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25/06/2006

おかずにする本

 去年の4月に「NIKITA」だの「LEON」だのという雑誌をネタにしたことがあった。
 この時に「勝ち組@元祖」ということを書いている。つまり第2次大戦直後の南米移民にあった「負けているのに勝ったと思いこんでいる人」を「勝ち組@元祖」と称した。同じように、事実と違う幻想を抱くことで、満足を得る。そういう仕掛けの雑誌だろうな。キャッチと本屋でパラパラ見た見出しで、そう思ったわけだ。
 つまり、一流の金持ちになれないのが分かった二流の金持ちを「必要なのは金じゃなくてセンスです」とくすぐって、センスがある人に属しているつもりにさせる。
 もう若くもないと思ってる人に「あなたに必要なのは若さでなくテクニック」とテクニックがある人に属しているつもりにさせる。
 本当にセンスのある人、テクニックのある人は、ハウツー雑誌なんか読まない。
 例えてみれば、13cmくらい(平均値らしいが、ユーエツ感を得るのは難しく、世の中のデカイ自慢によってかえってコンプレックスになる)のシロート童貞に「良かったわ。大きさよりもヤサシサよね。」っと言って通わせる風俗嬢のようなものだと思ったわけだ。
 というのも、この頃以前からよく感じてた「ヲタ気味人種のオレ様化、ヘイティスト化」とか、この頃によく言われていた「下流でありながら自分は優秀と思い込む」との相似性を考えていたからだ。
 なぜに、こんな1年以上前の話を持ち出して来たかと言えば、瑠璃子さんがNIKITAのことを書いていたからで、「他者を相対化することによって自らの立ち位置を決めている」煽り方が納得できないらしいのだ。
 で、今回は雑誌をパラパラ観てないので、瑠璃子さんの書いてることからの仮説だ。だから、実在の雑誌の話ではない。想像の「N1K1TA」だの「LE0N」の話だ。
 この雑誌は受け入れる人と嫌悪感を覚える人がいるんだろうと思う。元々、相対的にしか立ち位置を考えられない人だけに向けた雑誌じゃないか、という気がするのだ。絶対的な立ち位置を発見した人は今さら煽られても動じない。「N1K1TA」だの「LE0N」の読者は類家も乃南も知らないのだ。「たるをしらない」人に、足りてる仲間という幻想を与えるのだ、「勝ち組@元祖」にしなきゃいけないのだ。だから「負け組」を作らないといけないのだ。
 例えてみれば「嫌韓本」の世界だ。拠り所というか、自慢すべきもののない人に、君は優秀という幻想を与えるには、優秀でない例を与えなくちゃいけない。仮想劣等グループを作らないといけないのだ。なぜその理論がノーベル賞を受賞したかも理解できない人たちが「自分たちはノーベル賞を獲得した民族だ」、能も歌舞伎も観たことなくても「世界に誇る伝統芸術」と満足感を得るようにしなきゃいけないのだ。
 たぶん同じ構造なのだと思う。「若さ」や「お金」という測定しやすいモノサシじゃなくて「センス」や「テクニック」という、一見してわからないモノサシを用意して、立ち位置を相対化に決めるというより、意識するかしないかのどちら側に立ってるかに単純化し、反対側を攻撃してるだけじゃないかと思う。センスやテクニックって、意識して使うもんじゃないだろにさ。
 瑠璃子さんの例に出したヨシオ君は、自分の位置を把握しているのだ。つまり、負けを認めて、何とかしようとしているところだ。ヨシオ君が、自分は本当は優秀だけど社会に認められてないだけだというような幻想を持たない。自分の位置を認めて、そこを出発点にしているのだ。
 「N1K1TA」だの「LE0N」だののターゲット世代はたまたまだろう。20台男子向けの雑誌だって作れるのだ「君を求めているのは、プロダクションじゃなくて、プロジュクトです・Grand Bleu」とか。40台独身女子向けの雑誌「あなたに必要なのは論理ではなく情熱です・JEANNEDARC」とか。

