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29/09/2007

ちょっと気になる記事

 F1日本GPの開催地となった静岡・小山が「経済効果」が実感できずに「浮かぬ顔」だとか。
 期間中に人口約2万人の町に約28万人の観客が来る。同町だけで経済効果は約7億円という試算があるものの、交通渋滞を避けるため、主催者が「チケット&ライドシステム」を採用し、来場者は駅や場外駐車場を指定され、そこから無料のシャトルバスで会場に向かうことになっており、町内の駿河小山駅に降りる来場者はわずか500人と予想され、大半は町を素通りするため、同町の観光協会や商工会から「バスは会場と町の外を行き来するだけ」と不満の声が上がり、町商工会会長は「我々が手がけるのは大会スタッフの弁当くらい」と表情がさえないとか。
 なお、富士スピードウェイや静岡大によると、経済波及効果は国内で約135億円(静岡県内は約32億円)、同町分は約7億円で、会場内での売り上げなどを見込んでいるが、地元の人たちには実感できていないということだ。

 さて、ハナシは突然、青森に飛ぶ。新しいデータがなく、2000年時点だが、青森県の「コンピューターと付属機器製造」「旅館・ホテル」「エンターティンメント産業」は、それぞれ経済規模はほぼ同規模で800億円弱だ。ということは、この3つの産業で、同じくらい青森県が潤ってるかというと、そうとも考えられない。
 まず、800億年のうち、従事する人の給与にどれくらい行くかと言えば、コンピューターだと76億円、旅館・ホテルだと233億円、エンターティンメント産業だと190億円だ。国際競争の激しい分野だと、アジア地区でも割高の人件費の比率を低く押さないとやっていけないから当然だ。それぞれの産業は、当然ながら、他の産業から原材料を調達している。コンピューターだと、同じ「コンピューター産業」、「半導体素子・集積回路」、「電子部品」の3分野から、それぞれ、120〜150億円の材料を調達していて、そして、これらの産業の青森県内での自給率は60パーセントくらいだ。一方「旅館・ホテル」は、農業から12億円、食品工業から52億円、飲料製造から23億円、商業が47億円、金融・保険業に47億円と、かなり分散している。そして、自給率は、飲料こそ30%ちょいだが、他は70%を超えている。農業は85%、金融・保険は97%だ。
 つまり、同じくらいの産業規模でも、県内がどれだけ潤うかとか、潤い方も違うわけだ。県内の精密機械工場も旅館・ホテルもない集落でも、農業や食品工場があれば、旅館・ホテル業によって潤うわけであり、誰かが集落外の産業に勤めていれば、その産業で潤うというわけで、旅館・ホテル業の方が、その機会が多いということになる。
 経済については素人なのでよくわからんのだが、経済効果というのは、どれだけ売れるかという「額」だけじゃなくて、売れたモノやサービスの流れがどうなっているかが、むしろ地域にとって、大事なんじゃ、という気がする。
地域振興と整備新幹線—「はやて」の軌跡と課題 ここで青森県を例にしたのは、先日に「地域振興と整備新幹線—「はやて」の軌跡と課題」という本を読んだからなのだが、新幹線の青森延伸によって、いろんな産業の規模に影響を受けると思う。でも、考えないといけないのは規模だけではなくて、その流れじゃないかという気がする。単純に、延伸によって旅館・ホテル業の規模が拡大するということじゃなくて、増えるであろう宿泊客と、泊まらずに帰れるようになった人がいて、それぞれによって、旅館・ホテル業の人件費や原材料費がどう変わるか、また、どう変えるかを考えないといけないんじゃ?ということだ。秋田だと新幹線の直通によって、買い物客の流出が激しいという。おそらく、青森だって、いろんな分野で流出と流入が起きるんだろうと思うけれど、産業規模が減る部分と増える部分じゃ、その内容が相当に違っているだろうし、原材料の構成とかも違うはずで、そのあたりが、これまで延伸した所でどうで、だから青森はどうするというのが必要なはずだ。この書によれば、そういうことは、これまであんまり考えられてこなかったようだ。それで、著者は、書きたいことの半分も書けてないと述べてられるんで、そういう方面をこれからまとめられるのかも知れない。

 静岡・小山の話に戻ると、この人口2万人の町では、6千人が町外で働いている。その内訳はわからないけれど、町内を観客が素通りし、町内にカネが落ちずに町外だけが潤ったとしても、この6千人を通した経済効果というはありうるわけである。
新聞写真 さらに、元の記事では「いかにもF1の経済効果に無関係そう」なおじさんの写真が写っている。商工会が手がけるのが大会スタッフの弁当だけでも、数日の需要のための設備投資は出来ないだろうし、臨時に人を雇っても数日だ。ところが、このおじさんが半年かけて作る米は、観客が町外で購入する弁当や食事に使われるかもしれないわけである。同町分の経済効果が7億円ということは、700万円の地方消費税があるということになるのだが、これって、町に行かずに出店業者の地元に行くってことだろうか。
 結局、経済波及効果というのは、その地域でいくら使われるかだけじゃなくて、使われるうち、いくらが回ってくるかという話だから、町内で使われる金が少なく、経済効果が「実感できない」ということじゃなくて、観客が素通りするならするで、実感できなくたっていいんで、回ってくる分をどう増やすか、どう考えていたんだろうという方が問題じゃないかと思う。

