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31/01/2006

千年前

 千日前は、けっこう知られていると思う。トコちゃん千日前を行くとか、食堂百貨の千日堂へ行こうじゃないかとか、ヒヤでええからもう一杯とか。

 千年前はどうだろう。西暦だと1006年だ。
img069 この年、おおかみ座に超新星が現れた。記録に残っている最も明るい星らしい。もっとも現れたのはさらに7100年前で、この年に観測された。だから、おおかみ座の反対側ペルセウス座方向に1000光年の彼方では、今、現れてるわけだ。
 その記録は、日本・中国・エジプト・イラク・イタリア・スイスなど20ヶ国以上にあるらしい。ということは、このあたりの1000年前の様子は、ある程度わかるということだろうか。

 日本では、この超新星のことを天文博士の安倍吉昌が宮中に奏上している。前年に死んだ安倍晴明の次男だ。伝説だと「信太の森のうらみ葛の葉」の狐の孫になる。
 当時の一条天皇は25歳。祖父の藤原兼家が花山天皇を追いだして、数えで7歳で即位した天皇だ。そして最高実力者は叔父の藤原道長で、40歳頃で左大臣、日記が残っているので、彼の見聞したことはある程度わかるし、他の人の日記もある。
img070 紫式部は30過ぎ、前年に宮中に就職し、その年に書き始めた「源氏物語」の「末摘花」あたりを執筆中。
 清少納言は40歳。5年前に宮中を辞し、再婚相手の任地の大阪で暮らしている時期だと思うが、この頃の記録は残っていない。
 和泉式部は30前、不倫相手が3年前に死んだので、その弟に乗り換え、出産した頃。赤染衛門はおそらく50前。尾張から京に戻って来ていた頃。

 中国は、遼というか大契丹国と宋の時代で、3年前に不戦条約が成立。この頃の詳細な記録もあるはずだし、調べればわかるだろう。
 朝鮮半島は、10年前に高麗王朝が鴨緑江まで領土を広げ、統一をはたした頃で、やはり、調べれば詳しいことがわかるだろう。
 ヨーロッパはゴチャゴチャしていた時期のようで、私にはよくわからない。フランス王国は2代目の国王の時代。キエフ大公国はウラジーミル1世の時代で最盛期。
 イスラムも勢力を延ばし、イベリア半島を支配下に置き、インドに迫っている。
 アメリカでは、マヤ文明が最盛期のようだが、詳しい様子はわからない。
 北アメリカ、アフリカ、オーストラリアの様子は知らない。

 私が住んでいる所はたぶん畑。60年前以前は水田だった。ただし灌漑水路が整備されたのは江戸時代。それ以前から小川の類はあったのは確かだし、周辺の寺社地形から山林原野じゃなかっただろうから、たぶんとある寺領の畑だろう。
 最も近いコンビニまで150mほど。そのうち120mくらいは復員2mちょいの細い道路。この道路は1000年前には既にあったようで、いろんな復元地図にも描かれている。江戸時代の灌漑水路整備時、戦後の宅地開発時に大きく地形が変わっているのだが、その時にも、多少拡幅されたかも知れないが道路自体は残ったようだ。

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30/01/2006

安普請会

 安普請というのは、質を下げて価格を抑えるた建物のことだ。耐震性能をごまかした安普請が問題になっており、安普請の会まであるのか、と思ったら、政治資金の団体で「安普請会」とはビミョーに違うようだ。さて、安普請の方法を開発したSGグループ、つまり総研が指導(指示、あるいは提案)している企業らで構成しているグループは、当初は免震構法の技術を共有し、普及させていこうという試みだったそうだ。
 地震で潰れないような建物を造るには、建物の構造の剛性を高めて、揺れに耐えるというのが普通の方法だ。それに対して、揺れ自体を弱めてしまうという方法もある。と言っても、地べたが揺れるのを止めるわけにはいかないから、地べたと建物の間に、揺れを吸収するクッションを設ける。こういうのを免震構法というわけだ。それで、建物にかかる揺れが弱まるわけだから、建物の剛性は弱くてもダイジョウブなのだ。
 つまり、建物の耐震性を弱めても、免震基礎に載せればいいのである。けれども、免震基礎に載せないで免震構法並みの構造にするという安普請の方法をSGグループは開発したということらしい。
 耐震と免震ではリクツが違うのである。免震基礎に載せないのに、免震のリクツで作った建物というのは、大地震に耐えられないわけで、構造計算書を偽造しないといけなくなる。
 ところが構造設計ではなく、意匠設計にもリクツはある。だけど、違うリクツで作った建物を合成しても、違法にはならない。不細工なだけで。
 京都の郊外あたりには、フツーのビルに「和風」の屋根が乗った建物がちょいちょいある。別に勾配屋根の付いた中高層の建物は不思議じゃない。温泉旅館風あたりだと、建物全体を「何となく和風」にしちゃう。けれども、近代風のノッペリした外壁のリクツに、日本建築のマガイモノの屋根じゃリクツが違うわけで、不細工だ。引退したての相撲取りがチョンマゲ付けてスーツを着ているみたい。
 その昔「ハッコーイチウ」なんてコトバが流行った時期に、欧風の建物に和風屋根という「帝冠様式」というのがあったようだが、さしずめ京冠(ケーカンと読んでね)様式と言えばいのか。

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28/01/2006

ライブドア問題、規則と倫理

 ちょっとタイミングを逸した話題だが、ライブドアの問題について書いておく。基本的にはルールでは規制できないが、明らかに公序良俗に反する行為に、どう対処するかという問題だ。

 ライブドアのblogにトラックバックが送信できないということがあった。いつのまにか、ライブドアblogのトラックバック受信設定に「参照リンクの無いトラックバックを許可する」という項目が追加され、デフォルトではチェックが入っていない。一般の常識では、従来通りをデフォルトにするから、普通のユーザーは設定を変更せず、そのままにしているからだ。

 web上では、リンクを張るのも、トラックバックを送るのも自由に出来る仕様になっている。仕様がそうなっている以上、自由にすればいいというのがルールだ。
 それで、当方にトラックバックを送られて来た場合、相手の記事に当方のリンクがある場合、双方向にリンクが形成されているわけであり、わざわざトラックバックを送信する必要はないので、そのままにしている。

 当方へのリンクがない場合、3つの選択肢がある。削除してしまう。そのままにする。相手にもトラックバックを送る。相手の記事を読んで判断すればいい。
 削除してしまうのは、当方の記事に対して送信元の記事が無関係な場合。関連があっても、こちらの記事を読んだ人が送信元の記事を見る必要が全くないと思ったケースだ。相手の記事にコメントが不可能なケースも削除することがある。
 同じテーマに対し、別の考察を行っている場合、相手の記事への言及がないことはあるし、たまたま以前のエントリーに関わる記事を見つけた場合、リンクなしでトラックバックを送ることはあるわけである。spam以上に迷惑なアラシさんが来そうな記事の場合、参照した相手にまで迷惑を及ぼさないため、あえてリンクを張らないというケースもある。
 こういうトラックバックに対する判断は、相手が自由に対処できるのだから、相手にまかせればいい。

 ところがライブドアの場合、デフォルトでは、当初から双方向の参照のみを許可しているわけだ。何も考えたくない人、トラックバックやリンクをオトモダチの確認にしか思っていない人にはすごく便利だ。
 なぜ、こういう安易なことにするかと言えば、削除すればいいようなトラックバックが多く、その対応が面倒であるからだ。ルールで規制されていなければ、何でもしてしまう輩が多いからだろう。
 ただ、その安易な方法をデフォルトにしてしまったので、ライブドアユーザー以外にも迷惑が及んでいるわけである。
 HTMLメールをデフォルトにした間抜けなメーラーがあった。今でもあるのかもしれないが。HTMLメールを使いたい人同士なら、そういう設定にすればいいだけなのに、デフォルトが特殊な仕様ということで、随分と迷惑がられていた。
 ライブドアにしても、ルールで規制されていなければ何でもしてしまう連中が迷惑だとしても、新たな迷惑を発生する方をデフォルトにしてどうするんだろ。

 なお、この記事に対して、内容も読まずにrssの最初だけを見てトラックバックを送信して来る人がいるかも知れない。

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27/01/2006

宝くじの謎

 宝くじって、なぜ買うのだろうか。ちょと考えてみた。
 単純なモデルにして言えば、100円づつ1万人が払う。集まった100万円のうち、50万円をシステムの費用や社会事業や利権として引いて、50万円を誰かに払うという構造だ。
 当たった1人は、100円払って50万円貰える。残りの9999人の100円は丸損だ。合計しても、100万円払って戻るのは50万円だから、トータルで考えれば、買う人は損という計算になる。
 それなのに買うというのは、「100円損した気分」より「50万円当たるかもしれない気分」の方がいいからだろう。気分を買うものなんだろう。
 逆を考えてみればいい。1万人が100円づつ貰える。要する費用は100万円だけど、そのうち貰った人から返して貰うのは50万円だ。抽選で当たった人は50万円を払わなければならない。この「くじ」は、トータルで考えると絶対に得だ。
 でも、誰も買わないと思う。100円貰ってもそう嬉しさより、50万円払わないといけない方が嫌だからだろう。
 つまり、客観的な損得よりも、確実でも100円と不確実でも50万円の比較になってしまっている。自分が得するかも、損するかも、という気分の方が大事なんじゃないかとも思う。

 駄菓子菓子。
 北海道や九州に行くのは飛行機の方が列車より「少し」便利だ。列車と飛行機じゃ事故の確率もその結果も大きく違う。でも、大勢が少しいい目を見て、少数の誰かが酷い目にあう飛行機を使う。皆が100円得をして、1人が50万円損をするくじは買わないのに、なぜだろう。

 宝くじで1億円が2回当たることはあるのだろうか。普通はないと考える。それでは、自分に1億円当たることはあるのだろうか。当たるかも知れないと思うから買う。
 1億円当たった人に、さらに当たる確率と、自分に当たる確率は一緒なのに。
 自分に1億円当たると嬉しいからだろうか。確率が一緒なのに、結果が嬉しい方が「ありうる」と思っているわけだろう。贔屓のチームが優勝すると予測する野球ファンやサッカーファンと同じ心理なんだろう。

 駄菓子菓子。
 知人の例えば、忠信さんや赤星さんが宝くじを買っても、1億円があたるかも知れないと思ってしまう。忠信さんに1億円が当たるのも、誰かに1億円が2回当たる確率と同じなのに、ずっとありうると思ってしまうのは、なぜだろう。

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26/01/2006

ミイラかよ!!

 どうでもいいニュースだけど、ボビー何ちゃらが所属事務所で暴れたとか。それで、事務所のサイトの所属タレントを見たら、もう抹消済み。
 でも、そんなことより、「 キューティー★マミー」という3人組が載っていた。確かに、懐かしのタレントだけど「木乃伊」扱いはないだろ。

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25/01/2006

炎上と交際

 古い話題であるが、大峰山の「女人禁制」に関わる論議を例に。
 以前にも書いたが「地元の反対にも関わらず登った」というニュースから、「地元が反対していても登ることができる」という推論は誰にでも導くことができる。つまり、大峰山に「女性が1300年間登っていない」という事実認識には根拠がない。「1300年の歴史」は「女人禁制の実態」ではなく「女人禁制の規則」にある。
 実態の話になれば、エベレストには1975年まで女性は登ったことがない。1300年どころか有史以来の「歴史」だ。けれども、登った田部井淳子さんを非難する人はいない。だから、実態として「女性が1300年間登っていない」から「登ってはならない」ということにはならない。
 この問題は、大峰山に「女人禁制の規則」という実態のない規則が掲げられていることをどう判断するかにある。

・この規則は宗教的見地からのものであり、観光目的の入山者にまで適用されるべきではない。寺が規則撤廃の意向を持ち、観光目的の入山者を受け入れている現実から、撤廃すべきだ。

・現実に女性でも入山が可能であり、その規則が残ることが歴史遺産として意味を持ち、その特殊性が観光に寄与しているから、維持すべきだ。

 こういう論理は、どちらにも正当性があると思う。この規則の影響力を重視するなら前者に、この規則自身の持つ特殊性を重視するなら後者の意見に傾くだろうと思う。
 寺が撤廃の意向を持っていることで宗教的理由が不在としているが、信徒の間には、宗教的理由が存在するかもしれない。また、現実に女性が登れるとしても、男性観光客が堂々と登り、女性がこっそりであることを不合理とする意見もあろう。それらは相手への反対理由になっても、撤廃か維持かの正当化理由とは矛盾しない。
 私が規則の維持に賛成なのは、歴史的遺産としての価値を評価しているわけで、国家神道をでっちあげるために明治政府が行った修験道への弾圧の中でも残った規則に、原爆投下の目標となりながら骨組みの残った原爆ドームに対し、核兵器反対の人たちが寄せるような感情を抱くからであり、国家と新興宗教の結託への警鐘としての記念碑敵役割を見いだすからだ。ただし、そのような個人的な感情は人それぞれであり、「歴史遺産としての意味」も人それぞれだ。
 おそらく、この「女人禁制」という規則を維持すべきか撤廃すべきかの根拠というのは、先の選択肢に集約できると思っている。