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17/06/2006

限定だってさ

Img099 前のエントリーで勧められたサークルKサンクス限定というコーヒー飲料を飲んでみた。ついでに、同じく限定という食玩。こっちは飲めない。

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14/06/2006

ディスカバリーズ

Img098 巡回先で話題になってたので飲んでみた。確かに120円や142円のよりはいいし、210円というのはいい線だなと思った。

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13/06/2006

正しい日本語を考える

 「日本語の乱れを憂う」件で何かデジャヴ感があって、思い出したのが「景観を憂う」人たち。しのぶさんちで知った「美しい景観を創る会」というのがある。
 そのサイトを見ると「美しい景観とは」とか「どう創るか」なんてことは一切、書いていない。むしろ「悪い景観100景」とか「悪い景観」について載せている。
 トップページもいきなり悪い景観の事例写真だ。老朽化したアパートにお店が入って、好き勝手に出窓ごとショーウインドウ化してるもんだから、木に竹を接いだような無秩序さだ。おまけに、歩道の片側が並木で片側はベターっとした花壇。住商混在だから、私空間を分けるような生け垣にも、歩行者を引き込むような開かれたスペースにもできないため、緑化はいいとしても中途半端な花壇になってる。老朽化した外装を改修できなかった住利用のフトコロのまずしさと、外観に調和したウィンドウにしない商利用のココロのまずしさを象徴するようなチープな緑化だ。
 こういう景観なら、誰でも悪い景観とわかるんだろうが、現在、70サンプルの「悪い景観100景」の方は、テキトーに思いつきで並べてる感が漂う。しのぶさんは人格者なので、この例から悪い景観の条件とかを斟酌してあげてるようだけど、じゃあ逆にすりゃ「美しい景観」になるのかと言うと、そもそも「逆」という選択肢がない場合、逆よりゃましという例もある。
 63。工場地帯だから遮音壁がない。だから工場が見える。それで眺望阻害だってさ。そもそも新幹線の利用者に眺望が必要なのか。津軽海峡線の竜飛・吉岡間の眺望を問題にするくらいのばからしさと思うが。住む方にとっての迷惑施設はまとめてしまうというのはいいことだ思うが。
 62。低層と高層の住宅が混在するって、住んでる側からすると問題はあると思う。けれども景観といった場合、ベターっとした低層住宅がただ続くとか、高層アパートだけが並ぶのって、不気味という感覚がないんだろうか。むしろ問題は、不細工な勾配屋根かと。
 とか、考えてたら、自分のサイトであげられた事例を褒めてる人がいた
 この「悪い景観100景」がツッコミ所満載なのは、彼らが考える「良い景観」とは何かが提示されてないこと、なぜ「悪い景観」になってるかに考えが及んでないからだろう。
 これって、日本語の乱れを憂う人にありがちなスタンスに思う。
 「乱れた」日本語を使うには理由がある。意識的な場合と無意識の場合。意識的な場合は、例えば、違和感による印象付け。だから誤った用法という自覚があるし、読み手も誤ってると思うからこそ効果がある。むしろ、正しい用法を前提にしているわけだから「乱れ」とは言えない。「モーニング娘。」もそのひとつ。
 無意識の場合、例えば、「…。」の"。"を省略してしまうような乱れは、鉛活字時代の名残だそうだ。今でも、"。」"という字体が日本語フォントになくて電子メディア上では間延びしてしまうからという理由がある。こういう乱れに対しては、文字コードを規定しフォントを作ればすむ。
 「こんにちわ」と書くのは、単独の言葉として認識されており、「今日はご機嫌いかが」「今日はお日柄もよく」などを省略して言っているという意識が少ないからだ。昨日、会って「こんにちは」と挨拶したから、今日は「こんんちも」と挨拶するということはない。副助詞なら「は」と表記するが、単語の部分なら「わ」でいい。
 「さようなら」や「おはよう」は正しいだろうか。「さようなら」は「左様ならば(失礼する)」、「おはよう(いらっしゃいました)」を省略した形だ。「左様」という言葉を他に使う人はあまりいない。普通は「そう」とか「そういうこと」と言う。なら「そうなら」とか「そういうことなら」の方が相応しい。「おはよう」だって、挨拶以外では「おはやく、おいでですね」とか言ってるなら、「おはやく」が相応しいことになる。「さようなら」や「おはよう」は、単独使用されるようになって語源とは別の進化をとげた、というより進化しなくなったわけだ。語源に無関係に単独で使用されるから「こんにちわ」と別の進化をしたわけで合理的な理由がある。それでも「は」でなくてはいけない、より合理的な説明がないと「乱れ」はなくならない。
 ら抜き表現の場合、以下のように並べてみよう
 食べる 食べられる 食べれる
 見る 見られる 見れる
 着る 着られる 着れる
 切る 切られる 切れる
 走る 走られる 走れる
 こうして、並べてみる限り、ら抜き表現の方が、受身表現と可能表現を分ける上では便利そうだ。「昨日、○○しているところを見れた。」話者が見られたのではなく、誰かがしているところを見ることが出来たんだとわかる。「見られた」ではわからない。規範の文法からは間違っていても、機能的には優れた表現ということになる。となると「乱れ」を正すのは大変だ。
 これまでの規範にない用例だからと、「乱れ」と言うのは簡単だけど、理由も考えないと、乱れなのか合理的な変化なのかわからない。
 正解はひとつだけではない。たいていのことには複数の正解がある。なので、明らかに非合理であったり事実と乖離している場合じゃなきゃ、誤ったとか悪いという言い方はしたくなくて、好きだキライだと言うことにしている。世の中にはそうでない人もいる。左様ならば、合理的な説明をしないと、マイルールの押しつけとしか思われないし、「乱れ」はなくならないと思う。

