2008.05.31
アヤシゲな写真であるが、これは中学生の頃に京都市左京区で捕獲したもの。お恥ずかしい限りですが名前がわからずにお持ち帰りして調べたら「シロマダラ、Dinodon orientale」だとわかった。なお、当時はレッドデータブックとかなかった。お亡くなりになってホルマリンに漬けたものの、その後、長年にわたって放置していたので、保存状態が極めて悪い。
ところで、先月のことだが、京都のローカル新聞に「生きたシロマダラ捕獲、民家の庭で発見 府内初」というニュースが出ている。この発見した人が「これまでにも見たことがあった」と言っている。じゃあ、なぜ「これまでに見た」時に捕獲もせず、ニュースにもならなかったのか、というと「報告」しなかったからだ。
つまり、然るべき学術団体に「報告」しない限り、「誰も見なかった」ということになっているわけである。今回、発見者が「報告」したのは、この前日か前々日かに、ネット上では発見できなかったけれども「府内初のシロマダラの死体発見」という記事が新聞に載ったからだ。
ちなみにシロマダラの死体なら、知人も数年前に京都市北区で拾って標本にしているが、それも「報告」しなかったので、なかったことになっている。
夜行性で藪の中や落ち葉の下に隠れているので、見つけにくいのは確かだが。捕獲した機会以降にも、京都府内で結構見かけている。なので、他にも見た人は多いはずだが「シロマダラ」だとわからなかったり、わかっても「いても当然で、不思議でも何でもない」ので「報告」しなかっただけのことなのだ。
ちなみに、情報を公開しただけでは「報告」にならないらしい。市民新聞とかに載った例でも「報告」がなかったら、なかったことになっている。
「記録がない」のは、「事実がなかった」からではなく、むしろ「誰もがあって当然と思っていた」場合というケースもある。という例だ。
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歌舞伎のヒーロー、江戸では花川戸の助六、上方では大星由良の助らしい。助六はカッコイイ。一方、由良の助は目的のためにカッコワルク振る舞った。

で、歌舞伎とは関係ない映画の話である。とあるトコロで、ドキュメンタリー映画は素材にチカラがあれば、加工度を抑えた方がいいんじゃないか、という話の例に出したのが、この「ヨコハマメリー」だった。
このヨコハマメリー、つまりはスジを通すというか、プリンシプルというか、プライドを持って生きている人たちのドキュメントだった。プライドというと、そういうタイトルの映画もあったが、そちらは「現実」によって虚飾が剥がされながらも、まだ体面を取り繕う老人の滑稽さを描いた「笑える」映画であった。この「ヨコハマメリー」というのは「体面を取り繕う」プライドではなく「自身の原則を通す」というプライドの話。
この「ヨコハマメリー」さん、一種異様な外面であっても、それは彼女の原則を貫いていたからであり、「施し」を拒否し続けてきた人だ。話の進行役の歌手さんも、彼自身の原則に従っている。そういうエライ人じゃないけど、むしろ「世間」とやらいうものには蔑視されているんだろうけど、自身の原則に恥じることのない人の話だ。
チョイ役で大野慶人さんが出ていたが、今でこそ「横浜市の近年で最も偉大なアーティスト」の息子さんなのだが、その父も活動を始めた当初には異様にしか見られなかっただろう。そして、メリーさんに感動し、舞台化した女優が出てきたけれど、タレントではなく、女優としての原則を通そうとしてるのかと思う。
こういったピュアなプライドを持った人たちには、素直に感動してしまう。でも、なかなか、自分が実践できるかというと、そうはいかないもんなのよ。それで、素直に自分のダメさに反省せずに、もっと醜いのを探して憎んでしまうのがせいいっぱい。例えば、ひたすら体面を取り繕ってるような人、どこの都道府県か言わないけれど、まさに弱い犬ほどよく吠えるを実践しているような都知事の類だ。自分が半端なバカだからとわかっていても、卒業しようとするよりも、もっとバカを憎んで満足するようなものだ。
せめて、こういう映画で、ピュアなプライドに感動できたことだけでも喜びたい。
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Fully care,car was to become Ms.note.無意味というか意味不明なフレーズだ。「充分な注意の元、車はノートと渾名される女性になるべきだった。」とでも訳せばいいんだろうか。
ところが、日本人の中には、このナンセンスなフレーズを聞いて、静寂を感じ、自然を感じ、おかしみを感じる人さえいる。
言語そのものは単なる記号や空気の振動で、その言語と概念が結びつくから、思考やコミュニケーションのツールになるわけである。そして、コミュニケーションのツールとなるには、その相互間で、言語と概念が同じように対応している必要がある。
ところが、意味不明なフレーズを聞いて静寂を感じる人もいるわけである。「三尊の弥陀は?」」を「三百にまけぇ」に、「あかんべえ」を「目の下にあり」と解釈するようなことは、言葉を使ったって起こるのである。
