬鹿げていると書いている。そうすると、コイツは女系容認、天皇制廃止を主張している、という結論になる。50mの人などいない、と主張すると、ゴジラの中に人が入っているのを否定していると思いこむようなものだ。
 別に自分の立場を明らかにする必要はないが、「憲法を変える必要はない」と思っているので、天皇制廃止派ではないし、「皇室典範を変える必要はない」と思っているので、女系容認派ではないと思う。たぶん。
 なぜ、こんなロジックになるのか。結局、以前から触れている「勝ち組@元祖」の所以じゃないかなと思う。「自分の世界」に、組み込み可能か、組み込み不可能かで、判断しているんじゃないかと思う。ロジックの正しいかどうかよりも「勝ち、負け」にこだわるのも、そのためだろう。

 なお、「勝ち組@元祖」について書いたのは、ずいぶん以前なので補足しておく。「勝ち組」というコトバが最初に使われたのは、第2次大戦後の南米だと思う。日本は戦争に負けたというのは謀略で本当は勝っていると思いこんでいたのが「勝ち組」で、負けたことを信じたのが「負け組」だったはず。
 最近の「勝ち組」「負け組」というのは、違う意味で使っているようで、もっとストレートな意味だ。
 それで、自分が「負け」の方に属しているにもかかわらず、自分たちが負けているはずがない「勝ち」に属していると思いこんでいる人を「勝ち組@元祖」と、勝手に呼んでいる。「下流社会」に属し「希望格差」をつけられているのに「自分は優秀だ」と思っている人や、「財布は中流、せめて他で上流に」という人のことだ。

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不存在証明

 存在の証明よりも、存在しない証明は難しい。ヤンバルクイナは1羽見つかった時点で、存在が証明できた。でもツチノコは存在することが証明できていない、そして、存在しないことも証明できていない。
 数年前に、ネットで「東郷ビール」のことを調べたことがある。「日露戦争で日本が勝ったのを喜んで、フィンランドでは東郷ビールが出来て、トルコでは東郷通りや乃木通りが出来た」という話を確かめたかったからだ。
 結果として、第2次大戦後に「提督ビール」という世界各国の提督の肖像を入れたビールがあったことと、そのうちの東郷司令長官の肖像のものを、日本の会社が「東郷ビール」として復刻させて、輸入しているらしいということがわかった。だからと言って日露戦争当時に「東郷ビール」がなかったという証明にはならない。
 でも、かつての「提督ビール」や、今も「東郷ビール」その他の情報から、日露戦争云々はウソだと思っている。
 けれども、わからなかったのが「東郷通り」や「乃木通り」だ。ネットで検索して見ると、当時も今も「トルコのイスタンブールに東郷通りや乃木通りが出来た」という文は大量に見つかる。しかし「行った」というページが見つからない。(追記:見に行こうとしたが、聞いても現地の人が知らなかったという記述は見つかる。)
 ちなみに現時点で、「fukuoka "watanabe street"」は277件、「fukuoka "oyafuko street"」は189件、「kyoto "takoyakusfi street"」は7件、「aomori "shinmachi street"」は2件あった。そのどれかで、存在するらしいことがわかる。しかし、「Istanbul "togo street"」も「Istanbul "nogi street"」もヒットするのは0である。"togo sokak"も"nogi sokak"もない。(追記:"togo cadde"、"nogi cadde"、"togo yol"、"nogi yol"もない。)
 でもヒットしないいからと言って存在しないとは言えない。青森に柳町通りは存在するが「aomori "yanagimachi street"」はヒット0だ。
 結局「東郷通り」は存在するか、存在しないかチェックできなかった。イスタンブールにアフリカのトーゴ共和国に関する施設はあるらしいが。
 調べた結果から、自分なりの結論は得ているが、「東郷ビール」のことだけ書いて「東郷通り」には触れなかった。
 会話なら「東郷通り」について自分の結論を言うだろう。でも文で残すには抵抗がある。それがトンデモ芸なら、こんな面倒な手間をかけなくてすむ。
 でも、真に受けてしまう人がいると芸にならないから困ったもんだ。