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12/06/2006

blog文章術を考える

 blogの文について考えるために、京都の町なかで働いてる30くらいの女性が書いているエッセィを例にする。語彙については原文に忠実でない。

 春は曙。だんだん白ぅなってく山のきわが、ちょっと明るうて、紫がかった雲の、細うたなびいたん。
 夏は夜。月の頃はもっと。真っ暗もなお。蛍がようけ飛び交ってるとか、ただ一つ二つとかほのかに光って行くのもオモロイ。雨なんか降るんもオモロイ。
 秋は夕暮。夕日が指して山の端がえらい近こうなったんに、からすがねぐらへ行くとかで、三つ四つ、二つ三つとか飛んで急ぐんさえカンドー。ましてや、雁なんかの連なったんが、えら小そ見えるんは、えらいカンドー。日が入ってしもて、風の音、虫の音とかは、もう言わんでもええやろ。
 冬は早朝。雪の降ったんは言わんでええ。霜がえらい白いんも。それでもって、えらい寒うて火とか急いて熾して、炭持って運ぶんも、えらいピッタシ。昼になって、温く緩んでいったら、火桶の火も白い灰ばっかになってもてあかん。

 京都の人が書いたのだから、京都弁で書くのはいいとしよう。語彙についても変えているので述べない。けれども省略しすぎだ。春は曙がどうだと言うのか。全文を読んで、やっと、いいと思った風景を季節毎に並べてるのだということはわかるが、普通は「春は曙がいい」とか書くものだろう。
 次も、だんだん白くなっていくのは「山」で、そのきわの「空」が少し明るくなるわけで、それで次は「雲」と、主語がずれていくのはいかがと思う。「たなびいたん」というのも気になる。「春は曙」と一緒で述語がないのだ。本来なら「たなびいたん」がいい、とかで完結するのだが、こういう言い方をそのまま文にするのはいかがなものか。
 だから、このエッセィを紹介する場合、わかりにくい語彙の説明だけじゃくて、やたらと言葉を補っている例が多いようだ。
 オモロイというのは、関西では「笑える」という意味にとどまらず、趣があるとか、興味を引くこと全般に使う。そもそもオモロイ風景を並べたわけだから、どうオモロイか書かないと、書いていないのと同じだろう。同じように、カンドーというのも、どうカンドーしたのだ。およそ、文というのは感動を記すものだ。感動があるから、この世のしがらみから逃れられないと言った女流文学者もいた。なのにカンドーと書いて済ますのは感心しない。「言わんでもええ」という表現も、読者が理解してくれることを前提にしてるわけで、他人に何かを伝えようとするのに使うべきでない。
 それに「とか」が目立つ。例示や曖昧の表現だろうけど、はっきり書いて不都合があるんだろうか。
 京都の同じ職場に働く女性たちとか、むしろ若い娘さんなら「うん。言えてる」とか言って受けるだろう。一般の読者向けには良いとは思えないし、公開されてるblogには相応しくないだろう。
 もちろん以上はネタである。