そういや、先日、旅芸人の公演を「越後獅子みたいなもんなんですよ」と評した文に、「長唄や地歌のならいいんですが、美空ひばりのですからねぇ。」という趣旨のコメントをした。後で気付いたのだが、このコメントって、長唄や地歌よりも、美空ひばりが劣ったものだという意味に取れる。
このコメントを交わしている両人は、熱心なファンではないが、歌舞伎の主要演目くらいは見ている。だから、長唄の「越後獅子」の内容が「旅芸人が郷里や残してきた妻を懐かしんでいる」ということは当然知っている。一方、美空ひばりの方の「越後獅子」の内容は「子供が無理矢理に芸をさせられて泣いている」わけで、一般的には「角兵衛獅子」の方が通りがいい。
なので、旅芸人の公演に「越後獅子」としか書いてないので、一瞬「?」と思い、それで、子供の健気な芸しか見るべきものがない公演という意味かと思いあたり、「大人の旅芸人ならいいけど、子供の芸で売ってるからねぇ」と同意しているわけである。けれども、長唄や地歌の「越後獅子」と美空ひばりの「越後獅子」の内容の違いを知らなければ誤読をする方が自然だろう。わざわざ「塊」を「魁」に勝手に変えるなどの手間をかけなくてもいい。
さて、このような誤読をして、「オマエラは文化の相対化をしているようなことを、以前に言ってたけど、ちゃうやんけー」と文句を言った美空ひばりファンがいたとする。問題は誤読をした方にあるんだろうか、誤読をされても仕方がないような書き方をした方にあるんだろうか。
2・3年前だけど、その頃に急に増えたblogの言説を見ていて、このblogで、考察というか愚痴みたいなことを書いていたのだけど、最近、当時と同じようなことをよそのコメント欄で書いたりで、そこらがロード・オブ・ザ・ループというかテンプラ既視団なんだが。
その以前に書いていた際に、ネットというのは古池じゃなくて「大海でもあって、井戸でもある」みたいなことを書いていた。誰でも見られる「大海」であると同時に、かなり特殊な場も作れる。周囲から一笑に付されるような陰謀論や珍説だって、「一笑に付す」周囲を飛び越えて、支持者どうしで結びつくことが出来るわけで、結果、勝手に一般化しちゃって「皆さん、そう思ってる」なんて思いこみが作られたりする。
そこまでいかなくても、語彙、さらには論理や美意識や嗜好なども共有している間でコミュニケーションをとっていた方が効率的だ。近代史について考察を行う、情報を共有しようとしているトコロに、異論は歓迎できても、マンガと匿名掲示板の情報だけでわかったつもりになってるようなのに来られても邪魔なだけだ。そんなわけで「大海」であっても「参入障壁」を作って、ある程度に井戸化した方が、合目的なのである。
「むつかしいことをむつかしく言うのは誰でも出来る。むつかしいことをわかりやすく言うのがアタマのいい人」なんて言葉があるが、たいていのことは、やさしく言うにも限度がある。「シュレディンガーの猫を安倍晋三にわかるように説明する」なんて不可能だ。
ともかくも、かつても書いたが、世の中には、微バカ、軽バカ、弱バカ 、中バッカ、強バカ、烈バカ、激バカ、ミジンコバカにネバーエンディングバカと、世に様々なバカがいるわけで、このblogだって、自分より軽度のバカに見られても恥ずかしいし、はるか上空の自覚症状もない程のバカにわかるように書くのも無理だ。なのでアクセスが増えても嬉しくないし、むしろ場末感がいいし、自ずと「読む上での前提」が作られており、参入障壁となっている。
参入障壁があるのに気付かずにぶつかる。こういう誤読はありがちだ。この文だって、辞書に載ってない、辞書と語彙が違う単語がいっぱいだし、その意味がわかる人向けに書いている。誤読して文句を言って来たら、大海にもいるわけだから、誤読だという説明はする。でも反省はしないし、誤読する人は読者として想定していませんとしか言いようがない。所詮、井の中だもの。みつお。
ショミンの立場だの、世間だの、広く訴えるなんてトコや、ランキングに参加したりでアクセスを増やしたいなら、つまり、大海にいるつもりなら、誤読されないように書くべきだろうけど。
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2008.05.30
カワセミ、Alcedo atthis。2羽で川面を飛んでいたが、1羽のみ、見える所に留まった。
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2008.05.27
2008.05.26
以前に日本舞踊の公演のことを書いた。金取って見せる会と金払って出る会じゃ、そもそも違うということ。
ところが、現代舞踊とか現代演劇というのは、この間がシームレス。おまけに公演の採算性とか動員と影響力というのは全く別物。おまけに団体でやるもんだから、同じ公演に、全く別の考えで参加している人もいるわけである。
例えば、ある舞踊公演。この群舞はトップレスで踊ることにしようという話になる。もちろんブトーなんかじゃ、すっぽんぽんに▼なんてアタリマエだし、少なくとも現代舞踊じゃよくあることだ。そうしたところ嫌だというメンバーが出てきたとする。別に路上でトップレスになれと言ってるわけじゃない。舞踊の会であるから普通のことだし、この振り付けじゃそれが当然だ。何で嫌なの、と「現代舞踊」の枠組みで考えていると理解できない。一方、嫌な人は、嫌なものは嫌なのだ。「現代舞踊」の枠組みで考えることは出来ないのだ。
