« 座敷わらし? | Accueil | 今日の野良鳥(4月24日) »

23/04/2008

情といふこと

 宇宙…それは人類に残された最後の開拓地である。…それは最後のフロンティア。
とにもかくにも、宇宙船USSエンタープライズ号は人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立ったし、宇宙戦艦エンタープライズ号が、新世代のクルーのもとに24世紀において任務を続行したのである。
 さて、スペースシャトル・オービタの1号機もエンタープライズ であったし、原子力空母の一番艦CVN-65もエンタープライズだ。ミッドウェーで日本軍をボコにしたCV-6エンタープライズを襲名したってのもあるだろうけど、どうもアメリカ人は「エンタープライズ」という言葉が好きなようだ。ところが、この「Enterprise」の意味というのが、どう訳せるのか難しい。単純に「冒険心」に対応するというわけではなく、企てるとか、創造的な意味合いがあるようだし。
 フランス人の「esprit」というのも訳しにくい。精神とか機知というのがピッタリでもない。「気がつく」「気が効く」という場合の「気」に近いのかなと思う。
 韓国人の「恨」も難しい。決して「恨み」ではない。理想と現実の間の葛藤ともいうようなものだろうとは思うが、よくわからない。
 一方、日本人のいう「情」というのも説明がしにくい。近世以来の芸能にとって「情」というのは非常に重要だ。単に情感でもなく情景でもあるし、それを単純に「シンパシー」と説明するわけにもいかない。
 最近、他人様のコメント欄で「あはれ」という言葉が話題になっていたが、「あはれ」が近世で限定的になっていくと同時に、旧来の「あはれ」が展開していったのが「情」だろうと思う…たぶん。
 それで、近世芸能の根幹、浄瑠璃の作劇法で、近松門左衛門は「情」が基本だと言ったそうだが、表現手法に言及したのに続き、「憂はみな義理を専らとす」と言ったそうだ。この「義理」というのは、今で言う「義理」というよりも「社会的な必然性」と言った方がいいだろうけれども、そういう社会の中で「難儀やなぁ」という状況の人たちへの共感を描くというのが彼の典型的な「情」の描写だったようだ。そこでは、劇的効果を直接的に言う「あはれなり」というのは下手で、必然性によって劇的効果を得るということを言っているわけである。
 こういう、限定的な「情」というか「情」の劇的な展開というのが、日本の近世以降の作劇法にあるわけで、広義の「情」、単なる情感や情景の描写とは違った感動を誘うわけである。
 さて、もっと近い時代になると、義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界が人気を得るにいたる。「男の世界」というのは、別に腐女子が喜ぶような世界ではなくて、単にジェンダー・バイアスが強い表現なわけであって、ある社会においては。その社会の必然性が個人的な感情よりも優先される、と一般化すれば味も素っ気もないことを言っているわけである。でも、そこにある葛藤に共感を感じるのが、「情」の劇的な展開ということになる。
 近世芸能の観賞の障害になっているのは、そこでの「義理」や「道理」というものが、到底、理解しにくいということがあるんだろうと思うが、その一方で、吐出できない感情というのも理解されにくいからだろうな、と思う。
 現代においては、社会的な活動を行う上でさえ、モロに個人的感情を吐出することが許容されているわけであり、さらには共感を示さない方が批判さえされてしまう。それは、ある意味では抑圧からの解放であり、好ましいことかも知れない。でも「情」の大安売りみたいに思えてしまい、近世芸能ファンとしては、伝統的な「情」とは違うなぁと思ってしまう。
 一般化できるような個人的感情については、社会的な合理性からも認められるというのは、現代の社会の到達点である。例えば、許容されない恋愛なんてものはない。今日、バスの中で最後部シートに座ったのだが、隣に座っていた2人の高校生は、男性の方が女性のウエストに手を回し抱くような体勢だった。そして手の先で女性の方を撫でようとするのだが、女性の方は、場所が場所なので、その手を捕まえて握っては、撫でられないようにしていた。そういう光景を見ると、高校生の頃を思い出してとても微笑ましい。これも一種の「情」のある光景ではあるんだろうけど、劇的なものではない。
 その一方で、一般化されないような個人的な感情というのもあるわけであり、感情を社会的な合理性の基では抑圧しなければならないこともある。自分の親やその親が属する集団が非道なことを行ったなどとは思いたくない、というのは自然な感情だ。けれども実証的な研究の結果などから、事実と考えざるを得ない。そこで合理性の方を否定するというような心性では、近世以来の芸能の中の「情」というのは理解できないんじゃないかと思う。
 感情的には受け入れたくない合理性を受け入れられるような心性のもと、その感情に共感するというのが「情」の劇的なる部分だろうかと思う。岡山だったかでホームから突き落とされた人の父親が、犯人が「社会復帰したら、世の中のためになる青年になって欲しいと思います」と語ったというニュースがあった時、これこそ「情」だと思った。彼の加害者への「情」という意味ではない。彼に道理のもとに抑制された「感情」があるだろうと、様々な人が想像した上での「共感」である。こういう人がいて、それに共感できる人がいるうちは、「情」という伝統的概念が継承されるんだなと思った。

|

« 座敷わらし? | Accueil | 今日の野良鳥(4月24日) »

Commentaires

Poster un commentaire



(Ne sera pas visible avec le commentaire.)




TrackBack

URL TrackBack de cette note:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/23135/40967077

Voici les sites qui parlent de 情といふこと:

« 座敷わらし? | Accueil | 今日の野良鳥(4月24日) »