 さて、このおじさんは当日はどうするんだろう。交通が混雑するんで野良仕事を休んで、ウチにいて、爆音がうるさいんで窓を閉め切ったために、季節はずれのクーラーをかける。休みにしたので、昼間から一杯やるかも知れないし、近所のカラオケに行くかもしれない。そうすると必要になる電気代や、酒代、カラオケ代も「経済効果」になる。
 例えば、東京で大規模イベントをする。遠くの知人や親戚が来て泊まるかもしれない。そのために布団を買ったり、クリーニングをしたりも、このイベントの経済効果ということになる。「経済効果」がいくら、というと「それだけ潤う」と考えがえちなのだ。この例だと確かに東京の布団屋は潤うが、それはイベントのために余計に払う都民がいるからだ。イベントのために、土建工事や広告キャンペーンをすると、その費用も「経済効果」だから、すればするほど「経済効果」は大きくなる。でも、そのための金を払っている人は、イベントに来るよその人じゃないわけである。もちろん、友人が来るんだから、布団代を払うだけの価値があると思えればいいんだけど、こんなものまで、ということもあるはずだ。「経済効果」は、その行き先とともに、そもそも誰が出してるのか、にも注意した方がいいと思う。

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27/09/2007

坊主はお経、政治は妥協か

対立と枠外 ある疾病に対し、外科的療法が適切か、内科的療法が適切か、こういう選択肢があるとする。外科的療法を支持する医師でも、というか医師でなくても「心霊手術」には反対するだろうし、外科的療法は不要と考える人でも、まともな人なら「マイナスイオンで治る」などという意見にには耳を貸さない。「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」だのというのは、医療上の選択肢ではない。
 「外科的療法」か「内科的療法」か「医療」という科学分野の論議に対して、ニセ科学は最初から除外されるわけである。
 「医療」という専門職によって成り立っている分野なら、「排除されるべき選択肢」は、わかりやすい。でも、世の中には、玄人と素人の境目がはっきりしない分野、素人でも何か言いたい分野、素人が参加しなけりゃいけない分野がある。
 歴史の話題の場合、私のようなシロートでも、現代人は、「専門家」による「専門の手続き」によって得られた説を「歴史」と考え、「物語」とは別次元のものと考える。ただし、説であるが故に史料解釈によって、専門家の見解が分かれることだってある。ところが、専門家は正確であろうとして、断定を避けるのをいいことに、歴史学の専門的訓練を受けていない人による「物語」までもが、「歴史論争」にノコノコ参加しようとする。もちろん、歴史の専門家の場には参加できないけど、本くらいは出せる。
 裁判は原則として公開で行われる。だから、シロートも、裁判に関して、シロートなりの判断による意見を持つべきだろうけど、最低限の前提がある。裁判は事実認定、法や判例の適用を巡って争われるわけで、それが公正かどうかのために公開されている。刑事事件だと、裁判官は、検察側と弁護側が提示した、いずれの「事実」と「量刑」が正しいか判断するわけである。だから、シロートであっても、公正かどうか意見をまず持つべきだし、意見を述べるためには、両者の主張くらいは把握している必要がある。それで、私の場合は、把握してない裁判についての意見は書かない。それでも、裁判に関しては、放送界の人より法曹界の人の言うことの方が信頼できると思っている。
 素人が参加しなけりゃいけない分野というと政治分野があるが、このblogにおいては、政治的な主張は行ったことはないし、するつもりもない。しかし「政治的な選択肢」でさえない次元のことには、度々、振れている。外科的療法が適当か内科的療法が適当かはシロートだからわからないが、とりあえずは「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」は看過したくないというような感覚なのだ。
 つまり、ある問題について賛成か反対かという対立軸ではなく、その議論の前提として適当か適当でないかの対立軸に沿ってでしか触れていない。別に政治問題に詳しいわけでも、見識があるわけでもなくても、明らかにリクツにあわないことってあるわけである。
