2008.05.12

ロード・オブ・ザ・ループ

 一部の人が見ていた話だが、もはや第3部になると見ている人も少ない。今も第2部のエピローグは続いているし、第3部の途中であるが、第3部は話がループに入ってきているだけではなく、もっと歴史的に根深いループに突入しているようだ。
 以前に、第1部や第2部が話題になった時は、ほとんど取り上げなかったのだが、この「大きなループ」には以前から触れてきたので、ここで感想をあげてみる。
 そもそも、この話の発端はひとつの物語、それも死んだも同然のクダラナイ物語だ。

 その物語を捨てなければ、この世は闇となる。
 遠い遠い昔、理性を滅ぼす魔力を秘めた“ひとつの物語”が作り出された。波動測定器なるものを高額で販売したいという欲望が、この物語に注ぎ込まれていたのだ。
 その物語に屈していった人たちもいた。しかし、物語があまりにバカバカしく無視していた勇者たちが、科学を僭称していると物語に立ち向かった。そして、物語は科学でないと否定された。ニセ科学が敗れたのだ。
 しかし、その後も物語は消えたわけではなかった。

第1部「旅の仲間」
 「網つ国」の街道を旅をする仲間がいた。私が見た所、そもそも同じ村の中で街道を行ったり来たりして、お喋りを楽しんでるようにしか見えないのだが、本人たちは目的地があって旅をしていたつもりのようだ。
 ところが、この旅をする一人が、件の「物語」を語り始めた。何しろ、同じ村の中といえども、天下の街道である。ミンポーカイセーに向かって旅をするとある勇者の末裔に見つかり「こんなのを見つけました。ずばり、「あのインチキ物語」を、信じていらっしゃる一行ですよ。」と言われてしまった。
 「旅の仲間」たちは、仲間に文句を言ったということで、この人相手に口ゲンカを始めたのだが、やはり天下の街道のことである。方々から人々が集まり、オマエらの方が悪いと責められることになった。
 そうして「旅の仲間」は、ある者はいじけ、ある者は一人で騒ぎ、ある者はモーソーの世界に旅立ったり、ある者はなかったことにして勇者にすり寄る。この「旅の仲間」は以下の話にも出ては来るのだが、もはや回想シーンでの端役である。長編にはよくあるパターンだ。

第2部「二つの塔」
 第1部から3ヶ月たった。
 昔から象牙の塔という塔がある。この塔の名は人々に揶揄された呼び方だ。しかし、この塔の功績には大きなものがある。世間の風潮とやらと無縁の所で、ものの理を考える、考察のグレードを上げるための方法論を確立してきたわけである。
 その功績のひとつに「批判」があった。人々が知を共有するために、その知を違いに磨くために使われる。「網の国」では知を共有することが簡単になった。誰でも「知」を磨くことが出来る。
 一方、バベルの塔という塔があった。この塔は今は崩壊している。なぜなら、この塔を建てた人々が、それぞれ違う言葉を使っていたからだ。意思の共有が出来なかったからだ。その教訓から、ある者は、意思を共有できるまで徹底して言葉を尽くそうとする。しかし、ある者は、そもそも塔を作ることが傲慢だ、所詮、意思の共有など出来ない、私がそう思ったんだから、それでいいじゃないか人間だもの。とか思うようになっていた。
 そして「批判は攻撃だ、私はそう思いました」ということから、第2部が始まるわけである。そして、この第2部は、私にとっては、意外な結末を迎える。
 理屈にあわないからイケナイということに対して、感情を害したからイケナイのですねということで「イケナイ」が一致してしまい、何と無く終わる。
 ただ、この終わり方に満足できない人は多いようで、事実関係をきちんと検証することの大切さという話は今も続いている。

