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15/11/2007

奇跡の出会い

 「心底どうでもいいこと」ということがある。この場末blogに書いていることは、ほとんどがそうだ。カモの一種のその一羽の羽が1ヶ月で変わっていく経過、なんて、誰にとっても「心底どうでもいいこと」だろう。感想を求められても、棒読みで「へー。わー。すごーい。」と言うくらいがせいぜいだ。
 さて、最近、ネットで少し話題になっている「心底どうでもいいこと」がある。「心底どうでもいいこと」なのでリアルタイムでは経緯を知らない。話題になって、ようやく概要がわかった。そして、あまりにも「心底どうでもいいこと」なので、かえって言及しようかと思ったわけである。
 子供が生まれることになって、そのうれしさをblogに綴った人がいたらしい。本人は有頂天で、ありったけの文章テクニックを総動員して書いたようなはしゃぎっぷりだったらしい。ありがちなことである。
 それに、文句を付けた人がいるらしい。他人が喜んでいることに文句なんていくらでも付けられる。
 「大学に合格した嬉しい」「オマエが合格したために落ちた人のことを考えろ」「オマエがその大学に入るおかげで定員割れする大学があることも考えろ」「そもそも大学に行けない人のことを考えろ」
 「今夜はてっちりだ嬉しいな」「フグが買えずにカワハギですましてる人の気持ちも考えろ」「フグに当たって死んだ人の遺族の身になれ」「そのフグを調理した料理人の...」「そもそも食事さえろくに...」
 本人の喜びが大きいほど、それを味わえない人の怨嗟は大きく表現できるわけである。究極の言いがかりとしては「俺がワーキングプアで非モテの一方で、喜んでいる人がいる社会は不公平だ。戦争でも起こってほしい」というのもある。さらには「そういう本を出すのは不快だ、本を出版する予定がなくなって、サギ呼ばわりされてる人のことを考えろ」ときりがない。
 それで、言いがかりを付けられて、はしゃいでた方は、消したり、復活させたり、そしてまた消したりした。ということらしい。世の中に、行き当たりばったりというと悪いが、状況の変化によって適切な対応をとろう、とすることはよくある。その度に説明の文を付けたということだ。
 そして、誰もが両者に「ほっときゃいいのに」と思っている、ということのようだ。「ほっときゃいいことをほっとけない」という2人がたまたま遭遇するというのは、奇跡的な出会いではあるが、当事者以外には「心底どうでもいいこと」だなぁと思う。
 街路樹にメジロが留まっている。多くの人は見えているのに気付かない。見えていても、それがメジロであることというか、樹木と分離させて小鳥であるとさえ認識しないような脳のメカニズムがあるんだろう。「ねえちゃん、茶、しばけへんか」と言われて、それを繰り返すことが出来る人でも、未知の言語で言われたら、繰り返すことは難しい...ようなものか。残念ながら、同じようには無意識には「心底どうでもいいこと」に反応しないですますことはできないし、削除したりの手間がいる。なので意識的に反応しないことが必要だ。それだけのことだ。
 「心底どうでもいいこと」に反応するのは、それを面白がれる時だけでいいと思う。

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