 例えば、かの伊勢崎のドンキホーテにしても、その主張に批判的なコメントをしていた人たちは、理屈がおかしい、とか、セカンドレイプまがいの言説を批判していたわけだし、史上最もシンプルな南京大虐殺否定論にツッコミを入れていたのも、ニセ科学批判の延長で、ニセ歴史を批判する人たちであって、その人達は政治的立場を一切、表明していない。にもかかわらず、彼女は、政治的な立場の違いと主張していたあたり、まさにドンキホーテだったのだが。
 もっとも、対立軸が別にあるのもわからない人ばかりじゃなく、リクツで対抗できない場合に、対立軸を立場に集束させてしまい、立場が違うから攻撃するのだというレッテル貼りをするのもひとつの方法だけど。
 ところが、政治問題というのは、利害というのもからむし、リクツだけではすまない。何より数がモノをいう世界だ。だから「外科的療法」に反対するためには「内科的療法が適切」という人も、「マイナスイオンで治る」「ナノ化食品で治る」「信心で治る」という人とも協力した方が、より主張を通しやすいことになる。そういう妥協ができる人とできない人がいると思う。
 自民党で憲法改正草案を作っていた舛添氏が、国会で山谷えり子が披露した抱腹絶倒の前文案をどう思っているか知らないが、どう思ったかは広言しないと思う。政治家としては、広言しないという妥協が必要なんだと思う。もっとも、最大の妥協はあの阿呆を担いだことだろうけど。
究極の選択 最近に、思想的にリベラルであり、安倍政権に反対の立場を表明していたblogで、城内実に対する評価が全く分かれている例があった。これも当面の「経済政策」に対抗するために、妥協が出来るか、妥協にも程があると思うかの差かと思う。
 武士道やら騎士道というのはよくわからんのだが、以前にDVDの感想で触れたことがあるように、専門の戦士には専門職としてのアイデンティティがあるんだろう、と思う。だから、戦う「敵」であっても、同時に職能としての共感がある。だから、戦場以外では互いに敬意を払うということがあるのだろう。各国の軍にそういう意識が残っていたのが、20世紀の「総力戦」となると、敵と身方という概念の方がメインになって、そういった意識は、どこかに行ってしまった。
 別に、議論の専門家でも何でもなくても、少なくとも、テレビや匿名掲示板に書いてあることを鵜呑みにしないとか、議論の際にはロジックの整合しないことは言いたくないとか、他人の意見をトレースしてみるとか、そういう配慮が出来るか出来ないかというのは、意見が違っているかどうかよりも共感を覚えることはあると思う。
 考えてみりゃ、議論において、リクツの通じる相手といない相手がいて、というのも「上から目線」のようで、相当に「嫌味」な意識かも知れないけれど、一方で、私なんぞよりも、もっと高度なレベルで論議を行っている人もいるわけであって、世間の皆様は、それぞれ相応のレベルで議論してるんだろうと思うし、自分に大した知識や見識があるわけじゃなくても、やはり、事実認識のおかしい人やリクツの通じない人とは、結果として同じ意見になっても、あまり関わりあいたくないと思う。
 首相の靖国参拝に関して、賛成か反対かという話をする中で、2種類の分岐点があった。
 ひとつは「内心の自由」から、個人的にどのような宗教に参拝するのは勝手だという意見である。「内心の自由」があっても、あくまで「内心」であり、内閣総理大臣にそれを具体的な行動に移す自由があるのか、それがあるか否かが分岐点だった。
 もうひとつは、首相の参拝を望む遺族の心情があり、その心情のために賛成かという意見だった。つまり、遺族の心情のためであって、宗教法人である靖国自体への関与が目的でないから、習俗の範囲内なので許容される、ということになるんだろうが、カトリック形式の結婚式に行っても許容されるからといって、統一教会の合同結婚式に行ってもいいのか、どこまでが習俗の範囲かが分岐点ということになる。
 分岐点を探っていくと、「外国が反対しているから行くべきでない」とか「戦死者でだけはなく、戦後に絞首刑になった連中まで祀られているから反対」、「国の犠牲になった人を国の代表が追悼するのが当然」というような理由は、分岐点にならないと思うのだが、こういう主張はよく見かける。おそらく「政治的な妥協」にとって都合のいい理由なんだと思う。なお「軍国主義者だから賛成」、「反日だから反対」という人はいなかった。
 私としては、分岐点を探る議論の出来る人の方が、つきあいやすい。けれども、政治的な主張には、結果的に賛否が同じ人と妥協ができる人の方が向いていると思う。リアルな世界じゃ、いろいろ妥協も必要だろうけど、ネットじゃトンデモさんはトンデモさんと言いたいわけで、このblogで政治的な主張をしたくない理由のひとつだ。