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11/06/2006

20日目

Img097 でかいのは38mmくらい。
 おたまじゃくしは蛙の子である。なまずの孫ではない。それが何よりの証拠には、やがて脚が出るし、手も出る。このblogのモリアオガエルのカテゴリーを見て貰えればわかる。
 ついでに触れておくと、権兵衛さんの赤ちゃんが風邪をひいた際に、あわてて湿布をしたそうだ。ところが、権兵衛さんの赤ちゃんが風邪をひく前に、実は、ジョン・ブラウンという人の赤ちゃんが風邪をひいているのだ。
 ジョン・ブラウンというのは、アメリカの人だ。井伊大老によって、反幕府運動を行っていた人たちが捕まり死刑になっていた頃、アメリカで叛乱を起こそうとして、政府の武器庫を襲い、絞首刑に処せられた人である。だから、今の言い方だと「テロリスト」ということになる。でも「勤王の志士」もジョン・ブラウンもその側が後に権力を握ったために「テロリスト」とは言われない。
 ジョン・ブラウンに赤ちゃんがいたのかはわからない。赤ちゃん「baby」というのは、元々、身体「body」だったのが、単なる語呂合わせで変わったのだ。
 でも、ジョン・ブラウンの身体が風邪をひいたわけではない。なにしろ死刑にされたわけで、土葬されたから、墓の中で朽ち果てるだけだ。けれども、その魂が行進したらしい。つまり、ジョン・ブラウンは死刑にされたが、その意思を継いだ人がいたわけである。日本で言えば、戊辰戦争で長州兵が「松陰死んでしまった、でも、その魂は行進する」と唄っていたのが、「松陰死んでしまった」の語呂合わせから、意味のない歌に変わったようなものだ。例は書かない。
 一方、ジョン・ブラウンの意思を継いだ人たちは、次に、自分たちは正しいという意味で、自分たちには神様がついてるぞ。神様に栄光あれと、神様を称えるようになる。
 ジョン・ブラウンの魂が行進したのが、いつのまにか、赤ちゃんが風邪をひいたり、神様を称えたりしたわけである。
 ところが赤ちゃんが風邪をひくくらいではすまなかった。
 かつての鉄道は蒸気機関車がメインだった。だから煤が出て汚れるし、車輌は汚れの目立たない黒っぽい色だった。ところが電車が発達してくると煤汚れの心配がない。だから近代化を強調するためにカラフルになっていく。その最初が中央線のオレンジ色だ。その後、山手線が緑になった。今は銀色だが、以前は緑の電車は山手線だったのだ。詳しくは黄緑6号と言うらしい。山手線は環状運転を行っており、その真ん中を中央線が通り、ともに新宿に停まる。
 関西では山手線も中央線も馴染みがなく、桜漬けが知られている。滋賀県に日野菜という細長いカブの一種があり、地上に出ている部分は赤くなっている。それを甘酢が漬けるとピンクになるので桜漬けという。
 実は日野菜が桜漬けになる前に、あんこときなこを付けたおはぎが丸いお盆に載っていたらしいが詳しくは知らない。

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10/06/2006

ベジタブル・スプー

Img095 カロチンたっぷりのパブリカをポタージュ仕立てにしてみました。
 野菜嫌いのお子様に、ピーマンへのトラウマを植え付けるのにぴったりです。
Img096 パブリカはざっくりと大きめに切って、軽く炒めておきます。見た目の爽やかさを演出するために、グリーンのピーマンとトマトも少し使ってみました。スープはオニオンとポテトをコンソメ仕立てにしたもので、市販のインスタントスープでもいいかと思います。
 歯触りのアクセントに、大根を1cmちょっとに切って、かつら剥きにしてあしらいます。
 最後に、野菜のうま味を引き立てるために、ゆで卵の白身に載せたレーズンを載せてみました。

