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10/01/2011

異文化理解のある方法

 クジラは魚じゃない。コウモリは鳥じゃない。多くの人が知ってると思う。
 ひょっとしたら「クジラは魚だろ、コウモリは鳥だろ。」と思う人がいるかもしれない。だって、クジラは水中生活し形態も魚との共通点が多い。夕暮れ時にコウモリが空中を飛んでいるのを見て、鳥だと思っても不思議はない。
 でも、おそらく「クジラが魚じゃないのは知ってるが、コウモリは鳥だろ」とか「クジラは魚だろ、コウモリが鳥じゃないのは知ってるが」という人は、いないだろうと思う。というか、いないだろうと思っていた。ところが、そうでもないらしい。
 「クジラは魚じゃない」と知っている、といっても、小学生くらいなら、先生が、あるいは親が言ったから、「クジラは魚じゃない」というのを信じた、ということがあるだろう。でも、普通は、動物の分類は表面的な形態じゃなくて、内部的な要因による。進化の系統によると書ききれないのが不自由なところだが、まあ、そういうことを理解することで、「クジラは魚じゃない」ということがわかるようになる。それがわかれば「コウモリは鳥ではない」ということもわかる。
 世の中のことを理解するというのは、すべてこのように、別々のことであっても、それを「断片」として知るだけではなく「系」として認識することであり、その「系」は、経験した事実と整合するってことだと思う。わかるってことは、知ったことが、自分の認識の「系」に組み込まれるということだと思っていた。だから「クジラが魚じゃないのは知ってるが、コウモリは鳥だろ」という人はいないだろうと思っていたわけだ。

 ところが、そうでもない人もいるんだと思うようになったのは、とあるピーマン嫌いのぺんぺん草好きな人のブログを通じて知った人が、(あくまで「通じて知った人」で、その本人ではない)、科学も宗教も真偽がわからないことを説明するわけで、信じるという点で同じだということを言ってたからだ。
 科学って信じるものだったのか、それじゃ小学生が「先生が言ったから、クジラは魚じゃない」と信じるのと同じじゃないか。「動物の分類のお約束から、クジラは魚じゃない」とわかるのが科学じゃないのかと、ずいぶん不思議に思った。まあ、この方は、経済学の体系を知らずとも、知ってるその用語を使用する方だったので、「科学を信じる」という表現も、同じように体系ぬきで知ったこと断片だけでも、知ったつもりになってるのかなと納得したのだが。
 まあ、私だって、ブルーバックスとかを読んでさえ、全部がわかるってわけじゃない。でも、わからないけど信じるってわけじゃない、あくまで、わからないから「へーそう」と、とりあえずは知っておくだけ。なので、それが否定するような説を読んでも、やはり「へーこういうのもあるの」と、やはり、とりあえずは知っておくわけだ。
 それで、その時は、科学と宗教って話だったんだけど、むしろ私としては、この時から、どうも世の中には、私の「わかる」と同じような理解の仕方をする人と、全く違う理解の仕方というか「信じ方」をする人がいるようだ、と思うにいたったのだ。「気づき」ってやつかも知れんね。

 世の中に「手品」という芸がある。その「手品」を見せられて、その「手品」自体のタネ・シカケは知らなくとも、他の「手品」から、それにも「タネ・シカケちょこっとある」ということはわかる。さらに、「人間はウソをつくことが出来る」ということを知っていれば、「超能力」というのは、本人の自己申告が異なる「手品」の一種であることが誰でもわかると思っていた。でも、ウソをつく能力のある人間がウソをついていないと「信じる」ことが出来る人なら、それが解明されていない人間の能力であるという理解に到ることができるようだ。
 ある夜に、四足歩行を行う、馬に似ているが、より小さく、顔も首も短い動物が道路を歩いているのを見たとする。それが鹿であることがわかるのは、その形態のみからではない。他の鹿と見間違える動物であるより、また錯覚であることよりも、近所で度々、鹿を目撃しているという体験や、鹿の生態についてわかっていることから、はるかに可能性が高い。なので、視覚情報だけから「鹿だとわかる」のではなく、系としての認識の結果から「鹿だとわかる」わけである。
 ただ、鹿に仮装した人物が歩いている、鹿のロボットの動作実験を行っている、という理由は排除できない。なので、100%の確度ではない。このことは忘れがちなので、気をつけないといけないところだが、鹿であるよりも、確度は極端に低い。なので「鹿だとわかった」と見なせる。
 しかし、ある夜に、昔の人が「かっぱ」と呼んだものと合致しているものを見たとする。しかし、それが実際に「かっぱ」であると判断するわけにはいかない。なぜなら、それを「かっぱ」の形態と視覚は認識したとしても、そこに「かっぱ」がいるというのは、私の認識系の中には組み込み難いから、それが「かっぱだとわかる」わけにはいかない。でも、やはり、世の中には「かっぱ」を見たと思うことができる人がいるようだ。