もちろん、観客としても、自身が振り付けると考えても、トップレスが正しいことはわかる。でも、そこまで真剣に舞踊をやってるわけじゃないのだ。最初は、お友達と「今度の公演に出るから来てね。」「わー、すっごいキレイだったよ」というのが楽しいから始めたし、所詮、世界ツアーをしたり、公的助成を受けるだけのカンパニーでもないだろ、なんて気もある。もちろん、今では、世に問う意識もあるが、見に来るのは舞踊のことがわかってる人だけじゃない。舞踊のこともわかんないバイト先の先輩にきっと「乳出して踊ってたね」って言われるだろう。さらには、知らないトコロで「着やせするんだねぇ。けっこう立派だったなぁ」なんて言う人だっている。ただ、それが嫌なのだ。
現代演劇だと、地方の100人も入らないホールで3公演くらいのカンパニーが、何の拍子か、日本のあるシーンを代表する劇団になっちゃうことだってある。でも、そうならない劇団の主宰者が、世界の演劇シーンに対しての姿勢なんてことを言い出したり、そこまで行かなくても、地域文化を支えるのは我々草の根文化活動で何ちゃらと言い出すのは、「道楽でやってるんだろ、ウチワしか見に来ないのに」と思い、ある意味、滑稽でもある。
かと言って、少なくとも「世に問う」意味で公演しているわけで、宴会芸じゃないんだから、演劇シーンに何の意味もないような舞台を見せられり、「友好劇団」との馴れ合い合評会なんてのは醜いと思うし、ちょとオカシイと思うわけである。世に問う意識を持った主宰者としても「あの人が、綺麗な衣装着て注目されるのに、何で私がゾンビ役なん?」などと出演者が文句言っちゃ困るのだ。困っても、そういう意識で参加して来たんだから、どうしようもない。
そして、そのどちらでもない、ごく普通の中堅カンパニーに、乳を出すのはアートの論理では正しいが、観客がそうじゃないから、やはり出したくないと苦悩し、やっぱり出せないとするメンバーがいるわけである。
アートにはアートの論理があるわけである。それが正しいかどうかということは、アートへの距離感に対しては無力なのである。もちろん、無力であるから無価値ってわけではない。
ともかくも、トップレスで踊るのを嫌がったメンバーがカンパニーを辞めても、舞踊の理解者であり、よき観客であり続けてほしい。
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2008.05.25
ツバメ、Hirundo rustica。先日来、撮ってたツバメの巣は空っぽ。巣立ったみたい。これは近くの別の巣だけど、こちらも巣立ち間近のようだ。
近くに留まったツバメだが、親にしては餌をやらない。先に巣立った兄弟姉妹にしては尾翼の伸び方に差がありすぎ。
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とあるコメ欄、コメントしたものの、その後「何の話ば、しとうや」ということになるとネタに走る。
私なんぞは「清貧」「従順」「貞潔」の上、アイドルも崇拝しないから、シトー派か、なんてことを考えるとアタマが茹だる。こういう折りに、お酒は体が火照ってどんならん。井戸で冷やした柳陰でも、鯉の洗いと青菜でやるというのが相場だけど、そこは「ししとう」を使ってみた。
奴ではなくて、昆布出しで煮た豆腐と焼いたししとうに、田楽味噌をかけただけ。
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2008.05.24
昨日は面倒なので、「なすとつぼやき」にしたら、「なすのつぼやき」が見たいといじめ…じゃなくて、突っ込まれたので、製作。
エスカルゴのイメージからバターでソティしようかと思ったが、素材から考えて、ゴマ油、醤油、豆板醤の味付けで中華風にしてみた。
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2008.05.23
散歩中のよそのぬこ。
川から顔を出してた野良ウシガエル。
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「なぞの独り言」とか「なぞのつぶやき」が流行ってたみただけどネタがないので「なすとつぼやき」。

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2008.05.22
滝、というか堰堤に向かって動いているのがいたので、鯉?と思ったが細長い。鰻?と思ったら、どうやらアオダイショウが泳いでいた。滝を登るつもりなんだろうか。
蛇の方が、鯉より、竜に近いんじゃないの。登竜門を通過中の蛇は「竜頭蛇尾」って言うんだろうか。
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2008.05.21
道端に咲いてたのを、なーんも考えずに撮ったのを載せただけ。
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木の芽和えを作ろうと山椒の若芽を摘みに出たら、細かいのが。色が茶色っぽいので、クロアゲハ?