 そこで、大峰山での報道について、何らかの論議を始めるとするなら、このような前提があっての話になるはずだが、困った存在が2つある。
 ひとつは、共通の認識に辿り着く前に、論議を始める人である。ニュースで知ることのできる事実を把握してない人、その上に事実と当為性を分けられない人で、最初に除外した意見だ。「ヒンドゥー寺院で牛丼を食ったようなもので」「1300年の伝統を破るとはケシカラン」の類であり、古代に出来た「実態のない」規則に対して、トランスジェンダーはどうなんだとか、性的禁忌ならその禁忌はどの範囲だとかの疑問を、そのまま、地元に聞いてしまう連中もその類だ。

 こういう、考えないで参加する「スタートに立たない」型とともに、もうひとつ困るのは「ゴールから走る」型だ。
 つまり、撤廃を主張する人はこういう人、維持を主張する人はこういう人、だから敵だ味方だ、敵の意見は間違ってる、味方の意見は正しいという結論を先に出し、それを前提に論議する人だ。「女人禁制」を問題にするような団体だ、だから間違ってるとか、問題提起は理解できるという類だ。

 全く別問題だが、こういう「ゴールから走る」典型が伊勢崎のジャンヌダルクで、彼女と同じく反ジェンダーフリーの人が「女はどういう場合でも守るべきだ」から、二次レイプもどきの言説を批判しているとか、「猪口邦子は子供を二人産んでるからいいが嫁にも行かぬ女はケシカラン」から批判している可能性は全く考えない。
 批判は「フェミナチ」の猛撃」と、「意見の批判者=思想上の敵」という結論が先にあるわけで、見解の違いと決め付け、自分の論理のおかしさを検証しようともしない。その意味でも、男装して軍を率いた娘より、風車を巨人と思い込んで戦う騎士に似ているのだが。
 「ゴールから走る」型の場合、都合のいい悪いで情報を選択することもあって、自分の立場に都合のいい論理や知識は豊富なので、自分の論理がわからない相手は馬鹿だと決めつけることもできる。でも、不利な情報は無視することが多いので「スタートに立たない」型にも似た側面も見せる。

 ブログ炎上というのは、この位相の違いの間で繰り広げられることが多いように思う。「共通の認識がない」、「論理が通じない」のだから、論議が進むはずがない。
 このblogにコメントしている人で、私と明らかに社会認識が違い、結論も違う人もいるわけだが、普通にコミュニケーションが成立しているのは「価値観の相違」が見えるからだ。
 もっとも、相手の見解や意見より、コミュニケーションスキルによって「敵・味方」を峻別している「ゴールから走る」型なのかも知れないのだが。

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24/01/2006

脚光かスポットか

 トンデモ記事でにわかに脚光をあびた伊勢崎の・・・と書きかけて、ふと思ったのだが「脚光をあびる」というのは何なのだ。で、調べてみた。脚光というのはフットライトのことらしい。
 そこで、疑問なのだ。「今週のスポットライト」とか「にわかにスポットをあびる」とかスポットライトならわかるのだが、なぜに「フットライト」なのだ。
 昔の歌舞伎とかでは、俳優の顔をロウソクの灯りで照らしていた。ロウソクだし、舞台の前からだから、脚元から照らしたわけである。これは、いわばスポットライトと同じ効果のものだ。でも、これはフットライトとは言わない。
 俳優に当てる照明には、大きく分けて「地明かり」と「スポット」がある。使ってる器具とかは共通することもあるが、「地明かり」というのは舞台全体を明るくするもので、「スポット」というのは特定の場所や特定のタイミングで照らして効果をあげるものだ。
 知人の発表会とかの手伝いに駆りだされた時など、私はエエカゲンなので「地明かりは常で、生と#78」(舞台全面の明かりは普段使っているセッティングのままで、色なしと濃い青の2色)で済ませて、この場面では、こんな雰囲気、この人を注目させる、というソロ用のスポットライトのセッティングだけ指示したりする。
img068 それで、フットライトというのは最近はほとんどいっていいほど使わないが、特定の俳優を照らすものではない。舞台の先端にあって、なるべく陰影を付けないように舞台全体を明るくするものだ。
 ということは、フットライトをあびるのは、舞台の前に出てくるということなのだ。結果的に注目を集めるわけだが。
 ということで、今後は、本人にその気がなくともs、周囲の状況で注目された場合に「スポットライトをあびる」、本人の行為によって注目される場に出てきた場合「脚光をあびる」と使い分けることにした。
 耐震偽装でにわかにあびたのは、伊藤公介はスポットライト、渡辺無能は脚光という感じだ。
 伊勢崎のジャンヌダルクの場合は「脚光をあびた」でいいかと思ったが、むしろ群馬だけに「馬脚をあらわした」がいいのかも知れない。

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23/01/2006

続・今日は旧暦で何年か

 先日の「今日は旧暦で何年か」だが、聞いてみた。私だって国のユーザーだから、国の機関に聞いてみてもいいだろう。
 暦に関しては国立天文台だろうが、webサイトのFAQページに
 日本で「公式な」旧暦の計算というものはおこなわれていません。そのため国立天文台でも、「今日は旧暦の何日か?」などの、旧暦に関するお問い合わせに、はっきりとしたお答えができないことがありますことをご理解ください。
と書かれている。
 旧暦が大きく関わるのは潮位だ。それで、海上保安庁のサイトにも「天文現象や暦(こよみ)についての質問はこちらまで」というメールフォームがあったので、聞いてみた。
 海上保安庁海洋情報部海洋調査課航法測地室に暦算担当という部署があるらしく、回答が来た。
 旧暦については正式には認められていない訳ですから、元号法を旧暦にまで適用することについては疑問があります。
ということで、新暦の平成18年1月21日は旧暦では平成17年12月22日が一般的だと考えられるそうだ。
 回答してもらったことだし「海猿」でも見ようかな。

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22/01/2006

いいサンプルなので

 コミュニケーションというのは、ラテン語の共有するという「communis」が語源だそうだ。認識を共有するために、認識を伝えたり、受け止めたりするわけである。
 その結果として、他人の意見に従うとか、従わせるということもあるだろうが、少なくとも、それ以前に、双方の意見や認識がどうなのか、それを知ることが必要になる。
 ところが、以前から「位置」を知るだけのコミュニケーションというのが気になっている。
 最初に触れたのは、昨年の5月で、互いの認識を知り合うというより、同じ位置であることを確認するだけ、意見の交換のない連帯感だけのコミュニケーションスタイルだ。

 14日のエントリーで、コミュニケーションのためなら「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できるはずが、「自分の位置」を確認したいだけなら、相手と自分の位置が優先で、その位置次第で「納得力」が大きく変わるということを書いた。位置を知りたいだけだから、違うと全く「納得力」を発揮しないから、いかに「説得力」があっても無駄であり、逆だと全く「説得力」がなくていい。
 そこでいいサンプルを提供してくれたのが、先のエントリーの自称「伊勢崎のジャンヌダルク」だ。
 論理がおかしいという批判に全く反論せず、「思想」や「見解」の相違だと決めつけているわけである。
 なぜにこうも「納得力」がないのかと言えば、自分の「論理」ではなく「思想」を批判されていると思いこんでいるのだと思う。だから、批判する相手の「意見」よりも、まず「思想」的立場が違うからだとしか考えられないわけだ。
 普通は、意見の違いの分岐点はどこかを検証して、その分岐の理由を考える。そして、価値観の違い、つまり「思想」や「見解」に行き着くわけである。ところが、意見が違うから価値観が違うまでノンストップで辿り着くわけである。
 つまり、8日のエントリーで書いた
実は「説得力」がない、つまり共通した認識でないことを前提にしていたり、論理に破綻があることを、「価値観の相違」ですましていることも多いと思う。
のいいサンプルにもなってくれたようだ。

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伊勢崎のドンキホーテ

 天皇の女系容認というのは、過去の価値観で作られた天皇の物語を現代の価値観で侵食することで、同じ理由によって天皇自体の存在も否定されかねない。それで、女系容認に反対している人もいるわけだ。
 ところが「女系天皇反対論者の根拠がアレだからなんともならんと思うんですけど。」というのが一般的な反応だろう。よりによって、男系の主張のうちY染色体云々というトンデモ論だけをマスメディアが面白がって取り上げた結果だ。
 そのため「女系反対=トンデモさん」という「納得力」が普及してしまった。もはや、「女系容認=現代の価値観=天皇不要論」は「説得力」を割り引いてしか受け取られなくなっている。

 最近、自称「伊勢崎のジャンヌダルク」というのが注目されている。詳しくは本人のblogを見ていただければいいが「男女混合名簿だと性犯罪が増える」という珍説を披露されている。珍説のついでに被害者への二次被害もどきの言説もまき散らし、その方面でも反発されているようだ。それで、反論できないと「思想は変えられません」「見解の相違」だそうだ。
 皆さんが問題にしてるのは、思想や見解の問題じゃないんですけど。

 既に「反ジェンダーフリーの理由がアレですから」というふうな使い方を各所でされはじめているようなので、さらに何か書くこともないのだが、ワタシ的に興味を持ったのは、ジェンダーフリーに反対しつつ、女性で軍を率い、男装を理由に死刑にされたジャンヌ・ダルクを自称して、騎士のヨロイを着たイラストまで添えていること。神の声でも聞いたのだろうか。
 それで思い立って「伊勢崎のドンキホーテ」を検索してみたら、17件見つかった。ただし、そういう名前の店があるだけのようだ。

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かえる大橋

img067 生がえる冬眠中につき、以前に撮った橋の写真でも貼っておく。電車の窓から見つけて、停車中にあわてて撮ったので、ボケてる。撮り直さないと。

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21/01/2006

今日は旧暦で何年か

 播州赤穂藩の浪人達が吉良義央の屋敷に討ち入ったのは、元禄15年12月14日である。新暦に直すと1703年1月30日である。なぜ新暦に直すかと言えば、現在、使用しているのが新暦であり、季節感がわかりやすいからだ。
 さて、今日は2006年の1月21日だ。旧暦だと12月22日である。では何年なのか。
 2005年というのは違和感がある。西暦年と旧暦月日の併記よりも、元号を使った方がいいように思う。元号と干支でもいいが何年かも知りたい。
 新暦では、2006年は平成18年である。だけど旧暦だと、旧正月前だから平成17年ということでいいのだろうか。
 でも「平成」という年号は、新暦1989年1月8日から出発している。この日は旧暦だと昭和63年12月1日だ。
img066
 「平成」のスタートした旧暦の昭和63年12月1日以降の図の赤い部分を平成元年とすれば、1989年の旧正月から平成2年。新暦と旧暦の年は11ヶ月ずれるわけで、今日は平成18年ということになり、新暦1月29日の旧正月を過ぎれば、平成19年になる。もし、今日がまだ旧暦の平成17年なら、図の赤い部分は何年だろう。旧暦大晦日まで昭和63年なのか、序数において平成0年は変だし。

 別に旧暦など必要ないと言えばそれで終わりだし、年中行事には旧暦によって行われているものもあるわけで、それでも年は使わなくていいから不自由はないかも知れないが、気になる。
 不自由がないというのなら、新暦の年は西暦で表記すればすむ話だから、新暦に元号を使う理由だって全くない。
 それなら、新暦は西暦で表記する。旧暦は元号で表記するということにすれば、歴史的な整合性もとれる。

