存在の耐えられない軽さ
私はあまり本を読まない方だと思う。通勤電車で本を読む人とかに比べたら、かなり少ない。それで、この本の原作も実は読んでいない。「あれだけ有名な小説だから読んでて当然」という偏見を持たれても困るので。
それでもタイトルくらいは聞いたことがあり、「耐えられない軽さ」というのは不思議だと思っていた。「耐えられない重さ」ならわかる。スーパーで買い物をした時、卵を袋の一番下に入れたりはしない。他の品物が卵の「耐えられない重さ」なら潰れるからだ。重いものを運ぶトラックにはタイヤがたくさんついている。ひとつのタイヤに道路の「耐えられない重さ」が集中しないよう分散している。三菱ふそうのトラックだと、そのタイヤが外れて人にぶつかったりしたわけで、そのタイヤが「耐えられない重さ」だったわけで死んだ人がいるわけである。建物の構造の話だと、アパ・グループは、建物のヨコ方向に「耐えられない重さ」を誤魔化したわけだ。
かくのごとく、普通には、耐えられないかどうかが問題なのは軽さじゃなく、重さである。軽さに耐えられないというのは、たわむれに母を背負った石川啄木くらいしか思いあたらない。
さて、映画のハナシであるが、1960年代末のチェコスロバキアの話だ。男性外科医と女性画家が出てくる。この2人はお友達どうしであるから、お互いに相手を尊重している。だから相手に「耐えられない重さ」を感じさせないよう配慮して、おつきあいしているわけである。もちろん、この場合の重さを与えないというのは、上になるか下になるかという話ではなく、精神的な自由度を保障するという意味だ。と言っても、ご両人はそれなりに重い人なのである。といっても太っているわけではなくて、精神的に動かし難い所を備えているという意味だ。
さて、この外科医が田舎に行った際に知り合った女性がいて、彼の所に転がり込む。ところが、この田舎娘は、自分にとって自分が重いから、他人にも重く扱って欲しいというワガママ娘なのである。田舎娘は軽さに耐えられなかったが、外科医は田舎娘の重さに耐えられたという話である。
「愛があれば重さに耐えられる」とか、「human beingなんて雨が降ったら消えちゃう軽さ」だとか、そういうキョークンめいたことを感じ人もいるんだろうし、それもアリとは思うけど、何よりも「長くて退屈な話」を淡々と描きながらも、飽きさせずにワクワクして見せてくれるのが好きだ。なんでだろうね。たぶん「軽い」からだと思う。チェコ事件後の閉塞的な状況の中での話だけど、逃げることの出来る人の話だし、画家は外国に逃れ、外科医は田舎に逃れてシアワセそうに見える。決して「軽さ」を失わない2人を描いているからだろう。
画家の描き方で象徴的に出てくるのが、重さの帽子と軽さの鏡。こういうベタも安心して映画に浸るのに効果的。
重い話を軽く見せるというのも、考えてみりゃ大変なことだと思うけど、それに成功していると思う。
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