31/07/2006
日本のblog人口が何百万人だかというニュースがあったが、継続的に書いている人は、複数のblogを開設しては、1カ所以外は放置というパターンも多いだろう。かの「くまぇり」も放火の実況中継をやったメインのblogは閉鎖されたが、放置されていて残っているのもあり、記念にコメントを書く人がいるようだ。
だから、ブログを書いている実数は、登録数の何百万の何割というところだろうけれども、それでも、百万人は超えているんだろうなと思う。それで、各blogサービスのトップには新着エントリーが紹介されているのだが、見たこともないblogが並んでる。
以前に、ネットというのは「大海」であると同時に「井の中」の要素もあると書いたが、なるほど「大海」と思う。
さて、ここにコメントを寄せてくれている瑠璃子さん経由で、とある画家の人のblogを見ている。コメントとかしていないので、ここのサイドバーには紹介していない。仮にAさんとする。
同じ区に在住しながら、この瑠璃子さんと、このblogで初めて対面したのが、コバヤシさんだ。そのコバヤシさんとこ経由で、私と意見の8割は一致するが2割が違って、結果的に多くの問題に対して反対の結論を持つという人のblogも見るようになった。たまに、鏡の法則のような問題だと、意見が一致することもある。やはり、サイドバーに載せていないので、仮にKさんとする。
どういう経緯で知ったかは覚えてはいないのだが、伊勢崎のドンキホーテの件以来、たまにコメントをしているblogにうちゃさんとこがある。
このお三方は私の感覚では、全く、別ルートというか、違う井戸の住人という感覚だった。
さて、コバヤシルートのKさん経由で、くだんのメモに関するあるblogの記事がおもしろそうだったので、そちらを最近読み出した。
その「あるblog」というのは「綾川亭日乗」というのだが、Aさんのサイドバーに紹介されているのに気付いた。うちゃさんも書き込んでいるのにも気付いた。このblogで、全く別方向と思っていた3ルートが一致したわけである。
一人が何箇所のblogとやりとりをしているのか。仮に100としてみよう。となると、全く単純な計算だと、Aさん、Kさんの距離にある人は1万人、だから、次の距離の人は100万人ということになる。だから「状況」として、こういうケースは起こりうるのかも知れない。でも、1万人分のblogを辿って読んでみることはしないし、間に超有名ドコロのblogとかが挟まっているわけでもない。最大でもテクノラティの被リンク数は200までだ。。。。共通して見ている超有名ドコロはあるだろうけど。
まあ、単に私にとって意味のある偶然にすぎないわけだが、ネットは大海であっても、遊泳範囲の棲み分けというのが、けっこう出来ているのかも知れないと思った出来事だった。
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28/07/2006

日本の特撮はやっぱり着ぐるみということで、かにの話。
えびボクサーがだいたいおバカなんだが、いかレスラーになるとパクりっぽくてちょっと恥ずかしい。そして、かにゴールキーパーになると、もうバカすぎ。(褒めているのだ)
内容的には、とてもベタでありがちな物語。それをありがちにベタベタに作ってある。かにが出ているからといってふざけずに、しっかりとベタベタなのがいい。
かにと恋人が京都弁と秋田弁で喋る所が妙におかしい。藤岡弘、はこういう作品によくあう。
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27/07/2006
このblogではニュースな問題についてはあまり書く気はない。前にも書いたが、よくわからないことについて書く花岡信昭のような羞恥プレイは、あまり好きじゃないからだ。
ただ、わからないことについて、なぜだろうとか、どう理解すればいいのか、その程度のことは、誰かヒントをくれるかもしれないので、書いてみる。というのは、気になる記事を見かけたからだ。
経済産業省の片山さつき政務官が、今月17日から20日まで、中国に行って武大偉外交部副部長らと会談したそうな。武大偉というのは、何かとニュースに出てくる人だけに気になったのだ。
昨年の総選挙で当選した新人議員は、メディア的には十把一絡げに「コイズミチルドレン」とか言われている。けれども、個人的には、片山さつきやドラえもん大臣については、世間で言われてるよりは好意的に評価しており、藤野真紀子だのとかしきなおみだのと同じように扱うのは随分と失礼なことだと思っている。
それだけに、ポスト的に松あきらの下でも、「ナンミョー・タレント」あがりなんかが行くより、実質的な意味があったんじゃないかと思ってしまう。
イデオロギーや妄想でモノを考える人なら、いろんなストーリーを思いつくんだろうが、とりあえず、何の用事で行ったのかが気になった。