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20/01/2006

説得力か納得力か_8

 黒子、あるいは黒衣という人が芝居に出てくる。芝居で死んだことになった人は、黒子が黒布で隠すと、おもむろに起き出して退場する。始めて見る人は異様に思うかも知れない。
 劇場に電気照明が本格的に使用されたのは20世紀のことである。四国琴平の金比羅歌舞伎に江戸時代の劇場が復元されており、現在は電気照明が使われているが、昔ながらの形で芝居を上演したことがある。全身、黒ずくめの人や黒い布は見えなかった。
 見えないということは、ないように見えるということだ。映画のワイヤーアクションのワイヤーと一緒で、存在はわかっていても、「見えない」ことが「ない」ことの「説得力」になっていた。だから対応する「納得力」を観客が持っていた。
 ところが、劇場が明るくなると、黒子も黒布も見えてしまった。それで「説得力」がなくなっても、観客に「納得力」があるために、100年を経過しても続いているわけである。
 普通は「説得力」がなくなれば、「説得力」のある方法に変えればいいのだが、この黒子や黒布に関しては、代わるべき方法もないままに、観客に「納得力」」があるからいいやと、劇場が暗かった時代からあった歌舞伎の場合には続いているのだ。舞台の両側で裏側を隠している黒幕は他の舞台でも使われるし、耐震性能を隠すのに関連しても使われる
 演劇には、ないものをあると伝える、あるものをないと伝える、見えているものを違うものだと伝えることが必要だ。この伝達には「説得力」が必要であるが、観客の「納得力」に依存することがある。これが様式である。

 死んだ落語家の桂枝雀の目標は、「出てきて高座に座ってるだけで、全く噺はしなくとも、客が喜ぶ」ことだった。その枝雀は英語落語を演っていた。落語に対する「納得力」は日本語に依存する。だから、言語を超越した「説得力」を得るためだったのだろうか。でも、彼の目標は、芸の「説得力」ではなく、客の「納得力」だけで喜ばせるという方法だと思う。

 「説得力」と「納得力」で連想するのは市川團十郎だというコメントを別ブログで見た。市川團十郎は、ただいま病欠中だが、すごい人だ。なぜ、すごいかというと、客の「納得力」の喚起力がすごいのだ。
 そもそも歌舞伎というものは、ドラマを描くだけのものではない。ドラマを描くなら「毛抜」は「粂寺弾正」のドラマだ。でも歌舞伎は「粂寺弾正実ハ市川團十郎実ハ堀越夏雄」を見せる必要がある。だからスターが必要であり、襲名が行われる。
 市川團十郎はあまり「説得力」のある芝居をしない人だ、できなかったのかも知れないが。堀越夏雄氏は「市川團十郎」になる前から、将来のポジションに相応しい役を演じてきた。「説得力」がないという自覚はされており、既存の「納得力」の利用に努力された方だ。言い方を変えると「不器用だからカタを守ることに徹する」だ。また「説得力」がないということは、誤解して受けとる人もいないわけである。さらに、市川團十郎実ハ堀越夏雄が、ファンを大切にする極めて好人物だということも知られている。
 そのような積み重ねが、何を演っても「團十郎だから、これでいいのだ」と客が「納得力」を持つようにな状況を作ったのだ。演技における「説得力」のなさは「鷹揚」と評価されている。
 私も馴れない間はドナルドダックみたいに感じた声も、違和感があるだけで不快というものではなかった。だから、馴れればそれが特色だと思うし、今は彼の魅力と感じており、あの声だから粂寺弾正の愛嬌が強調され、「毛抜」が単なるヒーロー物語でなく、コメディとしての魅力を持てるのだと思ってしまっている。
 「毛抜」にはバカでかい毛抜や磁石が小道具に出てくる。かつての観客は、小さいと見えないから大きくしているという「納得力」を発揮していた。本当は小さいと変換する必要があった。彼の「毛抜」では、その大きさをコメディの要素とする「納得力」を持てるのだ。本当は小さいという変換の必要もない。彼は「毛抜」の見方を変えてしまったし、変えた方が魅力ある芝居になっている。
 ここでは「毛抜」を例にあげたが、彼の出る芝居は、市川團十郎でもなく堀越夏雄の魅力を見せる芝居になったのだ。歌舞伎がスター演劇である以上、それは正しい。そして「鷹揚さ」とあわせて、演じる芝居への支配力の大きさから、「スケールが大きい」「骨太な芸格」と評価されている。

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19/01/2006

1年1週ぶりに解決

 ある事件が1年ぶりに解決した。
 以前の推理は間違っていた、間違いメールなので、ちゃんと読んでいなかったからだ。そして、その後もTさんに無関係なメールが来たから、昨年に間違いが判明した。新しい推理はこうだ。

 Tさんから最初にメールを貰ったのは2003年の4月末だ。そう思っていたのだが、送って来たのはNさんのようなのだ。
 どうも、NさんはTさんから貰った携帯メールを保存するため、自分のパソコン用のアドレスに転送しようとしたらしい。その転送先が間違っていた。だから、送っても届かないので、数日おいては、何枚も送ったのだろう。その間違った先が、私のアドレスだった。

 しばらくして7月、再度メールが来たのも、結婚通知をパソコンに転送しようとしたらしい。
 2003年の暮れに来たのは、Tさんの住所と名前が載っていて、「年賀状待ってるね。(^-^)」と書いてあるので、年賀状印刷のために転送しようとしたのだろう。

 年が明けて、1月、2通メールが来たのも、両方に、ドコモのサイトのアルバム用URLが付いているので、画像保存のためだろう。
 4月にまた来た。これは高知の人の住所が載っている。つまり、画像や住所をパソコンで管理しようとして、間違えて私に送っているのだ。だから、結婚通知と今回のはTさんからのメールではない。だから、住所も違うのだった。Tさんは無実だった。

 そして、1年前に、メールアドレスを変更したというメールが来たのも、サイトのURLが載っていたので、転送したらしい。メールアドレスを変更したのは半年前ということなので、TさんとNさんは、そう頻繁に連絡を取っているわけではないらしい。

 そして、1年前、関係者で、メールアドレスのわかっているTさんとNさんのアドレス宛に、連絡を取ってみた。
 Nさんはspamと思ったらしい。なぜなら、携帯アドレスだったので詳しくは書かず、顛末を書いたURLをメールに記載していた。そのURLを見るつもりなら、おそらくパソコンに転送するだろう。そうすると、間違って私のアドレスに「Fw:」というメールが戻って来るはずだから。そして、その後も間違いメールは送られてきたから。
 Tさんは読んだらしい。でも、Nさんと頻繁に連絡を取っているわけではないらしいし、本人は無実だから、状況がわからずに対応がすぐには出来なかったようだ。
 なぜ、読んだとわかるかと言えば、1年と1週間ぶりにTさんから返事が来たのだ。もう間違いメールは来ないらしい。Nさんに伝わったようなのだ。
 そのメールによれば、Tさんはblogを始めたらしい。これはNさんが間違って送ってくれた情報ではなく、Tさんが知らせてくれたのだから、見てみよう。
 もし、LISTに新しいblogが増えても、それがTさんとは限らない。念のため。

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18/01/2006

伊藤公・・・の謎

 その昔、矢作公一という選手が日本ハムにいた。何となくハムの原料っぽい雰囲気と、入団会見で名前が「ハム一」と言ったので、ほとんど活躍しなかったのに覚えている人が多い。
 比例代表選挙が初めて導入された時、奈良で「はむ」と書いた無効票が大量に出たそうだ。ある宗教団体の指令が徹底しなかったのが原因のようだ。
 かくのごとき例から、時の人を「伊藤ハム介」と標記している例も多いだろう。伊藤ハムにとっては迷惑なことだろう。そんなわけで、伊藤ハムについて検索してみたのだが。

 「女子高生」というのは伊藤ハムの登録商標だった。

 そんな商品作ってるのか?
 作ってなくても、どういうつもりで登録したんだ?
 「女子校生」という表記になったのは、このためではないだろうけど。
 NHKは「女子高生」と言わないのか?
 謎は深まる。

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17/01/2006

次期首相を占う

 占い屋は嫌いだ。特に細木数子とか。以前は墓石の営業をしていたそうだが、今はテレビ芸人をやってるようだ。見なければいいだけのハナシであり、深夜帯のテレビには出てこないので、江原某よりは助かる。
 その細木数子が次期総理は「おだてられれば武部幹事長」と占ったという記事を見かけた。占いの常套手段で、武部になったら当たった。ならなかったら「おだてられなかった」ということだ。
 なので、私も占ってみる「使いようで、安倍官房長官」。

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16/01/2006

構造の共通性について考察する

わからないが判断すること
 以前に相対性理論やホーキングの宇宙論には「説得力」があると書いている。実はウソである。
 私は相対性理論をホーキングの宇宙論を理解しているわけではない。その点ではコンノケンイチ大先生や以前にトラックバックを頂いたムサシ大先生と一緒である。「説得力」があるかどうかなんて判定できるはずがない。
 にも関わらず「説得力」があると断定しているのは、物理学上の認識からではなく、社会上の認識によっている。
 科学の理論は、他の研究者によって検証される。その結果、支持されたり、反論されたりして、その状況が社会に紹介される。このような状況を大雑把にでも認識することで、「説得力」があるかどうか判断しているわけである。
 例えば、何々大学理学部物理学科教授という人が、ある物理学上の理論を紹介してたとする。もし、一連の手続きでオーソライズもされていない理論を紹介したとすると、同業者からの批判があり、さらに、その職に相応しくないという判断もされるかもしれない。専門家としてはオーソライズされない理論を紹介するのはリスクがある。
 同じ人が、歴史学についての意見を述べていたとする。もし歴史学の学術上の手続きによって意見を述べたのであれば、専門家の反応や言及があるだろう。そうでないのなら、歴史学の専門家は反応しないだろう。もし、歴史学の専門家から否定されたとしても、物理学の専門家という立場にリスクはない。
 科学に関して、現役の国公立大学の科学系教員がインチキを公表するのにはリスクがある。しかし、退職した教員や教務職員や自分で研究所を主催している人には何のリスクもない。過去に取得した学位を返上せよということもない。
 専門家の意見が必ずしも正しいとは限らない。けれども、その人が眉唾モノのことを主張したら、どのようなリスクがあるのか。どのような人がどのように反応しているか、その概要で、自分が理解できないことの「説得力」を判断しているわけである。
 もちろん「説得力」があっても事実とは限らないから科学論争があるわけだが。
 これは「権威に従う」ということでも、専門家でない人の話に「説得力」がないということでもない。それぞれに、インチキに伴うリスクを考慮するということだ。
 このblogなんぞは、ウソを書いてもリスクはないし、というか、ウソのような実例を紹介したら私の作ったネタだと思われるほどのものだから、鵜呑みにはしない方がいい。
 マスメディアも、リスクが発生するのは「事実と違う」場合くらいだ。事実をどの程度の比重で取り上げるか、事実への論評にはリスクが伴わない。記事に伴うリスクを考えて、信憑性を判断するのも、メディアリテラシーのひとつだろう。


言い方を変えると
 ここまででひとつのエントリーのはずだった。けれども、違うハナシをくっつけてみた。

 いろんな「業界」において、成果を得るには「業界全体の拡大」と「業界内の競争」がある。
 研究者の「業界」では、インチキの公表は「業界全体の拡大」にも「業界内の競争」でも大きなリスクが発生するから抑制力が働く。いわば「市場原理」だ。
 要するに、私のような非専門家にはわからないので、研究業界の人の言うことは「市場原理」で質が保証されるんじゃないかと、考えるわけである。

建設業界の市場原理
 建設業界はどうだろうか。本来、建築物というのは需要に応じて建てられるはずだから、「業界全体の拡大」は難しいはずだ。ところが、世にハコモノ行政とか土建政治というコトバがある。この業界は、政治に関与することで「業界全体の拡大」を計ってきたわけだ。
 そして「業界内の競争」も本来はあるはずなのに、どうもお嫌いのようで「談合」ということを盛んになさっているように「和を以て尊し」という美徳を備えた業界のようだ。
 1995年の阪神淡路大震災で、多くの建物が倒壊した。倒壊しなかった建物もあるが、この時、倒壊した建物があまりに多く、その個々について、地震力と倒壊の要因について厳密な調査は行われたのだろうか。調査を行ったとしても「建設業界」以外の誰かが行ったのだろうか。たぶん、そうではないと思う。「建築業界」以外の建築の専門家が、そんなにいるはずがない。
 つまり、見た目や価格のように誰でもわかる部分はともかく、耐震力という品質に関しては、劣っていてもリスクがないという経験を経ている。
 このように競争がお嫌いな業界に、劣っていてもリスクのなかった性能に関し、「市場原理」による保証を期待するのは無理があるようだ。

 かつては行政が,、建築物の品質のチェックを行っていた。それは「市場原理」による品質が期待できないという理由ではないが、設計図書をチェックし、出来上がれば検査を行っていたわけである。だから、チェックのコストは公共が負担していた。
 でも、考えてみれば不合理だ。建設業界の品質保証コストを公共が負担しないといけない理由はない。やはり建築コストに含んでしまうべきだという考えは理解できる。なので、チェックを民間が出来るようにした。民間に任せれば「市場原理」による効果も期待できる。

