オヤジ・ロールプレイング
いつも書いてるけれど、このblogはけっこうイイカゲンに書いている。よく「わかっている」ことは飯のタネなので、タダのところには書かない。ほとんどわからないことは書けない。なので、いきおい、日常のスケッチとか「わかっていないことがわかっている」ことが中心になる。
多いパターンは、「どうも、よくわからない」ことを書くことで、どう捉えたらいいか整理するという感じだ。
それで、私が読んでるところも、ここを読んでる人も、そういうパターンの人が、比較的、多いように思う。文章として断定していても、内容は断定していない人が多い。
私の場合、webサイトが「こんなデータでも興味があったら共有してくれ」というスタンスに対し、blogの場合は「こんなプロセスでも興味があったら共有してくれ」という感じだ。プロセスというのは、論理や組み立て方、一般化、比喩である。
そういうプロセス共有のエントリーに対して、様々なコメントのスタンスがあるが、一般的なのは、私のプロセスに対するバリエーションであり、プロセスに対する別の表現であったり、さらには、結論に至る別のプロセスだったりするわけである。
さて、そういうコメントをしている方が、本人のblog上でのキャラ設定では、おそらくは「30年後のまる子ちゃん」であって、充分に女性独自のネタがあっても、ここでのコメントでは、私のプロセスをトレースした上での場合が多ければ、入ってるオヤジが露出するんじゃないかと思う。
他の人のblogへのコメントというのは、自分のblog上の人格の一部が強調されてしまうんだろうなと思う。
私の場合も、自分のところの文と、他の人のblogのコメントでは、ずいぶん雰囲気が違っている。
誰かに相談を受けた場合、その相談内容に思ったことを素直に答えるという人は、あまり人付き合いの得意な人ではないと思う。普通は、まず、なぜ相談をするのかを考える。区役所がやってる法律相談じゃあるまいし、それなりに親しい人に相談するというのは、言って欲しい結論が決まっていることが多い。最大限に納得力を発揮するから説得してよ、という場合が多い。さらには、一緒に悩んでくれるだけでいい場合もあれば、「真剣な悩み」を茶化してほしいことだってある。「とってもいい人だけど」で終わるか「人が真剣に悩んでいることをギャグにするなんてひどい。。。だから、あなたが好きなのよ」かの差である。
かように、誰でも対人関係の上では、期待されている役割が形成されていくわけであり、それを中心にふるまうわけであり、その役割が変化したり発展するものだ。
そういうリアルな関係ほどでもないが、ネット上でも、相互の役割が暗黙の上で形成されていく。そして、コメントの場合、短い文なので、相手と自分の関係が構築されていて、そういった共通認識がないと、コミュニケーションが成立にしにくい事情がある。
だからこそ、コメント欄というのは「内輪ノリ」なり「馴れ合い」という雰囲気が漂うわけである。しかし、そこにある「ロールプレイ」が読めれば、入っていくのは簡単だ。
このような「関係性」を前提にしたコミュニケーションとは別の前提だってある。オタク的「知識」であったり、一種の帰属意識であったりする。
こういう「既存の共有」でも「出会い」にはいいんだろうけど、ネットを思考のツールに使うには、やはり、相互の「役割」を構築していく方が有効なような気がする。
追記
コメントの場合、そのblogのコメント欄での「生態系」というのも無意識に考慮することもあるように思う。何か書こうとした場合、つい、そこのコメント欄で希薄な生態学的位置を選んでしまう。
例えば、あるblogでは、私が誰にもやさしいいい人にも関わらず、「毒の吐きあいをする人」という役割が他にいないとすると、同じことを書くにしても、つい、毒気を含んだ書き方をしてしまいがちなのだ。
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