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20/04/2008

中立の恥ずかしさ

 東京と大阪の中間はどこか、地図を見ればわかる。ラダトームとメルキドの中間はどこか、ゲーム上のマップを見ればわかる。では、大阪とラダトームの中間はどこか。
 このblogでは、これまでしばしば「位相の違い」というか、枠組みが違うということを理解できないような話を、例えば「物心がつかない」とか、そういう表現で嘆いていたわけである。世にトンデモさんと言われるケースはその典型なんだろうと思う。
 東京も大阪も現実の地名である。ゲーム上の地名とは違う枠組みにあるわけである。その中間というのはないのだ。
 ところがである。世に位相が違うのに、その中間であると称する人が少なからず存在する。違った枠組みの中の「論」の中立という形だ。
 科学というのは万能ではない。というか、科学というのは発展すればするほど謎が増えてくるようである。昔の人は4つの力はどのように統一的に考えられるかなんて悩まなかったのだ。でも、4つの力について分かってないからと言って、そこにニンゲンリョクを排除するな、ニンゲンリョクが最も大切だから5つの力だ、なんて言い出す馬鹿はいないだろう。でも、いたとして「現代の科学では未知のことも多いので、私は、どちらが正しいとも言えない」というのは輪をかけたアホだろう。科学は事実を理解する方法であり、新たな事実を作るためのものだ。科学でわからないことが多いのは、わかったことが多いからだ。
 進化論と創造論の中立というのもありえないはずだ。進化論というのは「科学」の範疇であり、現実を説明するための成果だ。創造論というのは、ある種の人が尊重してる創作を基にしたフィクションである。位相が違うのである。まともな人は、事実を説明するために進化論を理解し、創作は創作と認識し、その創作に込められた思想を尊重している。科学と創作は、位相が違うから立派に両立しているわけで、わざわざ、否定された位相に持ち出すこともない。一方が否定されている位相にあっては、その中立もまた既に否定されているわけである。
 プロレスラーやバラエティタレントとして、立派に(でもないか)評価されているのに、わざわざ否定された古典芸能界にいるかに振る舞うような滑稽ささえ感じてしまう。
 ニセ科学批判や歴史修正主義批判において、不思議と湧いてくる「中立」というのは、こういう位相の違いが基本的にわかってないんだろうなと思う。
 歴史学だって、過去の事実を説明するための科学だし、科学の範疇の方法で歴史研究が行われている。そこにはわからないことも多いと思うし、新たなことがわかることで、さらにわからないことが増えることもある。わからないから様々な仮説で説明しようという努力も行われている。それは「こうだったらいいな」というハナシとは別世界のわけである。学問研究の成果とは言い難いようなシロモノや歴史小説とは違った位相のハナシだ。読んで心地いいのはどちらか、というのならともかく、事実を説明するという点では、歴史学とニセ歴史の「中立」はありえない。
 時代劇や歴史ドラマはたぶん歴史学のハナシより人気があるし、歴史なんか教えなくても歴史ドラマを教えりゃいいという考え方もあるだろうし、その中立として、歴史ドラマを教えるのはそのドラマのコンセプト次第だという立場もあるだろう。けれども、歴史学をシロートがどう理解するかという位相の上では、両方とも当初から否定されている。
 中立であることは、時として客観的であり、よくわかっている、かのような錯覚をもたらす。ニセ科学やニセ歴史をまるっきり肯定してしまうのも恥ずかしいからと「とりあえず中立」なんて場合もあるだろう。でも位相の違う間で中立であると表明することは、客観視ができていない、わかっていないと表明しているということだ。

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Commentaires

単に「分からない」と書くのが恥ずかしいから「中立」とかカッコつけている手合が多そうです。でも,時々「相対化出来てる自分=頭よくて素敵」ていうのもお見かけしますなあ。

Rédigé par: 某清純派親分 | le 20/04/2008 à 18:13

 「相対化出来てる自分=頭よくて素敵」のひとつに「メタきり」ってのもあるな、そのうち書こうと思ってるんです。「メタ認識」によって、問題を整理するってのはアタリマエなんですが、整理しきれなかったり、整理してもわからないもんだから、メタから戻って来られないというの。「どっちもどっち」にそういうのが多そうです。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 20/04/2008 à 18:54

あとは「超越願望」っていうのもありますね。俯瞰願望というか。相対化して俯瞰して眺めているような文章書く手合いにも自称「中立」派が多そうです。宮台のを読んでいてむかむかするのはそのせいなんですが。

Rédigé par: 瑠璃子 | le 20/04/2008 à 23:41

 私もけっこう、俯瞰して眺めているような文章書きますよ。自分に関わり合いが薄い分野だと。その代わりに観察者に徹して「中立」だという主張もしないけど。
 特に、政治ネタに関しては、右や左の旦那様のオコボレをいただくのが基本スタンスですし。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 20/04/2008 à 23:53

「大阪とラダトームの中間はどこか。」
この問いの答えは「淡路島」です。
なぜなら、私がそう感じたから。答えを得た感動で心が震えたから。
それを否定するのは私の心を、そして人間性を否定することです。

…といったコンニャク問答をある種の寛容で共感を重んじる人たちの間で語ると、「わかります!」「私も同じ気持ちです!」といった反応が得られるみたいです。もしかしたら高度なナンセンスギャグなのかもしれません。

Rédigé par: 玄倉川 | le 21/04/2008 à 01:48

 でも「ラダトームは香川県にあったのですね」というと、誰もそんなことは言ってないと怒られそうです。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 21/04/2008 à 02:44

 瑠璃子さんのコメントへの追加ですが、俯瞰というのは、つまりメタ認識ですね。メタ認識というのが、本来の問題への「ツール」であるのに対して、メタ認識することが目的化したようなのが俯瞰願望かもしれません。それも「メタきり」の一種でしょうね。

Rédigé par: 南郷力丸 | le 21/04/2008 à 04:14

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