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22/01/2006

いいサンプルなので

 コミュニケーションというのは、ラテン語の共有するという「communis」が語源だそうだ。認識を共有するために、認識を伝えたり、受け止めたりするわけである。
 その結果として、他人の意見に従うとか、従わせるということもあるだろうが、少なくとも、それ以前に、双方の意見や認識がどうなのか、それを知ることが必要になる。
 ところが、以前から「位置」を知るだけのコミュニケーションというのが気になっている。
 最初に触れたのは、昨年の5月で、互いの認識を知り合うというより、同じ位置であることを確認するだけ、意見の交換のない連帯感だけのコミュニケーションスタイルだ。

 14日のエントリーで、コミュニケーションのためなら「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できるはずが、「自分の位置」を確認したいだけなら、相手と自分の位置が優先で、その位置次第で「納得力」が大きく変わるということを書いた。位置を知りたいだけだから、違うと全く「納得力」を発揮しないから、いかに「説得力」があっても無駄であり、逆だと全く「説得力」がなくていい。
 そこでいいサンプルを提供してくれたのが、先のエントリーの自称「伊勢崎のジャンヌダルク」だ。
 論理がおかしいという批判に全く反論せず、「思想」や「見解」の相違だと決めつけているわけである。
 なぜにこうも「納得力」がないのかと言えば、自分の「論理」ではなく「思想」を批判されていると思いこんでいるのだと思う。だから、批判する相手の「意見」よりも、まず「思想」的立場が違うからだとしか考えられないわけだ。
 普通は、意見の違いの分岐点はどこかを検証して、その分岐の理由を考える。そして、価値観の違い、つまり「思想」や「見解」に行き着くわけである。ところが、意見が違うから価値観が違うまでノンストップで辿り着くわけである。
 つまり、8日のエントリーで書いた
実は「説得力」がない、つまり共通した認識でないことを前提にしていたり、論理に破綻があることを、「価値観の相違」ですましていることも多いと思う。
のいいサンプルにもなってくれたようだ。

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Commentaires

 あれからも、賛同コメントや新しいエントリーで盛況なようですが、まったく変わっていないというのが、南郷さんの指摘を裏付けてます。
 ああなってしまうと、本来同じ位置にいるはずの人間から指摘を受けた時にも、批判された、ということで”敵”として位置づけてしまいそうです。そうすると内側の人間にとっては結束が固まったように見えるのでしょうが、外から見ると弱体化してゆくという悪循環にはまってしまいますね。
 他人事みたいに書いてますけど、私も気をつけないと(^^;

Rédigé par: うちゃ | le 22/01/2006 à 22:06

 新エントリーも支離滅裂ですね。
「自分の身を自分で守れない」→「だから安全には規律ある社会(国家)が必要」→「誰かが犠牲になっても多数の安全のため社会(国家)を守る必要がある」というのが「国防思想」のはずですが、「自分の身を自分で守る」という「国防思想」だそうです。
 「自分の身を自分で守る」には、国体護持のために国民を消耗したような昔の考え方の復活には反対してるんでしょうね。
 「国防思想」を大事にしてる人は、悩んでるんじゃないですか。批判しても「見解の相違」ですまされるし、放置しても「国防思想の理由がアレですから」というのが広がるし。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 22/01/2006 à 23:23

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