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私は安倍晋三が嫌いだ。その理由は後日として、安倍晋三が嫌いな私でも、これは可哀相と思ったのが、TBSの件だ。
まず、安倍晋三が産まれる前に、満州で悪辣な行為を行っていながら戦犯を免れた連中と関係があるはずはない。無関係の報道に、安倍晋三の写真が写っていいはずがない。
TBSは偶然だと言っているようだが、安倍氏の顔写真のすぐ横には、耐震強度偽装事件で詐欺罪で起訴されたヒューザー元社長の小嶋進被告の顔写真が張られた小道具も置かれていたとある。
彼自身とは無関係の731部隊なら偶然ですむが、安普会の会員で、耐震強度偽装の件で、安倍氏の秘書に相談に行った小嶋進被告まで写しているのだから作為を感じるわけで、安倍氏の抗議も当然だろう。
こういうことがあるから、テレビ番組を事前にチェックしたくなるのだ。
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26/07/2006
「どんぐりと山猫」という話を突然に思い出した。どんなどんぐりが一番えらいか決める話だった。いろんな基準をどんぐりたちが主張して揉めていて、裁定する山猫が困っていたので、主人公の一郎が助言して、
「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」ということにした話だ。
いちばんえらいのは誰か決めるのに揉めるようなら、こういう考え方だと揉めないですむらしい。
例えば、政治家なら、
・いちばん頭脳明晰で政策に通じているのがえらい。
・いちばん国際的なセンスがあって、世界に通用するのがえらい、
・いちばん、カルトやアバレル業界と関係が無くてクリーンなのがえらい。
・いちばん、スキャンダルに無縁で、北は北海道の霊園から南は沖縄の怪死まで、名前が出ないのがえらい。
とか、いろんな基準があるわけだ。山猫方式なら揉めないで決まりそうだ。
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25/07/2006
24/07/2006
またも降り来る雨の足、人の足音とぼとぼと、ということで、今日は山崎街道の日だそうだ。
となると、山崎街道に蛙の鳴き声がないのはおかしい、稲藁が積んであるのはおかしいということになる。
なので埼玉県のとある町、といっても秩父の奥なのだが、他にない形で演じていた人がいたらしい。定九郎は稲藁に隠れるのではなく二重舞台の上段に隠れている。上から与一兵衛を襲って、そのまま財布を奪い取る。そして、勘平に撃たれるシーンでは上段からトンボを切って、下段に倒れるという派手な死に方だそうだ。中村仲蔵より目立ちたくて合理的な人もいたようだ。
一度、見てみたいが、その町では、最近、五段目自体が上演されることがないらしい。
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23/07/2006
西川きよしが嫌いという人がいる。片岡鶴太郎が嫌いという人はもっといる。こういう人は萩本欽一もたぶん嫌いだ。
そういう人は、山本圭一のインコー事件がきっかけの、欽ちゃん球団の解散宣言から続行宣言にいたる一連の茶番に、やっぱりなと思いつつ、それにしても気分の悪さを感じずにはいられないだろう。
事件そのものの論評は避ける。ただし、かの少女がホテルの部屋にノコノコ入って行ったのは、男女混合名簿とは無関係である。伊勢崎のドンキホーテが書く前に書いておこう。
それでは、どうすれば良かったのか。「当分、ピッチャーはインコースに投げない。バッターはインコースを打たない、インコース禁止にしました」ベタではあるし、世間の顰蹙を買うだろう。でも、こういう対応が出来なくなってるお笑いの人は嫌だ。
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22/07/2006
「お宮詣り」「お寺詣り」という言葉がある。本来の意味は神社に参詣すること、寺院に参詣することだ。「本来の」というのは、かつての京都では、もうひとつの意味があったからだ。それは、それぞれ「大宮劇場」と「DX東寺」という劇場へ行くことを意味していた。
ちなみに、この種の劇場として、もうひとつ有名な所があった。「A級伏見」だ。だが「A級詣り」に類する言葉はなかった。
その後、「大宮劇場」は「A級京都」になった。「お宮詣り」という言葉もなくなったのか、よく知らない。そして「A級京都」は閉鎖、解体された。「A級伏見」も「新星DX伏見」になったそうだが、閉鎖され更地になっているらしい。
何となく、思い出した。
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あらためて、郵政問題につひて書ひてみたい。
