炎上と交際
古い話題であるが、大峰山の「女人禁制」に関わる論議を例に。
以前にも書いたが「地元の反対にも関わらず登った」というニュースから、「地元が反対していても登ることができる」という推論は誰にでも導くことができる。つまり、大峰山に「女性が1300年間登っていない」という事実認識には根拠がない。「1300年の歴史」は「女人禁制の実態」ではなく「女人禁制の規則」にある。
実態の話になれば、エベレストには1975年まで女性は登ったことがない。1300年どころか有史以来の「歴史」だ。けれども、登った田部井淳子さんを非難する人はいない。だから、実態として「女性が1300年間登っていない」から「登ってはならない」ということにはならない。
この問題は、大峰山に「女人禁制の規則」という実態のない規則が掲げられていることをどう判断するかにある。
・この規則は宗教的見地からのものであり、観光目的の入山者にまで適用されるべきではない。寺が規則撤廃の意向を持ち、観光目的の入山者を受け入れている現実から、撤廃すべきだ。
・現実に女性でも入山が可能であり、その規則が残ることが歴史遺産として意味を持ち、その特殊性が観光に寄与しているから、維持すべきだ。
こういう論理は、どちらにも正当性があると思う。この規則の影響力を重視するなら前者に、この規則自身の持つ特殊性を重視するなら後者の意見に傾くだろうと思う。
寺が撤廃の意向を持っていることで宗教的理由が不在としているが、信徒の間には、宗教的理由が存在するかもしれない。また、現実に女性が登れるとしても、男性観光客が堂々と登り、女性がこっそりであることを不合理とする意見もあろう。それらは相手への反対理由になっても、撤廃か維持かの正当化理由とは矛盾しない。
私が規則の維持に賛成なのは、歴史的遺産としての価値を評価しているわけで、国家神道をでっちあげるために明治政府が行った修験道への弾圧の中でも残った規則に、原爆投下の目標となりながら骨組みの残った原爆ドームに対し、核兵器反対の人たちが寄せるような感情を抱くからであり、国家と新興宗教の結託への警鐘としての記念碑敵役割を見いだすからだ。ただし、そのような個人的な感情は人それぞれであり、「歴史遺産としての意味」も人それぞれだ。
おそらく、この「女人禁制」という規則を維持すべきか撤廃すべきかの根拠というのは、先の選択肢に集約できると思っている。
そこで、大峰山での報道について、何らかの論議を始めるとするなら、このような前提があっての話になるはずだが、困った存在が2つある。
ひとつは、共通の認識に辿り着く前に、論議を始める人である。ニュースで知ることのできる事実を把握してない人、その上に事実と当為性を分けられない人で、最初に除外した意見だ。「ヒンドゥー寺院で牛丼を食ったようなもので」「1300年の伝統を破るとはケシカラン」の類であり、古代に出来た「実態のない」規則に対して、トランスジェンダーはどうなんだとか、性的禁忌ならその禁忌はどの範囲だとかの疑問を、そのまま、地元に聞いてしまう連中もその類だ。
こういう、考えないで参加する「スタートに立たない」型とともに、もうひとつ困るのは「ゴールから走る」型だ。
つまり、撤廃を主張する人はこういう人、維持を主張する人はこういう人、だから敵だ味方だ、敵の意見は間違ってる、味方の意見は正しいという結論を先に出し、それを前提に論議する人だ。「女人禁制」を問題にするような団体だ、だから間違ってるとか、問題提起は理解できるという類だ。
全く別問題だが、こういう「ゴールから走る」典型が伊勢崎のジャンヌダルクで、彼女と同じく反ジェンダーフリーの人が「女はどういう場合でも守るべきだ」から、二次レイプもどきの言説を批判しているとか、「猪口邦子は子供を二人産んでるからいいが嫁にも行かぬ女はケシカラン」から批判している可能性は全く考えない。
批判は「フェミナチ」の猛撃」と、「意見の批判者=思想上の敵」という結論が先にあるわけで、見解の違いと決め付け、自分の論理のおかしさを検証しようともしない。その意味でも、男装して軍を率いた娘より、風車を巨人と思い込んで戦う騎士に似ているのだが。
「ゴールから走る」型の場合、都合のいい悪いで情報を選択することもあって、自分の立場に都合のいい論理や知識は豊富なので、自分の論理がわからない相手は馬鹿だと決めつけることもできる。でも、不利な情報は無視することが多いので「スタートに立たない」型にも似た側面も見せる。
ブログ炎上というのは、この位相の違いの間で繰り広げられることが多いように思う。「共通の認識がない」、「論理が通じない」のだから、論議が進むはずがない。
このblogにコメントしている人で、私と明らかに社会認識が違い、結論も違う人もいるわけだが、普通にコミュニケーションが成立しているのは「価値観の相違」が見えるからだ。
もっとも、相手の見解や意見より、コミュニケーションスキルによって「敵・味方」を峻別している「ゴールから走る」型なのかも知れないのだが。
Commentaires
大峰山の件については私もちょっとだけかかわり持っているので書かせてもらいたいです(参加者ではありません)。
まず、女人禁制が現代では許されない不合理な差別、それは疑いの余地がありません。男性でさえありさえすればハイカーでも異教徒でも入山OKなのに、女性は一切ダメなんてどうみたって正当化できるわけがない。
しかし、問題なのはあのやり方なのですよ。なんだかわけのわからない質問状を一方的に送りつけ、答えがないと見るや、マスコミを引き連れて大勢で押しよせる。そんなの地元民が反発するのは当たり前です。実際、24時間山の入口を見張っているわけではないから、女性が一人や数人で入山することなど行われているわけです。それくらいのことであれば、地元民も「黙認」しています。地元民にしたら、騒ぎにされるのが一番困るわけですから(女性客も、禁制地帯を除けば、観光産業にとって大切なお客様である)。
ぶっちゃけた話、この登山を主催したのは、I田という男性とM村というMTFトランスジェンダーです。男性であれば、問題なく入山できちゃうわけだし、MTFであればOKニなるかもしれない。それも含め、マスコミを引き連れていったのは、早い話が
パフォーマンス(売名とも言う)
に他ならない、とみんなに思われてしまったということです。私もそう思います。その証拠に、そのときは地元と対話を続けるといってたくせに、その後ほったらかしでしょ。それじゃ、悪く言われるのは当然だと思います。
今回のパフォーマンスで一番つらい思いをさせられたのは、真剣に女人禁制問題を考えている人たちで、その後非常にやりにくくなったと思います。ホント、今思い出しても腹立たしい事件です。
Rédigé par: tn | 27/01/2006 16:03
私としては、伊田氏と森村氏がどういう趣旨で行動したかは興味がありませんし、それによって彼らの行動についての評価を変える気もありません。例え、動機が正当なものでも、結果によって評価されればいいと思います。
それで、彼らの行動が引き起こした反応というのは、tnさんだけでなく、地元の人にとっても迷惑だろうし、お腹立ちはもっともだと思います。
それで、大峰山の件にかかわりを持ってられるとのことで、もし、ご存じでしたらお教え願いたいのは、明治初期の女人結界の廃止の目的です。私は、修験道弾圧の一環だろうと思っていることと、この規則に実効がないということで、規則を残せばいいと思っていますので。
Rédigé par: 南郷力丸 | 27/01/2006 17:52