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04/12/2005

トンデモ芸

 以前に「アホとアホ芸」についてのエントリーで、バスのクイズを紹介した。
img051 この絵はバスです、どちらに走っているのでしょうというクイズがある。バスの扉は進行方向の左側にあるから、左に走っていることになる。
 このクイズに対し「絵に描いたバスが走るはずない。止まっている」と答える人はアホである。出題者も回答者もそんなことはわかっていて、描かれた絵という状況の中でのクイズであり、その状況を判断しなかったとして、何も面白くない。
 そういうアホに対して、「それでも地球は回ってる」と答えるのは、アホ芸と認められる。
 地球の自転や公転も誰でも知識として知っている。だから、地球が動いているなら、地球上の絵に描かれたバスも動いているということは理解できる。でも、日常の生活というのは、太陽が沈むと言ったり、普通は天動説を実感として感じて行われているわけである。そういう状況を判断しないことで、何より「絵に描いたバスが走るはずない。止まっている」のアホさを指摘するという効果があるからだ。
 「紙に描かれた内容」「日常的な実感の世界」「地球規模での科学的な認識」それぞれ次元が違うわけで、どの次元の論理なのかが判断できないのはアホであり、わかった上であえて飛躍するのは「アホ芸」なのである。

 「助六由縁江戸桜」。舞台には「花川戸助六」実ハ「曽我五郎時致」である。そして、実は「市川團十郎」で、実は「堀越夏雄」である。この4次元を行き来し、それを判って観るのが歌舞伎である。というか歌舞伎に限らず、芸能というのはこういう多重性を持ってるわけであり、その多重性が破綻していると作り手の予想もしていない評価が得られたりする。
 昔、田舎侍が舞台上の悪役に斬りつけたあげくに切腹させられたという話があり、名優と最良の観客と評されたようだが、やはり、アホな観客としか言えないだろう。

 「私は常にウソを言う」と言ってる人は、本当のことを言ってるのだろうか、それともウソを言っているのだろうか。これもよくあるパラドックスだ。「私は常にウソを言う」というのは言語上の次元、「と言ってる人」というのは言語外の次元、違う次元での「ウソ」と「言う」を同次元に扱うからパラドックスに見えるだけ。

 1703年1月30日(元禄15年12月14日)に旧赤穂藩の浪人が吉良義央の屋敷に討ち入って、討ち果たしたことは事実らしい。同時代の史料の研究等の結果、そういうことらしい。
 ここまでは「歴史」という次元の話だ。
 この事件を元に、人形浄瑠璃、歌舞伎が作られ、さらに映画やテレビドラマも作られている。これらは、もちろんフィクションである。ここで「物語」という次元になる。
 さらには、これらのフィクションに関連した別のフィクションが作られる。例えば、東海道四谷怪談とかだ。お岩さんあたりになると、もはや「歴史」とは無縁だ。
 
 動物行動学者のドーキンスという人が進化論の考え方として、生物の種や個体ではなく、遺伝子単位で淘汰を説明しようとした。この段階では、科学の体系に載った仮説である。
 ところが「利己的な遺伝子」という擬人化した表現を使ったことや、竹内久美子という人が、この仮説を誇張して表現した読み物がヒットしてしまった。
 歴史小説は、歴史の研究成果を応用し則ってはいるが、あくまでフィクションだ。同じように、「科学の読み物」というのは「教科書」ではなく、創作されたエンターティンメントだ。「科学」という次元に含まれるものではない。竹内氏自身も「一種のジョーク」と言っている。
 ところが、竹内氏の創作を「事実」として、新たな話が作られるのだが、こうして、当初のドーキンスの「科学の体系」や「仮説」からはどんどん逸脱してしまう。まるで、伝言ゲームだが、単に出発点がそうだったからという理由で「科学的」ということになるらしい。「四谷怪談」が歴史物語に分類されているようなものだ。

 いわゆる「トンデモ系」というのは、この「次元の逸脱」による「伝言ゲーム」を応用していることが多いようだ。何万円振り込めという伝言でも信じ込む人がいるわけだから、おかしな伝言でも信じる人はいるわけだ。
 アホに対してアホ芸というものが出来るように、「トンデモ系」の皆さんより、さらに「次元を逸脱」すると「トンデモ芸」というのが出来るのじゃないか。最近、そういうことを思っている。

 「皇統Y染色体理論」というのも、「物語」の次元に「科学」を持ち込んだわけで、絵に描いたバスのクイズに「紙に描いた絵は動かない」というアホと一緒だし、当然「そもそも皇統がフィクション」という科学的検証により反撃されるわけだ。そして、アホに対するアホ芸として「アニキャラ天皇」説、「財団法人・天皇」説というのを他のblogのコメント欄で書いてみたら賛同者もいたようだ。
 そのうち、Rh型性格学、HLA型性格学とかも作ってみようかと思う。

