2008.04.30
2008.04.29
今日も見かけたアカガシラサギ、Ardeola bacchus。うちのあたりだと、そうしょっちゅうは見られないらしいんで何枚か載せた。





あまり変わり映えしない。飛行姿勢がまともに撮れてない。

ダイサギ、
Ardea alba。ナマズがドンコの類を召し上がってる。

シジュウカラ、
Parus major。

メジロ、
Zosterops japonicus。エビぞってる。

コムクドリ、
Sturnus philippensis。新ネタだけど、樹上にいたのでちゃんと撮れていない。
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アオハダトンボ♀。トンボといえば夏からというイメージだが、このアオハダトンボは4月から孵化するらしい。
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2008.04.28
ダイサギが泥鰌の躍り食い。淡水魚は寄生虫の可能性がるので、よい子は真似しちゃいけません。
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先日も撮ったフジがもっと開いてきた。
背景は、河原の野良菜の花。
一方、逆光気味に陰になっている川の石垣を背景にしてみたら、黒バックになった。
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全体が黒ではないものの黒っぽいが足先だけが白い。こういうのを靴下猫というんだろうか。目つきは悪い。
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トノサマバッタらしきのがいた。成虫で冬を越したんだと思うが秋なら目立たない色が今は目立つ。
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2008.04.27
ニホンイシガメ、Mauremys japonica。まだ川の上流部にいる。ぼちぼち沼や田圃に移動する。
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2008.04.26
大量の水煮筍をどうするかで、今日、思い立ったのは、ゴーヤの代わりにチャンプルーの具にすること。苦みが少ない分、薄味にして、彩りのためにピーマンも少々入れてみた。
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普通は見上げる藤が川沿いの木に絡まって、沿道よりも下に咲いていた。
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2008.04.25
関東と関西の気質の違いということが、時として話題になる。でも、同じ関西でも、京都と大阪では大違いであるし、関東の東京でも、江戸時代以来の文化が継承されている地域や家庭で育ったか、近代から高度成長期に移入した人たちかでは随分と違うと思う。
先日、「江戸」の何とかというダンスチームを見かけたのだが、豊島区の人たちで、おそらく、神田の生まれというような人は、おいおい豊島区は江戸じゃねぇだろって思うんだろうな。
食に関して、豚か牛か、醤油の濃さということが言われるが、赤身魚と白身魚というのもあるかと思う。まぐろ、さらには大トロというのは高価である。しかし、高いと思っても高級魚という感覚が、私にはない。嫌いじゃないんだけど、マグロやカツオといった赤身魚よりも、鯛や鮃といった白身魚が好きである。淡水魚もいいなと思う。こういう魚感覚というのは関西のものかと思う。
さて、以前に限りなく東京に近い千葉の人と話をしていて、好きな魚は鯛と鱸と聞いた。
というのも、その方の親が育ったのが瀬戸内の両岸で、やはり、その人には西の魚感覚が生きていたわけである。
それで、魚偏に春といえばサワラである。赤身とも白身とも言い難いが、このサワラも、どちらかといえば西で好まれるのではないかと思う。サワラというのは西京味噌に漬けたものが定番のようだ。でも、鯖を限りなく上品にしたという感じの魚である。鯖と同様に、よほど新鮮でないと生では難しいにしろ、いろんな食べ方を試してみたい。
それで、今日はゆず風味で焼いてみた。しょうゆとみりんの付け汁に浸し、ゆずを載せて、直火を避けて、グリルで焼いてみた。焼き上がってから、刻んだゆずを載せている。
そして、茹でたタケノコのをワカメと煮た、若竹を添えてみた。若竹には、庭の山椒を摘んで載せている。
ということで、いかにも春の晩ご飯である。無知を武器にバンザイアタックをして玉砕した人が呟く晩ご飯も「いかにも春」ではあるが。
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毎年、この時期には、タケノコを茹でたという記事を書いているような気がする。今日の夕方も閉店間際の八百屋さんが大きめのタケノコが3つで500円とヤケクソ気味に叫んでたので買ってきた。
その店で茹でたのもあって、そっちを買う方が結局は効率的なのだが、年中行事みたいなものだ。茹でる前の記念写真。この段階で、皮だとかの生ゴミがレジ袋に満杯。
こんなに茹でてどうするのかの計画もない。でも、そこから新しい調理法のアイデアが出るかも知れない。
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2008.04.24
軒先で凛々しく番をするアオサギ、Ardea cinerea。(ただし、何を見張っているかは分からない)。
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2008.04.23