第3部「王の帰還」
 第2部から1ヶ月。
 「網つ国」は共和制だ。王などいない。しかし、昔から「御作法」という王を擁立しようという動きがあった。この「御作法」という王は、他の国では統治はしていないのだが君臨している。
 「網つ国」の「御作法」王は、「無断リンク禁止」とか「引用や言及には許可を」とか、およそ、著作物の公表という概念にはなかったものに、「おつきあい」のレベルのマナーを持ち込むというものであった。
 このような王の擁立に対しては。共和制の人たちは「そもそもwwwとは」とか「仕様でも法的にも可能なことは前提にすべき」と撃退してきたのであるが、「網つ国」に「著作物の公表」より「井戸端会議」や「給湯室の雑談」や「居酒屋談義」に馴染んだ人が移住してくる度に、十年一日のごとく、擁立騒ぎが巻き起こる。
 そして、この巨大なループにこの話が呑み込まれていくというのが第3部だ。そもそもの勇者の指摘はケシカラン、「御作法」王に不敬であるということになる。
 第2部で登場した「批判は攻撃」の種族が、このループに巻き込まれると「私は権力は批判するが、一般市民は批判しない」ということになる。およそ、どこの誰ともわからない一般市民の批判は不可能だ、一般市民が公表した意見を批判しているわけであり、「批判」と「攻撃」の混同と「著作物の公表」と「井戸端会議」の混同という、ダブル混同でっす。なお、このシーンは俯瞰撮影ではないと思うのだが。
 話は、第1部や第2部の続きではあるが、もはやテーマは「網つ国」の昔からのループに入ってしまった。ジャンプ漫画が長編化するとネタにつまって格闘技大会になるように、「網つ国」の話は長編化してネタにつまると、御作法ネタになる。ただし、このループに入ってしまうことで、発端のニセ科学という「物語」がクダラナイということが前提と化して定着するのなら、それはそれでいいことだろう。

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2007.11.15

奇跡の出会い

 「心底どうでもいいこと」ということがある。この場末blogに書いていることは、ほとんどがそうだ。カモの一種のその一羽の羽が1ヶ月で変わっていく経過、なんて、誰にとっても「心底どうでもいいこと」だろう。感想を求められても、棒読みで「へー。わー。すごーい。」と言うくらいがせいぜいだ。
 さて、最近、ネットで少し話題になっている「心底どうでもいいこと」がある。「心底どうでもいいこと」なのでリアルタイムでは経緯を知らない。話題になって、ようやく概要がわかった。そして、あまりにも「心底どうでもいいこと」なので、かえって言及しようかと思ったわけである。
 子供が生まれることになって、そのうれしさをblogに綴った人がいたらしい。本人は有頂天で、ありったけの文章テクニックを総動員して書いたようなはしゃぎっぷりだったらしい。ありがちなことである。
 それに、文句を付けた人がいるらしい。他人が喜んでいることに文句なんていくらでも付けられる。
 「大学に合格した嬉しい」「オマエが合格したために落ちた人のことを考えろ」「オマエがその大学に入るおかげで定員割れする大学があることも考えろ」「そもそも大学に行けない人のことを考えろ」
 「今夜はてっちりだ嬉しいな」「フグが買えずにカワハギですましてる人の気持ちも考えろ」「フグに当たって死んだ人の遺族の身になれ」「そのフグを調理した料理人の...」「そもそも食事さえろくに...」
 本人の喜びが大きいほど、それを味わえない人の怨嗟は大きく表現できるわけである。究極の言いがかりとしては「俺がワーキングプアで非モテの一方で、喜んでいる人がいる社会は不公平だ。戦争でも起こってほしい」というのもある。さらには「そういう本を出すのは不快だ、本を出版する予定がなくなって、サギ呼ばわりされてる人のことを考えろ」ときりがない。
 それで、言いがかりを付けられて、はしゃいでた方は、消したり、復活させたり、そしてまた消したりした。ということらしい。世の中に、行き当たりばったりというと悪いが、状況の変化によって適切な対応をとろう、とすることはよくある。その度に説明の文を付けたということだ。
 そして、誰もが両者に「ほっときゃいいのに」と思っている、ということのようだ。「ほっときゃいいことをほっとけない」という2人がたまたま遭遇するというのは、奇跡的な出会いではあるが、当事者以外には「心底どうでもいいこと」だなぁと思う。
 街路樹にメジロが留まっている。多くの人は見えているのに気付かない。見えていても、それがメジロであることというか、樹木と分離させて小鳥であるとさえ認識しないような脳のメカニズムがあるんだろう。「ねえちゃん、茶、しばけへんか」と言われて、それを繰り返すことが出来る人でも、未知の言語で言われたら、繰り返すことは難しい...ようなものか。残念ながら、同じようには無意識には「心底どうでもいいこと」に反応しないですますことはできないし、削除したりの手間がいる。なので意識的に反応しないことが必要だ。それだけのことだ。
 「心底どうでもいいこと」に反応するのは、それを面白がれる時だけでいいと思う。