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02/12/2005

CANNONのコピー

 機械メーカーに「キヤノン」というところがある。「キャノン」ではなく「キヤノン」である。でも一般的には「キャノン」と発音される。
 同社のサイトによれば、「観音」様の御慈悲にあやかって、世界一のカメラを創る夢を実現したいとの願いを込めたものだそうだ。語源は観音様だが「canon」と表記される。「cannon」とは書かない。ちなみに「cannon」も同じく「キャノン」と発音され、砲身の長い大砲、つまりキャノン砲である。
 語源であっても、発音が一緒でも「キヤノン」は「canon」であって、「観音様」や「キャノン砲」とは違うのである。この記事によれば、それを理解せずに「観音様」や「キャノン砲」をコピーする人で「キヤノン」が大忙しだそうだ。

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北京原人の逆襲

img025 日本映画の「北京原人」とは全く無関係。でも、とてもテイストは似ている。こちらの特撮は東宝のスタッフが出張して撮ったらしい。
 原題「猩猩王」つまり、キング・オランウータン。英題「The Mighty Peking Man」で「強力北京原人」。中身は、Hong Kong King Kong
 とりあえず「北京原人」とは無関係。制作されたのは、文革末期だから「強力な北京の人」と訳した方がいいのだろうか。
 「キルビル」のタランティーノ監督も惚れ込んだという名作。「強力」ではあるが、脱力感漂い、どうでもいいようなトコロに力が入っていたりする。

注意:以降の文章には作品の内容に関する記述が含まれます。

 インドの奥地に巨大な「ペキンマン」が出没するということで、捕まえて一儲けと香港から探検隊が出発する。隊長はジョニー。一行は、牛車を押し、象群に踏まれ、底なし沼に飲まれ、猛虎に噛まれ、断崖から落下し、ついにジョニーだけが取り残されたところで、巨大なペキンマンに襲われる。そこに現れたのが「女泰山」サマンサ、セパレートの皮をまとっただけの半裸の金髪女性で、「ペキンマン」に彼を解放させ、自分の住居の洞窟で休ませる。
 彼女は幼い頃に、不時着した軽飛行機から一人だけ助かって「ペキンマン」に育てられたのだ。その飛行機の残骸の主翼に日本籍を示す文字が一瞬写るが、続くシーンでは全てアメリカ籍の表示。
 どうでもいいことだが、半裸の彼女のめくれそうな、たよりなげな皮ブラだが、上乳、横乳、下乳は見せても、乳首部分は決して外れないという、最近のアイドルが喜びそうな不思議な布だ。
img026 ところが、DVDの特典映像の予告編には、なぜか左のようなシーンとかもある。でも本編じゃ見せていないのだ。公開時の指定の関係なのか、それとも、これ古人の言う「乳頭狗肉」か? 
 しかし、日本の「北京原人」もだが、妙に乳にこだわって見てしまう。確かに好物ではあるが、別に他の映画じゃ、たいして気にならないのに、なぜだ。
 そして、洞窟でセックス中のジョニーとサマンサを覗くペキンマンは嫉妬に狂いつつも、身を引く決心をするのであった。
 後は、「ペキンマン」を香港に連れて行くことになり、キングコングと同じ展開になる。

 スクリーン合成はモロに画質が違ったり、ミニチュアはミニチュアらしかったりするのだが、かなり作り込んでいる。妙に演技力のある虎と豹が、特撮無しで出演している。
 悲恋のストーリー、けっこう制作費をかけてそうな大作なのに、至るトコロで、何かヘンというか、おバカな空気が漂い、ツッコミにも不自由しないし、やっぱりタランティーノが惚れ込むだけある。伝説の怪作と言われるだけはある。

 次はこれが見たくなったが、ティストは全く違いそうだ。

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01/12/2005

北京原人・うぱー

img023 「北京原人 Who are you?」が公開8年目にしてDVD化された。
 名作「デビルマン」を世に出した東映特撮である。「デビルマン」が東映特撮の様式を正しく継承した「お約束」の名作だとすれば、「北京原人」は予定調和を許さない「約束違反」の名作である。美はただ乱調にある。諧調は偽りであるとするなら、いかに「デビルマン」が名作としても「北京原人」にはかなうまい。東映特撮の最高傑作と言ってよい。
 凡人の想像力では思いもよらない飛躍と、謎や疑問を一顧だにしない展開は、いわば、シベリアから万里の長城までを一気に驀進する超特急かマンモスにも似たスピード感と力強さを感じる。

