飛蝗と蛙
飛蝗の生態研究なのか?の続き。
言語表現というのは、共通したルールに従っている。そのルールのひとつが「文法」だ。文法には2つの側面があるように思う。
ひとつは現実を合理的に説明できる法則という側面。ニュートンが万有引力の法則を発見した。しかし、ニュートン以前から万有引力はあった。人は誰も文法を意識せずに言語を使う。現実に使われている言語にある「意識されない法則」を、意識できるように体系化したものが文法だ。
もうひとつは準拠すべきプロトコルとしての側面。言語が他者間で同じ概念を共有するためのツールである以上、法則を共通させて、それに従う必要がある。その法則としての文法だ。
「DVDが見れる」という表現がある。いわゆる「ら抜き表現」だ。現実にこの表現が会話に使われている。現実に使われている以上、こういう表現を行う「文法」は存在する。しかし、日本語ユーザー全体が準拠すべきプロトコルとしての「文法」には存在しない。
つまり「ら抜き表現」を許容する文法というのは一種のローカルルールなのだ。 ①のようなものなのだ。マイクロソフトのユーザーは①というのは、○に1を現す文字として認識し、使用する人もいる。しかし、インターネットの世界では文字と見なされない。
先のエントリーにあげた花岡の間違いは、自分のローカルルールしか知らないのに、それを一般的なルールと思いこみ、他分野のローカルルールを間違いと決めつけたことだ。つまり、自分の世界だけが世界だと思いこんでいる「井の中の蛙」であったことだ。
¥というのは円を表す記号なのに、区切りに使う人がいるのはオカシイと言ってるようなものだろう。区切りはバックスラッシュなのだ。それがあるマシンでは¥と表示されているだけなのに。
モーニング娘についても「知らないのに書いた」わけである。歌もダンスも「素人レベル」というのはその通り。そういう聞きかじっただけの情報で、なぜ彼女たちが支持されているのかとか、そもそもエンターティンメントとは、ということもわからずネタにしてしまったわけだ。オヤジどうしの宴席でしか通じない「ネタの域に達していない」文をネットに公表してしまったわけで、ここでも「井の中の蛙」ぶりを発揮しているようだ。
つまり、花岡blog炎上は、井の中でしか通用しないことを大海に公表した結果、異文化の衝突が起こったからだ。
「自衛隊は憲法違反」というのは政治的な意見としては無意味だ。そこから、立場や考え方で「自衛隊をなくす」「憲法を変える」と政治的には正反対のの2つの展開ができるからだ。
同じように、花岡が「国歌・国旗に敬意を払うのは世界の常識」と書いていることからも、2つの結論が導き出せる。「敬意を払われないから、国歌・国旗に相応しくない」「敬意を払わない人は国際的な常識がない」ということだ。花岡は後者が言いたいのだから、論理の点では、こう書いただけでは中途半端なのだが、前者の展開はサンケイ的常識ではありえない。
政治的な意見では、いかに論理になってなくとも、サンケイ的常識で補強することによって趣旨は通じる。サンケイ的常識への評価がどうあれ、サンケイ的常識を踏まえることが彼の文を読む上で必要だから異文化の衝突は起きない。
でも今回は、彼は記者的常識とオヤジ的常識の中でしか通用しないことを書いたわけである。だから、異文化の衝突が引き起こされた。
記者であっても記者的常識は社会に共有されていないこと、オヤジであってもオヤジ的常識が社会に共有されていないことは、「・・・。」という事例も見つかる程度の読書量があれば、簡単に理解できることだ。
ネットには大海の要素と井の要素がある。様々な人と接触する可能性があるわけであり、その意味では大海だ。
「以前から疑問に思っていましたが、誰も説明してくれませんでした。でもこのページを見て、目から鱗が落ちる思いでした。ネットのおかげで、真実を知ることができました。」トンデモ系のサイトにはよくある文だ。ネットの中には、一般社会では全く通用しない「真実」が通用する井がたくさんあるのだ。そういう極端な世界だけではない。私も「みつを」や「ラッセン」という固有名詞を揶揄的に使う。固有の文化的価値観を前提にした表現で、誰にでも通じる用法ではないのだが、ネットだと通じる人がいるわけで、通じる人にだけ向けた表現だ。井の中でだけしか通じない表現がネットだと使えるのだ。
ネットを大海とだけ思うと書いていてもつまらないし、それこそ「みつを」っぽくなってしまって恥ずかしい。井だと思いこむと炎上する。大海の中にうまく井を作ることが、blogを楽しく書くのにはいいのかなと思う。読む方がオモシロイかはわからないが。
Commentaires
蛙なら飛蝗は食べるはずですが、大量の飛蝗の前には為す術もなかったという感じでしょうか。
それぞれの井の中に皆が棲み分ければいちばん平和なのでしょうが、井は全てどこかでつながっていて、水が濁るのが嫌な人もいるってことでしょう。
さて、いったんついた火をどうやって消し止めるかというのも炎上をめぐる大きな問題ですが、なんか延焼先もちょっと変なことになってるなあ……。
Rédigé par: コバヤシ | 07/06/2006 00:38
炎上に対しては、江戸時代のような破壊消防が最も効果的でしょう。
花岡は消そうとして、2回も火に油を注いだ上に、他でも燃料を提供してますね。
延焼先は、単に読解力の弱い人が、花岡擁護と勘違いしているだけですんで問題ないと思いますよ。ついでに、有効と思える消し止め方を書いてきました。安倍なつみや矢口真里に習えばいいんです。花岡には無理でしょうけど。
Rédigé par: 南郷力丸 | 07/06/2006 01:10
延焼先で新エントリーが出ており、井の中を「高コンテキスト」、大海を「低コンテキスト」と表現しているようです。
あちらの表現の方が大海向き、こちらの表現は井の中向きですね。ここはタイトルのダジャレの解説などしない「高コンテキスト」なblogでので。
コバヤシさんちもそうでしょうが、ネットの中なのに、匿名性を持って、内容と表現で「高コンテキスト」をめざしてるところはありますね。
Rédigé par: 南郷力丸 | 09/06/2006 06:15
延焼先のエントリ読みました。なんかあの書き方だと
「高コンテキスト:日本の古き良き大人」
「低コンテキスト:最近の若者の傾向」
みたいな感じに捕えられかねないような。そんなことないのに。
私の見方では、確かに花岡blogは読者に高コンテキストを期待しているのだけど、その高コンテキストというのが「某新聞社の元記者で言葉のプロだ」という前提を当然のように読者に期待している、一種の甘えに感じられます。「現実の肩書きを根拠としてネット上で自分を正当化する人達」てのを次に書こうと思ってたので、いい材料になりました。
私のとこも高コンテキストを目指してるんでしょうかね。「これは知ってて当然よね」てのを読者に要求して文章を書いていないのですが、そもそもネタの選び方が偏っているからかな。
Rédigé par: コバヤシ | 09/06/2006 14:27