372日目
先日にやったコオロギは、写真に写っていたように1cm以下の小サイズだった。その際、自家養殖を考えて、成虫と終齢幼虫も入手していたのだが、やっぱり面倒なので養殖はやめた。
それで、大きめの個体なら食うかと思って、やってみたら、よりによって小さいのが食らいついた。一時に飲み込めずにくわえている。
こちらは中型のもの、やっぱり羽根がはみ出している。
先日にやったコオロギは、写真に写っていたように1cm以下の小サイズだった。その際、自家養殖を考えて、成虫と終齢幼虫も入手していたのだが、やっぱり面倒なので養殖はやめた。
それで、大きめの個体なら食うかと思って、やってみたら、よりによって小さいのが食らいついた。一時に飲み込めずにくわえている。
こちらは中型のもの、やっぱり羽根がはみ出している。
1歳ともなるとモリアオガエルっぽさが出てくるようだ。大きな吸盤と鮫肌はシュレーゲルとの違い。
上にいるやつのような表情というかポーズもモリアオっぽい。
ちなみに最大のやつの身長は36mm。大人のアマガエル並み。
この23日が誕生日なので、3日遅れだが、今日のごはんは特別に1匹10円のコオロギである。
基本的には、餌は近所にいる虫をやっている。地産地食というやつである。人間の食品だと、流通の発展で産地の地域分担が行われているし、昨今の環境汚染リスクだとリスク分散のためにも多産多食が望ましいのだろう。けれども、この連中は、本来の生息環境に近くという方針なので地産地食が基本である。といっても、たまには外来種もやってみる。
やはり地上を歩いているのより、容器の側面を登ろうとしているのに、先に目がいくようだ。
ひとまわり大きくなったみたいなので、一歳児健診の身体測定をしようとしたが、地上性の餌のせいで、容器のガラスにへばりついてるのがいないため、断念。
二十数年前のことである。舞踊の家元が、家元制度に反対する舞踊家に刺されるという事件があった。「何すんのさ」事件と呼ばれてるらしい。
当然ながら傷害犯は非難された、「芸が下手でも刺すことはない」。ここで誤解があったようだ。犯人は下手なのに家元だから刺したのではない、名人でも刺したと思う。この事件を契機に、家元制度の論議も起こった。「家元である限り、相応の芸が必要。」「家元の役割は果たせば下手でもいい。」
関係者は誰もが抱く評価を前提にした論議であったが、事件が注目を浴びたために、芸の評価が世間に知れ渡ってしまった。歌舞伎俳優以外の歌舞伎舞踊に習ってもいないのに興味を持つ人はいないし、私もその家元の芸も見たことはない。しかし、当時の論議は芸能史の本に現在も載っており、どういう評価であったかを知ることができる。
傷害の被害者となっただけですまなかったのである。名人がゆえに後世に名を残すことはよくある。事件のために、こういう芸の評価が後世にも残るわけで、ひどい被害にあったものである。
自転車が停めてあった。近くに柑橘類の木。その後輪横のステーにアゲハの幼虫がいて、さなぎになろうとしていた。
夜に見たら、まだ自転車が停まっていて、もうサナギになっていた。サナギ付きの自転車って、ちょっと乗ってみたかった。
瑠璃子さんが悲痛な叫びをあげていた。彼女は人に右よりと呼ばれるらしい。それで、同じく右よりと呼ばれる伊勢崎のドンキホーテや八木秀次と同程度である、と思わないでくれとのことである。
なお、そのエントリーでは、自身を「他人に右と称される」と書いている。あいにくと、社会に対する多様な認識、意見を、右・左と、1ビットに圧縮できるような強力なソフトを私は持ち合わせていないし、彼女もそのようで、あくまで「他称」の右である。
それで、私自身の立場を1ビットに圧縮するとどうだろうかと考えてみた。以前に「ポリティカル・コンパス」なるものをやってみたが、これは未完成だそうだ。元はアメリカのサイトにあったそうだ。
右というのは「伝統的価値観を重視する」らしい。伝統的価値観は地域によって異なる。アメリカの最も伝統的な価値観は先住民のアニミズムとシャーマニズムらしい。しかし、現在のアメリカの体制の基礎を作ったのはヨーロッパからの清教徒である。つまり、アメリカの伝統的価値観はピューリタリズムに根ざしているらしい。ということは日本における伝統的価値観とは異なるわけで、全く判定基準にならないわけである。そんなことも理解できずに、このポリティカル・コンパスの結果「日本では右と呼ばれるが世界的に観れば左」なぞというのは「日本ではバカと呼ばれるが、世界的に観てもやっぱりバカ」ということだ。