注意:以降の文章には作品の内容に関する記述が含まれます。

 ファーストシーンは1929年、北京の南西50キロの周口店の発掘現場。そして日中戦争で頭蓋骨が行方不明になるまでの経緯が描かれる。ただし、北京原人は現生人類の祖先ではないが、この映画ではモンゴロイドの祖先という設定にしてある。そして何とこの設定は・・・・以降の展開に意味を持たない。
 突然、場面はスペースシャトルの打ち上げシーン。頭蓋骨の化石からDNA配列を読みとり北京原人を現代に復元するというストーリーなのだ。その研究リーダーがタンバ哲郎で、一方、シベリアで凍結死体から取り出したDNAでマンモスを復活させるプロジェクトのリーダーが佐藤ガジロー。
 はるかな宇宙空間ならともかく、地球の周回軌道で、その作業を行う意味や、マンモスも宇宙でやったんかとかが不明のままに、11日後に南西諸島に不時着したシャトルから、本田博太郎と小松みゆき、そして子供の驚くべき成長を遂げた3人の北京原人が現れる。
 この原人を捜しに来たのが緒形直人と片岡礼子。緒方直人は原人の警戒を解くために、咄嗟に裸になる。そして片岡礼子も。しかし、咄嗟と見えても実は事前周到に用意していたようだ。何と2人は目立たない肌色のパンツを履いているのだ。片岡礼子の小振りだが重力の影響を受ける乳に、脱ぐなら宇宙で脱げとツッこむ。
 そして現れた小松みゆきの北京原人の特殊メイクで現実感のなくなった巨乳と、片岡礼子の耳や乳を見比べ、キャスティングが逆じゃと、さらにツッこむ。でも、後々、見ていくと小松みゆきが原人の方が頻度が高くて良かったようだ。
 ともかくも、全世界にセンセーショナルに公開される場が「関東実業団陸上大会」というのは東映特撮らしいが、その会場から、子供の原人は中国の物と主張する中国政府に協力するテレビ局員ジョイ・ウォンらによって連れ去られ、後を走って追った本田原人とともに中華街の茶館に隠される。発見された時には、1mの岩も跳び降りられず小松原人に抱えて貰っていた子供の原人は、全く成長していないように見えても、茶館のバルコニー席から飛び降りるという素晴らし運動能力の成長を見せる。
 取り返そうと警察が出動し、どうなるかと思っていたら、あっさり帰って来たり、予測のつかない展開の末、本田原人と子供の原人は天安門広場を東に向かう車の中。
 どうやら、天安門の北西にあたる北京動物園に向かっていたらしいのだが、まず、故郷にということで周口店に向かう。しかし、周口店に現れたのは日本大使館の車。
 日本国内で取り返されることなく出国した原人が、なぜ中国で逃げなきゃならないかの謎を置き去りにして、原人2人と中国のテレビ局員は北京北方100キロの万里の長城まで走って逃げるのだ。素晴らしい身体能力だ。一緒にカメラを担いで逃げるテレビ局員も。
 長城で叫ぶ原人。その叫びに呼応し、シベリアで復元されたマンモスが、南に走り出す。周口店の原人たちは、全く学習しなくてもシベリアのマンモスを呼べるという本能を持っていたのだ。
 日本に残った小松原人も、緒形直人と片岡礼子によって脱出し、一行は軽飛行機を盗んで中国に向かう。
 かくして、原人3人は中国で再会し、ジョイ・ウォンと緒形・片岡が見守る中、マンモスに乗って立ち去る。
 このような、ココロ暖まるも強引なストーリーの中に、細かな謎や疑問が回答のないまま放置され、たっぷりとくすぐりが仕込まれている。
 豪華配役に制作に巨費をかけながら、公開当時には、こういうシュールなコメディは受け入れられず、興行成績は良くなかったそうで、DVD化まで8年を要したのも、そのせいだろうか。でも、この作品を見ずにおバカ映画は語れない必見の名作だ。

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