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26/09/2007

仲秋

満月 旧暦8月15日だと昨夜になるのだが、満月は今晩。月だけだと、いつ、どこから撮っても同じだけど。

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25/09/2007

曼珠沙華

銀杏 お彼岸なので、彼岸花。赤が飛ばないようにすると色がくすむ。

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しりとりはじめました

 このblogのデザイン、というほどのもんでもない画面構成であるが、ほとんど触っていない。というか、触らなくても雰囲気が変わるように、タイトルバックの画像を差し替えている。その上に、ちょっとしたバグがあって、そのバグを維持するために、触るのを避けている。
 それで、サイドバーというかサイドのコラムの内容であるが、当初はココログ標準のままであったけれど、まずカレンダーを外した。というのも日付からエントリーを辿ることもないし、更新頻度がわかるというのが、テキトーという本blogのコンセプトと相容れない気がしたからだ。
 ちなみに、このココログ標準のカレンダーというのに、当初はバグがあった。システムメッセージの言語を何語に設定しても、曜日が英語で表示されていた。それで、システムメッセージを英語以外にして遊んでいた名残が今も残っている。
 プロフィールページへのリンクも外した。というのも、ココログはlinkタグのナビゲーションに対応していたので、linkタグで対応することにしたからだ。
 一方、追加したのが、よそ様のblogのリストだが、先方様が更新pingの設定をしていない所が多くて、半分方、実用的でないんで、あんまり新規登録してない。
 流行りのパーツでいえば、時計とかは、必要があればパソコン上で表示させてるだろうし、blogパーツとしては入らないだろうし、blogpetの類もよそ様でよく見るのでつけていない。
 アクセスカウンターや「blogの価値」「blogの影響力」も付けていなかったのだが、特に低い評価が出るやつだと「場末感」が出るんで付けてみた。
 以前から、webサイトの方に付けていた「ブルーリボン・バナー」を、「偽ブルーリボン」をよく見るようになった時につけた。
 また、一昨年に撮ったモリアオガエルの画像は、量がまとまったので、別途に掲載して、そのリンクを付けてみた。
しり それで、急に、何か「くだらねえ。。。」と言われそうなパーツを付けてみたくなったので「しりとり」を付けてみた。この画像をバックグランドイメージにしようかとも思ったが、さすがに思いとどまった。下の方で目立たないからか、そもそもアクセスが少ないからか、あまりにくだらないからか、まだ、誰もやってくれない。

<追記>
 何人か参加してもらっているようだけど、ひとつ、気がついたのは、blogがutf-8なのに、しりとりはshift-JISでコード指定をしていない。なのでブラウザによってはutf-8でエンコードして文字化けするようだ。しりとりもutf-8にすりゃいいんだけど、面倒なので、コードの指定を入れるようにした。

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24/09/2007

夕方の蝙蝠

ゆうぐれ 夕暮れに飛ぶコウモリ。コウモリかわかりにくいけど。
 左上に写っている月でわかるように、10日ほど前に撮ったもの。

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23/09/2007

488日目

モリアオガエル 止まり木に2匹いたので上から撮ってみたが、両方にピントはあわない。

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20/09/2007

チガイのわからんオコト

 先だって、元佐渡ケ嶽親方というか、元琴桜が亡くなった。佐渡ケ嶽部屋の相撲取りは、「琴」という字が付くそうだ。だから、朝青龍も佐渡ケ嶽部屋に入っていたら琴青龍で、春日野部屋なら栃青龍、片男波部屋なら玉青龍だったんだろう。
箏 その「琴」というのはいかなるモノか。1.8メートルくらいの細長い木製の胴に、普通は13本だが、17本とか、他の数もある、の弦を張った楽器であると、多くの人は認識していると思う。ところが、この楽器は、演奏している人や、かなり重なるが鑑賞機会の多い人は「箏」と書く。読み方は「コト」である。「箏」と書いている人のなかにも、世間では「琴」と認識している人が多いため、一般向けに「お琴、教えます」なんて看板を挙げている人もいる。
 最近、書いた文で、この「箏」という単語を使用したのだが、一般向けの文だったので、注釈を入れておいた方が親切かとも思ったが、テーマとは関係ないので、そのままにしておいた。
 この「箏」と「琴」は、どう違うか、教科書的にいうなら「箏」というのは「柱によって、弦の振動する長さを固定することで音程を固定する弦楽器」ということになる。ところが、かような楽器で、古くからある日本の楽器に「和琴」というのがある。そういえば、壇浦兜軍記でも、弾くのは「箏」だが、阿古屋の琴責めと書く。なぜだろう。箏、三絃、胡弓の楽器を使うから、総称して琴責めなんだろうか。
 そんなこともあるので、下手に「正しくは箏と書く」などと書くと、かえって、正確なところがわかってないってばれてしまうかもしれない。とかく、何かを知ることで、識らないことが増えるというのはよくあるわけで、何も注釈をつけずに、ただ「箏」と書いておいた。
 以前に、ある市の教育委員会の用事で、公民館活動を行っている文化団体のリストを見たことがある。そのリストでは分野ごとに。サークルが並んでいた。そして、「お琴・三味線など」の所に、「○琴会」「琴△会」というように「琴」の字を使った団体が載っていた。ところが、このような「琴」の字を使ったサークルは、よくあるのは琴古流という系統の尺八の会か大正琴の会だ。もしくは佐渡ケ嶽部屋を応援するサークルだろう。活動内容を見てみたら、やはり尺八か大正琴で、相撲ファンのサークルはなかった。公民館の現場だと何のサークルかわかっているだろうけど、市全体で集計する段になって、名前だけで、活動内容を見ず、編集してしまっていたからのようだった。「琴」で、こういう勘違いも起きる。