宇宙…それは人類に残された最後の開拓地である。…それは最後のフロンティア。
とにもかくにも、宇宙船USSエンタープライズ号は人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立ったし、宇宙戦艦エンタープライズ号が、新世代のクルーのもとに24世紀において任務を続行したのである。
さて、スペースシャトル・オービタの1号機もエンタープライズ であったし、原子力空母の一番艦CVN-65もエンタープライズだ。ミッドウェーで日本軍をボコにしたCV-6エンタープライズを襲名したってのもあるだろうけど、どうもアメリカ人は「エンタープライズ」という言葉が好きなようだ。ところが、この「Enterprise」の意味というのが、どう訳せるのか難しい。単純に「冒険心」に対応するというわけではなく、企てるとか、創造的な意味合いがあるようだし。
フランス人の「esprit」というのも訳しにくい。精神とか機知というのがピッタリでもない。「気がつく」「気が効く」という場合の「気」に近いのかなと思う。
韓国人の「恨」も難しい。決して「恨み」ではない。理想と現実の間の葛藤ともいうようなものだろうとは思うが、よくわからない。
一方、日本人のいう「情」というのも説明がしにくい。近世以来の芸能にとって「情」というのは非常に重要だ。単に情感でもなく情景でもあるし、それを単純に「シンパシー」と説明するわけにもいかない。
最近、他人様のコメント欄で「あはれ」という言葉が話題になっていたが、「あはれ」が近世で限定的になっていくと同時に、旧来の「あはれ」が展開していったのが「情」だろうと思う…たぶん。
それで、近世芸能の根幹、浄瑠璃の作劇法で、近松門左衛門は「情」が基本だと言ったそうだが、表現手法に言及したのに続き、「憂はみな義理を専らとす」と言ったそうだ。この「義理」というのは、今で言う「義理」というよりも「社会的な必然性」と言った方がいいだろうけれども、そういう社会の中で「難儀やなぁ」という状況の人たちへの共感を描くというのが彼の典型的な「情」の描写だったようだ。そこでは、劇的効果を直接的に言う「あはれなり」というのは下手で、必然性によって劇的効果を得るということを言っているわけである。
こういう、限定的な「情」というか「情」の劇的な展開というのが、日本の近世以降の作劇法にあるわけで、広義の「情」、単なる情感や情景の描写とは違った感動を誘うわけである。
さて、もっと近い時代になると、義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界が人気を得るにいたる。「男の世界」というのは、別に腐女子が喜ぶような世界ではなくて、単にジェンダー・バイアスが強い表現なわけであって、ある社会においては。その社会の必然性が個人的な感情よりも優先される、と一般化すれば味も素っ気もないことを言っているわけである。でも、そこにある葛藤に共感を感じるのが、「情」の劇的な展開ということになる。
近世芸能の観賞の障害になっているのは、そこでの「義理」や「道理」というものが、到底、理解しにくいということがあるんだろうと思うが、その一方で、吐出できない感情というのも理解されにくいからだろうな、と思う。
現代においては、社会的な活動を行う上でさえ、モロに個人的感情を吐出することが許容されているわけであり、さらには共感を示さない方が批判さえされてしまう。それは、ある意味では抑圧からの解放であり、好ましいことかも知れない。でも「情」の大安売りみたいに思えてしまい、近世芸能ファンとしては、伝統的な「情」とは違うなぁと思ってしまう。
一般化できるような個人的感情については、社会的な合理性からも認められるというのは、現代の社会の到達点である。例えば、許容されない恋愛なんてものはない。今日、バスの中で最後部シートに座ったのだが、隣に座っていた2人の高校生は、男性の方が女性のウエストに手を回し抱くような体勢だった。そして手の先で女性の方を撫でようとするのだが、女性の方は、場所が場所なので、その手を捕まえて握っては、撫でられないようにしていた。そういう光景を見ると、高校生の頃を思い出してとても微笑ましい。これも一種の「情」のある光景ではあるんだろうけど、劇的なものではない。
その一方で、一般化されないような個人的な感情というのもあるわけであり、感情を社会的な合理性の基では抑圧しなければならないこともある。自分の親やその親が属する集団が非道なことを行ったなどとは思いたくない、というのは自然な感情だ。けれども実証的な研究の結果などから、事実と考えざるを得ない。そこで合理性の方を否定するというような心性では、近世以来の芸能の中の「情」というのは理解できないんじゃないかと思う。
感情的には受け入れたくない合理性を受け入れられるような心性のもと、その感情に共感するというのが「情」の劇的なる部分だろうかと思う。岡山だったかでホームから突き落とされた人の父親が、犯人が「社会復帰したら、世の中のためになる青年になって欲しいと思います」と語ったというニュースがあった時、これこそ「情」だと思った。彼の加害者への「情」という意味ではない。彼に道理のもとに抑制された「感情」があるだろうと、様々な人が想像した上での「共感」である。こういう人がいて、それに共感できる人がいるうちは、「情」という伝統的概念が継承されるんだなと思った。
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コンビニに「岩手県立盛岡農業高等学校パン研究班との共同開発商品」というのが売っていた。パッケージに「座敷わらし」のような絵が描いてあるが、2月にT松の池に白鳥を見に行った際に見たような。
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2008.04.22