郵便局の前を通ると、ふみの日の切手を発売といふポスターが貼ってあった。百人一首のかるたのデザインださうだ。連絡を取るやうな時は殆ど電子メールを使ひ、昨今は手紙の類は、懸想文さへ出すことはない。けれども、たまに小物を送るやうなこともあり、さう云ふ際に年賀状の末等景品の切手ですますもアイソなからうと、買っておかうかと思った。
例へばである。誰かを想定してゐるわけではないが、
以前、顔をあはす機会もコンスタントにあったが、しばらく会ってゐない人なら、
「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思う」
最近に初めて逢ひ、お食事をした人なら、
「あひみてののちの心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり」
ネット上でコメントしあふことが多いが全く会ったことのない人なら、
「今はただ思い絶えなむとばかりを 人づてならでいうよしもがな」
深夜にチャットなぞをよくしてゐる人なら、
「明けぬれば暮るるものとは知りながら なほうらめしき朝ぼらけかな」
コッソリ、あやしいファイルのやりとりとかしてゐる、及び、してた人なら、
「名にしおはば逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな」
と、いろいろ選ぶとオモシロさうではないかいな。
しかし、販売されてゐたのは、この5首だけだった。
「いにしえの奈良のみやこの八重桜 今日九重ににおいぬるかな」
「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどわせる白菊の花」
「田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ」
「春の夜の夢ばかりなる手枕に かいなく立たむ名こそ惜しけれ」
だういふシチュエーションで使へば良いのだ。最後のは使へさうだが、かいなく立ちさうなこととて、あまりに少ない今日この頃だ。それで、結局、買わなかった。
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20/07/2006
○ガセというのは「偽金」→「ネガセニ」→「ガセ」が語源で、明治時代の刑事が角袖の着物を着ていたから「角袖」→「デソクカ」→「デカ」になったように犯罪者の隠語から。
○ガセというのは「人騒がせ」の「がせ」が語源で、偽物によって人を「大騒ぎ」させることから、そういう偽物を言うようになった。
○ガセというのは「ウィリーをさがせ」の末尾の「がせ」が語源で、そういうタイトルの絵本にウィリーの偽物がいっぱい描かれていたことから、紛らわしい偽物を言うようになった。
以上は、今考えたネタである。ひょっとしたら、偶然に正しい説も混じっているかも知れないが、少なくとも2つはガセだ。
ここを読んでいる人は、こういうタネ明かしをせずに、いろんな説があるとして並べただけでも、そのまま信用する人はないと思う。「蛙跳行事」のエントリーに、冗談かと思ってググッて、確認した人もいれば、アメリカ留学したと自称している安倍晋三座長の「jender」に関するサイトを紹介した時には「どこかのイタズラ好きな人が作ったネタ」と思った人もいる。他のサイトでだが、私にだまされちゃいけませんと教育的指導をやってくれてる人もいる。
でも、このblogではガセネタを紹介するより、「サーロイン」の語源だとか、イスタンブールの「東郷通り」だとか、「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」が国際法だとか、そういうガセを信じ込む人について触れる方が多いんだけど。
最近、見たガセで、ネタ以上にタネ明かし後の反応が対照的で面白い例があった。ひとつが、先の広報活動をやってくれてる人のところ経由での「俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・」で、もうひとつが、「馬鹿騒ぎ」を「大騒ぎ」と“誤訳”する日本メディアの“思いやり”というので、後にネタばらしがある。
このガセ、ともに信じていない人も大勢いるわけで、騙された方は「騙されただけ」であって、波動測定器を買わされたり、おすすめの本をリストに従って買わされたわけでもない。
前者の場合は「芸」としてネタばらしの後で完結してしまったようだが、後者の場合はネタばらしの後に、騙された連中を見下したような書き方でさらに挑発している。それで、その見下された連中が急にベタな良識人になって「ぼくはひとをだますのはよくないとおもいます」というような反論をしているのが滑稽だ。一度、騙されたんだから、この尊大な態度も次ステップの仕掛けじゃないかと、なぜ疑わないんだろうか。行き着くのは「騙されたっていいじゃないか人間だもの」ということなんだろうけど。