なぜ、伝統的価値観を重視するかと言えば、時代を超えて伝承された価値観に普遍的な英知を認めるからだそうだ。神社や仏教、カトリックの価値観は古代から現代まで伝承され、共存している。日本においても、それぞれ千年以上と500年の歴史がある。私の場合、これらの宗教を信ずるものではないが、その価値観に敬意を払う。その一方で、国家神道だの靖国だの明治にでっちあげられて60年前に破綻したような価値観は、一時の徒花としか認めないわけであるから、どうも、伝統的価値観の重視には該当しそうである。
ポルポトや紅衛兵のように、民衆こそが正しいというのではなく、専門的権威の重視というのも右だそうだ。テクノクラートやアカデミズムを肯定するわけである。私の場合、例えば、南京大虐殺に対して詳しいわけではないから、歴史学で学位を取得した専門の歴史研究家の説を正しいと判断する。ということは、この項目にも該当しそうだ。
もちろん、価値観の分野において、伝統的な考え方を重視するわけであって、発見された事実、論理、正しい手続きによる科学などは、価値観によって変わる問題ではないから、それは現代の普遍的な考え方を肯定するわけである。
例えば、進化論については「科学」であり「価値観」の問題ではない。だからカトリックでも肯定し、共有でしているわけである。私も肯定しているわけである。むしろ、否定しているのは、壷売りさんのような新興宗教、つまり、伝統的価値観から逸脱している側だったりする。
日本の伝統的価値観は重視し、日本固有の文化は尊重するのだが、「日本文化が最も偉い」なんぞとは思わない。そういうのは「中華思想」のマネの「小中華思想」であって、日本固有の価値観ではないからだ。ということは、どうも国粋主義っぽいところもありそうだ。
それに「日本は神の国」と思っている。北海道の先住民から、沖縄まで、日本に共通する文化的伝統はアニミズムである。一木一草に神が宿るという考え方だ。もちろん、今日においては、この「神」というのは、象徴的な存在と読み替えることが必要であるが。「それじゃ、世界中どこもが神の国」というツッコミはあると思うが、日本だけが神の国とは思っていない。
ということで、どうも私は「右より」で「保守派」であるらしい。
先日は「清順派ブロガー」を目指すと宣言したが、やっぱり恥ずかしいので、むしろ「保守派ブロガー」とか「右派ブロガー」と呼んでもらおうかと思う。
863年5月20日、神泉苑で御霊会が行われた。それが起源というのが御霊祭。
なので京都最古の祭りだそうだ。葵祭の方が古いが、葵祭は市町村合併で京都市になっただけで、元々市外の祭りということになる。
御霊会では、60余本の鉾が並べられたそうだが、今でも鉾を持った人がいる。盾を持った人もいる。
甲冑姿の人なぞは、矛と盾を抱えているようだが、この祭礼では鉾と楯は別の人が持っている。
元々は手持ちの武器だった鉾も、巨大化したのが出てくる。すると一人じゃ持てない。
持ちきれないから、車にのせてゴロゴロ引っ張ることになる。
ということで、その車が巨大化すると、御霊祭ではなくて、祇園祭の鉾になる。祇園祭も祗園で行われた御霊会が起源。
先日に自分のblogの分析をしてみた。わかりにくい。脈絡がない。エエカゲン。ある種のいかがわしさがあるB級blogだが、妙に様式的な美意識があったりする。
そこで思った。そんなええもんちゃうやろ、と言われるかも知れないが、映画で言えば鈴木清順じゃないか。
なので、今後、清順派ブロガーを目指そうかと思う。
清純派ではなく、清順派。たまに褒めてもらえる記事があったら「まぐれ記事清順派」だ。嫌される、じゃなくて癒される記事があったら「清順派治療記事」だ。
偶然というか、一昨日に「伊勢崎のドンキホーテ」のことに触れたら、またまた、面白いエントリーを書かれたというのを、うちゃさんところで知った。
ヤミ金融が問題になっています。ヤミ金が問題になっているのは、その手口がテレビ等を通じて、映像で伝えられているからです。しかし、あの映像は俳優がシナリオ通りに演じていたものだということが明らかになりました。ヤミ金融は捏造だと明らかになりました。ヤミ金融を攻撃していた弁護士達は、どう責任をとるつもりなんでしょうか。