オオルリ、Cyanoptila cyanomelana。雄は目立つので再々、見かけるのだが、今日の夕刻にやっと雌か若鳥か青くないのに遭遇。
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人畜無害の大人しいおきものです。こちらは本当です。
音もなく咆吼。
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2008.04.21
2008.04.20
川にいる鴨を撮っていると鴨を食いたくなる。同じように、最近は野良菜の花が咲いているのを見ると菜の花が食べたくなる。川にいる鴨を勝手に獲ってはいけないらしいし、魚もそうらしい。線路際の大根や河原の菜の花は摘んでいいのかどうかわからないが、店で売ってるのにリスクを冒すこともないので買ってきた。
ということで、菜の花の和え物である。菜の食品である。
ところで、ふと考えた。別に菜の花だけじゃなくて、小松菜も水菜も菊菜だって菜の食品だ。緑黄色野菜にはβカロテンが含まれており、摂取することが網膜細胞に効果があることは実証されている。イギリス軍がレーダーの存在を秘匿するために流したデマではない。だから、わざわざ別blogを立ち上げて、科学が万能じゃないなんて見苦しい言い訳をしなくてもいい。そのうち「菜のゼリー」を作ってみよう。
(追記)ついでに「菜のゼリー」の宣伝を考えてみた。
中国で「反仏デモ」が行われているとマスコミは伝えている。しかし、現地メデイアを調べてみると「反法示威」が行われているとのことだ。およそ法治国家、法の支配による近代国家においては「反法」行為は許されない。しかしながら日本のマスコミでは、「反仏」とチベット問題に関連しての反仏教デモであるかのように報道されている。そうまでして中国におもねるマスコミはどうかしている。「菜のゼリー」を食べて抗議しよう。
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東京と大阪の中間はどこか、地図を見ればわかる。ラダトームとメルキドの中間はどこか、ゲーム上のマップを見ればわかる。では、大阪とラダトームの中間はどこか。
このblogでは、これまでしばしば「位相の違い」というか、枠組みが違うということを理解できないような話を、例えば「物心がつかない」とか、そういう表現で嘆いていたわけである。世にトンデモさんと言われるケースはその典型なんだろうと思う。
東京も大阪も現実の地名である。ゲーム上の地名とは違う枠組みにあるわけである。その中間というのはないのだ。
ところがである。世に位相が違うのに、その中間であると称する人が少なからず存在する。違った枠組みの中の「論」の中立という形だ。
科学というのは万能ではない。というか、科学というのは発展すればするほど謎が増えてくるようである。昔の人は4つの力はどのように統一的に考えられるかなんて悩まなかったのだ。でも、4つの力について分かってないからと言って、そこにニンゲンリョクを排除するな、ニンゲンリョクが最も大切だから5つの力だ、なんて言い出す馬鹿はいないだろう。でも、いたとして「現代の科学では未知のことも多いので、私は、どちらが正しいとも言えない」というのは輪をかけたアホだろう。科学は事実を理解する方法であり、新たな事実を作るためのものだ。科学でわからないことが多いのは、わかったことが多いからだ。
進化論と創造論の中立というのもありえないはずだ。進化論というのは「科学」の範疇であり、現実を説明するための成果だ。創造論というのは、ある種の人が尊重してる創作を基にしたフィクションである。位相が違うのである。まともな人は、事実を説明するために進化論を理解し、創作は創作と認識し、その創作に込められた思想を尊重している。科学と創作は、位相が違うから立派に両立しているわけで、わざわざ、否定された位相に持ち出すこともない。一方が否定されている位相にあっては、その中立もまた既に否定されているわけである。
プロレスラーやバラエティタレントとして、立派に(でもないか)評価されているのに、わざわざ否定された古典芸能界にいるかに振る舞うような滑稽ささえ感じてしまう。
ニセ科学批判や歴史修正主義批判において、不思議と湧いてくる「中立」というのは、こういう位相の違いが基本的にわかってないんだろうなと思う。
歴史学だって、過去の事実を説明するための科学だし、科学の範疇の方法で歴史研究が行われている。そこにはわからないことも多いと思うし、新たなことがわかることで、さらにわからないことが増えることもある。わからないから様々な仮説で説明しようという努力も行われている。それは「こうだったらいいな」というハナシとは別世界のわけである。学問研究の成果とは言い難いようなシロモノや歴史小説とは違った位相のハナシだ。読んで心地いいのはどちらか、というのならともかく、事実を説明するという点では、歴史学とニセ歴史の「中立」はありえない。
時代劇や歴史ドラマはたぶん歴史学のハナシより人気があるし、歴史なんか教えなくても歴史ドラマを教えりゃいいという考え方もあるだろうし、その中立として、歴史ドラマを教えるのはそのドラマのコンセプト次第だという立場もあるだろう。けれども、歴史学をシロートがどう理解するかという位相の上では、両方とも当初から否定されている。
中立であることは、時として客観的であり、よくわかっている、かのような錯覚をもたらす。ニセ科学やニセ歴史をまるっきり肯定してしまうのも恥ずかしいからと「とりあえず中立」なんて場合もあるだろう。でも位相の違う間で中立であると表明することは、客観視ができていない、わかっていないと表明しているということだ。
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2008.04.19
2008.04.16
2008.04.15
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