ともかくも、そのうち山椒が使えなくなりそう。
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2008.05.20
ツバメ、Hirundo rustica。いつもの巣だが、陰になっているので、羽ばたいている親鳥がぶれる。
子ツバメも主翼がしっかりしてきて「ツバメ」らしくなってきている。
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2008.05.19
鳴いてる。重なってる上の方が雄。他にも鳴いているのがいて、それが重なった上に重なろうとすると、重なってた方の雄が鳴く。
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2008.05.18
ツバメ、Hirundo rustica。昨日と同じやつ。1日ではあまり変わらない。
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ヅラをつけずに、ヅラをつけてる安心感。

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2008.05.17
ツバメ、Hirundo rustica。一昨日と同じやつ。産毛というか綿毛がなくなっている。
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2008.05.16
アオサギ、Ardea cinerea。日比谷公園の池にいた。特定外来亀もやたらいた。
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いまだに様々な人が考察を行っている「かの騒動」。どうせ続いているんだから、辟易としてもしようがない。自らの考察のネタにしてやれ、ということでもないんだろうけど、ウンコだって肥料にしちゃった方がトクだ。(この場合、ウンコというのは、比喩でも暗喩でもなく、単に、「嫌がっているより、役に立てた方が有益」ということです。念のため)
「共感」であるとか「やさしさ」とか、様々なキーワードが出ているが、今も蒸し返す人たちの気持ちはわからないでもない。それというのも、わたし自身にも「内なるらんきー一派」は存在しているからである。
というのも、このblogを批判されても困るのである。正当な批判なら受け入れるべきである。ヘタな写真を載せるな。わかりにくいことを書くな。こう思う読者は正しい、というか「ヘタな写真」「わかりにくい」については、私も同意する。だからと言って、急に「上手い写真」が写せるわけでもないし、「わかりやすい文」を書けるわけではない。なので、ガマンしていただくしかないのだ。不当な批判、つまり誤読をされたり、事実認識が異なる場合、当然、反論すべきである。しかし、めんどくさい。つまり、批判されて、なるほどと思うことも多いだろうけど、それで、どうにかなるもんでもないのだ。
原稿料を貰って書いているとか、それなりにキアイを入れなきゃならない文なら、当然、批判というのはグレードを上げるために有用だから、きちんと対応する。でも、ブームに乗っただけで、たいしたココロザシもなく始め、お友達との馴れ合いネタが主であるblogである。批判されるのは、困るし、避けたいのである。
だから「シロートが慰みで書いてるblogなので批判しないでほしい」と書きたいのである。「やさしく」してほしい。アホなことが書いてあっても「寛容」に。と、正直、思っている。
それでも、このblogを批判する人がいたなら「大人げない」と思うだろう。草野球を相手に全力プレーする引退したてのプロ野球選手、子供相手に手加減しない人という意味で「大人げない」である。
でも、私の中の「内なるらんきー一派」は閉じこめている。きちんとした考察を書いている人もいるからだ。そういう人のためには、自分のわがままを一般化できないのである。「影響力のない、つまり権力になりえない文を書いてる一般市民の私を批判しないでください」を一般化できないのだ。影響力のあるblogを書いている人に失礼だ。
主張するblogを書くのであれば、主張の説得力を高めるために批判は有用だ。だから、批判を嫌う人たちは、主張のために書いているのかという疑問が浮かぶ。ビデオゲームのようなものではないか。ゴールは「ピーチ姫の救出」であっても、そのピーチ姫は実在しているんだろうか。そして、救出するよりも、そのプロセス、隠しアイテムの発見や、裏技の方が、むしろ目的になっていないだろうか。
問おう、汝が「マリオ」か。