 さて、刑事裁判の弁護士は被告が選ぶ。これを検察官が選ぶとどうなるか。有罪になりやすい弁護士の方が選ばれやすいに決まっている。刑事裁判の数は弁護士によって増やすことはできない。西村慎吾のように自ら被告になるという方法でもとらない限り。だから「市場原理」に期待できるが、被告が選べば「検察の不利益になる」、検察官が選べば「検察の利益になる」方向で「業界内の競争」が行われる。

 この民間の検査機関を選ぶのは建設業界ということになったので、やはり「市場原理」が期待できたようだ。ただし、建設業界に利益になるような「業界内の競争」があったようだ。

 元々、設計と施工というのは、違う業界のはずだった。なので設計業者が工事のチェックをして、シロートにわからない品質をチェックするということになっていた。
 ところが設計業者と施工業者では、技術力というか専門能力に大きな差がつき、設計業者だけでは品質の高い設計ができなくなった。資本力も違うから営業力も献金額も違い、建設業界の方がオシゴトを取る主役になった。おまけに、同じ建設費の中身を取りあう関係じゃなくて、建設費に応じて設計費が決まったので利害が共通した。だから、違う業界のはずが、設計業者は施工業者の下請け同然となった。
 酷い例では、伊藤公介と仲良しの建設会社は「用地取得から企画・設計・施工・販売・管理まで一貫して自社で行っているということ。」を売り物にしている。つまりは、シロートにわからない品質のチェックを自社でやってますと堂々と謳っている。
 おまけに、建設会社に選んでもらうため、検査業界まで下請け同然となった。
 かくして、建設業は、シロートでもわかるような見た目や使い勝手はともかく、構造については「市場原理」による品質の保証が全く期待できない業界となっていたわけである。

 今回の頭髪だの秘書の兼職だの献金だのの偽装問題だけど、伊藤公介や清和会関係、広域ホニャララの話は、メジャーなblogで話題になってるんで、リトル遠慮し、こちらは構造設計の構造的な問題について構造主義的に考えてみたわけである。

 つまり、業界の構造の結果だ。シロートにわからない品質は「上げる」ことではなく「下げる」。その方が製造原価が下がる。想定外の地震力で済ませばリスクはない。こういう方向に、設計も工事も検査にも「市場原理」が働く構造に出来上がっているようなのだ。

 今さら、公的にチェックせよという話にしても、スタッフはいないし、コストはどうするのか。それに、以前から、工事中に抜き打ちチェックをしていたワケではない。
 設計業界と施行業界を分けろと言っても、ワケありで培われた相思相愛の関係を対立する関係にはできない。
 それなら、どこかに品質低下に対するリスクを仕組まないといけない。欠陥建築に対しての無限責任を負わせるといっても、倒れないと見つからない、みんなで倒れれば見つからない、それでは手遅れだ。ばれても建設会社を倒産させちゃえばいいだけだ。
 建築物の品質をチェックを自分でできない場合は、所有してはいけないことにするとか。銀行や建設会社の所有にでもして、耐用年数分の使用権を買い取る形にする。倒れれば損するのは銀行や建設会社自身だし、必死にチェックするか。
 まあ、具体的にどうするかは、誰か専門家が考えてくれればいい。その人の意見が怪しい場合にどれだけリスクがあるかで「説得力」を判断すりゃいいか。

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15/01/2006

下妻の物語

 「下妻物語」が気に入ったからと言って、こんなの借りることもないのだが。
 いくら企画物でも、もうちょいマシな女優使えよ。男優もスタッフ兼任かい。
 女子高生の設定なんだから、婆臭いパンツ穿かせるなよ。

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14/01/2006

じゅんさん、オザワさん

じゅんさんとオザワさん しのぶさんのリクエストだけど、キャプションが浮かばない。
 「消費税10%に国外派兵だ。」「あまーい、あまいよオサワさん、政権取るまでは言っちゃいけないよ。」って感じかな。

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山ちゃん、しずちゃん

山ちゃんとしずちゃん山ちゃん、変態やねん。
しずちゃーん。現実って残酷だよねぇ。

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説得力か納得力か_7

 以前のエントリーの文を多少、書き換えてみた。

 現在の皇統断絶の危機は、皇室の意義が政治権力が変わろうとも尊重されてきた「歴史」にもかかわらず、現在の政治権力の根拠となっている国民が、皇統をどれだけ理解しているかという「状況」があることが出発点になっていることは確かだろう。
 男系維持が男女平等という現代の考え方から理解しにくいことは確かだ。だから女系容認とするなら、皇室そのものが平等という概念を超越したものであり、同じように認められないことになりかねない。
 一方、男系維持のための方法は、現代人の家庭観では受け入れにくい。皇統というのは時代を超えた存在であり、現代人の家庭観で判断すべきものではない。つまり、男系維持には皇統の正しい理解が必要であり、伝統は現代の感覚で判断すべきものではないことも理解される必要がある

 前の文が受け入れられなくても、この文だけを読むと、その通りだと思う人がいるかも知れない。この2つの文の趣旨は全く同じにもかかわらず。
 前者が、客観的な記述であり、後者が男系維持が正当という立場で記述しているだけだ。
 さらに、前者の文では「現代社会での価値観と相容れない伝説は共有されないだろう」という予測が伴うのに対して、「現代人の感覚で理解しにくとも、伝統だから理解されるだろう」と読む前から予測しているから「腑に落ちてしまう」。
 たぶん、前の文の趣旨をちゃんと読みとれないということではない。読みとらないだけだ、「納得力」を妨げる意識があるからだろう。
 例えば、「敵・見方」概念だ。目的が同じなら「納得力」を持つ、違うから持たないという意識だ。自分たちはわかっている、相手はわかっていないという意識だ。
 例えばY染色体の話だって「男系維持論者にアホがいるからって、主張自体が間違ってるわけではない」ですむ話だ。それを、目的が一緒だからと「男系ということを説明しているだけ」ということにする。男系の説明だけなら必要もない概念を持ち出してくるから、意味があると誰だって思う。単なる言い換えに持ち出して来るのはアホだ。だけど、目的が同じだからと、何とか「納得力」を発揮しようとする。
 誰でも、コミュニケーションのためならば、相手の趣旨を読みとろうとする。だから「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できる。
 ところが、コミュニケーションのためではなく「自分の位置」を確認したいだけの場合は、「敵・見方」概念の方が重要だから、書いた相手の立場がまず気になる。その立場次第で「納得力」が大きく変わるから、いかに「説得力」があっても無駄な場合と、全く「説得力」がなくていい場合がある。
 この「自分の位置」というのは、たまたま例が天皇の話だったが、天皇の問題に関する位置や、政治的な位置、経済的位置だけじゃない。むしろ、昨今は自分の趣味だとか、単に持ち物とかが、自分の「位置」に重要だったりする。ツールに対して帰属意識を感じてしまう人もいるようだ。ネット上で使っている掲示板やblogシステムに帰属意識を感じて、それを以て「自分の位置」と考えてる人すらいるようだ。そういう傾向を意識し、ユーザーに帰属意識を持たせようという商売もあるわけだ。

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13/01/2006

殺人タイマー

 松下が殺人ストーブの回収をしているらしい。
 このストーブ、元々、殺人ストーブだったわけではない。製造後に長時間を経過すると、ある日、殺人ストーブに変身するらしい。
 昔から、猫や唐傘や提灯は、歳を経ると妖怪になると言う。今昔物語には猟師の兄弟の母親が歳を経て妖怪になった話が、源氏物語が映画化されたら歳を経て妖怪になった歌手が出てた。このストーブは、そういうワケではなく、部品に使っているゴム製品が、年月を経て劣化し、それがために変身するらしい。
 考えてみりゃ、年月を経たゴム製品がキケンなのは当然だ。というか、肉でも豆腐でも、販売後に時間が経過すると殺人能力を得るのだ。そのために賞味期限がある。
 それで、たぶんS社製品だったら、タイマーが作動して、変身する前に使えなくなったろう。というか、問題は、松下の場合、タイマーが製品寿命に関わる部分でなく、安全に関わる部分だったということだ。
 1年でブレーキが壊れる自動車は危険だが、その前に確実にエンジンが壊れるなら、危険じゃない。ところが、タイマーの組み込みというのは簡単じゃないらしく、世間ではS社のものしか認識されていない。松下も、安全に関わる部品に、ゴム製品というタイマーを組み込んだわけだから、設計上の問題があるのは確かだろう。
 これから、家電メーカーというか、機械製品は、きちんとタイマーを組み込むようにするだろうな、と思う。

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12/01/2006

ウェイトレスの制服

 カエルは変温動物だから、気温が低いと動けない。だから、火鉢や燗ドックリが欲しくなるような季節は隠れてじっとしている。従って、ケロリストも目だった活動をしていないようだ。
 ところがである。東京方面にお守りとかの縁起物にカエルを使っている神社があるようで、新年早々、その神社を標的にケロリストが集結したようだ。それで、帰りに有名なチェーン店のファミレスというかケーキ屋に寄ったらしい。
 その店がどれくらい有名かと言えば、渋谷あたりの裏通りの店で売っている、その店の制服風の衣装を、わざわざ遠くから買いに来る人がいるほどだ。

 さて、5年くらい前のことだが、知人といる時に、その知人に電話がかかってきた。お茶でも飲もうという呼び出しだった。
 かけてきた方は、会ったことはないが、ネット上でのつきあいはある人だったので、私が一緒にいるなら、連れて来いということになった。
 そして、行った先が、このチェーン店だった。この制服は、着る人が着るとつい注目してしまう。
 お店に行った後、さらに、同じくネットでは知っていたが会ったことのない人が合流したのだが、その時点で、ウェイトレスにその「着る人」がいたのだ。
 なので、そちらに気をとられて、最後に合流した人の容姿は、ほとんど覚えていない。

 その最後に合流した人とは、今でもネット上でのつきあいがある。最近、5年ぶりにお茶でも、いや、焼肉だカニがいいとか、そういう話が出る。でも、容姿を全く覚えていないのだ。もし、お茶に行くにしても、こちらが見つけて貰わないといけない。

実物画像がないので、代わりに文中の「その店の制服風の衣装」の参考画像を、顔は隠すけど、貼ってもいいかな?

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11/01/2006

本当に人口は減ったのか

 しばらく前のニュースだが、国勢調査の人口が前回より2万人減ったらしい。予想より早く減ったらしい。そこで気になったことがある。
 国勢調査の人口というのは、国勢調査に回答した人数だ。だから回答者数が減ったのは確かだろう。それでは、減ったというのは、人口が減ったと決めつけていいんだろうか、回答しなくなったとは考えられないのだろうか。
 例えば、ホームレスの人の調査はどうしているか。自治体の職員が調査日前日の夕刻に、手分けして聞き取り調査をするそうで、寝込んでいる人は観察して、わかる点だけ記入するらしい。どの程度の正確さがあるかわからないが、少なくとも実態以上の人数にはならないだろう。
 全国ホームレス数は、2000年の国勢調査当時では2万人あまりが推計されている。2005年の数は不明だ。
 国勢調査の回答者のうち、配偶者の有無を答えないのは80万人だそうだ。そもそも調査自体に答えない人数はどれくらいか。その数は増えているのだろうか。
 人口のめやすとしては、住民基本台帳人口というのがある。この人口には外国人は含まれない。また、届出を基準にしているたっめに、出生届を出さなければカウントされないし、死亡届を出さなければ減らされない。
 この住民基本台帳人口が、もし減っていないのなら、いろんな可能性がある。少なくとも半年前の2005年3月31日時点では減っていない。
・本当に人口が減った。
・外国人が減った。
・ホームレスが増えた。
・調査拒否者が増えた。
・生まれているのに、出生届を出していない人が減った。
・死んでいるのに、死亡届を出していない人が増えた。
 本当に人口が減ったのなら、少子化のためだろう。増加率が減っているのだから、少子化自体は間違いない。
 でも、ホームレスが増えたのなら、経済政策の失敗。調査拒否者が増えたのなら、調査の必要性を信用しない人が増えたということだ。少子化以外の理由がある。