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ひさびさのKGB

Img094 お買い物に行く途中で見かけた30cm級のコウガイビル。小物だけど、ひさびさに見る。

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09/06/2006

17日目

Img093 約25mm。

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天然ボケッとモンスター

 多聞院日記といえば歴史好きなら誰でも知っているだろう。その天正10年5月18日の記述。「於若宮拝屋加賀国八才十一才ノ童ヤヽコヲトリト云法楽在…一段イタヰケニ面白〃〃…」後の阿国じゃないかと様々に解釈された「やゝこ踊り」の記述だ。幼気な子供の芸が人気を得たわけである。そして阿国歌舞伎から、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と変遷するわけであるが、別の幼気な芸がある。子役は達者ではいけない。台詞は棒読み、所作はダンドリだけ。上手な芸は簡単にやってるように見える。下手な芸だと「一生懸命やってる」感がとても強調される。それが可愛いといかなる名優と共演しても人気をさらってしまう。
 このような、芸の未熟さより「健気」を愛でるという文化が400年以上の伝統を持って、いやもっと昔からあるかもしれないが、日本文化にあったわけだ。たぶん近代の新興宗教を日本文化の代表のように扱う新聞社にいたんじゃわからないかも知れないけれど。
 さて、現代。歌も上手でダンスも素晴らしく、それだけでエンターテインメントの域に達する現代的な娘だと、ある種の近寄り難さで、人気を得るのが難しいことなど誰でもわかるだろう。
 さて、このエントリーは愚かな老人を揶揄するのが主目的ではない。それにインスパイアされた、ちょっと旬をすぎたかも知れない芸能ネタだ。
 売れているアイドルタレントとは逆のケース。宝塚歌劇団入団3年目にフィナーレのエトワールという歌唱力があって、宝塚だから当然ダンスも芝居も出来る。そういう歌手がブレイクするとしたら、よほどの可愛さがないといけない。地声がアニメ声とか天然ボケキャラでも足りない。才能があるのも悩ましい。しかし、ようやく最終兵器を得られそうな歌手がいたのだ。
 最終兵器というのは「例の化け物」だ。詳しくはこの記事
 番組では共演者がこの絵を見て「画伯」と呟いたそうだ。単にヘタだけではすまない、ある種の魅力が例の化け物にあることは、絵心があればわかるだろう。クサナギツヨシらが絵のヘタさを競う深夜番組があるが、そこでのヘタな絵は話題にもならないが、この絵がこんな扱いをされるのはその魅力ゆえだろう。おスギのピーコよりはるかにいい。
 未確認だが、以前は描いてる過程を写さずに、完成後に差し替えていたという。余計なことをしていたものだ。未就学児相手だから番組としてはアイドル的人気は不要だろう。けれども、彼女個人のプロモーションのためには、もっと早く彼女の弱点を露出させてあげるべきだったろうに。
 抜群の歌唱力とダンスも演技も当然出来るはずのタレントだ。なのにヘタすぎるのに困りつつ健気に絵を描く、そんなシーンに民放なら飛びつくだろうが、なぜにこの局は回り道をするんだろうか。やっぱり金を払ってまで観るような局じゃない。彼女を観る機会を増やしてほしいし、そのためには、こういう記事とかで例の化け物がもっと出回ればいい。
 だからキャプ画像を貼ろうかと思った。出所を示せば、この文の主題のために必要であって、公正な利用だ。番組について言及するのではなく、絵について言及するわけで、原画が撮影不可能な状況では模写という方法もある。先のリンク先はそうしてる。けれども問題があった。いずれの方法も著作権は侵害しないけれども、私が放送法32条の1の但し書き以下に違反していることになってしまう。

