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09/04/2013

風の丘を越えて(西便制)

風の丘を越えて 10数年以上昔に見て、気に入った映画だ。特に、珍道アリランを歌いながら旅芸人が歩く名シーンの風景を実際に見たくなったほどだ。実際に行った知人がいて、かなり辺鄙な島だったそうで、結局、行きそびれてはいるが。
 それがDVD化されていたので、ひさしぶりに見た。それで気付いたことがある。ラストシーンの意味だ。映画のストーリーとは全く無関係に、盲目の芸人が若い女性に手を引かれて旅をしている。
 この映画は「パンソリ」という芸能をテーマにした映画だ。最初に見た時にはパンソリの知識なんて全くなかった。ただ、この映画を見て、その後に生パンソリを聞きに行ったこともあるし、この映画と同じイムグォンテク(임권택)監督の「春香伝」というパンソリの代表曲を映画化したのも見て、ほんのわずかな知識は得たわけである。
 それで、この映画の中でも「春香歌」を語るシーンは出てくる。でも途中で、はて「春香伝」にこんな場面があったかなという所に気付く。どうも「沈清歌」という別の歌らしい。「春香歌」というのは春香という女性の物語であり、「沈清歌」というのは、盲目の父親につくす孝女沈清の話。
 そこまでわかれば、というか韓国の観客には簡単にわかることだろうけど、ラストシーンに「沈清」を思わせる若い女性が出てくるということは、この映画の主人公の女性は「春香」になぞらえてあるということに気付かされる。可哀想な放浪の旅芸人が他にもいる、そんな付け足しではなく、この映画の中で、あえて曖昧にされてもいる人間関係を説明するというか、種明かしをするためのシーンだったわけである。
 「春香歌」というのは、簡単に言ってしまえば、恋人といったん離ればなれになった春香が、彼女に横恋慕した土地の長官の言うことを聞かなかったので投獄されたものの、恋人が戻って来て再会する、という話だ。一方、この映画は、姉弟と2人のパンソリの師匠でもある父親の物語だ。でも親子、姉弟といっても血縁関係はない。そして、弟が逃げ出し、父親は彼女に失明する薬を飲ませる。やがて一人となった彼女の所に弟が訪ねて来て再会し、彼女の歌と弟の太鼓で一晩かけてセッションをする。
 弟が逃げ出した後、彼女は生きる気力さえ失ったように見える。一方、この父親はその彼女を親身にいたわり世話をする。血縁はないといいながら父親だからだろうか。でも、そこまでの愛情を持ちながら、失明させる薬を飲ませるという残酷なことをする。つまりは、恋人と別れた春香と、彼女に恋し、そして自分の支配下におくために投獄する長官という構図だ。投獄する代わりに、彼女が逃げられないように失明させるわけだ。そして再会した姉弟のセッションを聞いた居酒屋兼宿屋の主人は、恋人同士が睦みあってるようだという。
 状況は異なっているけれど、恋人と一緒にいたいという「恨」、自分のものとしたいのに出来ないという「恨」、そして、その支配下に置かれざるを得ない「恨」、つまりは、この物語に描かれる「恨」というのは、「春香歌」における「恨」と通底するものとして描いてあるのだろう。そして、パンソリの境地として「恨」を越えるということが言われるが、弟とのセッションにおいて、彼女はそれらの「恨」を越えて歌うことができたのだろうか。
 「春香歌」では再会した恋人はハッピーエンドで終わる。しかし、この映画は再会し、互いに相手が誰かわかりながら、セッションをしただけで別れる。構図としては違うんだけど、どちらも「恨」の物語としては終わっているわけである。
 古典が古典として価値があるのは、何もその歴史性故だからだけではない。古典の中に描かれた普遍性ということも大事だろう。そして古典の構図を近代の物語として再構築することで、現代にも通じる普遍性を描いた映画だと思う。
 最初に見た時の私がそうであったように、パンソリのことを何も知らなくて、この主人公が春香であると気付かなかくても、それはそれで「気に入った」映画であった。とりもなおさず、それが古典の普遍性だろう。

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