E=Mc^2
E=Mc^2、有名な式だ。最初に知った時には、そう衝撃でもなかった。それまで、質量は質量、エネルギーはエネルギーと思っていたのだから、本当なら衝撃的なはずなんだけど。おそらく、この式が「実感できる」ものじゃなかったからだ。
さて、唐突に歌の話である。「お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜や」という歌詞があったとする。この歌で「あ」と「ほ」の音の周波数の比は一定じゃなくてはいけない。つまり、「あ」と「ほ」の音程は一定なのだ。最初の「お」の音の高さ、つまり周波数を自由に決めるのはいい。けれども、「お」が決まれば、「や」に至るまでの音の高さは決まってしまうものだ。歌というものは、そういうものだと思いこんでいた。
ところが、浄瑠璃とか「語りもの」の日本音楽を聴いていると、「あ」と「ほ」の音の周波数の比、つまり音程は一定じゃなくてもいいようなのだ。でも、全く勝手というわけではない。音程が変わるのと同じ効果を得られるように、音量やテンポを変えなくちゃいけないらしい。
単純化してしまうと、「あ」に対して「ほ」を高い音にする代わりに、「ほ」の音程を下げ、音量を上げるという感じである。
それまで、歌においては、音の高さ、大きさ、長さと間隔というのものは「別物」だと思っていたのが、音の大きさを強さに替えてもいい歌があるらしい。そう感じただけで、ホントかどうかは知らないが、それに気付いた時は、けっこう衝撃的だった。質量がエネルギーに変わるよりは、実感できたし。
じゃあ、その変換式は、というとワカラナイのだが。
私が昔に、歌とはそういうもんだと思っていたリクツはヨーロッパ伝来の歌のリクツだ。そのリクツでは、周波数が2倍になる間のうち12の音しか使わずに歌うようなのだ。無限にある周波数のうち、なぜ12だけかというと、複数の周波数を合成した場合の聞こえ方が、周波数比が単純な方が、ヒビキというのがいいかららしい。それだけじゃなく、いろんなリクツがあるんだろうけど、そういうリクツの結果、ヒトリで伴奏無しで歌っても音程というのは歌の基礎なのだ。
日本の楽器でも、このヒビキのリクツは三味線の調子とかに見られる。ところが、浄瑠璃の場合など、三味線に「つかず離れず」なんて言う。日本の歌にどういうリクツがあるか知らないのだが、ヨーロッパ伝来の音楽でとても大事なヒビキやメロディとは別のものを大事にするリクツがあるようで、その結果、音程が決まっているわけじゃないという歌もあるようなのだ。
今、日本の昔からの歌を聴いてもいいと思うものは多いし、ヨーロッパ伝来の歌もいいと思うものが多い。中国や中近東の歌でもいいなと思うことがある。そういう古くからの歌だけじゃなくて、最近の歌でもいいと思うものはある。それぞれの歌にどういうリクツがあるのかわからないのだが。
けれども、明治に、日本にヨーロッパ音楽が入ってきた時には、「うまく」取り込むのは簡単じゃなかったような気がする。
この時期から出来た歌というのは、何か貧粗な感じがして、聴く気にならないのだ。唱歌、軍歌、歌謡曲の類だ。きっと、日本の音楽とヨーロッパの音楽のそれぞれのリクツを整合させるような「統一理論」が作れなかったからじゃないのかと思う。それとは逆に、日本の歌も、ヨーロッパ伝来の歌も歌えなくても、それでも歌える歌という感じなのだ。だから、自分で歌うにはいいんだろうけど、聴いて感動するようなもんじゃないという気がするのだ。
演歌とかだと、和風の「だし」も取れない、洋風のスープも取れない、だから味に深みの出ない煮物をキムチで味付けしたような感じがする。
まあ、茶漬けでいいや、という感じの良さも歌謡曲にはあるだろうし、酔っぱらった時には、ちゃんと味わえるもんじゃなく、軍歌やなぜかよく似たアニソンなんていいのかも知れない。、
さて、大晦日。「御馳走」は正月に食べることにして、蕎麦ですますかというののが「年越し蕎麦」か。同じように、正月休みに劇場に行くことにして、大掃除の仕上げの「ながら」には歌謡曲がいいのかも知れない。でも、やっぱり、私は、歌番組は観ないだろうな。野球拳がなくなったのが残念だ。
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