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19/09/2007

黒いかも

黒いかも 近所で見かけた。全身のプロポーションは尻尾が巻いているあたりも含めてマガモそっくり。でも、全体に黒くて、胸だけが白い。

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或阿呆の一年

 何か、安倍さんを誉めるというのが流行ってるみたいなので、安倍晋三について書くのも今宵限りだろうし、総括的に誉めてみる。
 安倍晋三が辞めて、というか辞めることになり、それも政治生命に致命的な辞め方をして、何となく安堵感を感じる。この安堵感というのは「政治的」な立場からのものではなく、虚構が崩壊したという安堵感だ。安倍晋三の政治理念や政策、「戦後レジュームからの脱却」とか「美しい国」が嫌だとか反対ということではなく、そもそも、そんなのに実態があったかも疑わしいという安倍政権という「まやかし」が払拭されるという安堵感かと思う。
 私は、安倍晋三が首相になるとは思っていなかった。石原慎太郎と同様、国政レベルでは「ピエロ」で終わると思っていた。それを確信したのは、例の郵政選挙の時だった。
対極 この、成蹊大を卒業し、南カリフォオルニア大に8ヶ月通って専門の単位を取得できず、父親の秘書になったものの閣僚経験のない人がへらへら笑って握手しているのは、東大を卒業し、大蔵省から、実践訓練で知られるフランス行政学院に留学し、予算案編成という国政の「現場」で働いていた人だ。エリート官僚というのは、競争社会の勝者といえる。だから、勝者には敬意を払う。それは学歴社会の勝者だけではなく、逆に高等教育の機会に恵まれなかったのにのし上がった人、研究者など専門性でトップレベルの人や芸術家など未知の分野の人もである。その逆の人をどう思っているかはわからない。
 そして、この片山さつきによって落選さされた方の城内実というのは、数少ない安倍晋三の弟分だったという。この選挙区の状況を見れば、霞ヶ関や永田町で、安倍晋三を利用することは考えても、「リーダー」として認めようとする人などいないだろうと確信した。
 小泉氏も酷い仕打ちをすると思ったのだが、そもそも安倍晋三が世間に知られるようになったのは、小泉氏が幹事長に抜擢したからだ。「自民党をぶっ潰す」と広言した小泉氏が、ぶっ潰そうとする党の運営に抜擢したわけである。そして、実際に、安倍幹事長は選挙に弱く、武部幹事長になっての郵政選挙の時には、自民党は組織選挙ではなく、浮動票頼みとなっていたわけで、「自民党をぶっ潰す」に幹事長として貢献し、抜擢に応えたことは評価していいと思う。
 でも、シロートの予想もイイカゲンなもんで、案に相違し、その安倍晋三が首相になった。なぜか当時は人気があったからだ。なっても、当然に「看板」以外の意味はないと思った。
 中川(薬)が、閣僚は首相に敬意を払ってあげようなんてことを言ったことがあった。看板に祭り上げたのだから、相応の扱いをしてやれということなんだろうけど、閣僚が、内心では安倍を馬鹿にしていることがよくわかる発言だった。
 小泉氏も安倍も記者会見等を見ていると「会話が成立しない」という印象を受けることがある。小泉氏は質問の意味がわかっているから答えをはぐらかすという場面だった。靖国に関しても「内心の自由」と「戦死者の追悼」までしか言わない。憲法問題や対米関係にまで差し障るレベルには答えない。
 安倍の場合は、問いにではなく、テーマに対して、用意した回答しか答えないという感じだ。例えて言うなら、「晩ご飯はいつ食べますか」「晩ご飯のメニューは何ですか」「晩ご飯はどこで食べますか」にすべて、「晩ご飯は、しっかり食べたいと思います」という答えしか返ってこない。そこで「適切な時刻に」「適切なものを」「適切な場所で」と「質問の形」に対応したアレンジではぐらかすことさえ出来ないという感じだった。その最たるものが、「一文字で言えば、責任」だ。自分で判断して返答することを許されていないんだろうと思った。けれども、自分で決められることもあったようにも思えるし、どの程度、安倍晋三に権限が認められていたのか、それがわからないのも気持ち悪かった。
 ちなみに、来週までは安倍晋三は内閣総理大臣らしい、入院してるけど、臨時代行は置かないらしい。いてもいなくても一緒という体制が整えられていたことがよくわかる。
 支持基盤と能力がないわけだから、当然、使い捨てだろう、だから小泉政権の後始末ややり残しの「汚れ仕事」をさせるんだとは思った。現に、就任早々、中国のメンツを立てに行った。中国は「安倍首相は智者」と、何とも微妙な褒め方をしたことを記憶している。
 次には、人気のあるうちに、小泉政権というか小渕時代からの宿題の財政に手をつけて、結果的に人気を失って捨てられるんだろう、そのために谷垣氏を政権から外して温存してるのと思っていた。けれども、やはり、安倍晋三には荷が重いということか、以前からわかってはいた社保庁の問題を表面化させるタイミングに使われたようだ。
 以前、知人と話していて「こんなのが首相でもやっていける国というのもすごい」という話になり、言ったのが「お猿の電車は、お猿が運転していいるんじゃない」ということだった。じゃあ、誰が、どんな勢力が運転してるのか、それが分からないという気持ち悪さがある。当然に小泉政権の延長上ではあるんだろうし、猿の調教は、徹底的に優位性を示すことから始まるらしいから、小泉氏の仕打ちも調教だったのかも知れない。
 先日「一条大蔵卿」という芝居を見た。阿呆のフリをして陰謀を企むという話だ、阿呆相手だと油断する。安倍は阿呆のフリをしているわけではなく真性だろう。でも、私の考える程度のことを考える人はいくらでもいるわけだし、私が考えもつかないようなことを考えられる人も、政権内部にいくらでもいるに違いない。だから、政権としては、阿呆を看板にして、何か企んでいるんじゃないだろうか。何か騙されてるんじゃないだろうか。そういう感覚がつきまとうのが安倍政権だった。
 だから、安倍政権にまだ支持率があった頃、次々に強行採決を行った「実績」も、もちろんタテマエ通りには受け取れないし、それを安倍晋三の「危険性」から批判することも過大評価しているようで、額面通りに受け取りにくい。首相を演じた「ご褒美」だったのだろうか。いったい、どういう意味があったのだろうか。
 先日、安倍晋三ファンだという居酒屋のおばちゃんに、どこがいいのか聞いた。優しそう、嘘がつけなさそう、だった。確かに、安倍晋三自身が嘘をついたということではなく、むしろ逆に、周囲がついていたんだろう。内心で馬鹿にしている人間を担ぐということで、政権のみではなく、ジャーナリズムを含めた「政治」そのものが、安倍をネタに嘘をついていたという思いが強い。。
 さて、先に例に出した「お猿の電車」は今はない。虐待にあたるということで廃止された。虐待する相手からは逃げると思うのだが、猿は飼育係になついているじゃないかと思ったが、やはり、広義の強制による芸はストレスになって、身体機能を損なうのだろう。
 さて、このエントリーの趣旨である「褒める」であるが、やはり、能力にない役を、身体を壊すまで、演じ続けたのは立派だろう。それと「素直」だと思う。ポーカーフェースが出来ない。就任当初の視線が定まらずに宙に浮いたような視線から、ある時、ひたすらカメラ目線になった。たぶん、ダメを出されて変えたんだろう。とても分かりやすくて「素直」だと思った。
 この上は、余生を大好きだというマンガとゲーム三昧で過ごしてほしい。本当かどうか知らないが、マンガの読書量は麻生氏を上回り、ゲームは晋太郎氏が入院した病院でもやっていたとか。何より、マンガとゲームなら、日本は世界をリードする大国らしいし。

