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27/09/2007

坊主はお経、政治は妥協か

対立と枠外 ある疾病に対し、外科的療法が適切か、内科的療法が適切か、こういう選択肢があるとする。外科的療法を支持する医師でも、というか医師でなくても「心霊手術」には反対するだろうし、外科的療法は不要と考える人でも、まともな人なら「マイナスイオンで治る」などという意見にには耳を貸さない。「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」だのというのは、医療上の選択肢ではない。
 「外科的療法」か「内科的療法」か「医療」という科学分野の論議に対して、ニセ科学は最初から除外されるわけである。
 「医療」という専門職によって成り立っている分野なら、「排除されるべき選択肢」は、わかりやすい。でも、世の中には、玄人と素人の境目がはっきりしない分野、素人でも何か言いたい分野、素人が参加しなけりゃいけない分野がある。
 歴史の話題の場合、私のようなシロートでも、現代人は、「専門家」による「専門の手続き」によって得られた説を「歴史」と考え、「物語」とは別次元のものと考える。ただし、説であるが故に史料解釈によって、専門家の見解が分かれることだってある。ところが、専門家は正確であろうとして、断定を避けるのをいいことに、歴史学の専門的訓練を受けていない人による「物語」までもが、「歴史論争」にノコノコ参加しようとする。もちろん、歴史の専門家の場には参加できないけど、本くらいは出せる。
 裁判は原則として公開で行われる。だから、シロートも、裁判に関して、シロートなりの判断による意見を持つべきだろうけど、最低限の前提がある。裁判は事実認定、法や判例の適用を巡って争われるわけで、それが公正かどうかのために公開されている。刑事事件だと、裁判官は、検察側と弁護側が提示した、いずれの「事実」と「量刑」が正しいか判断するわけである。だから、シロートであっても、公正かどうか意見をまず持つべきだし、意見を述べるためには、両者の主張くらいは把握している必要がある。それで、私の場合は、把握してない裁判についての意見は書かない。それでも、裁判に関しては、放送界の人より法曹界の人の言うことの方が信頼できると思っている。
 素人が参加しなけりゃいけない分野というと政治分野があるが、このblogにおいては、政治的な主張は行ったことはないし、するつもりもない。しかし「政治的な選択肢」でさえない次元のことには、度々、振れている。外科的療法が適当か内科的療法が適当かはシロートだからわからないが、とりあえずは「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」は看過したくないというような感覚なのだ。
 つまり、ある問題について賛成か反対かという対立軸ではなく、その議論の前提として適当か適当でないかの対立軸に沿ってでしか触れていない。別に政治問題に詳しいわけでも、見識があるわけでもなくても、明らかにリクツにあわないことってあるわけである。
 例えば、かの伊勢崎のドンキホーテにしても、その主張に批判的なコメントをしていた人たちは、理屈がおかしい、とか、セカンドレイプまがいの言説を批判していたわけだし、史上最もシンプルな南京大虐殺否定論にツッコミを入れていたのも、ニセ科学批判の延長で、ニセ歴史を批判する人たちであって、その人達は政治的立場を一切、表明していない。にもかかわらず、彼女は、政治的な立場の違いと主張していたあたり、まさにドンキホーテだったのだが。
 もっとも、対立軸が別にあるのもわからない人ばかりじゃなく、リクツで対抗できない場合に、対立軸を立場に集束させてしまい、立場が違うから攻撃するのだというレッテル貼りをするのもひとつの方法だけど。
 ところが、政治問題というのは、利害というのもからむし、リクツだけではすまない。何より数がモノをいう世界だ。だから「外科的療法」に反対するためには「内科的療法が適切」という人も、「マイナスイオンで治る」「ナノ化食品で治る」「信心で治る」という人とも協力した方が、より主張を通しやすいことになる。そういう妥協ができる人とできない人がいると思う。
 自民党で憲法改正草案を作っていた舛添氏が、国会で山谷えり子が披露した抱腹絶倒の前文案をどう思っているか知らないが、どう思ったかは広言しないと思う。政治家としては、広言しないという妥協が必要なんだと思う。もっとも、最大の妥協はあの阿呆を担いだことだろうけど。
究極の選択 最近に、思想的にリベラルであり、安倍政権に反対の立場を表明していたblogで、城内実に対する評価が全く分かれている例があった。これも当面の「経済政策」に対抗するために、妥協が出来るか、妥協にも程があると思うかの差かと思う。
 武士道やら騎士道というのはよくわからんのだが、以前にDVDの感想で触れたことがあるように、専門の戦士には専門職としてのアイデンティティがあるんだろう、と思う。だから、戦う「敵」であっても、同時に職能としての共感がある。だから、戦場以外では互いに敬意を払うということがあるのだろう。各国の軍にそういう意識が残っていたのが、20世紀の「総力戦」となると、敵と身方という概念の方がメインになって、そういった意識は、どこかに行ってしまった。
 別に、議論の専門家でも何でもなくても、少なくとも、テレビや匿名掲示板に書いてあることを鵜呑みにしないとか、議論の際にはロジックの整合しないことは言いたくないとか、他人の意見をトレースしてみるとか、そういう配慮が出来るか出来ないかというのは、意見が違っているかどうかよりも共感を覚えることはあると思う。
 考えてみりゃ、議論において、リクツの通じる相手といない相手がいて、というのも「上から目線」のようで、相当に「嫌味」な意識かも知れないけれど、一方で、私なんぞよりも、もっと高度なレベルで論議を行っている人もいるわけであって、世間の皆様は、それぞれ相応のレベルで議論してるんだろうと思うし、自分に大した知識や見識があるわけじゃなくても、やはり、事実認識のおかしい人やリクツの通じない人とは、結果として同じ意見になっても、あまり関わりあいたくないと思う。
 首相の靖国参拝に関して、賛成か反対かという話をする中で、2種類の分岐点があった。
 ひとつは「内心の自由」から、個人的にどのような宗教に参拝するのは勝手だという意見である。「内心の自由」があっても、あくまで「内心」であり、内閣総理大臣にそれを具体的な行動に移す自由があるのか、それがあるか否かが分岐点だった。
 もうひとつは、首相の参拝を望む遺族の心情があり、その心情のために賛成かという意見だった。つまり、遺族の心情のためであって、宗教法人である靖国自体への関与が目的でないから、習俗の範囲内なので許容される、ということになるんだろうが、カトリック形式の結婚式に行っても許容されるからといって、統一教会の合同結婚式に行ってもいいのか、どこまでが習俗の範囲かが分岐点ということになる。
 分岐点を探っていくと、「外国が反対しているから行くべきでない」とか「戦死者でだけはなく、戦後に絞首刑になった連中まで祀られているから反対」、「国の犠牲になった人を国の代表が追悼するのが当然」というような理由は、分岐点にならないと思うのだが、こういう主張はよく見かける。おそらく「政治的な妥協」にとって都合のいい理由なんだと思う。なお「軍国主義者だから賛成」、「反日だから反対」という人はいなかった。
 私としては、分岐点を探る議論の出来る人の方が、つきあいやすい。けれども、政治的な主張には、結果的に賛否が同じ人と妥協ができる人の方が向いていると思う。リアルな世界じゃ、いろいろ妥協も必要だろうけど、ネットじゃトンデモさんはトンデモさんと言いたいわけで、このblogで政治的な主張をしたくない理由のひとつだ。

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