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12/06/2006

blog文章術を考える

 blogの文について考えるために、京都の町なかで働いてる30くらいの女性が書いているエッセィを例にする。語彙については原文に忠実でない。

 春は曙。だんだん白ぅなってく山のきわが、ちょっと明るうて、紫がかった雲の、細うたなびいたん。
 夏は夜。月の頃はもっと。真っ暗もなお。蛍がようけ飛び交ってるとか、ただ一つ二つとかほのかに光って行くのもオモロイ。雨なんか降るんもオモロイ。
 秋は夕暮。夕日が指して山の端がえらい近こうなったんに、からすがねぐらへ行くとかで、三つ四つ、二つ三つとか飛んで急ぐんさえカンドー。ましてや、雁なんかの連なったんが、えら小そ見えるんは、えらいカンドー。日が入ってしもて、風の音、虫の音とかは、もう言わんでもええやろ。
 冬は早朝。雪の降ったんは言わんでええ。霜がえらい白いんも。それでもって、えらい寒うて火とか急いて熾して、炭持って運ぶんも、えらいピッタシ。昼になって、温く緩んでいったら、火桶の火も白い灰ばっかになってもてあかん。

 京都の人が書いたのだから、京都弁で書くのはいいとしよう。語彙についても変えているので述べない。けれども省略しすぎだ。春は曙がどうだと言うのか。全文を読んで、やっと、いいと思った風景を季節毎に並べてるのだということはわかるが、普通は「春は曙がいい」とか書くものだろう。
 次も、だんだん白くなっていくのは「山」で、そのきわの「空」が少し明るくなるわけで、それで次は「雲」と、主語がずれていくのはいかがと思う。「たなびいたん」というのも気になる。「春は曙」と一緒で述語がないのだ。本来なら「たなびいたん」がいい、とかで完結するのだが、こういう言い方をそのまま文にするのはいかがなものか。
 だから、このエッセィを紹介する場合、わかりにくい語彙の説明だけじゃくて、やたらと言葉を補っている例が多いようだ。
 オモロイというのは、関西では「笑える」という意味にとどまらず、趣があるとか、興味を引くこと全般に使う。そもそもオモロイ風景を並べたわけだから、どうオモロイか書かないと、書いていないのと同じだろう。同じように、カンドーというのも、どうカンドーしたのだ。およそ、文というのは感動を記すものだ。感動があるから、この世のしがらみから逃れられないと言った女流文学者もいた。なのにカンドーと書いて済ますのは感心しない。「言わんでもええ」という表現も、読者が理解してくれることを前提にしてるわけで、他人に何かを伝えようとするのに使うべきでない。
 それに「とか」が目立つ。例示や曖昧の表現だろうけど、はっきり書いて不都合があるんだろうか。
 京都の同じ職場に働く女性たちとか、むしろ若い娘さんなら「うん。言えてる」とか言って受けるだろう。一般の読者向けには良いとは思えないし、公開されてるblogには相応しくないだろう。
 もちろん以上はネタである。

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