先日「電車男」を実話と信じる不思議さについて、ある人と話したことがある。多くの人は、宝くじで1億円が連続して誰かに当たることがあるとは思わなくとも、自分に当たることはあると思っている。その確率は一緒なんだけれども「願望」は「客観性」を超えるわけである。
願望というのは欲得には限らない。誰にでもあるそういう「願望」ならともかくも、ガセに対する態度によって、どういう「願望」というか「自己幻想」かが明らかになっているのは、単に迂闊さで騙されただけよりも恥ずかしいように思うのだが、やはり、願望が客観性を超えているようだ。
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ソーテックというメーカーがある。最近はアフターサービスで有名のようだが、知名度が飛躍的に高まったのが「iMac」のパクリでだ。ソーテックが製造販売した「e-one」に対し、アップルコンピューターとその日本法人が「iMac」のデザインを無断で使われたと製造・販売の中止を求め、1999年9月20日に東京地裁の差し止め命令がソーテックに出され、翌年の2000年1月14日にソーテックが「iMac」もどきの製造を中止し、アップルに1000万円を支払うことで和解が成立した。
さすがに、この時期にはパクリについての世間の許容度は甘いもんじゃなかったわけだが、マネシタさんと揶揄されながらトップクラスとなっている電機メーカーがあるわけで、それまでパクリに甘い時代があったわけであり、日本の高度成長の時代だ。
世界で日本のアニメが人気を得ているらしい。なぜ人気を得たのか、よくわからないし、詳しい人がいれば教えてほしいのだが、「海賊版」がその一因になってるように思う。
先進諸国では、放映も市場流通もしていないアニメが、家庭用ビデオデッキの普及によって広がり、開発途上国ではマンガの海賊版が普及して人気を得て、それによってユーザー僧が形成されて、現在では正規に購入するようになった。という構図があるんじゃないかと思うがどうだろうか。
海賊版が売れても、権利者の収入には全くならない。かと言って、海賊版を買っているような経済状態の人が、正規版を買えるのだろうか。その遺失利益と、海賊版によって形成されたユーザーが経済成長によって正規商品を買うようになって得る利益と、どちらが大きいのだろうか。つまり、結果的に海賊版が「サンプル」の役割を果たしたんじゃないかとも思っている。
どうも日本の場合、パクリをして得したことも、パクリをされて得をしているケースもあるように思う。もちろん、パクリをしたりされたりで損をしたケースもあるんだろうが。
そこで、パクリをして得をするのはよろしくない、というのは社会的なルールとして作らないといけない。これは誰でもわかる。パクリをされて損をするのもよろしくない。ならば、これはルールで「パクリ」を禁じるだけではなく、パクリをされて得をする方法を考える、という対応もあるわけである。
いずれにせよ、つまらんものはパクられないから、私が考えても無駄かも知れないが。
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18/07/2006
たまに見ているblogで紹介されていた「漫画家アシスタント物語」というblogがある。先日、それを読んでみたのだが、何とも不思議な気がした。
サブタイトルに「どーすりゃ漫画家に成れるのか、何で漫画家になれないのか?」と書いてあるのだが、読んで思うのは「なって何が書きたいの?」なのだ。
この人は漫画という表現形式にとてもマジメで真剣で努力もしているのだが、どういうコンテンツを作りたいのか、さっぱりわからないのだ。かつて、賞を貰ったという作品も紹介してあるのだが、漫画家志望者の話だ。漫画家になれるかどうかの必死さはわかるけど、なったとして何を描くの? この人はその回答を持ってるんだろうか。
もし、描きたいテーマや世界があれば、それはけっこうだし、漫画で書きたいからblogには描かないのもいいと思う。でも、この人のblogを読んだ限り、コンテンツへの思いが伝わってこない。漫画というプロトコルに拘ってるのはわかるのだけど。
このblogはいいかげんなもんだし、最初はblogというプロトコルを使ってみたかっただけで始めた。でも、自分で作ってみたいコンテンツ、という大げさだが、ちょっと書き留めておきたいことがあって、続いているわけだ。ここからリンクしているblogだって、それぞれにテーマをいくつか持っている人ばかりで、blogが書きたいからやってる、という人はいない。普通はコンテンツがあるからこそのプロトコルだろう。
