すずがも・八丈・藪鴬
この冬も、近所の公園で2羽のハチジョウツグミ、Turdus naumanniが越冬している。
そんなこともあり、一昨年の12月にハチジョウツグミの名前の由来について少し触れた後、翌年にやや詳しく追加して言及した記事と、内容は重複するけれどまとめなおし、この「改訂版」にした。
結論を先にいえば、江戸時代の鳥類図鑑「観文禽譜」に、「八丈紬に似た色だから八丈つぐみ」とあって、その通りだろう。
以下はこの結論に至るまでの解説というか経緯。なお、Turdus naumanniのナウマンさんはナウマン象のナウマンさんのお父さん。
スズガモで「八丈」を連想
これは昨冬も同じ公園で越冬していたハチジョウツグミ。
その頃に出かけた先でビロードキンクロを見たついでにスズガモを撮ったのがそもそものきっかけ。
というのも、スズガモと書こうとすると「鈴ヶ森」が予測変換で出てくる。鈴ヶ森といえば東京の地名で、かつて刑場があった場所。今も学校名や公園名に残っているので刑場だったから忌避したのではないと思うが、地名としては消えている。行ったこともないし、知人が住んでるのでもないのけど「鈴ヶ森」が候補に出てくるのは芝居とかに出て来て、近所で見られない「スズガモ」より使用頻度が高いから。
鈴ヶ森の芝居といえば、まず「御存鈴ヶ森」。
「ご存じ」というくらいだからこの芝居は広くご存じされてるのだろう。1823年の四世鶴屋南北作の「浮世柄比翼稲妻」の一幕で、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。片岡孝太郎の権八を金比羅歌舞伎で見たことくらいしか覚えてない。
むしろ私の場合、「鈴ヶ森」といえば、義太夫の「恋娘昔八丈」の七段目「鈴ヶ森の段」の方が思い当たる。人形浄瑠璃の初演は1775年だから「御存鈴ヶ森」より半世紀ほど早い。そして、この「恋娘昔八丈」の「八丈」というのは地名ではなく織物のことだ。ビロードキンクロというのはビロードのような羽色のキンクロハジロ、それと同じことで、八丈のような羽色のツグミで八丈つぐみと思ったのだけど、その後に八丈島で捉えられたとかいう記述を見て、少しチェックして書いたのが昨年の記事だ。
鈴ヶ森から八丈って、獄門から遠島と罪一等を減じたみたいだけど。
「ご存じ」というくらいだからこの芝居は広くご存じされてるのだろう。1823年の四世鶴屋南北作の「浮世柄比翼稲妻」の一幕で、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。片岡孝太郎の権八を金比羅歌舞伎で見たことくらいしか覚えてない。
むしろ私の場合、「鈴ヶ森」といえば、義太夫の「恋娘昔八丈」の七段目「鈴ヶ森の段」の方が思い当たる。人形浄瑠璃の初演は1775年だから「御存鈴ヶ森」より半世紀ほど早い。そして、この「恋娘昔八丈」の「八丈」というのは地名ではなく織物のことだ。ビロードキンクロというのはビロードのような羽色のキンクロハジロ、それと同じことで、八丈のような羽色のツグミで八丈つぐみと思ったのだけど、その後に八丈島で捉えられたとかいう記述を見て、少しチェックして書いたのが昨年の記事だ。
鈴ヶ森から八丈って、獄門から遠島と罪一等を減じたみたいだけど。
江戸時代中期における「八丈」
この「恋娘昔八丈」は、亨保年間の1726年に江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」で、長女のお熊らによって入り婿の夫が殺された事件がモデルで、翌1727年にお熊は市中引き回しの上獄門となった。その際にお熊が黄八丈の小袖を着ていたことが、当時の人々に大きなインパクトを与えた。
文ばっかりダラダラ続いてもツマランので、ついでに近場のおくまさん。
お熊の事件から約半世紀、安永4年、1775年の夏に江戸で初演されたのが、人形浄瑠璃の「恋娘昔八丈」である。この芝居では、店の名は「白城屋」に、主人公の名は「お熊」から「お駒」に変えられている。
