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08/01/2006

説得力か納得力か_5

 「説得力」や「納得力」というのは、既存の「共通の認識」によって、新たな「共通の認識」を作ることのようだ。しかし「共通の認識」があっても、新たな「共通の認識」が出来るとは限らない。
 味噌は食べられる。糞は食べてはいけない。これも共通の認識である。さて、味噌にわずかばかりの糞が混じっているとする。その状態は共通して認識している。この場合、少し糞が混じっていても味噌に違いないから食ってよい、というのと、味噌であっても糞が混じったものを食うべきではない。いずれに「説得力」があるだろうか。
 この段階では「説得力」や「納得力」の問題ではなく、美意識の問題であり、味噌への思いこみが強いか、糞への嫌悪感が強いかの話になる。つまりは「価値観の相違」ということになる。
 ところが、世の中のことは、そう簡単に「価値観の相違」に到達できるわけじゃない。まず、「味噌である」「糞である」という共通認識さえないことが多いのである。
 「糞である」という認識のない人にとっては、味噌を食って何が悪いのだ。余計なお世話だとしか言いようがない。
 「味噌である」という認識のない人にとっては、そもそも、そんなものを食う理由がわからない。糞は食うべきものじゃないという認識がないのではないか、糞を食うのが好きなのだとしか思えないわけである。
 だから「価値観の相違」というのは、「味噌である」と「糞である」のそれぞれに「納得力」のある人の間でしか成立しないのだ。
 少し糞が混じっていても味噌だから食ってよいというのは、「味噌である」という共通認識がなければ成立しない。だから「味噌である」に「説得力」がないのであれば、この論自体が「説得力」を持ち得ないわけである。コエタゴに入っているものを、「味噌であると思ってる人がいるから味噌だ」と言われても「説得力」はない。
 もっとも、アメリカ産の牛肉は安全かどうか、食べていいかどうか、というのは、牛肉を食物と認識していないヒンドゥー教徒には無意味な問題なのだ。このように「味噌である」と認識するかどうか、「糞である」と認識するかどうか、それが「価値観の相違」に起因することだってあるわけで、どこまで行っても「価値観の相違」で片づくこともありうる。
 「価値観の相違」により、個人として「味噌である」と「糞である」に「納得力」を持ち得ない場合であっても、社会的には「味噌である」ことや「糞である」ことにしようと決まっている場合もある。そうなると、仮の「納得力」を持たなければ、社会的な問題の在処を認識することが難しい。「価値観の相違」に辿り着くのだって、それなりの「納得力」が必要になるのである。
 実は「説得力」がない、つまり共通した認識でないことを前提にしていたり、論理に破綻があることを、「価値観の相違」ですましていることも多いと思う。

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