言ってみればこういうロジックだ。
ところで、日本の政府は、外交の基本をunited-nation中心主義に置き、防衛に置いてはアメリカとの軍事面での強力を重視しているらしい。おそらく政府のこの方針を支持する人は、かつてのunited-nationやその中でのアメリカ軍であっても、わざわざロジックにもなっていない理屈を以てまでも、その正当性を攻撃したくないだろう。ということは、このドンキホーテは、今の政府の外交や防衛の基本方針には反対の立場なんだろうね。
そら豆を貰った。
さやを剥いてみたら、豆の色合いといい、ぷっくり感といい、うちのモリアオガエルっぽいイメージだった。さてカエルっぽいというと鶏肉だ。田鶏というくらいだ。むしろカエルが鶏っぽいのか。そこで、見た目のカエルっぽいのと、食べてカエルっぽいのをあわせてみることにした。
そら豆は軽く塩茹でし、皮を剥く。鶏肉は紹興酒にニンニクと漬け込んだ。そして、鶏肉にカタクリ粉をまぶして、キクラゲと炒め、火が通ったら、そら豆を一緒に炒め、コショウ、醤油、豆板醤を絡めてみた。
出来たときに撮影し忘れ、そら豆を貰った人にあげたり、食べたりしたのだが、わずかに残ってたのをあわてて撮影。
このblogのアクセスの増えない理由だが、前のエントリーにも書いたように、まず、内容が希薄だからである。内容が希薄でも「非モテだっていいじゃないか善意だもの」という、情報のない共感だけのコミニュケーションに走ると、はてなブックマークが集まって、アクセスも増えるだろうけど、やっぱり「居直り」は恥ずかしい。
さらには、内容が希薄で「役に立たない」というか、散漫だから情報という面ではSN比が低すぎる。初めてモリアオガエルの飼育を試みようとする人には役立つかもしれないが、そういう人はあまりいない。当地ではありふれたカエルだけど、地域によっては天然記念物に指定もされている。
つまりは、内容が希薄であり、特に共感性と有用性に欠けるのである。
次に旬の話題がない。検索で来る人には、チマタで話題のタレントで検索して来る人がいる。エントリーの中身では触れていないにもかかわらずだ。トラックバックspamには、そういうタレント名がタイトルになったのがあり、削除する前に、検索エンジンが拾って行くのだ。検索エンジンの頻度が高すぎるのだ。旬の芸能の話題というのは、それだけ見たい人が多いんだろう。残念ながら、最近の芸能のことには疎いので、そういうネタは書けない。
芸能ネタだけじゃなくて、社会ネタでも「旬」の話題がない。例えば、日本軍の性奴隷の話などを書けば、飛びつく人が多く「おしかけblog-pet」も常駐したりするらしい。
さて、とある人の言い方を借りれば、私は、現在の人類が、原始的な生物から哺乳動物、猿の一種、うぱーな人類、現在の人類へと進化してきたという「仮説」を証明するに足りる証拠が存在するという事実を発見できていない。また、うどん状の知的生命体が現在の人類を創造したという「仮説」を証明するに足りる証拠が存在するという事実もまた発見できていない。
ただし、この場合は、判断を保留するのではなく、そのいずれの仮説を支持するか、様々な傍証や専門の研究者がいずれを支持しているによって判断しているわけである。だからと言って、思考を不要とするだけの確たる証拠が提示できずに、水掛け論や揚げ足取りになりそうなことを書いてもしようがない。スパモンの信者を教化する気はない。私の「判断」は書くことの前提になっても、判断自体を説明したいとは思わない。
社会ネタにおいては、同じように、確たる証拠が提示できないという一点によって、研究者レベルでの検証で一応オーソライズされた説に異論を唱える連中がいて、それが旬の話題になったりする。よそ様のblogのコメント欄では、この性奴隷の件についての「参考資料」にマンガを挙げている人がいて唖然としたことがある。マンガの価値は認めるが、社会科学の資料としての価値とは全く別ものだろう。こういう、まともな研究書を読め、ですむ段階にまで戻らないといけないようなことを、わざわざ書く気にもならない。
さらに、文が拙くて読みにくい。日常に考えたことを垂れ流しているような文が多い。原稿料を貰って書くなら、「安倍晋三にもわかるように書く」努力もするが、好き勝手に書いているから、予備知識を共有できていないと意味不明の不親切さだったり、本筋と関係ない余談が、やたらに多かったりする。