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2008.05.15
オシドリ、Aix galericulata。繁殖期には人のいない森に行くのだが、まだ公園内の池に残っているのもいる。
ツバメ、Hirundo rustica。
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2008.05.14
夜来の雨が早朝には止んだので、モリアオガエルの産卵池に行ってみたが、シュレーゲルアオガエルの声が聞こえるのみで、モリアオガエルの姿は見えず。
途中の川の石垣を、カニとイモリが登っていた。川から水の入った田圃に移動するんだろうか。
アカハライモリ、Cynops pyrrhogasterのアップ。
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2008.05.12
一部の人が見ていた話だが、もはや第3部になると見ている人も少ない。今も第2部のエピローグは続いているし、第3部の途中であるが、第3部は話がループに入ってきているだけではなく、もっと歴史的に根深いループに突入しているようだ。
以前に、第1部や第2部が話題になった時は、ほとんど取り上げなかったのだが、この「大きなループ」には以前から触れてきたので、ここで感想をあげてみる。
そもそも、この話の発端はひとつの物語、それも死んだも同然のクダラナイ物語だ。
その物語を捨てなければ、この世は闇となる。
遠い遠い昔、理性を滅ぼす魔力を秘めた“ひとつの物語”が作り出された。波動測定器なるものを高額で販売したいという欲望が、この物語に注ぎ込まれていたのだ。
その物語に屈していった人たちもいた。しかし、物語があまりにバカバカしく無視していた勇者たちが、科学を僭称していると物語に立ち向かった。そして、物語は科学でないと否定された。ニセ科学が敗れたのだ。
しかし、その後も物語は消えたわけではなかった。
第1部「旅の仲間」
「網つ国」の街道を旅をする仲間がいた。私が見た所、そもそも同じ村の中で街道を行ったり来たりして、お喋りを楽しんでるようにしか見えないのだが、本人たちは目的地があって旅をしていたつもりのようだ。
ところが、この旅をする一人が、件の「物語」を語り始めた。何しろ、同じ村の中といえども、天下の街道である。ミンポーカイセーに向かって旅をするとある勇者の末裔に見つかり「こんなのを見つけました。ずばり、「あのインチキ物語」を、信じていらっしゃる一行ですよ。」と言われてしまった。
「旅の仲間」たちは、仲間に文句を言ったということで、この人相手に口ゲンカを始めたのだが、やはり天下の街道のことである。方々から人々が集まり、オマエらの方が悪いと責められることになった。
そうして「旅の仲間」は、ある者はいじけ、ある者は一人で騒ぎ、ある者はモーソーの世界に旅立ったり、ある者はなかったことにして勇者にすり寄る。この「旅の仲間」は以下の話にも出ては来るのだが、もはや回想シーンでの端役である。長編にはよくあるパターンだ。
第2部「二つの塔」
第1部から3ヶ月たった。
昔から象牙の塔という塔がある。この塔の名は人々に揶揄された呼び方だ。しかし、この塔の功績には大きなものがある。世間の風潮とやらと無縁の所で、ものの理を考える、考察のグレードを上げるための方法論を確立してきたわけである。
その功績のひとつに「批判」があった。人々が知を共有するために、その知を違いに磨くために使われる。「網の国」では知を共有することが簡単になった。誰でも「知」を磨くことが出来る。
一方、バベルの塔という塔があった。この塔は今は崩壊している。なぜなら、この塔を建てた人々が、それぞれ違う言葉を使っていたからだ。意思の共有が出来なかったからだ。その教訓から、ある者は、意思を共有できるまで徹底して言葉を尽くそうとする。しかし、ある者は、そもそも塔を作ることが傲慢だ、所詮、意思の共有など出来ない、私がそう思ったんだから、それでいいじゃないか人間だもの。とか思うようになっていた。
そして「批判は攻撃だ、私はそう思いました」ということから、第2部が始まるわけである。そして、この第2部は、私にとっては、意外な結末を迎える。
理屈にあわないからイケナイということに対して、感情を害したからイケナイのですねということで「イケナイ」が一致してしまい、何と無く終わる。
ただ、この終わり方に満足できない人は多いようで、事実関係をきちんと検証することの大切さという話は今も続いている。
第3部「王の帰還」
第2部から1ヶ月。
「網つ国」は共和
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