民俗信仰との習合
めでたし聖寵、充ち満てる・・・の「聖寵」ってどういう意味なんだろうか、あたりから始まって聖母信仰というのは、どうも門外漢にはわかりにくい。
こんなことを書き出したのは、15日が聖母被昇天の日だからだ。カトリックの聖母信仰が「わかりにくい」のは「わかりやすい」から。というのは変な言い方だが、いろんな宗教に母性信仰があるものだから、勝手にわかったつもりになる危険性が高い、ということだ。
江戸時代にマリア観音というのがあったそうだが、弾圧から逃れる為に菩薩像に似せたマリア像で「偽装した」、というよりも、教義自体も観音信仰に習合して変わってしまったのだろうなと思う。
聖母信仰というのは布教の途上で土着の女神信仰との妥協の結果に発生したらしいのだが、教義上に位置づけられたのは近年のことらしい。御本家も長年手こずったことが、シロートに簡単にわかるはずがないのだ。
もっとも、私としても、宗教そのものには別に興味がないわけで、彼の地の文化の理解する上で知っておいた方がいい程度がわかればいいのだが。
15日はお盆でもある。旧暦の7月15日が本来の「盂蘭盆会」で「地獄や餓鬼道に落ちて、逆さづりにされ苦しんでいる」人のために供養を営む日だそうだ。といっても、元は中国で坊さんの夏合宿の打ち上げの日と、先祖を祭る行事が合体したものらしい。それが日本に伝わって、祖先の精霊を供養する日になったわけである。それが新暦への移行にともない月遅れの8月の15日になった。旧暦の15日は満月で「盆のような月」が出るのだが、「お盆」とは無関係だし、新暦の盆の月は年によって違う。ともかくも、8月15日というのは、伝統的に死者を供養する日だったわけである。
1872年に京都府で盂蘭盆会が迷信として禁止された。もちろん大文字の送り火も禁止された。「迷信」の禁止というのは、もちろん近代化のためではなくて、国家神道をでっちあげる過程で、庶民に親しまれた民俗的な信仰、伝統的な宗教観を破壊するために「迷信」などと言ったわけだ。
「仏を殺し、神を 殺して、そのかわり国家を神とする」と言われる所以で、先日のかえるさんもこの時に殺されている。昨今「いったん神と祀ったからには、出て行けということは出来ない」という人がいるが、この新興宗教はその限りでなかったようで、愛宕神社の勝軍地蔵とか祇園社の牛頭天王とかを追いだしたようだ。
ただし、伝統的な宗教観を根絶やしにすることは難しかったようで、廃仏毀釈から仏教寺院との妥協が行われるようになり、大文字も10年ほどで復活する。かえるさんは昭和の初めになって復活している。その新興宗教は、仏や神でなくて、人を殺すようになったようだ。
さて、お盆と言えば盆踊りだ。盆踊りの原形は「風流」踊りというもので、様々な扮装をして練り歩いたり、踊ったりしたというものだ。だから、古い盆踊りには、西馬音内盆踊りのように覆面したり、和合の念仏踊りのように「のれん」の付いた笠を被ったり、姫島のようにキツネの扮装をした盆踊りなどもある。西馬音内の覆面はあの世から戻った亡者の扮装という意味もあるようだ。
だから、8月15日に死者を「供養」するのも、ラーメン・カルトやミリヲタのようにコスプレ行列するのも、かつて国家神道が「迷信」呼ばわりした伝統的な習慣に連なってるのかと思えなくもない。
でもね。する場所が違うんじゃないの。という気はする。多くの人は、身内の年忌法要はしても式年祭はしてないだろうに、わざわざ「神社」を自称している所でするのかね。そして、くだんの新興宗教自体は、こういう「新」仏習合について、どう思ってるんだろう。
Commentaires