そして、このblogって「何かエラソー」なのだ。けっこう本心から謙っている記述があるのだけれど、それがかえってエラソーかも知れない、と近頃は思っている。
ネットではロコツにエラソーな文は、かえってバカに見える。例えば、かつて知事選挙に立候補を表明して敵前逃亡したおじさんが、日本語の乱れをエラソーに憂いたblogが炎上した。そのおじさんの方が間違っていたからだ。おじさんは自分の間違いを認めるのはエラソーじゃないと思ったか、ひきあいに出したタレントを批判したからファンが怒ったということにして、炎上に際しても敵前逃亡したということがあった。このおじさんは、この炎上を根に持ってるらしくて、逃亡先でもこの件についてエラソーに書いている。そもそもの出発点である、日本語表記への自分の間違いを認めないまま、つまりはエラソーにしたがために、バカさにも気付かないバカというようにしか、見えなくなっているのだ。
世の中、だいたい上もいりゃ、下もいるわけである。自分が上にいるかのような書き方は、下を基準にしているわけであり、自分が下であるという書き方は、上を基準にしているわけである。つまり、下に属しているか、上に属しているか、ということを言外に言っているみたいなもので、謙ることで、かえってエラソーになることは多々ある。
でも、よーわからんことはよーわからんのだ。よーわからんことを書く際には、よーわからんけどと書くしかない。それが、もっとわからん人から見れば、たぶん、エラソーなのだ。
というあたりが、このblogのアクセスが少ない理由で、この逆をやればアクセスは増えると思う。でも、そういう羞恥プレィはしたくないので、500人の壁は絶対に越えないと思う。
ロジック姐さん経由で見た記事によれば、何でもblogでは、一日の訪問者数50人というのが、ひとつの壁だそうで、訪問者数50人以下の Blog が7割以上を占めるとのことだ。
もちろん、これは設問での訪問者数の区切りを、5、10、50、100、300、1000と切っているからであり、対数的にほぼ等しく切れば、3、10、30、100・・・になるわけで、この区切りで聞くと、おそらく、一日の訪問者数30人以下が大半で、30人が壁ということになる。
むしろ、対数的にほぼ等しく切らずに、50人で切ったというあたりに、調査した方の意図として「1日30人くらいなら、学校の1クラスだし、その程度の数の知人なら誰でもいるだろうから簡単だろうけど、50人越すには新規開拓に一工夫要るんじゃねーの」というのがあるんだろう。
このblogで言えば、検索で来る人の数が平均1日60人くらいなので、50人というのは、壁というよりもオプションみたいなもんだが。
検索で来る人でも、例えば無修正の漫湖の画像を見て、すぐに出て行く人とかではなく、まじめに調べものをしているらしき人もいるわけであり、以前に書いたもので、数こそは週に1・2件だが、コンスタントにアクセスがあるというエントリがある。こういうの、ロングテールと言うんだろうか。
例えば、マイナーな映画の評だとかカエルの餌だとか「イスタンブールの東郷通り」だとか「西瓜を囓るチャー」だとかだ。チャーに関しては、ネタ記事の方に来るので、最近にまともな記事の方から自己Tバックを張るとか、ちゃんとフォローしている。
伊勢崎のドンキホーテのエントリーもロングテールなのだが、これはローカルなBBSにURLを貼られたせいだ。そういやエキスポランドの事故で、泉陽興業が注目されてしまい、社長の政治家との関係まで知られてしまった。風車に挑み掛かるドンキホーテが観覧車に触れない理由も「そういうこと」なんだろね。
検索で1日に60人来るのにアクセス人数はほとんど増えない。増やそうともしていないのだが、意図的に減らそうとしているわけでもない。「たまたま見ても、継続して見る価値はない」とほとんどの人が思うわけである。
50人という、7割のblogにとっての「壁」を、毎日「無駄」にしているのが、このblogなのである。なぜ「継続して見る価値はない」と思われるのか、もちろん内容が希薄なのがその主たる理由だろうけど、いくつか考察してみた。以下、次号である。