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そして伝説が

 時々、天皇の後継問題に触れている。このblogでは政治的な問題に触れるつもりはない。なのに触れる場合は、問題そのものではなく、関連した「コミュニケーション」や「文化」の問題に興味を持った時だ。
 天皇の後継問題に触れるきっかけになったのも、Y染色体云々という「お笑い」ネタがなぜに流行るかという疑問からだった。だから、「男系維持」か「女系容認」か「やめちゃえ」を書いているつもりも、書くつもりもない。
 「存在」と「当為」の混同をせずに意見を主張する人、混同に気付かないで主張する人、そしてY染色体云々とか言い出すトンデモさん。こういった階層化に興味を持ったため、その「論理」や「説得力」の混迷ぶりの感想を書いているのだ。

出発点
 自分はこう思っている、と書くだけなら、どんなご意見でもいい。ヲシテ文書を根拠にしようが、Y染色体を取り上げようが勝手に思ってりゃいい。でも、その意見によってコミュニケーションを行おうとか、こうすべきという意見を表明するには「客観的事実」か「共通の認識」を出発点にする必要がある。
 天皇に関わる人、つまり日本国民の間に、天皇の地位に関する「共通の認識」はない。「日本人ならこう思う」というのは「俺は違う」という主張があれば、事実に反していることは明らかだ。そこで、事実の方を否定し「では、オマエは日本人じゃない」「同じ考えだけが日本人」ですますのは、妄想の日本人像の中に閉じこもってるだけで、一般性は全くないので、放置する。

 だから「共通の認識」に代わるものとして「社会的な合意事項」である「主権の存する国民の総意に基づく」を出発点にする他はない。
 この「社会的な合意事項」は60年くらいの歴史しかない一方、「客観的事実」として天皇の歴史は1000年以上ある。ところが、「権力の存する連合国の総意に基づく」「権力の存する徳川家の総意に基づく」「権力の存する藤原氏の総意に基づく」「権力の存する蘇我氏の総意に基づく」と書き換えてみよう。「権力の存する平氏の総意に基づく」安徳天皇は、権力が源氏に移行すると土左衛門になった。
 つまり、天皇自身を含めた「政治権力の在処の意思に地位が依存していた」ということでは、天皇の歴史と同じだけの歴史があるわけだ。もちろん一方的な関係ではなく、政治権力の側も天皇の役割に依存する側面もあるからだろう。
 「主権の存する国民の総意に基づく」というのは、歴史的事実と現代の政治体制の整合ということだ。
 それとも、「国民の総意」に60年の歴史しかないからと否定するならば、蘇我氏を捜し出して、天皇を認定すればいいのだろうか。歴史の長さがどうかというのは事実でしかない、その「歴史」を「伝統」という当為性のある語彙にすりかえるインチキは出発点にならない。
 
 現制度では天皇に政治権力はない。だから天皇自身の意見は影響力を持つべきでない。当事者である天皇家の発言が公表されないのは「自身の問題」であるからではなく、「影響力を持つべきでない」と天皇自身が考えているからだろう。

地位と条件
 「世論が女系天皇を容認している」というのは、天皇の地位の根拠に即しているように見える。「世論」というのは今日の政治権力の根拠だからだ。
 しかし、地位が「国民の総意」に基づくとして、その地位に誰が就くべきかは、政治権力の在処だけを根拠に出来るのだろうか。

 天皇の地位を認めた上で、では、誰が就くかの根拠として認識されているのは、この130年くらいで普及した「皇統」なり「萬世一系」という伝説を背景にしているに違いない。男系だ女系だとか言う意見はあっても、人気投票や入札制やアミダクジという意見はない。血統が条件として最も重要であるというのは、皇統という「伝説」が共有されているからである。伝説というのは「事実」か「フィクション」かは問わない。共有されさえすればいい。
 つまり、天皇の条件は、政治権力を根拠にするのではなく、伝説を根拠とすると、当の政治権力の所在、つまり世論が認めていることになる。
 さらに、皇統伝説では、単に血統のみではなく「男系」も条件になっている。「男系維持」というのは、伝説の部分だけをつまみ食いするな。全体を尊重せよということだ。
 女系容認というのは、天皇の地位に関する「社会的な合意」を、誰が就くかという条件にまで、勝手に拡大しているだけだ。

女系容認に必要なもの
 従来は天皇の条件は「伝説」を根拠にしていたのであるから、「女系容認」ということは、天皇の地位だけではなく、条件も政治権力に従属させるように変更することだ。
 「国民の多くが容認すべきと考えている」ことを女系容認の根拠にするのは、従来の「伝説」の否定であるから、同じように「伝説」に属する根拠である「血統」そのものも再検証の必要があるわけである。
 つまり「皇統」という伝説の中で「血統」のみが当為性を持ち、男系が当為性を持たないことに「説得力」がなければ、「女系容認」という選択肢は「伝説」に反するという点で、人気投票や入札制やアミダクジと並列になるのだ。だから「伝説」全体に当為性を認める人は受け入れられないわけだ。
 男系維持が女性差別であり、現代の倫理に反することは確かだ。だから当為性を認めないのであれば、血統による公的な地位そのものが、同じ理由で当為性を失うわけである。
 茶の湯生け花の類の家元、伝統芸能の一部、八百屋の大将など、血統で決まる(正確には相続で決まる)地位は全て私的なものだ。選挙で同数の場合、くじで決める。現代の倫理を導入すれば、公的な地位においては、血統よりクジの方が優先されているのだ。

 現実に、世論が望めば、天皇の条件も変更可能だ。だから「女系容認」に変更は可能だ。同じように、世論が支持すればジャンケンで決めることにも変更できる。だから「女系容認」の実現には「説得力」は不要だ。
 しかし、従来の皇統「伝説」の解体であるから、「女系容認」に「伝説」との整合性があるとの「説得力」のある説明がなければ、やがて、天皇の地位の根拠にも疑義が生じてくるだろう。つまり「総意に基づく」の崩壊だ。

男系維持に必要なもの
 男系維持というのは、皇統という「伝説」に基づいている。現在、天皇の条件として「血統」が重視されている以上、この「伝説」は、ある程度、共有されているわけだ。
 しかし、その「伝説」は「当為」としても共有されているわけでもない。共有されていれば「女系容認」という「伝説」と異なった意見が多数を占めるはずはないからだ。
 従って、男系維持の主張には「これまでは男系だった」ではなく「これからも男系でなければならない」という「伝説」を普及させることが必要になる。その伝説が共有さえすれば「納得力」の根拠になる。

 ただし、「男系維持」は、現時点では、天皇の該当者がいなくなることを意味する。「男系維持」は「伝説」が根拠であり、その「伝説」上は正当な該当者を、江戸時代以前の天皇の子孫から選ぶことは可能だ。もしくは、直系女性皇族の配偶者がそうである偶然性を期待したり、「伝説」は事実である必要はないから系図を創作して「実は」ということにしてもいい。第二、第三夫人という方法もある。
 ただ、そのような対策は、現代社会の価値観とは共存し難い。過去の価値観で作られた「伝説」を根拠とする以上、当然のことなのだ。つまり「納得力」を期待するには「伝説」が共用されることが必要であり、それは、その伝説が現代社会での価値観と相容れないことも共有されてしまうことになる。


 以上は、私から見た「女系容認」と「男系維持」の違いの在処だ。他にも論理の立て方があるだろう、異なった選択肢もある。
 でも、現時点の天皇の後継問題は、天皇の地位が政治権力に依存するという「客観的事実」と、皇統という「伝説」をどれだけ共有できるかを出発点にしていることは確かだろう。

 秋篠宮と愛子のどちらを優先すべきという論議はないし、女帝を認めた場合には、女系か男系かが分かれるのは、まだ生まれてもいない子の代のことだ。つまり、具体的事例を想定した問題ではなく、制度の当為性の問題ということも確かだから、今の天皇個人や後継者個人への評価は論議に必要ない。
 天皇家自身が決めればいいというのも、皇統「伝説」を自分は共有しないということにおいて、女系容認や天皇制廃止と同じことだ。
 「べき」であることを主張しなければ無意味であるのに、ひたすら「であった」の繰り返しに終始しているのも滑稽に見える。
 Y染色体という生物科学の概念を持ちだして来るのは「伝説」の否定にしか寄与しない。後継問題に一切の発言をしていない天皇自身が、唯一、反論するとしたらこの話かもしれない。天皇としてではなく、生物学者として。
 さらには、皇統伝説よりもはるかに共有されてもいなければ、その可能性もない伝説を持ち出して来るのも、どういう意味があるんだろうかと思ってしまう。

 主張に「説得力」を持たせること、相手に「納得力」を持たせること、そういう視点ではなく、ある問題に自分の思っていることを並べるだけというのをよく見かける。もちろん、このエントリーもそうだ。だから、最初に意見の表明ではなく、感想だと述べている。でも、意見のつもりで書いてる人もいるようだ。

 「女系容認」であも「男系維持」でも、その意味するところが向かう着地点が同じということや、いずれであっても自分と等距離であるということで、「説得性」を考える素材として、面白い問題だと思っている。

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10/01/2006

千年の恋・ひかる源氏物語

img063 ある人に「デビルマン」と「北京原人」を見たのなら、「千年の恋・ひかる源氏物語」を観なくちゃと言われた。
 この東映3大傑作を制覇した勇者こそが、東宝の「幻の湖」や日活の「落陽」への挑戦者に相応しいらしい。。。というほどの名作らしいので、観ないわけにはいかない。
 見てみたら、なるほど笑える。「デビルマン」の笑いは、東映特撮のチープさやイージーさを誇張した再発見の笑いであり、いわば中川家のような笑いだった。「北京原人うぱー」の場合は、ボケに対してツッコミによる異化を許さず、さらにボケを重ねて暴走するという笑い飯のような笑いだった。
 それに対して、この「千年の恋・ひかる源氏物語」は、南海キャンディーズの笑いに近い。全く異なった脈絡の出会いによるズレやスカしによる笑いなのだ。


 「不倫」じゃないかと責められる物語を書いていた紫式部が、「京都」から、父が「長官」となって赴任した「福井」に旅するシーンから始まる。この「」内の語彙は、そのまま映画の中で語られる。最初に現代の京都の俯瞰から始まるわけであり、現代の視点から源氏物語の世界に入って行くのか、と思った。
 そして、タイトル。しばらくしてわかった。単に語彙というか台詞に脈絡がないだけだった。というか、全てに渡って脈絡がない。
 台詞に脈絡がない、というのは、意味上の繋がりがない、ということではない。ひとつのドラマを描く上でのスタイルがないということ。現代語を使っていい。当時の語彙に拘る必要もない。しかし、ある世界に使用されている言語、表現としての統一性が全くないのがこの映画。「女性」を「にょしょう」と読むなら「不倫」などの語彙は使わない、紫式部の父を「受領」と言うなら「長官」と言わずに「国司」と言うというような配慮だ。そういう脈絡がないから、場違いな語彙がスカしたギャグとなって笑えてしまう。

 台詞だけじゃない。別に、時代考証なんかどうでもいい。大文字が出てきても許そう。何を描きたいのかという脈絡が見えれば、どうでもいいことかも知れない。だけど、そお脈絡が見えないから、スタイル上の脈絡に逸脱したシーンが場違いにしか思えず、失笑を漏らしてしまうのだ。
 衣装だって「キレイ」と言える。ただ「キレイ」なのがゴチャゴチャ出てくるだけで、絢爛というほどでもなく、装束屋の虫干しかいっ、という感じで、美意識としての脈絡がない。風景だって、カットごとには「キレイ」なんだろうし、咲いてる花も「キレイ」。でも、展開とは無関係に、メリハリなしに出てくると、かえってうるさいだけ。
 全体に明るいだけで変化のない照明だから、思い出したように暗さを演出すると、場違いに思えて失笑。

 鶴太郎のモノマネ芸も笑える。肖像画や平安時代というのは彼のモノマネのレパートリーにないらしく、子供の水彩画みたいなのが出てきて、似てねぇと笑ってしまった。

 唐突に2回ほど出てくる清少納言は何だろう。構図としては、彰子と紫式部に対し、定子と清少納言という形。こういう構図があって、紫式部が彰子の教育のために源氏物語を聞かせるというストーリーになってるわけだから、紫式部が感受性や情緒を教育するのであれば、対比として、清少納言が洞察力や才気を教育するということならわかりやすい。いずれにせよ、清少納言の意味は、対比によって、源氏物語の何を描くかを強調する存在のはず。ところが、この映画では源氏物語の何を描くかの焦点が定まらず、対比させるべきものが見えない。さらに、清少納言も枕草子の冒頭部分だけを台詞にしているわけだから、唐突に持ちネタを披露する芸人みたいで笑える。

