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10/12/2005

今日は鉄砲まつり

img028 今日、明日と埼玉の小鹿野町で「鉄砲まつり」がある。この祭りに、以前は行ったことがあり、この祭りが「終わった」年にも行った。そして、それ以来、行こうとはしていない。
 今も行われているのに「終わった」というのは、意味とカタチが切り離されたからだ。
 この祭りは飯田八幡神社の祭礼で、そのハイライトは、神社にやってきた行列が、順次、神社の石段を駆け上がって、社殿の周囲を一周するという行事であり、神馬が石段を駆け上がる際に、沿道の両側から空砲が奉納される。それで「鉄砲まつり」と言う。
 空砲の奉納は、猟師が豊猟や安全を祈願してのものだ。小鹿野では猪肉料理を出す旅館があり、観光資源になっている。多くのというより、ほとんどの祭礼がそうであるように、祭礼行事と地域経済は密接な関係を持っていた。
 ところが、ある年、この空砲が銃刀法違反であるという指摘を行う馬鹿がいた。形式的に違反していても、銃刀法で保護すべき法益を祭礼の空砲が侵害するはずはない。だから、銃刀法があっても空砲の奉納は継続されてきた。つまり、指摘するヤツが馬鹿、ですむ話である。
 ところが、ハンター達の反応は違った。危険物を扱うという意識からか、より安全、絶対安全な方を指向し、馬鹿の指摘であっても「違法」呼ばわりされること自体を避け、空砲奉納を取りやめる動きが起こってしまった。
 そして、最後に私が行った年には、「猟師の空砲」はわずかしか使用されず、おもちゃの鉄砲を使用したり、「川越藩鉄砲隊」を復元している人たちの火縄銃であったりした。安全祈願も祭りの意味だろうし、「火縄銃」の人たちがが参加してもそれはいい。でも、小鹿野町で行われる以上、主役は猟銃のはずだ。
 その年の写真であるが、上の方に写っているのは猟師の服装ではない、幕末期の鉄砲隊のコスプレだ。こうして、この年以来、鉄砲まつりは「意味」と「カタチ」が切り離された。
 言うまでもないが、「伝統」に意味や価値があるのではない、意味や価値を失わないから「伝統」になる。現在も、小鹿野町では猪鍋を名物にしている旅館があり、山村であることが観光資源になっていて、猟師の空砲奉納には意味がある。だから、継続する意味はあり、祭りが「伝統」にもなる。しかし、おもちゃの鉄砲や藩兵の火縄銃じゃ、「かつて、こんな祭りがあった」と「カタチ」を再現しただけで、ビデオによる記録とたいして変わらない意味しかない。
 飯田八幡神社の祭礼は続いているし、今も意味を失ってはいないだろうけど、「鉄砲まつり」は終わり、「伝統」を偲ばせる行事として「鉄砲まつり」ごっこが行われていると思っているわけだ。現代の服装であっても「猟師の空砲」が復活すれば、いったん途絶えた伝統が継承されたと思う。

 今、「伝統」と考えられているものの中には、近代になって意味を失ったものもあるし、それどころか、近代に新しい意味に置き換えられたものも多い。カタチだけが「伝統」で、意味は置き換えられたもの、意味は「伝統」であってもカタチは変わったものもある。そのどちらであれ、「伝統」に意味がある、価値があるなら、その意味や価値のゆえに残るはずである。「鉄砲まつり」のように途絶える必然性がないのに終わる、ということはあまりない。
 「伝統」だからという説明は不要だ。ただ「伝統」だから、としか説明の出来ないものは、多くは「伝統」ですらないことが多い。

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Commentaires

こんばんは。
たしか、あの辺には「ロケット祭り」というのもありましたね。
どうも秩父の祝祭は火薬の匂いがします。

Rédigé par: 非国民 | 10/12/2005 22:51

 吉田町の「龍勢」ってやつですね。当日に行ったことはないのですが、紹介施設がありました。
 このロケットが奉納されるのが椋神社で、秩父困民党が立て篭もったトコロじゃなかったでしょうか。
 この事件でティティブが有名になって、残虐なミカドとアホなナンキ・プーの出てくるオペラ、ミカドの舞台になったと。

Rédigé par: 南郷力丸 | 10/12/2005 23:55

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