ロード・オブ・ザ・ループ
一部の人が見ていた話だが、もはや第3部になると見ている人も少ない。今も第2部のエピローグは続いているし、第3部の途中であるが、第3部は話がループに入ってきているだけではなく、もっと歴史的に根深いループに突入しているようだ。
以前に、第1部や第2部が話題になった時は、ほとんど取り上げなかったのだが、この「大きなループ」には以前から触れてきたので、ここで感想をあげてみる。
そもそも、この話の発端はひとつの物語、それも死んだも同然のクダラナイ物語だ。
その物語を捨てなければ、この世は闇となる。
遠い遠い昔、理性を滅ぼす魔力を秘めた“ひとつの物語”が作り出された。波動測定器なるものを高額で販売したいという欲望が、この物語に注ぎ込まれていたのだ。
その物語に屈していった人たちもいた。しかし、物語があまりにバカバカしく無視していた勇者たちが、科学を僭称していると物語に立ち向かった。そして、物語は科学でないと否定された。ニセ科学が敗れたのだ。
しかし、その後も物語は消えたわけではなかった。
第1部「旅の仲間」
「網つ国」の街道を旅をする仲間がいた。私が見た所、そもそも同じ村の中で街道を行ったり来たりして、お喋りを楽しんでるようにしか見えないのだが、本人たちは目的地があって旅をしていたつもりのようだ。
ところが、この旅をする一人が、件の「物語」を語り始めた。何しろ、同じ村の中といえども、天下の街道である。ミンポーカイセーに向かって旅をするとある勇者の末裔に見つかり「こんなのを見つけました。ずばり、「あのインチキ物語」を、信じていらっしゃる一行ですよ。」と言われてしまった。
「旅の仲間」たちは、仲間に文句を言ったということで、この人相手に口ゲンカを始めたのだが、やはり天下の街道のことである。方々から人々が集まり、オマエらの方が悪いと責められることになった。
そうして「旅の仲間」は、ある者はいじけ、ある者は一人で騒ぎ、ある者はモーソーの世界に旅立ったり、ある者はなかったことにして勇者にすり寄る。この「旅の仲間」は以下の話にも出ては来るのだが、もはや回想シーンでの端役である。長編にはよくあるパターンだ。
第2部「二つの塔」
第1部から3ヶ月たった。
昔から象牙の塔という塔がある。この塔の名は人々に揶揄された呼び方だ。しかし、この塔の功績には大きなものがある。世間の風潮とやらと無縁の所で、ものの理を考える、考察のグレードを上げるための方法論を確立してきたわけである。
その功績のひとつに「批判」があった。人々が知を共有するために、その知を違いに磨くために使われる。「網の国」では知を共有することが簡単になった。誰でも「知」を磨くことが出来る。
一方、バベルの塔という塔があった。この塔は今は崩壊している。なぜなら、この塔を建てた人々が、それぞれ違う言葉を使っていたからだ。意思の共有が出来なかったからだ。その教訓から、ある者は、意思を共有できるまで徹底して言葉を尽くそうとする。しかし、ある者は、そもそも塔を作ることが傲慢だ、所詮、意思の共有など出来ない、私がそう思ったんだから、それでいいじゃないか人間だもの。とか思うようになっていた。
そして「批判は攻撃だ、私はそう思いました」ということから、第2部が始まるわけである。そして、この第2部は、私にとっては、意外な結末を迎える。
理屈にあわないからイケナイということに対して、感情を害したからイケナイのですねということで「イケナイ」が一致してしまい、何と無く終わる。
ただ、この終わり方に満足できない人は多いようで、事実関係をきちんと検証することの大切さという話は今も続いている。
第3部「王の帰還」
第2部から1ヶ月。
「網つ国」は共和制だ。王などいない。しかし、昔から「御作法」という王を擁立しようという動きがあった。この「御作法」という王は、他の国では統治はしていないのだが君臨している。
「網つ国」の「御作法」王は、「無断リンク禁止」とか「引用や言及には許可を」とか、およそ、著作物の公表という概念にはなかったものに、「おつきあい」のレベルのマナーを持ち込むというものであった。
このような王の擁立に対しては。共和制の人たちは「そもそもwwwとは」とか「仕様でも法的にも可能なことは前提にすべき」と撃退してきたのであるが、「網つ国」に「著作物の公表」より「井戸端会議」や「給湯室の雑談」や「居酒屋談義」に馴染んだ人が移住してくる度に、十年一日のごとく、擁立騒ぎが巻き起こる。
そして、この巨大なループにこの話が呑み込まれていくというのが第3部だ。そもそもの勇者の指摘はケシカラン、「御作法」王に不敬であるということになる。
第2部で登場した「批判は攻撃」の種族が、このループに巻き込まれると「私は権力は批判するが、一般市民は批判しない」ということになる。およそ、どこの誰ともわからない一般市民の批判は不可能だ、一般市民が公表した意見を批判しているわけであり、「批判」と「攻撃」の混同と「著作物の公表」と「井戸端会議」の混同という、ダブル混同でっす。なお、このシーンは俯瞰撮影ではないと思うのだが。
話は、第1部や第2部の続きではあるが、もはやテーマは「網つ国」の昔からのループに入ってしまった。ジャンプ漫画が長編化するとネタにつまって格闘技大会になるように、「網つ国」の話は長編化してネタにつまると、御作法ネタになる。ただし、このループに入ってしまうことで、発端のニセ科学という「物語」がクダラナイということが前提と化して定着するのなら、それはそれでいいことだろう。


ある疾病に対し、外科的療法が適切か、内科的療法が適切か、こういう選択肢があるとする。外科的療法を支持する医師でも、というか医師でなくても「心霊手術」には反対するだろうし、外科的療法は不要と考える人でも、まともな人なら「マイナスイオンで治る」などという意見にには耳を貸さない。「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」だのというのは、医療上の選択肢ではない。
最近に、思想的にリベラルであり、安倍政権に反対の立場を表明していたblogで、城内実に対する評価が全く分かれている例があった。これも当面の「経済政策」に対抗するために、妥協が出来るか、妥協にも程があると思うかの差かと思う。
Under the Moonと言っても、壷を売ったり、ニセ科学を信じたり、家族を崩壊させる連中の話ではない。そのMoonじゃなく月のこと。
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