 知人などから「あの人の書いてることはわからん」ということを聞くことがある。難しくてわからん、のではなく文意不明の類だ。   
 「わかる」というのは、自分の認識の「系」に組み込むこと、という人が、断片だけを信じることができる人の文を読むと、えてしてこうなる。認識の方法が違うからで、いわば語彙は同じでも文法の違う文を読むようなものだ。
 「クマは生態系の頂点です」という文があったとしよう。これは事実を述べただけであって当為性を述べてるわけではない。しかし、当為性を認めるなら、生態系で維持可能な生息数以上のクマは淘汰されて当然ということになる。一方、それ以上の数のクマを棲息させるために給餌しようとすれば、この文の当為性を否定しなくちゃいけない。なので「クマは生態系の頂点です」と「クマに給餌する」という文が順接として書かれると、自身の認識の「系」に生態系という概念がある人が読むと、「わけがわからん」になるわけである。
 でも「クマは生態系の頂点です」というのは、単にそういうコトを知ってるというだけで、生態系の概念がないと考えれば、意味は通じるわけである。「クマは生態系の頂点です」だからクマさんはエライ、そのクマさん可哀想、「クマに給餌する」になると。「生態系の頂点」にない動物はエラクないので、外来生物による生態系の撹乱があっても、ほっときゃいい、ということにもなる。
 この世に「クジラが魚じゃないのは知ってるが、コウモリは鳥だろ」という類の人がいるということがわかれば、このような文だって、ある程度、意味がとれるようになった。

 おそらく世間のトンデモの類は、かような、知ったことを自身の認識の「系」に組み込むことでモノゴトを理解するのではなく、断片を知っただけでも、それを信じることの出来る人によって共有されてるんじゃないかと思う。なので、トンデモ同士はひっつきもっつきするんだろう。
 基本的な理解の方法論は違うけれども、知ってることの多寡ではないし、断片内での方法論は論理は成立していることもあるわけであり、たぶん、日常生活や狭い領域での理解や火山学には支障がないんだと思う。
 陰謀論や「ネットで真実を知った」の類も、それ自体はひとつの「系」をなしている。でも、より大きな認識の「系」には組み込めないというのがほとんどだろう。陰謀や「ネットで真実を知った」を否定するわけじゃないけど、ウィキリークスが暴露したコトは、当事者の反応があり、メディアや専門家が後追いするのに、ほとんど誰もが無視するような、断片的な「真実」もネットでは知ることもできるし。それでも信じちゃうことが可能な人がいるわけである。
 勝手に「系」として理解しようとはしない、というのが、こういう人たちの意見を読むことの基本だろうと思う。読んでもたいした意味もないだろうけど。

どうでもいい追記。
 とある人と、ある異文化の人に関し、「彼は、便意兵は違法だから、それによって裁判なしの処刑の違法性が阻却されるって考えてるけど、言語能力が乏しいんで表現できないんじゃないの」という話をして、「彼の中では、両者の違法性は同次元なんだけど、前者は法制上の違法性、後者はよりメタレベルでの人道上の違法性だから、相殺できるもんじゃないのが理解できないんじゃないのかなぁ」という趣旨のことを話そうとしたら、「便意兵ちゃう便衣兵や」と突っ込まれた。まあ「系」で理解するちゅうても、ゲリらちゅうくらいやし便意兵やろという、こういうヘンな系で間違いもするわけで注意したいところではある。

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