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2007.10.08

おまん

 先々週末、急に病院に行く用事があり、それ以来、先週は、篤さも和らいだのにビールばっかり飲んで,、ほとんど引き籠もり状態というか、政治部遊軍状態だった。
 あんまり書くネタもないし、そんな折、「なかのひと」というblogパーツを貼っつけてみた。「なか」の人というのは、昔は花魁で今は泡姫だからってわけではない。よそさまのblogで見た、日本地図のblogパーツがあって、アクセス地域がわかるんだろうと思って付けてみた。けれども、一般のプロバイダーからの分だと表示されないし、別にどこのドメインからか分かっても、面白くもないんで、1週間で外してしまった。
 そんな折、このところ清純派の姉さんが「彷徨える詐欺人」について書いているんで、関連のページとか流し読みをしていた。「さまよえるオランダ人」は「Flying Dutchman 」だけど、この詐欺人も、ついに飛んだらしい。もっとも、ネット上で飛んだだけで、リアルな世界じゃ既に飛んでしまっているかも知れない。
 私はこの人のblogは「見たことはある」程度だし、むしろ騙された側のことを考えた方が面白いので、清純派の姉さんのとこでも、そういうコメントをしている。
 さて、飛んだ方の人は、何を考えているんだろうか。普通なら、刑事上の訴追をどう免れるか、民事上の責任からどう逃げるか、そんなことを考えるんだと思う。
 まず、刑事上の訴追を逃れるためには「騙す意思がなかった」ということになればいい。実際にフラッシュを作るつもりであったが、何らかの理由で、先延ばししている、ということにすればいいし、寸借だって、返すつもりがあるということにすればいい。ということは、立件のためには、金を受け取った時点で、すでに騙す意思があったことを証明しなくちゃいけないということになるんだろう。一方、民事の方だけど、民事訴訟には被告人の住所と氏名が必要なんじゃないの?
 さて、被害者の方だけど、刑事告発の際に、カンパや寸借において、欺罔行為があったと主張できるんだろうか。民事訴訟におそらく必要だと思う被告人の住所・氏名はわかってるんだろうか。このあたりの法律には疎いんだけど、どうなんだろう。
 清純派の姉さんも、そもそもの「旧宮家復籍キャンペーン」がワケがわからん、と書いていたけれども、この詐欺疑惑も、当初から騙すつもりなのか、それとも、いつかの時点で騙すことになったのか、さらには相手が誰かもわからんのに信用して金を出すってどうなのとか、やはりワケがわからん。姉さんには、是非、このあたりを考察してほしい。
 さて、この詐欺疑惑の関連のページとかを見ていると、たまにAds by Googleで「西尾」という八つ橋屋の広告を見かける。ここの人気商品に生八つ橋でアンコを包んだ「おまん」というのがあるのだが、なぜか「おまん」の広告は見ない。