 そして「千年の恋」であり「好き」と「愛」は違うという台詞もあるから、光源氏の恋物語を描くのは重要なはずなのだ。
 ところが、その物語に出てくる人たちの「感情」が描かれず、台詞だけですますから、恋愛のリアリティがない。
 光源氏はウパーの帝の皇子であるが、母がいとやむごとなき際にはあらぬため、嫉妬を受けて早死にし、マザコン少年となる。政略結婚の相手を愛せず、母と二役の藤壺中宮に憧れ、想いを遂げるも結ばれず、多くの女と逢瀬を重ねても満たされず、既製品じゃダメだとばかりに、幼い紫の上を自分好みの女に仕立てようとするわけだ。
 けれども、どの女性との絡みも、その光源氏の感情の違いが表現されていない。エロくも美しくもない。当時の人は烏帽子を被ってセックスしたのだろうか。実際はどうかわからないが、絵面は間抜けで笑える。
 光源氏を女性が演じるのだから、限界はあるにしても、その藤壷や紫の上とか、彼の「想い」の上で重要なセックスと、南野陽子との物語の展開上に重要なセックスと、その他、諸々の関係にメリハリがない。その上に、物語のシーンと紫式部のシーンに行ったり来たりで、ただ散漫なだけの展開だ。
 そして現れた、源氏を追放する役割の大后が、まさに「姐」そのままの迫力と存在感で笑える上に、行った先の明石のCGに妙に力が入っていたり、意味不明の水中遊泳とか水中出産なんて印象的なシーンがあり、細川ふみえが重要な役割に思える。なので、この映画じゃ明石の君にスポットを当ててるのか。不思議なと思う。
 でも、老いた光源氏が、死んだ紫の上とのラブレターを焼くシーンで、源氏物語の方は終わる。やっぱり、紫の上が最も重要な女性だったのかと思い直すが、彼女が最も印象が薄いのだ。

 源氏物語の怨霊の代表といえば六条御息所なんだが、その竹下景子の演技やショボいCGより、もっと不気味なのが松田聖子。源氏物語にこんな妖怪って出てたのか。その不気味さがあまりに唐突なので最大の笑いどころになってる。

 映画の中では、紫式部の夫は福井の海岸で、娘を拉致しようとした外国の工作員に殺される。その夫と二役なのが娘の彰子の教育係に紫式部を起用した道長で、彼は式部に愛を告げる。彼女は道長に惹かれてはいたが、受け入れずに福井へ帰り、恋愛に男の思いだけが優先されることに恨み言を言って終わる。
 ところが、紫式部にとって実在の女である彰子が懐かしの「うなづきトリオ」みたいで、ひたすら、相づちと鸚鵡返しだけ。だから人間性が描かれていないため、男の勝手な恋愛というのは源氏物語の世界に描かれたことだとしか思わない。そこで「オマエがそう書いたんだろ」と突っ込んで終わる。

 東映オールスター時代劇というのが、昔、あったようで、その女優版なんだろうけど、脈絡が見えないためにオールスター仮装大会みたい。笑えるのはいいが、あまりに詰め込みすぎ。4作品に分割したらいいのに。「紫式部物語」「ひかる源氏物語」「王朝の妃(おんな)達」「陰陽師・歌う妖怪偏」

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09/01/2006

説得力か納得力か_6

 おかしな質問だが、犬、牛、豚、鯨、これらの動物のうち、最も食べるのに相応しくないと考えられるものはどれか。ちなみに、どれが一番食べたいかと聞かれれば、私は「鯨」と答える。
 最も「説得力」のある回答は「鯨」だろう。「鯨」は野生生物であり、他は家畜であるからだ。
 家畜であるのに「食べてはいけない」というのは、宗教的な理由か慣習に過ぎないわけであり、それこそ「価値観の相違」である。もちろん、野生生物だから食してはイケナイということにはならないのだが、そこには、家畜の場合と異なった理由をあげることが可能なのだ。
 「鯨」以外の回答の「説得力」は、回答者の「偶有性」に依存している、と言えばいいんだろうか。たまたま、どういう食文化の中で育ったか、どういう食文化に属しているか、それが「納得力」を持つに必要な「認識」の背景にあるからだ。
 家畜の中でも、犬の場合、食用品種は多くない。知られているのはチャウチャウくらいちゃうんちゃう。それさえも、愛玩用にされているわけだから、犬を食用にする文化は多くない。「食べない」という事実があったとしても「食べるべきでない」ということにはならない。リクツとしておかしくっても、「犬を食べない」地域に「犬はたべるべきでない」と考える人は数多く存在している
 牛を食べるべきでないと考えた結果、ヒンドゥー教を信じる人というのは、ほとんどいないだろう。多くはヒンドゥー教を信じる人の中で育ったがため、牛を食べるべきでないと考えるわけである。
 「鯨」を食べない理由が、野生動物でありウンヌンカンヌンというのは、そういう「偶有性」による「納得力」に依存せず、鯨のみが持つ「野生動物」という属性が「説得力」の根拠になっている。実際に説得力を持つかどうかはともかくも、「食べるべきでない」というのが、「納得力」によるのではなく、「説得力」によるわけである。
 もし「鯨」は食っちゃダメという人が、同じ理由で「犬」もダメと言い出したとたんに、その「説得力」は崩壊する。

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08/01/2006

隠し剣 鬼の爪

img062 気持ちよく楽しめる。「情」というのは、昔から、様々なドラマに描かれてきたテーマだ。
 「情」を描くには、登場人物の感情が理解できること、感情移入が必要になる。そのためには、登場人物の「感情」にリアリティが必要になる。その点で、現代にある架空の世界よりも、「嘘」が目立たない時代劇の方が、より、説得力を持つことが出来る。時代劇という様式、つまり「共通の認識」が期待できることが持つありがたさだ。
 さらに、気持ちの良さを盛り上げるのが、絵画によらない絵画的表現と音楽によらない音楽的表現。何気ない、落ち着いた、風景の絵画性、庄内のコトバの持つ音楽性が効果的。ただ、馴れていないためか、最初は、あいやー、が中国語に聞こえてしまった。
 「細い刃物」を突き刺され、一瞬で殺されてしまう家老の役が緒方拳というのは、かつてのテレビ時代劇を意識したわけではないだろうが、妙に面白かった。
 とびきりの名作とまでは思えないが、観て損はさせませんという作品をコンスタントに作る人たちは貴重だ。

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説得力か納得力か_5

 「説得力」や「納得力」というのは、既存の「共通の認識」によって、新たな「共通の認識」を作ることのようだ。しかし「共通の認識」があっても、新たな「共通の認識」が出来るとは限らない。
 味噌は食べられる。糞は食べてはいけない。これも共通の認識である。さて、味噌にわずかばかりの糞が混じっているとする。その状態は共通して認識している。この場合、少し糞が混じっていても味噌に違いないから食ってよい、というのと、味噌であっても糞が混じったものを食うべきではない。いずれに「説得力」があるだろうか。
 この段階では「説得力」や「納得力」の問題ではなく、美意識の問題であり、味噌への思いこみが強いか、糞への嫌悪感が強いかの話になる。つまりは「価値観の相違」ということになる。
 ところが、世の中のことは、そう簡単に「価値観の相違」に到達できるわけじゃない。まず、「味噌である」「糞である」という共通認識さえないことが多いのである。
 「糞である」という認識のない人にとっては、味噌を食って何が悪いのだ。余計なお世話だとしか言いようがない。
 「味噌である」という認識のない人にとっては、そもそも、そんなものを食う理由がわからない。糞は食うべきものじゃないという認識がないのではないか、糞を食うのが好きなのだとしか思えないわけである。
 だから「価値観の相違」というのは、「味噌である」と「糞である」のそれぞれに「納得力」のある人の間でしか成立しないのだ。
 少し糞が混じっていても味噌だから食ってよいというのは、「味噌である」という共通認識がなければ成立しない。だから「味噌である」に「説得力」がないのであれば、この論自体が「説得力」を持ち得ないわけである。コエタゴに入っているものを、「味噌であると思ってる人がいるから味噌だ」と言われても「説得力」はない。
 もっとも、アメリカ産の牛肉は安全かどうか、食べていいかどうか、というのは、牛肉を食物と認識していないヒンドゥー教徒には無意味な問題なのだ。このように「味噌である」と認識するかどうか、「糞である」と認識するかどうか、それが「価値観の相違」に起因することだってあるわけで、どこまで行っても「価値観の相違」で片づくこともありうる。
 「価値観の相違」により、個人として「味噌である」と「糞である」に「納得力」を持ち得ない場合であっても、社会的には「味噌である」ことや「糞である」ことにしようと決まっている場合もある。そうなると、仮の「納得力」を持たなければ、社会的な問題の在処を認識することが難しい。「価値観の相違」に辿り着くのだって、それなりの「納得力」が必要になるのである。
 実は「説得力」がない、つまり共通した認識でないことを前提にしていたり、論理に破綻があることを、「価値観の相違」ですましていることも多いと思う。

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七草粥

 もう昨日のことだが、「七草セット」というのを買ってきて、七草粥を作って食べた。セットは大分産だった。
 昨日は、雪が数センチ積もっており、ハコベが芽を出す近所の川縁も、大根やカブラが植わっている畑も雪の下だ。
 今年の「七草粥」の日は、本来は2月4日なのだが、その時期にセットは売っていない。自生しているもので揃えるのも難しい。
 季節感のない七草粥だった。写真も撮り忘れた。

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大熊猫

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img060
 ここんとこ、文ばっかりなので、画像貼り付け。

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07/01/2006

説得力か納得力か_4

 アタリマエの話であるが、コミュニケーションには共通のツールが必要だ。このblogに書かれた内容を理解するためには日本語が必要である。
 その前に、日本語の文として表示するには、W3Cの「XHTML 1.0 Transitional」の表示できるブラウザが必要である。さらにはデータをダウンロードするため、インターネット上のプロトコルに基づいたクライアント・マシンが必要である。
 さらには、このblogの語彙が、ある程度は理解できることが、意味を把握するためには必要になる。
 つまり、コミュニケーションのためには、最低限、語彙についての共有が必要であり、さらには書かれたコトやモノに対して、共通の認識を持つことが必要になる。
 昨年末に、熊本に行った際に、公共交通の大幅な乱れを体験した。「大雪のため」という説明を受けた。簡単には納得出来なかった。なぜなら「3cm程度の積雪」が「大雪」であるという認識がなかったからである。地域によって「大雪」の概念が異なることはわかっていても、想定外だった。地元の人に「地面が見えなくなるほど積もるのが20年ぶり」という話を聞き、この地での「大雪」の概念を認識して、はじめて「納得力」を持つことが出来た。
 さて、「馬が好きな人なら、熊本に行くのは嬉しい。」というのは「説得力」があるだろうか。私の場合「馬が好きな人」であり、うまい馬刺が比較的安価に食べられる熊本に行くのは嬉しい。だから「納得力」を持てる。でも、「馬が好きな人」でも小倉が嬉しい人や都井岬が嬉しい人もいる。人によって「馬が好き」の概念が違い、共有できない人に対しては「説得力」がない。
 このblogでは、あまり一般的でないような例示をよく使う。先のエントリーでも、何も遠くから歌舞伎を見に行く話にしなくてもいい。近所のミニスーパーと遠くの大型店あたりの例で説明したっていいのだ。ただ、こういう一般的な例を使うことで、私の全く予測していない認識、それもマーケティングの専門家によるツッコミが入ると、本来の趣旨じゃない話になるので、つい避けてしまうのだ。
 このblogは誰かを説得しようとするものじゃない。他愛のない出来事や考えたことをエエカゲンに公開しているだけである。だから「説得力」のある文などは心がけていない。ただ、文の内容に共通の認識を持つ人が「納得力」を発揮してもらえばいい。
 だから、語彙についても回りくどい書き方をすることがある。例えば、靖国神社のことを「件の新興宗教」などと書く。靖国神社が、従来の神道とは別のモノとして明治に出来た新興宗教であると認識してない人、「件の」というベタなクスグリを理解できない人、こういう人には「納得力」を期待できないと思っているからだ。

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説得力か納得力か_3

 金沢の人や高知の人は、東京か関西か、どちらに歌舞伎を見に行くことが多いだろうか。
 以下の数字はちゃんと調べたものではない仮の数字なので、リクツだけを読んでほしい。
 東京での歌舞伎は、歌舞伎座の他、国立劇場や新橋演舞場、明治座とかで行われている。そして、昼夜別のトータルで、年間に延べ150万席分の公演が行われている。関西では南座と松竹座で、年間に延べ30万席分の公演が行われている。
 金沢・東京間は約300kmであり、金沢・関西間は約200km。高知・東京間は約600km、高知・関西間は約200kmである。
 引力は、質量に比例し、距離の2乗に反比例する。引力=質量/距離^2である。
 だから、金沢では、東京と関西の引力の比は、150/300^2:30/200^2で、20:9になる。高知の場合、東京と関西の引力の比は、150/600^2:30/200^2で、5:9になる。
 つまり、歌舞伎を見に行くには、金沢では東京へ行くケースが関西の倍以上であり、逆に高知の場合、関西の方が東京より倍近い。

