説得力か納得力か_4
アタリマエの話であるが、コミュニケーションには共通のツールが必要だ。このblogに書かれた内容を理解するためには日本語が必要である。
その前に、日本語の文として表示するには、W3Cの「XHTML 1.0 Transitional」の表示できるブラウザが必要である。さらにはデータをダウンロードするため、インターネット上のプロトコルに基づいたクライアント・マシンが必要である。
さらには、このblogの語彙が、ある程度は理解できることが、意味を把握するためには必要になる。
つまり、コミュニケーションのためには、最低限、語彙についての共有が必要であり、さらには書かれたコトやモノに対して、共通の認識を持つことが必要になる。
昨年末に、熊本に行った際に、公共交通の大幅な乱れを体験した。「大雪のため」という説明を受けた。簡単には納得出来なかった。なぜなら「3cm程度の積雪」が「大雪」であるという認識がなかったからである。地域によって「大雪」の概念が異なることはわかっていても、想定外だった。地元の人に「地面が見えなくなるほど積もるのが20年ぶり」という話を聞き、この地での「大雪」の概念を認識して、はじめて「納得力」を持つことが出来た。
さて、「馬が好きな人なら、熊本に行くのは嬉しい。」というのは「説得力」があるだろうか。私の場合「馬が好きな人」であり、うまい馬刺が比較的安価に食べられる熊本に行くのは嬉しい。だから「納得力」を持てる。でも、「馬が好きな人」でも小倉が嬉しい人や都井岬が嬉しい人もいる。人によって「馬が好き」の概念が違い、共有できない人に対しては「説得力」がない。
このblogでは、あまり一般的でないような例示をよく使う。先のエントリーでも、何も遠くから歌舞伎を見に行く話にしなくてもいい。近所のミニスーパーと遠くの大型店あたりの例で説明したっていいのだ。ただ、こういう一般的な例を使うことで、私の全く予測していない認識、それもマーケティングの専門家によるツッコミが入ると、本来の趣旨じゃない話になるので、つい避けてしまうのだ。
このblogは誰かを説得しようとするものじゃない。他愛のない出来事や考えたことをエエカゲンに公開しているだけである。だから「説得力」のある文などは心がけていない。ただ、文の内容に共通の認識を持つ人が「納得力」を発揮してもらえばいい。
だから、語彙についても回りくどい書き方をすることがある。例えば、靖国神社のことを「件の新興宗教」などと書く。靖国神社が、従来の神道とは別のモノとして明治に出来た新興宗教であると認識してない人、「件の」というベタなクスグリを理解できない人、こういう人には「納得力」を期待できないと思っているからだ。
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