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2007.10.07

ムチとツリ

 このblogでも、「事実と違う、理屈が一貫してない」という記述がけっこうある。その理由は、大きく分類すると次の3つだ。
1.一種の表現手法。ストレートに書くと問題あるので、逆の表現を使う場合、例えば「伝統と品格を重視する大相撲」での「かわいがり」のような場合、あるいは、読む人に「?」と思わせて、実はこういうことだと書いて、印象づけたりするような場合だ。
2.騙そうとしている。これは例示するわけにはいかない。
3.無知。よくわからないのに書くから、いいかげんな記述になる。自分がやっていても、というかやってるだけに、ヨソ様のこともとやかく書いたりするけど。
 このblogに限らず、ウソというかイイカゲンな記述というのは、おおむね、この3つの理由のどれかだろう。ところが、1の場合だとわかりやすくしてあるけれども、2か3の場合、どの理由かが明らかにするということは少ない。
 そのために、2だろうか3だろうかと思うことがよくある。例えば、いわゆる従軍慰安婦が「その多くが佐官どころか将軍よりも遥かに高い収入を得ていた」などという記述は、あのワシントンポストに出したという「FACT(主催者発表タイトル)」という広告にも出ている。普通はおかしいと思うわけで、少し調べれば、額面通り支払われたわけでもなければ、円の価値に大きな地域差があったことなど簡単にわかる。それがわかっていて騙そうとしたのか、そもそも書いた連中がそこまで無知なのか、どちらなんだろうか。
 最近だと、こちらのblogで紹介されているけれど、あの古森義久が小説を根拠に、性奴隷問題について書いているとかで、知っててやってるのか、そう思いこんでるのか、判断に迷うとコメント欄で指摘されている。
 ところで、アルファ・ブロガーという人の中には、どう見ても3だというケースでも、それを指摘されたりすると、実は1でした。という技を使う人がいるらしい。アルファ・クリッパーもやるそうだが。
 「無知」ではなく「釣り」でした。というわけで、初心者でも可能な「ムチ」よりも、縛りをマスターしないといけないし天井補強も必要な「ツリ」の方が高等テクニックというのとは無関係だけど、やっぱり「無知」より「釣り」が何かエラそうだ。
 そういえば、かのネットから姿を消したことになっている「理系保守」先生も、当初は3だと誤解されたけれども、いくら何でもこんな馬鹿はいない、ということで1だろうと認められ、先生といわれるようになったわけである。
 そう考えてみると、騙そうとしているのか、馬鹿なのか、2か3かよくわからない人たちも、ひょっとしたら1なのかも知れない。
 日米関係の強化のために性奴隷決議を推進するための「釣り」でした。時間がなくなったり受験対策で学校でまともに扱われない近・現代史に若い人のが興味を持ってもらえるための「釣り」でした。ひょっとしたらこういうことかも知れない。偽史ではなく「馬鹿」を演じた義士かも知れない。もし、そうだとしても、彼らの秘められた目的に協力するには、やはり「釣られ」ないといけないのだろう。
 ただし、伊勢崎のドンキホーテは、やっぱり3だと思う。