 以上は全くのウソである。だって「引力=質量/距離^2」というのは、重力に関する式であって、都市や劇場の引力に応用できるなんて、誰も証明していない。
 ところが、品物がたくさんある店ほど魅力がある、芝居を見に行くなら公演を多くやってる都市の方が魅力がある、という実感が誰にでもある。だから、トータルの席数が多い方が観客の吸引力があるだろうと誰でも思う。だからといって「比例する」わけでもないのに、納得してしまうことがある。
 さらに、遠いところほど行きにくいという実感もある。だからといって「反比例」するわけでも「2乗に反比例」するわけでもない。でも、引力方程式という「科学的」なものでは、2乗に反比例しているので、やはり、そんなもんだと思ってしまうのである。
 だから、この試算には「説得力」がないにも関わらず、「説得されてしまう」人もあるのである。過剰な「納得力」があるだけなのだ。

 さらに、実際に金沢や高知での実態を調査したら、距離の2乗ではないにしろ、距離の1.8乗にすると、この式通りの結果になってたとする。
 この段階で、初めて「説得力」が発生する。事実と仮定が一致するからだ。だから、松江の場合はどうかという予測に使うことができるだろう。
 けれども、それは「たまたま」そういう式にあてはまるというだけのことであって、引力=延席数/距離^1.8という式が正しいと証明されたことにはならない。この段階で「説得力」を持っているのは「事実との整合」であって、式自体ではない。式を信用するのは、やはり過剰な「納得力」なのだ。

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06/01/2006

説得力か納得力か_2

 映画や演劇、特に演劇におけるリアリティというのは、写実性よりも説得力によっている。
 その昔の名優が、盗み聞きの演技は額から聞きに行く、と書いている。盗み聞きだから、観客が「聞いていない素振りをしている」ことと「聞いている」ということがわかるような芝居じゃなきゃいけない。
 最も写実的なのは「聞いていない」演技であり、映像メディアだとそこに、聞いている内容をかぶせたり、その内容に応じて目が動いたりするのを捉えることで、つまり「聞いている」という情報を付加すればいい。でも、そういう処理が出来ない舞台だと「聞いてない」演技をしただけでは、「盗み聞きをしている」ことを表現できない。
 かと言って、耳から聞きに行ったのでは「聞いてないフリ」が表現できない。そこで、額から聞きに行くという表現になるわけだ。
 舞台という制約の中では「写実」だけでは、というより、むしろ「写実」したのでは表現ができないので、こういった記号的表現が行われる。
 テレビに出てきた谷村新司の前髪が動かないのに違和感を感じる人がいる。実物の谷村新司の前髪は動かないらしい。なのに、前髪の動く清水アキラのモノマネの方が「谷村新司らしい」リアリティがあるらしい。
 モノマネ芸において、「谷村新司のヘアスタイル」にある「写実」だけでは伝わらない「何か」を前髪を動かすという記号で表現し、説得力を得ているわけだ。神田正輝のモノマネをする場合も、前髪を動かせば「ある伝説」を表現できるわけだ。
 映画であっても「写実」に徹すればいいというわけではない。やはり、実際に人が死ぬような映像を撮るわけにはいかず、過去のモノを完全に再現することもできず、いろんな制約がある。やはり、説得力のある記号的表現が必要だ。
 先日の「男たちの大和」のエントリーへのトラックバックを辿って行くと、私が全くリアリティがないと感じた戦闘シーンにリアリティを感じている人もいる。ともに、実物はおろか、似たような状況さえ見たことはないわけである。だから、余計に写実性よりも説得力の方がリアリティには重要なのである。
 さて、私が「説得力」がないと感じたシーンに「説得力」を感じた人もいるわけである。そうなると、ひょっとして、私が説得力がないと感じたのは、このシーン自体に「説得力」がないのではなく、私に「納得力」がないのかも知れないと思うのは当然だ。それで、なぜ「説得力」もしくは「納得力」がないのか考えてみたりする。だから、その理由を感想に書き加える。残念ながらリアリティがあると思った人で、なぜ、そう感じたかの記述が見つからないので、比較はできない。
 「亡国のイージス」だと、爆発シーンがチャチというのは多くの人が指摘している。つまり、こちらは「納得力」の問題ではなく「説得力」の問題だと考えていいようだ。だから、チャチと感じた理由は省略した。

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説得力か納得力か_1

 年末に、トンデモさんを集めた番組があったようだ。ずーっと見ていたわけではなく、数分だけ見たら、トンデモ界で有名な人が出ていた。この人、簡単に言えば、相対性理論やホーキンスの宇宙論は「自分がわからないので、その理論は間違っている」という本を出している。
 彼が「わからないから」間違っているというのは、笑いの対象となっている。その一方で、彼は独自の理論を提唱している。その理論は、普通の人には「わからないから」信じないし、間違っていると思われ、笑いの対象となっている。
 「わからないから」「信じられない」という点では同じなんだけど、彼が「わからない」理論は正しいとされ、彼以外が「わからない」理論は間違っているとされているんだから、可哀相な話である。
 「わからない」コトより「よくわかる」コトを信じるのは、自然だ。現代では、創造論を知らずに進化論を信じている人はいくらでもいるが、創造論者というのは、たいてい進化論を知っている。その上で進化論は「わからない」が創造論は「よくわかる」から、創造論を信じてらっしゃるわけだ。
 「以前から、釈然としないものを感じていましたが、これを読んで(もしくは聞いて)、目から鱗が落ちました」というのが、トンデモさんに嵌るきっかけということは多い。
 このように、一見、相対的なものに思えてしまう両者の「わからない」だが、一方がトンデモさんと言われる所以は、実は、両者の「わからない」は質的に違う「わからない」からなのだろう。
 その質的な違いにより、同じ「わからない」でも、ホーキンスやアインシュタインの理論に「説得力」がないのではなく、かのトンデモさんには理論に対する「理解力」がない。そしてこのトンデモさんの理論には「説得力」がなく、一般の人にその「理解力」がないわけじゃない、ということになっている。
 それで「理解力」という概念の中で、特にコミュニケーションに関わる理解力、説得力に対する理解力として「納得力」という言い方をしてみる。そうすると、あるリクツに対して、同じ「わからない」でもリクツに「説得力」がないのか、聞く方に「納得力」がないのかというケースがあることになる。
 それで、自然科学の分野においては、「わからない」の理由が、「説得力」にあるか「納得力」にあるかは、わりとわかりやすくなっているようだ。

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05/01/2006

ヨゴレ

 「ヨゴレ芸人」とか言う「ヨゴレ」って何だろ。
 この手の一部の世界で使われるコトバ、特に一般的なコトバで表現できる場合は、多用するとバカに見える。けれども、この「ヨゴレ」のように一般的なコトバで表現が難しいから使われている場合には便利だ。
 この「ヨゴレ」、最近の用法にどうも違和感を感じたので、ネットでチェックしてみたら、「いじられて」笑いを取る芸人、リアクション芸人という意味で使われているようなのだ。
 私が、従来から思っていたのは、その場での芸じゃなくて、既に持っている特色で、笑いを取る、というか武器にするようなことだと思っていた。つまり、そういう武器を常備していると言えばいいが、逆に脱却できないから「ヨゴレ」だと思っていた。
 だから、上島竜平が「ヨゴレ」を自称していても、出川が言われても、そういう意味だと思っていた。
 また、芸人さんによっては、身体的特徴からイメージが固定してきてしまうと、自嘲的に「俺、ヨゴレ、入ってる」なんて言い方をしているんだと思っていた。
 単に、私が勘違いしてただけなんだろうか。というか、語源は何なんだろう。かつて、関西の寄席芸として流行った「安来節」では、ソロで滑稽な泥鰌救いを踊る役を「ヨゴレ」と言っていたようだが、それが語源なんだろうか。
 そして、現在の用法への由来が知りたくなった。

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04/01/2006

一方通行

 「男たちの大和」のエントリーに、けっこう知らないところからもトラックバックが来ている。見に行くと、先方に100近くのトラックバックがあったりして、こういうネットワークもあるんだなぁと思う。
 そのトラックバックで、唯一、削除してしまったものがある。実は、感想の内容としては、最も共感できるものだった。先方では「大和が世界一の戦艦」というのが、当時は、軍事機密で、水兵が知っているはずがないと書いてられた。それがホントかどうかは知らないが、私も似たようなことが気になった。映画の中で、水兵はおろか一般人まで大和が沖縄に行くと知っていたことだ。出航後に進路を偽装するわけだから、行き先は内緒のはずだろ。
 ともかくも、内容が共感できるので、Tバックも貰ったわけだから、コメントをしておこうと、書き込んだら「コメント記入には楽天広場に登録が必要です」という表示が出た。
 トラックバックを送るというのは、コミュニケーションのためだろうが、それで外部からのコメントを記入させずに、コミュニケーションを拒絶しているのが不思議だった。
 楽天広場の仕様かとも思ったのだが、他にも楽天広場のユーザーからのトラックバックを貰っており、そちらにはコメントできた。
 そういう次第なので、コメントできなかった方からのトラックバックは削除してしまった。


 先日の「ほっときたいまずしさ」で、ほっとけばいいのに「アタマのまずしい人」を取り上げた理由のひとつは、本人は「悪口」と思ったかも知れないが「批判」に対し、トラックバックをされた自分のエントリーを削除し、以来、コメントもトラックバックも受け付けない設定にしてしまったことに呆れてしまったからだ。
 トラックバックやコメントを削除するのは勝手だ。受け付けない設定にするのも勝手だ。でも、彼はあるblogシステムのトップページで紹介されている。システムでの扱いだけは、ココログの真鍋かおりやso-netブログの古田みたいなものだ。知名度や質は違っていても。
 なのに、都合が悪いとコミュニケーションを一切拒絶し、記事ごと消してしまうというココロのまずしさは、トップに据えているblog運営システムに対しても背信だろうと思う。

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03/01/2006

毒婦マチルダ

img059 そんなに感動作というワケではないが、映画の見方に影響を受けた傑作だ。
 演劇と映画とは別物だ。しかし演劇の観客と映画の観客を別に考える必要はない。京劇の舞台の基本は「一卓二椅」で、一つのテーブルと二つのイスで全ての背景を説明するし、一本のムチで馬を、旗一本で500騎の軍勢を表現する。日本の狂言では舞台を一回りするだけで場所が変わる。このような観客の想像力によってプラスを得る一方で、歌舞伎は過剰な表現を観客の想像力によってマイナスを得る。リアリティへのプラスやマイナスを観客に依存する代わりに、日常では得られない美意識を表現するわけだ。
 リアリティを観客の想像力に依存することによって、個々の観客によって異なるリアリティを満足することが出来るのである。
 さて、この映画、かなりの部分で観客の想像力に依存している。例えば、主人公マチルダは、女性として生まれたが、息子を野球選手にしたい父親にオスカルと名付けられ、男性として育てられ、野球の特訓を受けた。このシーンを映像化するのは極めて難しい。不自然にならないような子役を探し、きちんと演技をさせるのは大変だ。それをこの映画では驚くべき技法で映像化に成功している。
 他にも、そのままでは映像化がおそらく不可能なストーリーであるが、この映画では映像化を行っている。巨額の製作費もCGの多用もなく、それを可能にしたのは、監督の割り切りと観客の想像力だ。
 この映画には、明らかに「レオン」や「ブリキの太鼓」の影響が見られる。主人公のマチルダとオスカルという名前もこの二作品へのオマージュであろう。しかし、ただ真似るのではなく、きちんと再構成されている。
 ハリウッド映画を下手に真似たと思うような日本映画、それも製作費何億という、ハリウッド映画にとうてい及びもしない金額を謳い文句にしているのを見るたびに、学んでも真似ることはない、違う面白さを追求すべきだろうと思う。この映画のように。
 この作品では、北朝鮮に関わる政治問題も扱われているが、それを政治的なレベルの問題として中途半端に挿入するだけではなく、エンターティンメントの背景としてきちんと消化している。
 「ローレライ」「戦国自衛隊1549」「亡国のイージス」の3本を見て思うのは、福井晴敏の原作の映画化が可能なのは、この松梨智子だけじゃないかということだ。