「blog論」みたいなことを書いてる人も、自分なりのテーマの延長で書いている人のは読ませるが、単に技術論とベタな良識論を直結しているだけだと、それこそ「ITみつを」っぽくて、見ていて痛々しい。文明や文化への視点が欠如していて、ツールについてだけ論じてどうすんだと思う。
同じように、漫画の技術を追求し、漫画家になる努力しているのを読んでいても、目的が見えない、漫画家になるのは彼だけの目的であって、どういう作品を書きたいかという読者が共有できる目的が見えないと、他人にはどうでもいい努力をしているとしか思えないのだ。
皮肉なことに、この人のblogは「書きたいこと」があってやってるわけだ。何か書きたいテーマがあるわけでもなく、単に「アルファブロガー」になりたいだけとか、ネット上で存在を認めてもらおうというようなblogじゃない。だからblogは読み応えがある。コンテンツがあってプロトコルを使っているわけだ。けっこうアクセスもあると思う。でも、読んでみると、漫画というプロトコルへの努力は伝わるのにコンテンツが全く想像できない。
どこかに、コンテンツを持たないのにアルファブロガーになりたくて頑張ってる人っていないかな。その顛末を漫画にすると漫画家になれるかも知れない。
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月夜の晩にスイカを囓るのは「チャー」だと思っていた。それで念のために、前のエントリーを書いた際にネット上でチェックしてみた。ところが、囓るのは「土竜」だという文が出てきた。そこで少なからず混乱した。
ともかくも、さらに追求してみたところ、元々は「猹」だったのだ。どう読むかはわからない。
月亮底下,你听,啦啦的响了,猹在咬瓜了。你便捏了胡叉,轻轻地走去……
「故郷/故乡」が発表されたのは1921年、それを1932年に井上紅梅が訳した。そこで「土竜」にした。
月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫(つか)んでそっと行って御覧なさい
しかし、現在に一般的なのは竹内好の役で、「チャー」としている。
月のある晩に、いいかい、ガリガリって音がしたら、チャーが西瓜をかじってるんだ。そうしたら手に刺叉を持って、忍び寄って……。
魯迅は1936年に、紅梅は1950年に死亡している。だから、この2人に関しては著作権の保護期間が終了している。一方、竹内好は1977年に死亡していて、保護期間内だからネット上では見つけるのが難しい。
だから、書籍とかで読んで、スイカを囓るのは「チャー」と覚えている人が多いにもかかわらず、ネットでチェックすると、保護期間が終了している「土竜」の方がひっかかるわけだ。
古い訳しか出てこない。このあたりも、ネットでチェックする際の限界かもしれないが、でも原文のチェックも可能だし、さらには自分で訳してサイトにアップしている人も見つかる。結局は、調べ方次第ということだろう。
なお、原文の出ていたサイトの注によると、作者が1929年5月4日に送った手紙の中で「猹」というのは故郷の人が言ったのが「查」の音のようなので、作ったと書いているらしい。たぶん、アナグマのことらしいとか。前のエントリーでぐぐったチャーではないようだ。
ところで「啦啦的」というのは、どういう囓り方なんだろうか。
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17/07/2006
3日間限定のタイトルバックの後は「夏らしく」ということで、たまたま見かけたスイカ畑にしてみた。横長にトリミングしたのでわかりにくいので、左がもう少し周囲がわかるような写真。ナスが隣になっていて、ナスの足元にも1個なっている。スイカが傷まないように「座布団」が敷いてある。
満月の夜、チャーがスイカを囓りに来るらしい。見たいと思って満月の日をチェックしたら、8月9日だ。それまでには採りいれられてしまいそうだ。それにサスマタを持って行くらしいが、持ってない。代わりにサルマタを持って行こうにもそれもない。だいたいチャーって、どんなのだ。わからないので、ぐぐって想像図を作ってみた。
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見たのは、だいぶ前だが、出演の岡田真澄が先日に亡くなったり、とある歌舞伎俳優がニュースになったりとかで。
シベリア超特急の評価は2以降が作らたことで変わったと思う。最初の作品だけだったら「駄作」ですまされたと思う。でも2以降が作られたことで、「シベリア超特急」というは固有の「ジャンル」であることがわかった。それぞれのジャンルには固有の価値観があるから、他のジャンル、例えば映画とかと同じ基準で見ることは出来ない。それが一作だけではわからなかったと思う。