トミーの鉄道コレクションのクモニ13の加工をはじめる。ランボードを浮かしたり、関西圏用の運転席窓にするための加工を行う。制作途中で放置中のグリーンマックスのクモニ13がもうひとつ出てきた。これも一緒に加工する。
この後は、屋根端のステップや前照灯などの取り付けることになるが、パーツを自作するのも面倒なので、調達してこなきゃいけない。
けしの花。
どうも、このデジカメは赤色に弱いようで、妙に彩度が高くて「浮いた」ようになる。
ところで、以前には「植えていいけし、悪いけし」というポスターを見かけたのだが、最近は見ない。けしは品種によっては、かつて換金作物として盛んに栽培されていて、その加工品は安倍晋三の祖父さんの資金源だったようだが、一般に栽培された名残の「植えて悪いけし」がほぼ根絶したのだろうか。
鉢植えのツタが伸びてきており、下を這わせるよりも立体的に伸びるようにと鉢に支柱代わりの枯枝をセットした。ところが最小のやつがこの枝のてっぺんが気に入ったようで、ほとんど常駐している。虫を入れた際に、この枝に停まると上へと上っていくために、餌採りの効率もいいようだ。
最大のは3cmちょっと。冬眠していたので、半年でもほとんど大きくなっていない。 ついでに、ガシャポンのモリアオガエル。
ティラノザウルスというのは昔のもんだけど、そういう意味じゃなくて、すっくと立って、ウロコ状の皮膚というファンにはダメ出しされそうな「ティラノザウルス」。昔はこういう姿だと想像されていたらしい。
このフィギュア、最近の考証を無視したわけではなくて、「キングコング」のリメイク映画用に、あえて昔の想像図を採用した「ティラノザウルス」のもの。
韓国映画はほとんど見ないのだが、キム・ギドク(김기덕)監督は2作ほど見て気に入った。それで、そういや、これは見ていないというので見たのだが「普通にいい」という感じだった。
「普通にいい」場合、ほとんど感想を書かない。つまり、当たり前に、ちゃんと作ってあり、それを当たり前に受け止めたわけであるから、書くことがないのだ。
今までに見た「悪い男/나쁜 남자」や「島/섬」だと、「淡い色を重ねていって独自の絵を描く」作業を見ているような感覚、どんな絵が出来るんだろうかという期待感を持ちながら見られた。それだけにラストで「さらに輪郭線を入れる」ようなくどさがあって、もっと自由に解釈できる余地を残してくれればいいのに、と思った。
その前に作っているこの映画だと、部分として「淡い色を重ねていく」感はあるのだけど、全体としては、アタリマエっぽい物語。もちろんアタリマエというのは、リアリティということではなく「物語」としては「あるある」感覚だ。もっとも、この映画より後に作られた「下妻物語」や「かえるのうた」と、同じく相容れなかった女2人に友情が成立していく物語を先に見ているので、アタリマエ感が強いのかも知れない。
作りも「真っ当」で、金魚で気分を象徴するというベタが効果的。舞台となった民宿の名前が「鳥籠」だそうで、これは後で知った。日本語字幕が出なかったのだ。かえって、それが、ワンポイントで金魚を使っているのを引き立てた感じがする。
主人公の女2人以外は、かなり「装置的」な単純なキャラクターを基本にしつつ、もう一面というのを、どこかで見せる。それが、この作品での「淡い色を重ねていく」感の大きな要因になってる。
民宿の娘の撮り方なのか演技なのか、前半とラストで全く、見た目の印象までが変わってしまうあたりが、「一見、シアワセ」という閉塞感を表現していていい。
なお「悪い女」という日本語タイトルのオマケは、内容には全く無関係。
私はあまり本を読まない方だと思う。通勤電車で本を読む人とかに比べたら、かなり少ない。それで、この本の原作も実は読んでいない。「あれだけ有名な小説だから読んでて当然」という偏見を持たれても困るので。
それでもタイトルくらいは聞いたことがあり、「耐えられない軽さ」というのは不思議だと思っていた。「耐えられない重さ」ならわかる。スーパーで買い物をした時、卵を袋の一番下に入れたりはしない。他の品物が卵の「耐えられない重さ」なら潰れるからだ。重いものを運ぶトラックにはタイヤがたくさんついている。ひとつのタイヤに道路の「耐えられない重さ」が集中しないよう分散している。三菱ふそうのトラックだと、そのタイヤが外れて人にぶつかったりしたわけで、そのタイヤが「耐えられない重さ」だったわけで死んだ人がいるわけである。建物の構造の話だと、アパ・グループは、建物のヨコ方向に「耐えられない重さ」を誤魔化したわけだ。
