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31/01/2015

信仰は侮辱すべきでない

 ローマ教皇が、「他の人の信仰を侮辱してはならない」という意味のことを言ったそうだ。報道では「もし友人のガスバッリ氏が私の母のことをののしったら、パンチが飛んでくるだろう。それは普通のことだ」とも書いてあるんで、倫理としていけないんじゃなくて、当然に報復されるだろうからいけない、という趣旨だったのか、どうもわからんことが多いニュースだった。ともかくも、例の仏週刊紙が襲撃された件を念頭に置いたものだろうけど、でも、ここからは、仏ともイスラムとも関係ない話。
 教皇はもちろん進化論を肯定しているだろう。教皇が選ばれ、教皇を選ぶ枢機卿だってそうだろう。アタリマエだ。十何億人の信仰を指導する立場なんだから相応の知性をお持ちだ。聖書の書かれた時代には進化論は提唱されていなかったんで、聖書が進化論を踏まえていないのは当然で、聖書の作り方が手書きから木版印刷に、活版印刷になり、電子印刷になったように、その読み方だって時代によって変わるのは当然で、規範としての聖書は、文理解釈ではなく論理解釈すべきものなんだろう。
 別に、生活の規範がフィクションであってもかまわないわけで、私だって、バカボンのパパを生き方の規範にしているくらいである。
 もちろん、カトリックだけではなく、他のキリスト教徒だって、学校を運営しているし、科学者の中にもキリスト教徒は大勢いる。聖書を規範とした信仰を持つ人たちの多くは進化論を肯定しているだろう。
 ところがである、一方で聖書の記述を理由に進化論を否定する人たちもいるらしい。その差は何なのか。キリスト教の神学についての知識はないけれども、一方で聖書を規範とする信仰を持ち、進化論を肯定する人たちがいる以上、常識的に考えれば、それは信仰の問題ではなく、読解力であったり、認識力であったり、思考力の問題ではないのか、私にはそう思えるのだ。
 なので、本人は「信仰のゆえ」と進化論を否定しているかもしれないが、どう見ても「知性のゆえ」に肯定できないとしか思えない。ひょっとしたら、この手の連中には、私はヒト、Homo sapiensであって、子羊、Ovis ariesではないとか反論したら、わけがわからなくなるかも知れない。
 「他の人の信仰を侮辱してはならない」、私もそのようにしている。でも、「信仰の故に」のつもりで進化論を否定している自称キリスト教徒を侮辱したって、それは、聖書を規範とする信仰を侮辱しているわけではなく、規範を理解できない知性を侮辱しているわけなんだが。
 ついでに、例えば、ネーミングライツや名誉博士号を買って、それを吹聴する。それが自称発明家なら侮辱していいけど、「信仰」の指導者だったら侮辱してはいけないのだろうか。これとて、信仰を侮辱しているわけではないのだが。
 牟田口廉也に言及しても、とある新興宗教の祭神になってる東條英機や木村兵太郎に言及しても、普通には「侮辱」するような言説になるわけだが、後者だけが信仰の侮辱になる、というのも変だし。
 元の教皇の言葉とは無関係なこんなことを書いてるのも、こういう「知性の問題」を他の差異にすり替えるということに、どうにもうんざりしていることがある。専門研究者の見解と、学問研究の成果に値しない与太話と、どちらを肯定するかは知性の問題のはずである。なのにそれをイデオロギーの差異とすり替えて、政治的に意見が分かれているなんぞという。おかげで、私なんぞは、どちらかといえば右翼的信条を持ち、それゆえに「専門の研究者」という権威を尊重し、研究者の意見に拠る傾向があるのだが、かようなすり替えによって、サヨクよばわりされたりすることもある。
 他の人の信仰やイデオロギーを侮辱はしない。ただ、アホにはアホと言うてるだけである。アホ言うもんがアホやと言われれば、そうやと答える。それだけである。

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