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18/09/2007

482日目

モリアオガエル やはり、すぐにガラスが汚れてしまう。土足で歩くからだが。
 財津一郎がこんな格好をしてた。
モリアオガエル 最大の個体は55mmを超えている。

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15/09/2007

新芽

山椒 山椒に新芽が出ている。
 普通は春に出て、タケノコのシーズンに「使い頃」になる。しかし、その後はアゲハチョウの餌になって夏の終わり頃にはボーズにされてしまうので、今頃にも新芽が出てくる。

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拳銃の入手先はどこなのか

 近くのゲームセンターの前に置いてあったUFOキャッチャーの景品が入れ替わっていた。というのも、話題の「ピストル形のライター」が入っていたのだが、こんな景品を持ってると、酔っぱらいにどつかれかねないからか、他の景品に変わっていた。写真でも撮っておけばよかった。
 話題のというのも、高校生が「ピストル形のライター」で遊んでいて、駅員に制止され、バッグにしまったのだが、その高校生を追いかけて、いきなり髪を掴んで殴った酔っぱらいが逮捕されたという事件があったからだ。
 その酔っぱらいこと小磯慶洋が警官だったこと、この件が半端な形で報道されたことで、この警官の行動を支持するメールや電話が続々と県警に寄せられたとかで、あわてて県警は事件の詳細を発表したらしい。
 もちろんネット上でも、この酔っぱらいを支持する意見が見られる。またまた花岡信昭を例に引くのも申し訳けないが、たまたまこの件についてだけ、事実確認をせずに書いた人を例にしても悪いし、やはり、その方面で定評のある人ということで。
 さて、いったんは警官を支持したからには、詳細が明らかになっても、この高校生が悪くなくてはならないようである。それで、注目したのが報道にあった「ライター」という単語のようだ。高校生がライターを持っているんだからケシカラン、警官の気持ちもわかるという理屈を引っ張り出してくる。
 いきなり、髪を掴んで殴るということが適切かどうかも判断できないくらい酩酊していても、ピストル形のものが、単なる形だけの玩具でも、風船を取り付けて遊ぶパーティグッズでも、水鉄砲でもなく、「ライター」と判断できる観察力があるのなら、それはそれで、なんとご立派な警察官ではあるが。
 さて、私は、かえる形のライター、ミニカー形のライターを所有しているが、使うことはない。ライター形のライターじゃないと日常的に使いにくい、なんてことはライターを使用する人ならだれでもわかる。にもかかわらず「ピストル形のライター」を持っていたということは、「ライター」に意味があるのではなく、「ピストル形」に意味があると判断する。
 さらには、ここから想像の域であるが、買ってきた魚を知人に披露する人はあまりいないが、釣ってきた魚を披露する人は多い、高校生にとって「ピストル形ライター」というのは、買うのはオヤジっぽくて恥ずかしいグッズであるが、取りにくい景品を獲ったということであれば自慢のタネになる、こういうことから、この「ピストル形のライター」は、ゲームの景品だろうと想像する。しかし、報道では「ピストル形ライター」の入手経路は明らかにされていない。
 さて、高校生が持っていたのは何か。
 形状:ピストル形であることは確からしい
 用法:報道では「かまえて遊んでいた」とあるから、玩具として使用されていた。
 機能:ライター。その機能を小磯慶洋が知っていたか、高校生が使用していたかは不明。
 入手先:不明であるが、私は「ゲームの景品」と想像している。
 この物品が報道されたように「ピストル形ライター」であることは「事実」である。しかし、読む側には「ライター」という、使用されたか不明の機能だけに反応し、「タバコは持っていなかったのか。」と、酔っぱらいを支持したことを取り繕う人もいるし、私のように、実用的でないオヤジグッズを高校生が持っていたからには「ゲームの景品」だからに違いないと想像する人もいる。そのいずれの「想像力」が、結果的に正しいのかはわからない。
 ただ、私としては、「単語」による連想で文を垂れ流すのはけっこう恥ずかしいと思うので、多少とも、リアリティのある想像を、「あくまで想像である」と強調して、書いておきたいと思う。
 高校生が「ライター石」を持っていたら、タバコを吸ってるからと思わずに、パチンコをしてるからと思う程度の想像力ではあるが。
 そして、自分の想像を書くに留めて、自分の想像のみが根拠の論評を行うような愚かなことはしたくない。

