毒婦マチルダ
そんなに感動作というワケではないが、映画の見方に影響を受けた傑作だ。
演劇と映画とは別物だ。しかし演劇の観客と映画の観客を別に考える必要はない。京劇の舞台の基本は「一卓二椅」で、一つのテーブルと二つのイスで全ての背景を説明するし、一本のムチで馬を、旗一本で500騎の軍勢を表現する。日本の狂言では舞台を一回りするだけで場所が変わる。このような観客の想像力によってプラスを得る一方で、歌舞伎は過剰な表現を観客の想像力によってマイナスを得る。リアリティへのプラスやマイナスを観客に依存する代わりに、日常では得られない美意識を表現するわけだ。
リアリティを観客の想像力に依存することによって、個々の観客によって異なるリアリティを満足することが出来るのである。
さて、この映画、かなりの部分で観客の想像力に依存している。例えば、主人公マチルダは、女性として生まれたが、息子を野球選手にしたい父親にオスカルと名付けられ、男性として育てられ、野球の特訓を受けた。このシーンを映像化するのは極めて難しい。不自然にならないような子役を探し、きちんと演技をさせるのは大変だ。それをこの映画では驚くべき技法で映像化に成功している。
他にも、そのままでは映像化がおそらく不可能なストーリーであるが、この映画では映像化を行っている。巨額の製作費もCGの多用もなく、それを可能にしたのは、監督の割り切りと観客の想像力だ。
この映画には、明らかに「レオン」や「ブリキの太鼓」の影響が見られる。主人公のマチルダとオスカルという名前もこの二作品へのオマージュであろう。しかし、ただ真似るのではなく、きちんと再構成されている。
ハリウッド映画を下手に真似たと思うような日本映画、それも製作費何億という、ハリウッド映画にとうてい及びもしない金額を謳い文句にしているのを見るたびに、学んでも真似ることはない、違う面白さを追求すべきだろうと思う。この映画のように。
この作品では、北朝鮮に関わる政治問題も扱われているが、それを政治的なレベルの問題として中途半端に挿入するだけではなく、エンターティンメントの背景としてきちんと消化している。
「ローレライ」「戦国自衛隊1549」「亡国のイージス」の3本を見て思うのは、福井晴敏の原作の映画化が可能なのは、この松梨智子だけじゃないかということだ。
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