クリムト
臨終のクリムトが回想した過去という体裁になっている。だから、現実か妄想かは曖昧。それにドラマが描かれているわけではない。エピソードを重ねて、クリムトが見た世界を描いたという作り。
そういう話だから、どうしてもクリムトの絵に対する印象が、この話を受け止める前提になってしまう。それに、この映画を見ようとする人は、クリムトが何者か知らないということはないだろう。
となると私の場合、クリムトの絵は好きじゃない。「好きじゃない」というのは「嫌い」の婉曲表現の場合もあるが、そうじゃない。画像を見ても実物を見に行きたいとか、買いたいと思わなかったということだ。その理由は「うるさい」のだ。饒舌な描写というのは好きなのだが、饒舌というより、ノイズが多いという印象だ。
映画では、美のあるべき姿についての論争シーンがあって、クリムトがパリでは高く評価されながら、ウィーンではスキャンダラスに扱われるという展開になる。そういったクリムトの外の世界と、おそらくは内の世界だろうが、彼が惹かれる「レア」という女性と、彼のある部分を代弁するような役人の男が出てくる。
今日では、美のあるべき姿なんてひとつじゃないと簡単に言ってしまえるわけである。けれども、美は乱調にあり、というのは古い言葉かも知れないが、この言葉がインパクトを持つのは、美には一種の「秩序」があると考えられがちだからだ。
クリムトの当時には、その「秩序」の権威として、アカデミズムがあった。それから「分離」しようとした、ウィーン・ゼセッションの中心がクリムトだったわけである。そして、その後に、多様な「秩序」が産まれ、「秩序」がないという「秩序」も含めて、映画が作られた今日では、その「秩序」は属人化しているわけである。
「美」が社会的な秩序であった時代を終わらせようとした画家の話を、その結果「美」が属人化した時代に映画にしているということになる。
この映画で出てくる琳派の手法や五つ紋の着物というのは、私にとっては、というか多少とも日本文化への知識があれば、ある体系で意味を持った要素であり部分であると認識する。ところが、この映画のシーンでは、その体系から切り離されて使われている。全体として表現されている世界と、表現するための要素や手法の部分に整合がないのは、本来は気持ちが悪い一方で、完全な整合にはないトキメキを感じることができるわけである。今日的な「秩序」で作られている映画では、むしろトキメキだろう。一方で、クリムトに感じるノイズというのは、このような切り離されてしまった体系だと思う。だから、クリムトの絵じゃなくて、それを素直に見られない私の方にノイズがあるとも言える。
たぶん、それまでの「秩序」から分離したクリムトは、代わりうる「秩序」を求めたはずだ、けれども、違う「秩序」からの部分は導入しているけど、全体としての新しい「秩序」が見えない、こういうクリムトの絵への個人的な印象がある。
だから、この映画の「レア」を、彼の新しい「秩序」と見てしまい、目指すべきところが、リアルでない幻であって、途上で迷子になってしまった画家の物語として見てしまう。
そういう、自由な見方ができるというか、好きな解釈ができるというのが、この映画のいいところかも知れない。
映画の中の「美」論議に誘発されての全くの付け足しになるが、自然の「美」というのは、ひとつには、その中で暮らしている馴れもあるんだろうが、それだけではなく、初めて見た景色にも美しいと感じるように、自身もそうである自然法則というものが、見えない「秩序」として背景にあると見ることができる。
ところが、庭園ということになると、幾何学的な「秩序」に再構築するような方向も、自然の「秩序」の縮小化を目指す方向もあるように、人が考える「秩序」はいろいろだ。
たまたま、今、テレビで宇高志保さんが写っているけど、入隊前の方がバロック以前の芸術家には美しいと思われるだろうけど、たぶんCMの制作者はバロック以前の芸術家と違う「秩序」で判断してCMを作ったんだろう。そして、見ている中には、また全く別の「秩序」、例えば想像される密着感なんかで、入隊前の方が絶対に美しいと思う人がたくさんいたりする。これも、美を規定する「秩序」の属人化なんだろうね。
さらには、この映画で「美」と訳されている言葉と、このblogで「美」と表現している言葉、昔の中国人が作った際の「美」の字の意味も違う概念かも知れない。
「美」の字は生け贄を意味する「羊」と「大」から成るわけだけど、「大きい生け贄」は、それが可能な豊かさか、それを献げる気持ちの強さか、どちらのモノサシで「美」なんだろうか。
ともかくも、「美」の基準をアカデミズムが決めてくれた時代は100年以上前に終わっちゃったし、さらには文化によって、基準となる「秩序」やモノサシは違うし、今じゃ、人によって違う。
以前にも、少し触れたが、「美しい景観」や「美しい言葉」という言葉にインチキくささを感じるのは、そういう「美」の根拠が属人化しているのに、社会的に合意されているかのように誤魔化していることだ。「こういう基準で美しい」という言い方じゃなくちゃ、無意味なのに。「歴史的な用法に則っている美しい言葉」「現代人の多くに共通して機能的だから美しい言葉」とか、「激しく感情を揺さぶる美しい景観」「地域の昔からの印象に共通している美しい景観」じゃないと意味をなさないだろう。
ましてや「美しい国」なんて、よほどの低能でなければ、恥ずかしくて言えない言葉だ。「美という字の成立を考えるに、犠牲が大きいから美しい」とか言わないと。
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