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14/09/2007

がばいだみつを

 アノクサ。がんばんなくてもよか、具体的に動くことたい。

 しあわせは心がきめるたい。

 自分のうしろ姿は自分じゃみえなか。

 美しかもんを、美しか思える、おまえの心が美しかたい。

 よかことはおかげさま。わるかことは身から出たさびたい

 うまれたときはまるはだかたい。死ぬときはそれも捨てるたい。

 まける人ばいるおかげで勝てるたいね。

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勝利の好きな人

 将棋の必勝法を紹介しよう。その説明の前に、まずクリック、は不要だ。まず、一手目に、王将の前に飛車を動かす。相手は角道をあけたりと歩兵を動かすだろうが、それはどうでもよい。そして、2手目に、飛車で相手の王将を取るのである。飛車という限り、歩兵を飛び越えることが出来るのが当然である。そんなのルール違反だと言われても、アインシュタインの相対性理論では、何事も相対的なものであり、自分の知っているルールだけを絶対的だと考えること自体のがおかしいのだ。アインシュタインが間違っていると言うのか。
・・・・なんて、主張する馬鹿はいないだろうが、だいぶ以前に「議論に負けたことのない人」からトラックバックをいただいたが、その方の論調を誇張するとこんなのだった。
 さすがに、このようなことを本気で書いているはずもなく、ネット上のトンデモさんを揶揄する芸だろう、いわば「bogusnews」ならぬ「bogus opinions」だろうと思われ、「先生」と呼ばれたりしていた。しかし、残念なことに、ネット上から姿を消されたことになっているようだ。
 さて、この「先生」の場合は「芸」だとしても、その「芸」で揶揄されているような人、竹内久美子や井沢元彦のネタを鵜呑みにする人、さらには自分流にアレンジまで加える人、理論や法則を自分流に改変するは、方向違いの分野に当てはめるは、こういう類の人は世の中に少なくなく、ネット上でも散見できる。
 さて、こういう人は、「先生」が揶揄していたように、なぜかネット上で相応の存在である、ということにこだわりがあるようで、そのあまりに「アクセス乞食」と化したり、「議論」の内容よりも「勝ち負け」が大切だったりする。
 さて、BBSやblogの炎上に関して、コメント欄に押し寄せる匿名さんが問題になったりする。確かに「厄介」ではあるが、まともな意見にだけ対応する、という方法がある。労力はかかるが。
 無意味な罵倒、本文が読めていない故のピント外れの意見、単なるウケ狙いのツッコミなどは無視したって、芸のないコメントは削除したって、それ以上に荒れることはない。
 匿名であるということは、「ネット人格」を背負っていないわけであり、議論の内容によって「リアルな人格」が人知れず得るものがあったとしても、失うものはなく、「ネット人格」が得るものも失うものもないわけである。だから、押し寄せるのも早いが引き下がるのも早い。それなりの労力や時間は必要であっても、匿名によって荒れた場合は沈静化が可能だろう。
 ところがである、相手が「ネット人格」を背負っている場合、それも「先生」が揶揄していたような、まともな議論の土俵に載っていない人の場合は、第三者的にどう見えようが、ご本人が得るものがあったと思いこむ、簡単に言えば「勝った」と思うまでは、粘着してしまいがちだ。
 そもそも、ある炎上がきっかけで、やりとりを始めた人がいるのだが、最近も「プチ炎上」されたようである。法曹界では相手にされなくて、放送界でご活躍の御仁について批判するエントリーだ。そのきっかけになった刑事事件や裁判当事者に対しては論評を避けている。その避けている論評を創作した読み手のコメントによってプチ炎上したわけであるが、少なくとも匿名さんについて言えば、それがわかれば引き下がっても失うものもないわけで、すぐに鎮静化したわけである。
 ところが、「ネット人格」を背負っている人は、簡単に引き下がれないわけである。SNSのように、そのシステム上の「人格」を背負っている場合もである。何らかの「勝利」がないと納まらないようだ。
 この状況について「匿名が故に多少とも「ウケ」を狙おうとする「オープンなblog」のイナゴよりも、「SNS」の方が、かえって「ガチ」が多いみたいですね。」という感想を漏らしたら、この「ガチ」という表現が気に入ったようで、自分なりの「ガチ」の人の分析まで始められたようだ。
 私の場合には、むしろ匿名性の問題で興味をひいた感想だったわけである。
 古い話であり、攻守は逆であるが花岡信昭blogの炎上も、花岡信昭が自身の「日本語表記についての主張が誤り」であり「調べもせずに書いた」ことを認めれば、それですむことだったろう。ところが彼自身は実名でそれを認めることが出来ずにイザに逃亡した。
 自身の個人的な理由と社会的な状況をゴッチャにして「弱者男性」と一般化して論じる方も、メジャーな雑誌に取り上げられたこともあるという実名を背負ってなければ、あちこちで粘着することもなかっただろうにと思う。
 匿名だと「ガチ」になりにくい。ネット人格を背負うことで、さらには実名を背負うことで、第三者的にはどうでもいいような場合でも、そもそも議論の土俵に載っていなかったり、単なる勘違いだったりするのに、「ガチ」になってしまう人がいる。時として、自分は実名で書いているから、責任ある意見だなんて主張さえ繰り広げる。
 他人の意見をトレースできないままコメントする人は、匿名さんは量的に厄介なだけだが、ネット人格を背負っている人は質的に厄介なことがある。