文ばっかりダラダラ続いてもツマランので、ついでに近場のおくまさん。おくまさんと同じ林道で見られるので、シーズンには上も周囲も見て歩かないといけなくて、ついつまずいて膝をいためたりする。それでお山にあまり行けなくなって、こんな記事を書いてる。
この「恋娘昔八丈」のラストシーンが「鈴ヶ森の段」。
上はその床本というか稽古本の最初と最後のページ。以前に浄瑠璃の稽古をした時に、お駒やその両親、代官堤弥藤次よりも、冒頭のちょい役の野次馬の会話を語り別けるのに難儀した覚えがある。野次馬は江戸っ子なんだけど義太夫節なんで上方アクセントというのも何か変。ともかくも、芝居では、結局、お駒は違法性阻却事由が明らかになって「お駒が命赦免の状」が届いて釈放される。
その場でお駒が着ていたのは、最後のページの4行目に「重ねて黄八丈。昔語ぞ今ここに」とあるように、タイトルにもなってる織物の「八丈」。
この芝居は大ヒットし、翌年5月までのロングランとなる。翌安永5年、1776年には歌舞伎化されて上演される。この年に大流行した風邪、旧型コロナウィルス感染症だろうけど、それが「お駒風」と名付けられたくらいに大当たりする。八丈紬のメーカーのサイトに、織物の「八丈」が大人気となったのは芝居が契機とあるくらい。アメリカが独立戦争をやってた頃、日本じゃ黄八丈が大流行してたわけで、当時は「八丈」というのは地名というより、流行りの芝居に出てくる織物のことだったのだ。
なお、この白子屋の事件当時の江戸南町奉行は大岡忠相で、「恋娘昔八丈」では出せないが、事件は後に大岡政談として脚色されてゆくことになる。有名なものに明治になった1873年に初演された「梅雨小袖昔八丈」があり、通称「髪結新三」。やっぱり八丈の衣装は引き継がれる。なおこの芝居を元に、1937年には山中貞雄監督の「人情紙風船」という映画が作られ、白子屋のお駒を霧立のぼるが演じている。モノクロなので衣装の模様はそれっぽいが八丈かどうかはわからないのがチト、サビシイ。
上はその床本というか稽古本の最初と最後のページ。以前に浄瑠璃の稽古をした時に、お駒やその両親、代官堤弥藤次よりも、冒頭のちょい役の野次馬の会話を語り別けるのに難儀した覚えがある。野次馬は江戸っ子なんだけど義太夫節なんで上方アクセントというのも何か変。ともかくも、芝居では、結局、お駒は違法性阻却事由が明らかになって「お駒が命赦免の状」が届いて釈放される。
その場でお駒が着ていたのは、最後のページの4行目に「重ねて黄八丈。昔語ぞ今ここに」とあるように、タイトルにもなってる織物の「八丈」。
この芝居は大ヒットし、翌年5月までのロングランとなる。翌安永5年、1776年には歌舞伎化されて上演される。この年に大流行した風邪、旧型コロナウィルス感染症だろうけど、それが「お駒風」と名付けられたくらいに大当たりする。八丈紬のメーカーのサイトに、織物の「八丈」が大人気となったのは芝居が契機とあるくらい。アメリカが独立戦争をやってた頃、日本じゃ黄八丈が大流行してたわけで、当時は「八丈」というのは地名というより、流行りの芝居に出てくる織物のことだったのだ。
なお、この白子屋の事件当時の江戸南町奉行は大岡忠相で、「恋娘昔八丈」では出せないが、事件は後に大岡政談として脚色されてゆくことになる。有名なものに明治になった1873年に初演された「梅雨小袖昔八丈」があり、通称「髪結新三」。やっぱり八丈の衣装は引き継がれる。なおこの芝居を元に、1937年には山中貞雄監督の「人情紙風船」という映画が作られ、白子屋のお駒を霧立のぼるが演じている。モノクロなので衣装の模様はそれっぽいが八丈かどうかはわからないのがチト、サビシイ。
こちらは歌舞伎の「恋娘昔八丈」の、幕末の月岡芳年の絵。黄八丈といえば、黄色地の濃色の細い格子が現在では一般的だけど、当時の「八丈」にはこういう色合いが多かったようだ。こういう鳶色がメインのものも含めて、黄色の色を使ったものの総称を「黄八丈」と言ったらしい。
堀田正敦の「観文禽譜」