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06/06/2006

飛蝗と蛙

 飛蝗の生態研究なのか?の続き。
 言語表現というのは、共通したルールに従っている。そのルールのひとつが「文法」だ。文法には2つの側面があるように思う。
 ひとつは現実を合理的に説明できる法則という側面。ニュートンが万有引力の法則を発見した。しかし、ニュートン以前から万有引力はあった。人は誰も文法を意識せずに言語を使う。現実に使われている言語にある「意識されない法則」を、意識できるように体系化したものが文法だ。
 もうひとつは準拠すべきプロトコルとしての側面。言語が他者間で同じ概念を共有するためのツールである以上、法則を共通させて、それに従う必要がある。その法則としての文法だ。
 「DVDが見れる」という表現がある。いわゆる「ら抜き表現」だ。現実にこの表現が会話に使われている。現実に使われている以上、こういう表現を行う「文法」は存在する。しかし、日本語ユーザー全体が準拠すべきプロトコルとしての「文法」には存在しない。
 つまり「ら抜き表現」を許容する文法というのは一種のローカルルールなのだ。 ①のようなものなのだ。マイクロソフトのユーザーは①というのは、○に1を現す文字として認識し、使用する人もいる。しかし、インターネットの世界では文字と見なされない。
 先のエントリーにあげた花岡の間違いは、自分のローカルルールしか知らないのに、それを一般的なルールと思いこみ、他分野のローカルルールを間違いと決めつけたことだ。つまり、自分の世界だけが世界だと思いこんでいる「井の中の蛙」であったことだ。
 ¥というのは円を表す記号なのに、区切りに使う人がいるのはオカシイと言ってるようなものだろう。区切りはバックスラッシュなのだ。それがあるマシンでは¥と表示されているだけなのに。
 モーニング娘についても「知らないのに書いた」わけである。歌もダンスも「素人レベル」というのはその通り。そういう聞きかじっただけの情報で、なぜ彼女たちが支持されているのかとか、そもそもエンターティンメントとは、ということもわからずネタにしてしまったわけだ。オヤジどうしの宴席でしか通じない「ネタの域に達していない」文をネットに公表してしまったわけで、ここでも「井の中の蛙」ぶりを発揮しているようだ。
 つまり、花岡blog炎上は、井の中でしか通用しないことを大海に公表した結果、異文化の衝突が起こったからだ。
 「自衛隊は憲法違反」というのは政治的な意見としては無意味だ。そこから、立場や考え方で「自衛隊をなくす」「憲法を変える」と政治的には正反対のの2つの展開ができるからだ。
 同じように、花岡が「国歌・国旗に敬意を払うのは世界の常識」と書いていることからも、2つの結論が導き出せる。「敬意を払われないから、国歌・国旗に相応しくない」「敬意を払わない人は国際的な常識がない」ということだ。花岡は後者が言いたいのだから、論理の点では、こう書いただけでは中途半端なのだが、前者の展開はサンケイ的常識ではありえない。
 政治的な意見では、いかに論理になってなくとも、サンケイ的常識で補強することによって趣旨は通じる。サンケイ的常識への評価がどうあれ、サンケイ的常識を踏まえることが彼の文を読む上で必要だから異文化の衝突は起きない。
 でも今回は、彼は記者的常識とオヤジ的常識の中でしか通用しないことを書いたわけである。だから、異文化の衝突が引き起こされた。
 記者であっても記者的常識は社会に共有されていないこと、オヤジであってもオヤジ的常識が社会に共有されていないことは、「・・・。」という事例も見つかる程度の読書量があれば、簡単に理解できることだ。

 ネットには大海の要素と井の要素がある。様々な人と接触する可能性があるわけであり、その意味では大海だ。
 「以前から疑問に思っていましたが、誰も説明してくれませんでした。でもこのページを見て、目から鱗が落ちる思いでした。ネットのおかげで、真実を知ることができました。」トンデモ系のサイトにはよくある文だ。ネットの中には、一般社会では全く通用しない「真実」が通用する井がたくさんあるのだ。そういう極端な世界だけではない。私も「みつを」や「ラッセン」という固有名詞を揶揄的に使う。固有の文化的価値観を前提にした表現で、誰にでも通じる用法ではないのだが、ネットだと通じる人がいるわけで、通じる人にだけ向けた表現だ。井の中でだけしか通じない表現がネットだと使えるのだ。
 ネットを大海とだけ思うと書いていてもつまらないし、それこそ「みつを」っぽくなってしまって恥ずかしい。井だと思いこむと炎上する。大海の中にうまく井を作ることが、blogを楽しく書くのにはいいのかなと思う。読む方がオモシロイかはわからないが。

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04/06/2006

飛蝗の生態研究なのか?

