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16/01/2006

構造の共通性について考察する

わからないが判断すること
 以前に相対性理論やホーキングの宇宙論には「説得力」があると書いている。実はウソである。
 私は相対性理論をホーキングの宇宙論を理解しているわけではない。その点ではコンノケンイチ大先生や以前にトラックバックを頂いたムサシ大先生と一緒である。「説得力」があるかどうかなんて判定できるはずがない。
 にも関わらず「説得力」があると断定しているのは、物理学上の認識からではなく、社会上の認識によっている。
 科学の理論は、他の研究者によって検証される。その結果、支持されたり、反論されたりして、その状況が社会に紹介される。このような状況を大雑把にでも認識することで、「説得力」があるかどうか判断しているわけである。
 例えば、何々大学理学部物理学科教授という人が、ある物理学上の理論を紹介してたとする。もし、一連の手続きでオーソライズもされていない理論を紹介したとすると、同業者からの批判があり、さらに、その職に相応しくないという判断もされるかもしれない。専門家としてはオーソライズされない理論を紹介するのはリスクがある。
 同じ人が、歴史学についての意見を述べていたとする。もし歴史学の学術上の手続きによって意見を述べたのであれば、専門家の反応や言及があるだろう。そうでないのなら、歴史学の専門家は反応しないだろう。もし、歴史学の専門家から否定されたとしても、物理学の専門家という立場にリスクはない。
 科学に関して、現役の国公立大学の科学系教員がインチキを公表するのにはリスクがある。しかし、退職した教員や教務職員や自分で研究所を主催している人には何のリスクもない。過去に取得した学位を返上せよということもない。
 専門家の意見が必ずしも正しいとは限らない。けれども、その人が眉唾モノのことを主張したら、どのようなリスクがあるのか。どのような人がどのように反応しているか、その概要で、自分が理解できないことの「説得力」を判断しているわけである。
 もちろん「説得力」があっても事実とは限らないから科学論争があるわけだが。
 これは「権威に従う」ということでも、専門家でない人の話に「説得力」がないということでもない。それぞれに、インチキに伴うリスクを考慮するということだ。
 このblogなんぞは、ウソを書いてもリスクはないし、というか、ウソのような実例を紹介したら私の作ったネタだと思われるほどのものだから、鵜呑みにはしない方がいい。
 マスメディアも、リスクが発生するのは「事実と違う」場合くらいだ。事実をどの程度の比重で取り上げるか、事実への論評にはリスクが伴わない。記事に伴うリスクを考えて、信憑性を判断するのも、メディアリテラシーのひとつだろう。


言い方を変えると
 ここまででひとつのエントリーのはずだった。けれども、違うハナシをくっつけてみた。

 いろんな「業界」において、成果を得るには「業界全体の拡大」と「業界内の競争」がある。
 研究者の「業界」では、インチキの公表は「業界全体の拡大」にも「業界内の競争」でも大きなリスクが発生するから抑制力が働く。いわば「市場原理」だ。
 要するに、私のような非専門家にはわからないので、研究業界の人の言うことは「市場原理」で質が保証されるんじゃないかと、考えるわけである。

建設業界の市場原理
 建設業界はどうだろうか。本来、建築物というのは需要に応じて建てられるはずだから、「業界全体の拡大」は難しいはずだ。ところが、世にハコモノ行政とか土建政治というコトバがある。この業界は、政治に関与することで「業界全体の拡大」を計ってきたわけだ。
 そして「業界内の競争」も本来はあるはずなのに、どうもお嫌いのようで「談合」ということを盛んになさっているように「和を以て尊し」という美徳を備えた業界のようだ。
 1995年の阪神淡路大震災で、多くの建物が倒壊した。倒壊しなかった建物もあるが、この時、倒壊した建物があまりに多く、その個々について、地震力と倒壊の要因について厳密な調査は行われたのだろうか。調査を行ったとしても「建設業界」以外の誰かが行ったのだろうか。たぶん、そうではないと思う。「建築業界」以外の建築の専門家が、そんなにいるはずがない。
 つまり、見た目や価格のように誰でもわかる部分はともかく、耐震力という品質に関しては、劣っていてもリスクがないという経験を経ている。
 このように競争がお嫌いな業界に、劣っていてもリスクのなかった性能に関し、「市場原理」による保証を期待するのは無理があるようだ。