「白子屋」事件のあった亨保といえば将軍は吉宗。家康が好んだ鷹狩りは綱吉の時代には禁止されていたが、その鷹狩りを復活し好んだ吉宗であった。本家徳川じゃなく紀州の出だったんで元祖徳川っぽくしたかったのかは知らんけど。鷹狩りの獲物としても鳥は重要だったので、鳥の絵も描かれるようになるし、吉宗には絵画の趣味もあった。しかし、当時のお抱え絵師の形骸化した絵に飽き足らずに、清国から1731年に沈南蘋という画家を招聘する。彼は2年間滞在し、写実的な鳥の絵を伝えることになった。なお、この南蘋風の絵は、かの伊藤若冲にも大きな影響を与えている。
お駒の芝居の大流行は田沼意次の時代。田沼意次に代わって老中となったのが松平定信、吉宗の孫である。この人も南蘋風の絵の愛好者であったようだ。寛政2年、1790年に松平定信の引き立てで老中に次ぐ地位の若年寄になったのが、近江堅田藩主の堀田正敦。
この堀田正敦は、江戸時代の鳥類図鑑として有名な「禽譜」とその解説書「観文禽譜」を編纂し、寛政6年、1794年に一応の完成を見ている。
この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており「八丈つぐみ」も載っている。つぐみは戦後すぐくらいまでは、食用鳥として重要だったので当然だろう。
この堀田正敦は、江戸時代の鳥類図鑑として有名な「禽譜」とその解説書「観文禽譜」を編纂し、寛政6年、1794年に一応の完成を見ている。
この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており「八丈つぐみ」も載っている。つぐみは戦後すぐくらいまでは、食用鳥として重要だったので当然だろう。
「八丈ノ産に非ズ猥ニ名ツクルノミ大サツクミノ如シ赤褐色八丈嶋産スル所紬ノ色ニ能似タリト云ヘリ」とある。八丈島に生息してるわけじゃなく、赤褐色が八丈島産の紬の色によく似ていると言われての俗称だと書いてある。
そもそも「八丈島」という地名さえ織物の「八丈」の産地ということで呼ばれたのが由来だとか。
このように八丈つぐみという名前はマリー・アントアネットが首ちょんぱされた頃には一般的だったようである。
なお、正敦の五男で家督を継いだのが堀田正衡で、やはり若年寄となっている。こちらは貝類の図鑑「観文介譜」を作っている。この正衡の近習だったのがシャケの絵で知られる高橋由一で、日本画の限界を超えた質感の写実性を追求して油絵の技法を習得した成果があのシャケである。
そもそも「八丈島」という地名さえ織物の「八丈」の産地ということで呼ばれたのが由来だとか。
このように八丈つぐみという名前はマリー・アントアネットが首ちょんぱされた頃には一般的だったようである。
なお、正敦の五男で家督を継いだのが堀田正衡で、やはり若年寄となっている。こちらは貝類の図鑑「観文介譜」を作っている。この正衡の近習だったのがシャケの絵で知られる高橋由一で、日本画の限界を超えた質感の写実性を追求して油絵の技法を習得した成果があのシャケである。
八丈を地名とする珍説
このように「ハチジョウツグミ」という名前の由来は、吉宗の時代以来の殺人事件やらリアルな鳥の絵の追求などの経緯からも、「観文禽譜」の記述どうりなのは明らかなんだけど、ネット上では「八丈島で捕らえられたから」という記述をよくみる。たぶん元はWikipediaの記述か、その出典として載っている「安部直哉『山溪名前図鑑 野鳥の名前』」。そう高くもない本なので買おうかと思ったけれど、Amazonの書評に「この本は作者の思いつきで野鳥名の由来を語っているだけなので」とあったんで、躊躇してたら、図書館で見かけた。この本では、他の部分では出典の記述があるのに、「昔、たまたま八丈島で捕獲された」については出典がない。まるほどこの項だけでも書評どおり。その程度の信頼性の本なんだろう。