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阿片王―満州の夜と霧

img045 さて、先日のエントリーで半分くらいだった「阿片王」であるが、昨年中に読み終えている。内容については、多少、期待はずれのところもある。例えば、満州時代の活動だが、半世紀以降の取材の限界だからしようがないだろう。里見が携わった偽札や阿片による工作の内容にしても、その恩恵を受けた東条英機や岸信介との関係にしても、里見本人が秘匿して死んだらしい、ということがわかったわけで、具体的な内容はわからない。
 むしろ、著者の興味の中心も、里見の「シゴト」よりも「人間」のようだ。妙に、里見のことを良く書いているように思えるのは、対象への好奇心の所以だろうし、彼の金に群がった岸信介や笹川良一、児玉誉士夫らとの比較からだろう。そして、その人物像が浮かびあがったかというと、多くの謎は残されたままだ。
 読んで思ったのは「わからないことを調べる楽しさ」だ。一連の取材を著者が楽しんでいるように思えるのだ。例えば、里見の周辺人物についても執拗に取材を続けるのだが、本来の取材目的からは逸脱していってるようにしか思えない。それでも、調べることや、何かがわかることが、とても楽しそうなのだ。
 その気持ちはわかる。何か調べごとをしていて、答えが得られたわけでもないのに、些細な発見があると、嬉しいものだ。検索してもヒットしない事項が、他の関連語句でチェックしてみたら発見できた。その程度でも嬉しい。
 だから、取材先に出かけ、関係者に会い、資料をあたり、そして、何か発見があると、その楽しさの「中毒」になり、本来の調査から逸脱して行くような感覚だ。けれども、読んでいてその楽しさが伝わるので、何となく共感してしまう。内容の隔靴掻痒ぶりにかかわらず。
 ノンフィクションというより、半世紀以上昔の闇につながる世界への「紀行文」のような感じだった。

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02/01/2006

スーパー・サイズ・ミー

img058
 私がテレビを見るのは、ほとんど11時以降だ。だから、あまり見ないし、旬の話題には疎い。けれども、通販番組というか、番組全体がCMという番組を見る機会は多い。
 日本の通販番組って、説明する人のイキオイが頼りって感じがする。社長と塚本慎太郎さんはともかく、アナウンサー崩れという感じの人はやたら感嘆符が多い。説明中心の作りという感じ。
 一方、アメリカ製の番組は、デモンストレーションが好きなようだ。使って見せて、利用者インタビューで説得しようとする。
 さて、この「デモンストレーション」と「実験」はどう違うか、他のblogで少し話題になったことがある。結果が確実なのが「デモンストレーション」で、不確実なのが「実験」だろうか。この映画は、その「デモンストレーション」と「実験」の中間をメインに、インタビューやレポートで構成されており、アメリカ人の考える説得力というのが、通販番組と妙に似ているのが面白い。
 マクド製品だけを食べて1ヶ月暮らせば、身体がまともでなくなるのは誰でも予測できると思うし「デモンストレーション」でもある、そのダメージがどの程度かは予測できないから「実験」とも言える。
 その「実験」や「インタビュー」に関連して挿入されるエピソードが面白いので飽きない。子ども達にいかにマクドのピエロが浸透してるかというエピソードでも、ワシントンやリンカーンという「ありがちな」比較対象だけでなく、誰も「知らない」と答えたのがキリストだったとか。
 さらに、ニューヨークから西海岸、そしてテキサスへと移動して垣間見られる「ジャンク・フード・風土」の違いなども面白い。やっぱり、アメリカの「病」は「テキサス」中心かって。
 ラスト近くの、主張をそのままの部分は、もうちょっと芸を見せてほしいと思う。
 誰でも、マクドの製品だけで1ヶ月暮らすわけじゃないからとは思うだろう、けれども、そういう健康被害の問題よりも、ジャンク・フードを食べるということが、いかに非「文化」的かというのがわかる映画だ。

 なお、この映画では、マクドナルド製品の「脂肪」「糖分」「中毒成分」のみを扱っている。今、多くの日本人の興味の中心である「少しでも食べれば、何年か後に脳がスカスカになる成分」については触れていない。

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アスラ

img057 アスラは、元々、古代の南アジアの神でディーヴァ神族に敵対する眷属であり、古代ペルシアにおいて、アスラがアフラ・マズダーとなり神格化される一方で、インドではディーヴァを神格化し、悪神となり、仏教では「阿修羅」となる。
 そのアスラとは全く無関係で、尻が巨大化した怪獣の映画である。文字通りの「クソ映画」。下品でチープ。でも、それを狙って作ってるのだから、佳作と言うべきなんだろうか。
 オープニングに出てきて、さらにストーリーの各所に出てきて、エンドロールでも歌い続けるデュオの執拗さにも呆れる。
 その本線の「クソ映画」ぶりとは別の味を出してる女性捜査官がいい。

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日本インターネット映画大賞

 このblogにもコメントいただいてる方とチャットしていたら、「日本インターネット映画大賞」に参加してみたら、と言われた。
 映画館じゃほとんど見ないのだけれど、参加してみることにした。DVDで見ることが多いので、「今年、見た映画」に「去年、公開された映画」がけっこう多い。
 3丁目の夕日は映画館で見るつもりだったが、公開が延長されたのでまだ。だから、申し訳ないが、投票対象外。

『日本インターネット映画大賞 投票フォーマット 』

 投票部門 (日本映画)

 [作品賞投票ルール]
 ・選出作品は5本以上10本まで
 ・持ち点合計は30点
 ・1作品に投票できる最大は10点まで

【作品賞】(5本以上10本まで)
  「オペレッタ狸御殿   」    10点
  「パッチギ       」    7点
  「真夜中の弥次さん喜多さん」   6点
  「下妻物語       」    4点
  「 ヴァイブレータ    」    3点

【コメント】
「今年、見た」けれど「去年、公開された」映画は、割り引いて投票しました。
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【監督賞】              作品名
   [鈴木清順] (「オペレッタ狸御殿」)
【コメント】やっぱり、この人のデタラメぶりは日本映画の至宝だと思います。

【主演男優賞】
   [中村七之助] (「真夜中の弥次さん喜多さん」)
【コメント】ホントに危ない人に見えて、凄かった。

【主演女優賞】
   [チャン・ツィイー] (「オペレッタ狸御殿」)
【コメント】ブーディ、ブーディという台詞が音楽だった。

【助演男優賞】
   [ケンドー・コバヤシ] (「パッチギ」)
【コメント】この人のおかげで、作品が下品にならず笑いに昇華できてると思う。

【助演女優賞】
   [寺島しのぶ] (「男たちの大和/YAMATO」)
【コメント】あのクソ映画で、唯一見られたのが獅童であり、それも、この人との1シーンがあったがため。

【新人賞】
   [橋本真也] (「ああ一軒家プロレス」)
【コメント】今年、公開じゃないけど、あの嘘くささは、おバカ映画には貴重。今後、化ける役者。

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01/01/2006

スイミング・プール

img056 とてもいい。だから書いておきたかった。でも、どういいのか説明しにくい。なので、結局、エントリーせずにいた。
 ミステリー、あるいはサスペンスの範疇に入るのかな。謎は残るし、その正解も提示されずに終わる。でも、わからなくてもいいと思う。
 ストーリーの進行に従って、細かな謎が積み上げられていく。そしてストーリーの決着がついた後で、最大の謎が提示される。
 当然、どういうことなのかといろいろ考える。でも、最大の謎が提示される直前に終わったていたら、と考えてみると、別に考えなくてもいいんだということに気付いた。
 最大の謎が提示される前にも、見ていて気持ちのいい映画だったし、ストーリーも完結している。その中に散りばめられた「細かな謎」も、いいサスペンス映画にある気持ちのいい不安感だった。その不安感が、最後の謎の提示によって「きっと解決がある」と思ってしまえる。だから、最大の謎も「きっと解決がある」と思えばいい。
 嫌らしくなくエロいのもいい。

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亡国のイージス

img055 ザ・ロックのパクリらしいというので、見てみた。ザ・ロックのプロットというのは、いくらでも膨らませようがあると思うし、別にプロットを借りてきたって、違う面白さを見せてくれればいい。
 でも「違う面白さ」がほとんどないとなると、あまりに惨め。
 当然、ハリウッド映画のような金はかけられない。だから、スペクタクル性はあきらめてしまうのは当然だろうし、セコイところで面白さを追求するしかないのはわかる。でも、そのセコさというのが、日本の観客、というかミリオタならこの程度で喜ぶんじゃないか、という観客を小馬鹿にしたようなイージーさなので、笑えもしない。それとも、私にはわからない高度なギャグなのか。
 ザ・ロックの面白さのひとつはニコラス・ケイジとショーン・コネリーの対比。主役がダイ・ハードの ブルース・ウィリスのような「スーパーマン」じゃなくて、ある種の「スペシャリスト」だから弱虫と爺さんという設定だった。一方、こちらで対比しているのが、 真田広之がマイホームパパで、勝地涼が両親の死が原因で殺人への抵抗がないという点。一応、 真田広之が最後には中井貴一を殺し、勝地涼が撃たれるという一種の逆転に至るのを見せたいのだろうけど、その対比をきちんと見せずに「オマエは実戦を理解していない」「オマエは人間を理解していない」という漫才だけですまし、この漫才だけで勝地涼が変わるのはイージーすぎ。そして、多くのシーンでは、この2人の役割が入れ替わってもいい、つまり対比で浮かび上がるはずの個性が薄い、だからキャラクターに魅力がない、というわけだ。
 ちなみに劇中の寺尾聰の叛乱の理由も家族というか息子。それが勝地涼を救うことになる理由にもなるのだが、行動原理を「任務」と「父子関係」だけに帰結させちゃってもいいんだけど、それならば、もっとその関係や葛藤も描かないと、「家族」が理由なら観客も納得するかというイージーさにしか思えない。それとも、私にはわからない高度なギャグなのか。
 そして、中井貴一に至っては、行動のなぜの説明がないまま。そもそも寺尾聰に接近した目的は何。東京に毒ガスを撒く理由は何。たぶん、一味の女性が殺されたというのが後半の行動の理由かとも思うのだが、じゃあ、この女性は何者。女性兵士はエロスとタナトスの合体の象徴性として使う意味はあるだろう。でも、水中で息継ぎのためにキッスする程度じゃエロくもなければオソロシクもない、格闘ゲームで女性キャラが人気なんで、出しておけばヲタ連中が喜ぶだろう、そういうことかと思う程度の存在感。それとも、私にはわからない高度なギャグなのか。かように敵役の方も、元祖のエド・ハリスに比較して薄っぺらなのだ。
 ラストシーンは、寺尾聰が暴走するイージス艦を爆破して止める。救助された真田広之が、なぜ、それを知ってたのか、もしくは知らずに脱出したのかはわからない。どっちにしろ都合よすぎ。そしてチャチな爆発シーンになるわけだが、逆効果になるようなシーンを入れずとも、爆発させようというシーンと墓参りのシーンがあればわかるだろう。スペクタクルシーンをあきらめたのなら、中途半端な未練は不要だ。それとも、私にはわからない高度なギャグなのか。
 ところで「イージス艦」についてのいい加減な説明の意味は何なのだろう。
 イージス・システムというのは艦隊だけを防衛するシステムであり、「国」を防衛するものじゃない。艦隊の「無敵の盾」だ。だからこそ、そのイージス艦による攻撃には反撃が難しく、このストーリーが成立する。かくも攻撃的な武器であるからこそ、防衛のためには先に攻撃すべきというリクツにも関連するわけだし、攻撃のできない国家が持つことについて、寺尾聰の息子が問題提起をする意味があるわけだろう。それで、その使用に対する論文が都合が悪いということにもなる。ところが「盾だから専守防衛の最も具体的な形である」という一節が、イージス艦の説明に挟まっているために、イージス・システムの予備知識の乏しい私は、この論文が何が言いたくて、何が問題なのか、かなり混乱してしまった。盾で守る対象が攻撃力か国かを混乱させるような書き方なのだ。こういう観客を混乱させるようなフレーズを加え、何の意味があるのだろうか。私にはわからない高度なギャグなのか。
 ひょっとして、この映画は「オマエはギャグを理解していない」と私に言いたいのだろうか。

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あけおめ

 テレビの中の人も年末年始は休みたいようで、撮り溜めた番組ばかりのようだ。
 それとは、意味が違うが、書きためたわけでもないが、書きかけで放置して、たまっていた文を、多少なりともエントリー中。

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