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10/09/2007

小さい秋

銀杏
ハギ
ウスバキトンボ?
何アカネ? まだ暑いけど。それなりに秋っぽくなってきている。
 ところで、岩手では「馬コ」とか名詞に「コ」を付けるようだが、盛岡あたりだと「小さいアキコ見つけた」と言うんだろうか。

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09/09/2007

474日目

モリアオガエル

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チャバネセセリ

チャバネセセリ 被写界深度のテストみたいな絵になってもーた。

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07/09/2007

もう片方のおっぱい観音

 おっぱいというのは普通は2つセットだから、左乳に対して右乳、というわけでもないが、昨年に行った愛知県の「おっぱい観音」とは別の「おっぱい観音」に行ってみた。福山市の磐台寺観音堂である。
阿伏兎観音 むしろ、愛知のよりメジャーなのはこちらの方かも知れない。国指定重要文化財だそうで、1934年3月16日に初めて「国立公園」制度が出来た時に、指定されている。
阿伏兎観音 なぜに、おっぱい観音かというと、この崖上の観音堂の中がこうなっている。他におっぱいモノはないのだが。
阿伏兎観音 絵馬というか絵乳というか、祈願のためのおっぱいが堂内に並んでいる。
阿伏兎観音 ちゃんと「おっぱい」お守りも売っていた。裾野がなくて、全体のボリュームに対して「輪」が小さめで、なんか偽乳っぽい形だけど、偽装は「観音」じゃなくて「cannon」だ。

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06/09/2007

布袋葵

ホテイアオイ メダカや金魚には有用だけど、世界の外来生物ワースト100にも選ばれており、屋外の池とかに咲いているのは嬉しくない。

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05/09/2007

ちょっと旬を外れたお菓子

白い恋人 今もどんなに並んでも手に入りませんよ。

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04/09/2007

斑猫

ハンミョウ Cicindela japonica。なぜに「猫」なんだろう。

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小ネタ

 大阪で行われていた運動会で、土佐という人がマラソンで3位になったそうだ。この人は、選手としてよりも、指導者として活躍してほしいと思った。


 現代の科学というのは絶対ではない。まだまだ未知のことも多い。だから、今は疑似科学とされていたり、超常現象というものを、全く否定していいんだろうか。
 1が出るように錘を入れたイカサマのサイコロ。確かに1が出るようにはなっているが、絶対に1が出るとは限らない。なのに、8や9が出ることを最初から否定してるようなものだろう。

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03/09/2007

468日目

モリアオガエル 

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01/09/2007

坐摩社

坐摩社 先日の上方歌舞伎会で、1979年以来という「新盤歌祭文」の「座摩社」が出た。その座摩社というか坐摩神社。「新盤歌祭文」では、久松が集金した金をだまし取られるが、お染と待ち合わせ、八卦見の小屋でまっ昼間から「お祭り」を始め、それを八卦見が覗いたりする。
坐摩社 行ったのは昨年。8月末に、神楽奉納をする「お祭り」があって行ったのだが、今年は忘れていた。

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