さて、シベリア超特急だが、最初の作品の衝撃は凄かった。「ボルシチもけっこう美味かったぞ。おかげで身体も暖まった」その瞬間に、どう見ても書き割りにしか見えない列車のセットに、広がる荒涼とした凍土を感じたのである。あれほどの衝撃はないものの、このジャンルの完成度ということでは、この5が最高峰じゃないかと思う。
そうなったのには、片岡愛之助を主演にしたのが大きいと思う。愛之助というのは、歌舞伎俳優だ。だから様式的な演技も出来る。元々、御曹司ではなかったからアクロバティックな動きも出来る。でも十三代目仁左衛門の部屋子から秀太郎の養子になった。だから、それなりではあるが、花もある。つまりは、このジャンルにも適した俳優なのだ。
もうひとつ。歌舞伎界での位置が、このジャンルに出てもすごく納得できる位置ということだ。これは貴重だ。
秀太郎の兄が片岡我當だ。決して下手じゃない。むしろ名優と言っていい。好きじゃないけど。で、日本俳優協会の歌舞伎俳優名鑑には「どんな役でも誠実につとめ、その人柄がにじみ出るような演技には感銘を受ける。」と書かれている。つまり「誠実につとめ」なくても納得してしまうような「どんな役でも」と言われるような役が多いわけだ。
弟が片岡仁左衛門で、歌舞伎のトップスターの一人だ。そのためには容姿や芸も原因だが、玉三郎の存在も大きい。もっとも玉三郎が今の位置にいるのも、この人がいたからだが。本人の素養だけじゃなく、そういう巡り合わせもあってトップスターになっている。
それで、この2人の甥の愛之助は、どちらの位置になっても「一応」納得できる。つまり位置がまだ決まっていないのだ。現時点でも、大抜擢されても、昼の部の最初の演目で進之助の相手を勤めても納得出来る。それで、歌舞伎以外なら、どんなジャンルに出ようが、それもありかと思ってしまう。
例えば、何が何でもスターにならなくちゃいけない海老蔵や染五郎は、やはりこういうジャンルに出たら「何で」という違和感がある。2に出ていた福助にそれを感じたし、この5でのカメオ的な扱いに妙に納得した。歌舞伎俳優として次代の中心にならなきゃいけない人だと歌舞伎以外のことをするにしても、やっぱり評価が確立したジャンルでないといけないように思ってしまう。
一方で、歌舞伎俳優としては中途半端な位置の中村獅童がこういうジャンルに出たなら、映画やテレビの仕事もあるのになぜ、という違和感を感じるだろう。せめて、歌舞伎以外では、きちんと評価される仕事をしないとマズイんじゃないかと思ってしまう。けれども、愛之助だと、歌舞伎で評価を得ればそれでいいんだからと思ってしまう。
愛之助という、高度なレベルでの「何でもあり」という俳優を主役に得たことで、「シベリア超特急」というジャンルの固有の価値観がより明確になったのだ。
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16/07/2006
交尾中のゴマダラカミキリ。これから柑橘類などに産卵し、枯らしてしまう。蛙の餌には大きすぎるのでほっておいたが。
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15/07/2006
14/07/2006
まだまだ続々上陸中。上陸1日くらいで尻尾がみじかくなるが、その間、水上のホテイアオイにくっついたままのと、付近を徘徊して砂だらけになるやつがいる。
上陸後数日の連中は、尻尾の跡も目立たない。
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08/07/2006
07/07/2006
06/07/2006
「説教強盗」は1926年7月末の初犯から、60件の強盗、40件の窃盗を重ね、1929年2月23日に逮捕された左官職妻木松吉の異名だ。説教とは、家人を縛り上げ犯行の後、明け方まで居座り「泥棒除けには犬がいい」「戸締まりを厳重に」「門灯は明るく」などと説教したからである。これは夜間に歩くことで警官に誰何されるリスクを避けるにあたり、時間潰しに行ったようである。
妻木の母親が野守と再婚していたことなどから、妻木サンカ説というのがあることや、1947年に釈放され、翌年6月の浅草ロック座でデビューし、各地で「防犯講座」の巡業を行ったことで、サンカや巡業芸に興味を持つ人の間でも「説教強盗」は知られている。
しかしタイトルの「説教詐欺」というのは説教強盗とは無関係だ。詐欺行為を行った後に、詐欺予防の説教を行うということではない。詐欺とは、人を欺いて財物を交付させる行為だ。けれども詐欺罪に問われたのではつまらない。そこで、人を錯誤に陥れる方法として説教を用いることを考えてみようということだ。
詐欺罪に問われるのは「わざと」と相手を錯誤に陥れた場合であり、相手が錯誤に気付いた場合だ。その点、架空の話を利用するよりも説教を利用した場合、詐欺罪に問われるリスクは少ない。「先祖を供養しないと地獄に堕ちるわよ」と言って高価な墓石を売っても詐欺罪にはあたらない。騙すためではなく、儒教道徳に基づいた説教を行っただけだし、財物を交付した方も通常の商取引きだと認識しているし、なぜ、その商取引を行ったかとは別問題と認識してる。だから正確に言えば「説教詐欺」ではなく「説教商法」だ。