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2007.09.27

坊主はお経、政治は妥協か

対立と枠外 ある疾病に対し、外科的療法が適切か、内科的療法が適切か、こういう選択肢があるとする。外科的療法を支持する医師でも、というか医師でなくても「心霊手術」には反対するだろうし、外科的療法は不要と考える人でも、まともな人なら「マイナスイオンで治る」などという意見にには耳を貸さない。「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」だのというのは、医療上の選択肢ではない。
 「外科的療法」か「内科的療法」か「医療」という科学分野の論議に対して、ニセ科学は最初から除外されるわけである。
 「医療」という専門職によって成り立っている分野なら、「排除されるべき選択肢」は、わかりやすい。でも、世の中には、玄人と素人の境目がはっきりしない分野、素人でも何か言いたい分野、素人が参加しなけりゃいけない分野がある。
 歴史の話題の場合、私のようなシロートでも、現代人は、「専門家」による「専門の手続き」によって得られた説を「歴史」と考え、「物語」とは別次元のものと考える。ただし、説であるが故に史料解釈によって、専門家の見解が分かれることだってある。ところが、専門家は正確であろうとして、断定を避けるのをいいことに、歴史学の専門的訓練を受けていない人による「物語」までもが、「歴史論争」にノコノコ参加しようとする。もちろん、歴史の専門家の場には参加できないけど、本くらいは出せる。
 裁判は原則として公開で行われる。だから、シロートも、裁判に関して、シロートなりの判断による意見を持つべきだろうけど、最低限の前提がある。裁判は事実認定、法や判例の適用を巡って争われるわけで、それが公正かどうかのために公開されている。刑事事件だと、裁判官は、検察側と弁護側が提示した、いずれの「事実」と「量刑」が正しいか判断するわけである。だから、シロートであっても、公正かどうか意見をまず持つべきだし、意見を述べるためには、両者の主張くらいは把握している必要がある。それで、私の場合は、把握してない裁判についての意見は書かない。それでも、裁判に関しては、放送界の人より法曹界の人の言うことの方が信頼できると思っている。
 素人が参加しなけりゃいけない分野というと政治分野があるが、このblogにおいては、政治的な主張は行ったことはないし、するつもりもない。しかし「政治的な選択肢」でさえない次元のことには、度々、振れている。外科的療法が適当か内科的療法が適当かはシロートだからわからないが、とりあえずは「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」は看過したくないというような感覚なのだ。
 つまり、ある問題について賛成か反対かという対立軸ではなく、その議論の前提として適当か適当でないかの対立軸に沿ってでしか触れていない。別に政治問題に詳しいわけでも、見識があるわけでもなくても、明らかにリクツにあわないことってあるわけである。
 例えば、かの伊勢崎のドンキホーテにしても、その主張に批判的なコメントをしていた人たちは、理屈がおかしい、とか、セカンドレイプまがいの言説を批判していたわけだし、史上最もシンプルな南京大虐殺否定論にツッコミを入れていたのも、ニセ科学批判の延長で、ニセ歴史を批判する人たちであって、その人達は政治的立場を一切、表明していない。にもかかわらず、彼女は、政治的な立場の違いと主張していたあたり、まさにドンキホーテだったのだが。
 もっとも、対立軸が別にあるのもわからない人ばかりじゃなく、リクツで対抗できない場合に、対立軸を立場に集束させてしまい、立場が違うから攻撃するのだというレッテル貼りをするのもひとつの方法だけど。
 ところが、政治問題というのは、利害というのもからむし、リクツだけではすまない。何より数がモノをいう世界だ。だから「外科的療法」に反対するためには「内科的療法が適切」という人も、「マイナスイオンで治る」「ナノ化食品で治る」「信心で治る」という人とも協力した方が、より主張を通しやすいことになる。そういう妥協ができる人とできない人がいると思う。
 自民党で憲法改正草案を作っていた舛添氏が、国会で山谷えり子が披露した抱腹絶倒の前文案をどう思っているか知らないが、どう思ったかは広言しないと思う。政治家としては、広言しないという妥協が必要なんだと思う。もっとも、最大の妥協はあの阿呆を担いだことだろうけど。
究極の選択 最近に、思想的にリベラルであり、安倍政権に反対の立場を表明していたblogで、城内実に対する評価が全く分かれている例があった。これも当面の「経済政策」に対抗するために、妥協が出来るか、妥協にも程があると思うかの差かと思う。
 武士道やら騎士道というのはよくわからんのだが、以前にDVDの感想で触れたことがあるように、専門の戦士には専門職としてのアイデンティティがあるんだろう、と思う。だから、戦う「敵」であっても、同時に職能としての共感がある。だから、戦場以外では互いに敬意を払うということがあるのだろう。各国の軍にそういう意識が残っていたのが、20世紀の「総力戦」となると、敵と身方という概念の方がメインになって、そういった意識は、どこかに行ってしまった。
 別に、議論の専門家でも何でもなくても、少なくとも、テレビや匿名掲示板に書いてあることを鵜呑みにしないとか、議論の際にはロジックの整合しないことは言いたくないとか、他人の意見をトレースしてみるとか、そういう配慮が出来るか出来ないかというのは、意見が違っているかどうかよりも共感を覚えることはあると思う。
 考えてみりゃ、議論において、リクツの通じる相手といない相手がいて、というのも「上から目線」のようで、相当に「嫌味」な意識かも知れないけれど、一方で、私なんぞよりも、もっと高度なレベルで論議を行っている人もいるわけであって、世間の皆様は、それぞれ相応のレベルで議論してるんだろうと思うし、自分に大した知識や見識があるわけじゃなくても、やはり、事実認識のおかしい人やリクツの通じない人とは、結果として同じ意見になっても、あまり関わりあいたくないと思う。
 首相の靖国参拝に関して、賛成か反対かという話をする中で、2種類の分岐点があった。
 ひとつは「内心の自由」から、個人的にどのような宗教に参拝するのは勝手だという意見である。「内心の自由」があっても、あくまで「内心」であり、内閣総理大臣にそれを具体的な行動に移す自由があるのか、それがあるか否かが分岐点だった。
 もうひとつは、首相の参拝を望む遺族の心情があり、その心情のために賛成かという意見だった。つまり、遺族の心情のためであって、宗教法人である靖国自体への関与が目的でないから、習俗の範囲内なので許容される、ということになるんだろうが、カトリック形式の結婚式に行っても許容されるからといって、統一教会の合同結婚式に行ってもいいのか、どこまでが習俗の範囲かが分岐点ということになる。
 分岐点を探っていくと、「外国が反対しているから行くべきでない」とか「戦死者でだけはなく、戦後に絞首刑になった連中まで祀られているから反対」、「国の犠牲になった人を国の代表が追悼するのが当然」というような理由は、分岐点にならないと思うのだが、こういう主張はよく見かける。おそらく「政治的な妥協」にとって都合のいい理由なんだと思う。なお「軍国主義者だから賛成」、「反日だから反対」という人はいなかった。
 私としては、分岐点を探る議論の出来る人の方が、つきあいやすい。けれども、政治的な主張には、結果的に賛否が同じ人と妥協ができる人の方が向いていると思う。リアルな世界じゃ、いろいろ妥協も必要だろうけど、ネットじゃトンデモさんはトンデモさんと言いたいわけで、このblogで政治的な主張をしたくない理由のひとつだ。

