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02/02/2006

千年前のさらに前

 情報のないことについて書くのは、ホントは怖い。といっても、ここは原稿料が貰えるわけでなし、エエカゲンなblogなので、情報がないことをサイワイに書くということも多い。
 邪馬台国論争というのがあって、シロートの歴史好きという人もいろんなことを言っているらしい。というのも史料がほとんどないからだ。ところが史料がある程度揃っている時代、つまり情報が豊富な時代のことはシロートは研究対象にはしない。今日的な解釈をしたり、フィクションを作って楽しむのに向いている。
 フィクションというのは、情報がないことを、というより、あえて無視することで成り立つことが多い。現代劇より時代劇の方が、事実離れしていてもリアルなのはそのためだ。つまり、その時代の情報を誰もが共有しているわけじゃないからだ。

 先日にも触れた千年前の1006年であるが、当時の日記や記録が残っているので、シロートが研究対象にはしにくい。けれども、フィクションを作る題材としてはは面白そうだ。

 紫式部は前年に出仕し、清少納言は5年前に宮中を辞している。にもかかわらず、同時に宮中にいたことにするとフィクションとして面白くなりそうだ。ところが「千年の恋・ひかる源氏物語」のように、同時にいたことにしただけで、それが内容に無関係なウパーな脚本だとバカ映画と言われることになる。
 清少納言が辞したのは仕えていた中宮定子が死んだからだ。中宮定子は一条天皇の第一皇子・敦康親王、当時5歳を産んでいる。
 一方、最高実力者の藤原道長の長女、彰子も6年前に皇后となり、当時は17歳になっていたのだが子供はいない。だから、藤原道長としては、何が何でも産んでくれ、とにかく孕んでくれと願っていただろうことは想像に難くない。
 それで、1年前から紫式部が彰子に仕え、総当たり的セックスの末、実は父親ではないが我が子として認めるという小説を書いているわけである。母親は確かだが、父親なんてどうにでもなるのよ、という小説である。
 その結果かどうかはわからないが、2年後に中宮彰子は、敦成親王を妊娠出産することになり、10年後、道長はその孫を8歳で皇位に就け、自らは摂政となる。
 なので、紫式部を題材に、天皇が男系であることが重要だということや、源氏物語の政治的役割という話を作れば面白そうだ。

 その源氏物語の主人公光源氏のモデルは、源融だと言われている。1111年前の895年に死んだ人で、今は渉成園となっている六条河原院を造営したそうな。通称河原左大臣。
img072 嵯峨天皇の皇子であるが、臣籍降下、今でいう皇籍離脱によって、源融となった。他のblogで少し触れた話題であるが、884年、陽成天皇が叔父の藤原基経により退位させられた際の後継選びに、自分も皇胤の一人であると主張し、基経に「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やはある」と退けられた、という話が大鏡にある。皇籍離脱しながら皇位に就く例はないということだ。
 ただし、その例外を後に藤原基経が行うことになる。その陽成天皇の後継には55歳の光孝天皇が就き、皇子たちを臣籍降下させた。しかし3年後に病気になり、臣籍降下していた第七皇子の源定省を皇族復帰させた上、立太子させた。宇多天皇である。
 皇籍離脱から復帰し天皇に就いた唯一の例となっているのだが、前帝の皇子であり、母も桓武天皇の孫だし、天皇から何代も経たわけでも、何年も離れていたわけでも、役職に就いていたわけでもないので例外になったのだろうか。
 こんなエピソードも、元の源氏物語にはないが、付け加えれば面白そうだ。
 もちろん、飛んで歌う妖怪は出さない。

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