「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開され誰でも見られるようになって10年以上、それ以前から現物は国会図書館にあったのに、何でいまだにこんな説が流通してるか不思議でさえある。
「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開され誰でも見られるようになって10年以上、それ以前から現物は国会図書館にあったのに、何でいまだにこんな説が流通してるか不思議でさえある。
藪鴬のこと
ついでに「御存鈴ヶ森」の方に出てくる鳥にも気になったことがあった。「阿波座烏は浪花潟、藪鶯は京育ち、吉原雀を 羽交につけ……」という台詞がある。
阿波座というのは現在も地下鉄の駅名になっている大阪の地名。阿波座烏というのは「たまたま阿波座で捕獲された烏」でもない。大阪の新町遊郭の冷やかし客のこと。「買う買う」と言いながら群れてるからだとか。
吉原雀というのは江戸吉原の冷やかし客だろう。「よしはらすゞめ」というのは、先の「観文禽譜」には「剖葦」つまりヨシキリのことと載ってる。
阿波座というのは現在も地下鉄の駅名になっている大阪の地名。阿波座烏というのは「たまたま阿波座で捕獲された烏」でもない。大阪の新町遊郭の冷やかし客のこと。「買う買う」と言いながら群れてるからだとか。
吉原雀というのは江戸吉原の冷やかし客だろう。「よしはらすゞめ」というのは、先の「観文禽譜」には「剖葦」つまりヨシキリのことと載ってる。
これが「よしはらすゞめ」ことオオヨシキリ。だけどヨシキリの意味なのか、単に雀というのは、かしましく群れる町の人達を言うことも多いわけで、どちらからかは分からない。
そして、こちらが「藪鴬」。どういう意味かは、京の遊郭、この時代なら火災で寂れる以前なので島原だろうけれど、その冷やかし客のことなのは前後の文脈上から明らか。でも、なぜに「藪鴬」なのかがわからない。
島原の角屋が博物館になってるんで行ってみたけれど閉館中だった。そこに問い合わせ電話番号があったんで、学芸員がいるかを聞いてみたら、相手が代わり何を聞きたいかと聞かれたんで、藪鴬のことを言ったら「聞いたことない」。何か資料でもと思って行ったんだけれど、閉館中なんでそれで終わり。
「連子窓の向こうをウロウロしてるから」かと思ったが、客は吉原のように窓越しに相手を選んで入店するのではなく、島原では入店してから別の店から呼んでもらうというシステムの違いがある。けれども連子窓があることは確認できた。
「連子窓の向こうをウロウロしてるから」かと思ったが、客は吉原のように窓越しに相手を選んで入店するのではなく、島原では入店してから別の店から呼んでもらうというシステムの違いがある。けれども連子窓があることは確認できた。
Commentaires
先日、武蔵野公園でハチジョウツグミを初めて見て、「ハチジョウ」の名前の由来は何だろう?と調べていたら、こちらのページに来ました。
国立国会図書館デジタルコレクションの「観文禽譜」を引用されているだけでなく、当時の時代背景も考察された記事に「なるほど~!」と納得しました。たいへん興味深い記事をありがとうございました。
ところで、堀田正教の「観文禽譜」ですが、
堀田正教 ではなく、
堀田正敦 のtypoではないでしょうか?
Rédigé par: あうるの森 | 15/03/2022 14:35
あれ?と思ったら、確かに正敦が正教になってますね。固有名詞をコピペで入れていくといけませんね。直さねば。
この記事の以前に、Wikipediaのページのハチジョウツグミの画像は私が投稿したということもあり、記事も直しておこうかと思ったのですが、むしろ安易にWikipediaを写してしまうか、ちゃんと裏を取るか、その人のスタンスが分かるという効果もあるんで、そのままにしています。
なお「観文禽譜」の中を探されたのは、お手間だったようですが、読んでると、昔の人の鳥の意識がわかって、けっこう面白いと思うのですが。
Rédigé par: POKOPON | 15/03/2022 21:45