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2007.09.14

勝利の好きな人

 将棋の必勝法を紹介しよう。その説明の前に、まずクリック、は不要だ。まず、一手目に、王将の前に飛車を動かす。相手は角道をあけたりと歩兵を動かすだろうが、それはどうでもよい。そして、2手目に、飛車で相手の王将を取るのである。飛車という限り、歩兵を飛び越えることが出来るのが当然である。そんなのルール違反だと言われても、アインシュタインの相対性理論では、何事も相対的なものであり、自分の知っているルールだけを絶対的だと考えること自体のがおかしいのだ。アインシュタインが間違っていると言うのか。
・・・・なんて、主張する馬鹿はいないだろうが、だいぶ以前に「議論に負けたことのない人」からトラックバックをいただいたが、その方の論調を誇張するとこんなのだった。
 さすがに、このようなことを本気で書いているはずもなく、ネット上のトンデモさんを揶揄する芸だろう、いわば「bogusnews」ならぬ「bogus opinions」だろうと思われ、「先生」と呼ばれたりしていた。しかし、残念なことに、ネット上から姿を消されたことになっているようだ。
 さて、この「先生」の場合は「芸」だとしても、その「芸」で揶揄されているような人、竹内久美子や井沢元彦のネタを鵜呑みにする人、さらには自分流にアレンジまで加える人、理論や法則を自分流に改変するは、方向違いの分野に当てはめるは、こういう類の人は世の中に少なくなく、ネット上でも散見できる。
 さて、こういう人は、「先生」が揶揄していたように、なぜかネット上で相応の存在である、ということにこだわりがあるようで、そのあまりに「アクセス乞食」と化したり、「議論」の内容よりも「勝ち負け」が大切だったりする。
 さて、BBSやblogの炎上に関して、コメント欄に押し寄せる匿名さんが問題になったりする。確かに「厄介」ではあるが、まともな意見にだけ対応する、という方法がある。労力はかかるが。
 無意味な罵倒、本文が読めていない故のピント外れの意見、単なるウケ狙いのツッコミなどは無視したって、芸のないコメントは削除したって、それ以上に荒れることはない。
 匿名であるということは、「ネット人格」を背負っていないわけであり、議論の内容によって「リアルな人格」が人知れず得るものがあったとしても、失うものはなく、「ネット人格」が得るものも失うものもないわけである。だから、押し寄せるのも早いが引き下がるのも早い。それなりの労力や時間は必要であっても、匿名によって荒れた場合は沈静化が可能だろう。
 ところがである、相手が「ネット人格」を背負っている場合、それも「先生」が揶揄していたような、まともな議論の土俵に載っていない人の場合は、第三者的にどう見えようが、ご本人が得るものがあったと思いこむ、簡単に言えば「勝った」と思うまでは、粘着してしまいがちだ。
 そもそも、ある炎上がきっかけで、やりとりを始めた人がいるのだが、最近も「プチ炎上」されたようである。法曹界では相手にされなくて、放送界でご活躍の御仁について批判するエントリーだ。そのきっかけになった刑事事件や裁判当事者に対しては論評を避けている。その避けている論評を創作した読み手のコメントによってプチ炎上したわけであるが、少なくとも匿名さんについて言えば、それがわかれば引き下がっても失うものもないわけで、すぐに鎮静化したわけである。
 ところが、「ネット人格」を背負っている人は、簡単に引き下がれないわけである。SNSのように、そのシステム上の「人格」を背負っている場合もである。何らかの「勝利」がないと納まらないようだ。
 この状況について「匿名が故に多少とも「ウケ」を狙おうとする「オープンなblog」のイナゴよりも、「SNS」の方が、かえって「ガチ」が多いみたいですね。」という感想を漏らしたら、この「ガチ」という表現が気に入ったようで、自分なりの「ガチ」の人の分析まで始められたようだ。
 私の場合には、むしろ匿名性の問題で興味をひいた感想だったわけである。
 古い話であり、攻守は逆であるが花岡信昭blogの炎上も、花岡信昭が自身の「日本語表記についての主張が誤り」であり「調べもせずに書いた」ことを認めれば、それですむことだったろう。ところが彼自身は実名でそれを認めることが出来ずにイザに逃亡した。
 自身の個人的な理由と社会的な状況をゴッチャにして「弱者男性」と一般化して論じる方も、メジャーな雑誌に取り上げられたこともあるという実名を背負ってなければ、あちこちで粘着することもなかっただろうにと思う。
 匿名だと「ガチ」になりにくい。ネット人格を背負うことで、さらには実名を背負うことで、第三者的にはどうでもいいような場合でも、そもそも議論の土俵に載っていなかったり、単なる勘違いだったりするのに、「ガチ」になってしまう人がいる。時として、自分は実名で書いているから、責任ある意見だなんて主張さえ繰り広げる。
 他人の意見をトレースできないままコメントする人は、匿名さんは量的に厄介なだけだが、ネット人格を背負っている人は質的に厄介なことがある。