 かつては行政が,、建築物の品質のチェックを行っていた。それは「市場原理」による品質が期待できないという理由ではないが、設計図書をチェックし、出来上がれば検査を行っていたわけである。だから、チェックのコストは公共が負担していた。
 でも、考えてみれば不合理だ。建設業界の品質保証コストを公共が負担しないといけない理由はない。やはり建築コストに含んでしまうべきだという考えは理解できる。なので、チェックを民間が出来るようにした。民間に任せれば「市場原理」による効果も期待できる。

 さて、刑事裁判の弁護士は被告が選ぶ。これを検察官が選ぶとどうなるか。有罪になりやすい弁護士の方が選ばれやすいに決まっている。刑事裁判の数は弁護士によって増やすことはできない。西村慎吾のように自ら被告になるという方法でもとらない限り。だから「市場原理」に期待できるが、被告が選べば「検察の不利益になる」、検察官が選べば「検察の利益になる」方向で「業界内の競争」が行われる。

 この民間の検査機関を選ぶのは建設業界ということになったので、やはり「市場原理」が期待できたようだ。ただし、建設業界に利益になるような「業界内の競争」があったようだ。

 元々、設計と施工というのは、違う業界のはずだった。なので設計業者が工事のチェックをして、シロートにわからない品質をチェックするということになっていた。
 ところが設計業者と施工業者では、技術力というか専門能力に大きな差がつき、設計業者だけでは品質の高い設計ができなくなった。資本力も違うから営業力も献金額も違い、建設業界の方がオシゴトを取る主役になった。おまけに、同じ建設費の中身を取りあう関係じゃなくて、建設費に応じて設計費が決まったので利害が共通した。だから、違う業界のはずが、設計業者は施工業者の下請け同然となった。
 酷い例では、伊藤公介と仲良しの建設会社は「用地取得から企画・設計・施工・販売・管理まで一貫して自社で行っているということ。」を売り物にしている。つまりは、シロートにわからない品質のチェックを自社でやってますと堂々と謳っている。
 おまけに、建設会社に選んでもらうため、検査業界まで下請け同然となった。
 かくして、建設業は、シロートでもわかるような見た目や使い勝手はともかく、構造については「市場原理」による品質の保証が全く期待できない業界となっていたわけである。

 今回の頭髪だの秘書の兼職だの献金だのの偽装問題だけど、伊藤公介や清和会関係、広域ホニャララの話は、メジャーなblogで話題になってるんで、リトル遠慮し、こちらは構造設計の構造的な問題について構造主義的に考えてみたわけである。

 つまり、業界の構造の結果だ。シロートにわからない品質は「上げる」ことではなく「下げる」。その方が製造原価が下がる。想定外の地震力で済ませばリスクはない。こういう方向に、設計も工事も検査にも「市場原理」が働く構造に出来上がっているようなのだ。

 今さら、公的にチェックせよという話にしても、スタッフはいないし、コストはどうするのか。それに、以前から、工事中に抜き打ちチェックをしていたワケではない。
 設計業界と施行業界を分けろと言っても、ワケありで培われた相思相愛の関係を対立する関係にはできない。
 それなら、どこかに品質低下に対するリスクを仕組まないといけない。欠陥建築に対しての無限責任を負わせるといっても、倒れないと見つからない、みんなで倒れれば見つからない、それでは手遅れだ。ばれても建設会社を倒産させちゃえばいいだけだ。
 建築物の品質をチェックを自分でできない場合は、所有してはいけないことにするとか。銀行や建設会社の所有にでもして、耐用年数分の使用権を買い取る形にする。倒れれば損するのは銀行や建設会社自身だし、必死にチェックするか。
 まあ、具体的にどうするかは、誰か専門家が考えてくれればいい。その人の意見が怪しい場合にどれだけリスクがあるかで「説得力」を判断すりゃいいか。

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