 いわゆるコメント欄が炎上するというのは、間違ったことを書くから炎上するわけではない。
 間違った記事は食いつきやすい。けれども、正しいとも間違っているとも言えないことを書いても、間違っていないことを書いても餌になるようだ。
 はたして実験をやってるつもりなのか、それとも天然なのかわからないが、明らかに違ったこと、どちらともいえないこと、違ってはいないこと、その3種の餌を並べて炎上しているblogがあって、観察しているとオモシロイ。
 花岡信昭なる人のblogで、炎上と聞いて初めて見たのだが、例によって、知識はあってもロジックには弱い人のようだ。
 「・・・・。」という書き方が日本語の乱れという主張は、明らかにデタラメのようだ。要するに花岡のデスク周辺に置いてあった週刊誌の類ではそうなっていただけで、花岡は、その一部の例をもって「正しい日本語」と思いこんでいただけのようだ。つまり花岡の主張は間違っているわけだ。
 「遷移」という言葉は、私は生物の分野でしか知らなかったが、物理、化学、情報工学でも使うようだ。花岡は情報工学の分野で使われているのを知らずに、銀行のサイトで使用するのは、おかしいと主張している。確かに分野によって概念が違う用語であるから、一般的な用語ではないかも知れない。しかし、少なくともwebサイト上で情報工学の用語を使うことが不適切とも思えないし、まともな日本語ユーザーなら、情報工学の知識がなくとも「遷」と「移」の用例から意味を把握することは可能だろう。つまり、花岡の主張は間違っているとまでは言えないが、同じようにみずほ銀行の用例も間違ってるとは言えないわけだ。
 冗談のつもりでか引き合いに出した「モーニング娘。」について、そのメンバーが「歌もへただし、ダンスもひどい、とてもではないがエンターテインメントの領域には達していない現代的な娘たち」というのは、そうだろう。だから人気があるのだ。そこらにゴロゴロしているような娘を、スタッフワークでエンターテンイメントに仕立てているのが「モーニング娘。」というプロジェクトなんだから、歌やダンスのタレントと同じ基準で比較するのがオカシイ。だから花岡の主張は間違っているわけではない。誰もがわかっているが、言及すべきでないのだ。CMタレントをしていても、谷亮子に関しては柔道には言及しても容姿には言及しないのと同じような「良識」なのだ。
 以前、週刊誌に、竹中平蔵がある首相候補を「頭脳となって支える」という趣旨の発言したという記事があった。その発言が事実かどうかはわからないが、週刊誌の記事となっていた。「谷垣の頭脳となって」「福田の頭脳となって」という発言は誰もしないと思うし、記事にもならない。というのも、その首相候補の弱点が頭脳であるということが共通認識になっているからだ。でも、頭脳に弱点があるからこそ木偶として使いやすい、だから彼を支持する人たちにとって、彼の頭脳は弱点であるがゆえに、言及しないのと同じことなのだ。
 そして、コメント欄では、以上の3点のそれぞれについて、コメントがついている。間違っていることについては訂正すればいい。どちらとも言えないことについては「見解の相違」ということですむかもしれない。最も厄介なのは「間違っていないこと」を書いたから炎上した場合だというのがよくわかる。

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03/06/2006

11日目

Img092 さて、今年のモリタマはいつ産まれたかだが、回収日直前の夜間の天候から、23日あたりがあやしい。だいたい1週間でオタマになるので計算もあう。それに23日は大安ということで、この日に卵が産まれたということにした。だから11日目ということになる。卵黄がほぼ吸収されてるが、まだ腹の白さが目立つ。体長は17mmくらい。
 昨年だと6月26日頃の状況で、それで7月17日に上陸しているので、今年の上陸予想日は6月24日になる。

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02/06/2006

今年も

Img089 カエルというのはあまりアタマが良くない、というかアタマ悪い。だから、道路に水たまりが出来てるだけなのに池だと思って卵を産んだりする。当然、オタマジャクシになって落ちても干からびるだけ。なので、そういうのを見つけると、近くの池に移したりするわけだが、先週に見つけた小さいのは、近くに止水もないので、お持ち帰りしてみた。
Img090 水を入れた容器に浮かべていたのだが、その玉の中からオタマが出てきている。昨年の残りの配合飼料とチンしたキャベツを入れたら食ってる。

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ジービーレーサー

Img091 缶コーヒーのおまけ。他の機種の運転席を半透明にしたのにあわせて、これも加工。ついでに翼を支えるワイヤーを付けてみた。

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