かくのごとく、普通には、耐えられないかどうかが問題なのは軽さじゃなく、重さである。軽さに耐えられないというのは、たわむれに母を背負った石川啄木くらいしか思いあたらない。
さて、映画のハナシであるが、1960年代末のチェコスロバキアの話だ。男性外科医と女性画家が出てくる。この2人はお友達どうしであるから、お互いに相手を尊重している。だから相手に「耐えられない重さ」を感じさせないよう配慮して、おつきあいしているわけである。もちろん、この場合の重さを与えないというのは、上になるか下になるかという話ではなく、精神的な自由度を保障するという意味だ。と言っても、ご両人はそれなりに重い人なのである。といっても太っているわけではなくて、精神的に動かし難い所を備えているという意味だ。
さて、この外科医が田舎に行った際に知り合った女性がいて、彼の所に転がり込む。ところが、この田舎娘は、自分にとって自分が重いから、他人にも重く扱って欲しいというワガママ娘なのである。田舎娘は軽さに耐えられなかったが、外科医は田舎娘の重さに耐えられたという話である。
「愛があれば重さに耐えられる」とか、「human beingなんて雨が降ったら消えちゃう軽さ」だとか、そういうキョークンめいたことを感じ人もいるんだろうし、それもアリとは思うけど、何よりも「長くて退屈な話」を淡々と描きながらも、飽きさせずにワクワクして見せてくれるのが好きだ。なんでだろうね。たぶん「軽い」からだと思う。チェコ事件後の閉塞的な状況の中での話だけど、逃げることの出来る人の話だし、画家は外国に逃れ、外科医は田舎に逃れてシアワセそうに見える。決して「軽さ」を失わない2人を描いているからだろう。
画家の描き方で象徴的に出てくるのが、重さの帽子と軽さの鏡。こういうベタも安心して映画に浸るのに効果的。
重い話を軽く見せるというのも、考えてみりゃ大変なことだと思うけど、それに成功していると思う。
使っている携帯電話のキャリアーの契約者数は、先月末で約31万人だったそうだ。昨年の4月に100万人を切って、北九州の人口並みになり、昨年末で浜松市、1月末に東大阪市、2月に倉敷市、3月にいわき市、そして先月末で那覇市並みになったわけである。
この1年半ほど、かなり線形に推移しているので、10月頃には0になる勘定だ。そうはならずに、来年の3月に0になるにしても、どこかで現象が鈍るんだろう。どれくらいで安定するんだろうか。
近所で見かけたアマガエル。大きさが1cmちょっと。
夏になると、小さいのはいくらでも見かけるのだが、今の時期にこれだけ小さいのはあまり見ない。さらに、今の季節だとアマガエルも喉の色で雌雄がわかるのだけど、この大きさだと成熟前だろうし、わからない。
藤棚で栽培されてたもの。そういや天然のフジを以前はよく見たのに、最近は見ない。以前は五月のはじめにけっこう出かけていたのに、最近は、この時期には、あまり出かけないから、というのに気付いた。
えらく早く目が覚めてしまったので、そろそろ野良モリアオもいるかと思って、買い物ついでに見に行った。
近所の生息地のうち、最も近い所だと途中に何もない。一昨年、昨年とケロリストの集会で見に行った所だと、途中に深夜・早朝もやってるスーパーがあるので、そっちに行った。
行ってみると、シュレーゲルアオガエルが鳴いている。そして池の周囲のアジサイの上にシュレーゲルアオガエルを2匹ほど見つけた。上のは色合いはモリアオっぽかったが、大きさが違うし、喉が黒いのでシュレーゲルアオガエルの雄。真ん中のは、やや小ぶりで色合いも黄緑で鼻先が尖り、そしてやっぱり喉が黒い。下のは真ん中のと同じ個体。
どうやら、池の周囲に集まって来ているのは、まだ、シュレーゲルの雄ばかりのようだ。
5月5日の限定とかで、猫形のおいなりさんを売っていた。柏餅でも買おうかと思ったのだが、みそあんがなくて、こしあんか粒あんばかりなので、おいなりさんにした。
兜を飾ったりもするらしいので、兜をかぶった「モチ」の絵と写してみた。
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