説教の内容は「ベタ」がいい。けれども、世界平和とか社会正義とかではなく、「感謝」や「寛容」「正直」とか、個人的なモラルがいい。場末のうどん屋のカレンダーとか、招き猫の横の色紙に書いてあるテーマがお奨めだ。ベタな道徳というのは、つまりは「だれでも100%はしていないが0%でもない」ということであり、それが狙い目になる。とりあえず「恋愛」をテーマにしてみよう。
説教の手法は「矮小化による効果実証」「権威を利用した判断停止」「単純行為の反復」の3つだ。順に説明しよう。
「矮小化による効果実証」というのは、例えば慢性的な重篤な疾病に悩む人に対し、時間の経過で治るような傷の治療効果を示して効果を実証することだ。その点で「100%はしていないが0%でもない」ことが効いてくる。親しい間の人間関係というのは100%肯定的も、100%否定的はありえない。だから、その否定的な部分を少しでも肯定的にをさせてみる。あの人はいい人だけど嫌な点もある、その嫌な部分を肯定して、相手に伝えさせる。その相手が喜ばないはずがないし、相手もその分好意的になる。人間関係が多少とも改善する。
例えば「俺の彼女は浮気してる」という悩みに、その彼女をどう思うと聞いてみる。その彼女でなくてもいい、他の女性でもいいのだが。「彼女は美人だが貧乳だ」という人には「俺はスリムな人が大好きだ」と言わせる。その彼女は「私も好きよ。うっ、うっ、うっ、ふたたび嗚咽」だ。浮気の問題は全く解決していないのだが、相手は、好きだと言われたことで、愛情を確かめられたような錯覚に陥る。他の女性でもいいのというのは、それでも、説教によって自分は好かれるようになったという錯覚が得られるからだ。
「権威を利用した判断停止」は、「科学的に証明された」とか「何とか大学の何とか博士の研究によると」という言い回しで、なぜかを説明しないですますという手法だ。「悩み」については「心理学」がおすすめだ。「心理学」とか「社会学」のような多分野からのアプローチが可能な科学は、全容がわかりにくいので利用しやすい。他にも「波動」だとか「マイナスイオン」とかで科学的に装うというのも効果的だ。
「単純行為の反復」というのは、矮小化した効果をもたらしたことを単純な行為に収束し、反復させることだ。つまり、当初の「問題を解決する」という目的の「手段」にすぎなかったことを自己目的化させるのだ。浮気の例だと「大好きだと言う」ということを自己目的化させ反復させるのだ。そうすることで「彼女が浮気している」という状況に対し、「大好きだと言う」が足りないのが原因だといいう錯誤を与えることができる。
もう一例として、子供のイジメに悩む主婦の例や、「感謝」を使った例をあげようと思ったが、割愛する。
こうして、説教に成功したら、「実はこういうことがわかるのは、何々があるからで」と言い、商品を販売すればいい。商品の対価を得るのだから、正当な商取引だ。人を欺いて財物を交付させても詐欺罪にはならない。
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05/07/2006
こちらの記事のコメント欄でアルミニウム合金をアルミニウム鋼というかが問題になっている。おそらく些細な問題に違いない。残念なことに、私はアメリカのアニメーションについて述べるほどの見識は持ち合わせていない。日本のアニメーションについても似たようなものだ。しかしこの記事でアニメにおけるメカニックの写実性をリアリズムという用語を使用して説明しているのは不用意と言うべきだろう。アンバランスな写実性と言った方がいいのではないか。コフィーちゃんにおける桶狭間先生を歴史的リアリズムと言わないようにだ。アンバランスな写実性ということは、そこに何らかの意図が介在するということだ。キャラクター化が起きなかったのではない。写実化が起きたのだ。
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近頃、ネットで流行っている「人生のどんな問題も解決する知恵」で「読んだ人の9割が涙する」という話があるぜよ。じゃきに、読むのに時間がかかるきに、一目でわかるようにまとめたぜよ。
元ネタはここから辿れるじゃき。
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上陸しとる。3匹、上がってたうちの2匹。
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02/07/2006
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