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2007.02.02

機械の性能を錯覚したい人

 Yahoo!ブログの「転載機能」は、私にとっては、不思議であり、バカみたいな機能だと思った。けれども、そのアホな機能を備えたYahoo!ブログと、このblogは、ネットの上で繋がっているわけであり、クリックひとつで行き来できるわけである。なので、アホかだけですますわけにもいかずに、自分の判断とこの機能を作ったYahoo!ブログの中の人との「分岐点」はどこかと考えたのが、先日のエントリーだ。
 その結果が、著作物への考え方が違うんじゃないかということだった。この差というのは、ネット上に著作者の権利についても、従来の著作者人格権を歪めたような「人格権」と捉えてしまうことが多くなっていることとも関連しているのではないか、ということだった。
 それに対して、同じく「転載機能」を不思議な機能と思ったロジックな姉さんがTバックを送ってきたのは、blogコミュンケーションでは「議論」や「意見交換」ではなく「共感」だけを求めているからだろうというハナシだった。
 blogを書いている人がいる。書く機械と言っては何だが、機械によって著作物という製品が生産されたとすると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね。製品の批判的検証によって機械の性能向上に頑張ってもらうことで、よりよい製品が作られるというのが、従来の考え方だ。
 ところが「製品への批判は機械そのものへの否定である」という考え方を、ネット上でしばしば見かける。
 「なぜならば」売ることを前提としない製品は改良の必要がない。機械の性能向上ということも考えないから、というのが私の仮説であり、「そうだから」機械の性能が充分に高いと思いたいために、互いの自分の製品の宣伝を、ただ、しあってるんだろうというのがロジックな姉さんのハナシを受けての仮説だ。ヤフーblogのファン登録とか、はてなのブックマーク数をひたすら集めるというのも、この錯覚の効果的な材料になっているんだろうな。
 この「錯覚による現状肯定」というのは、いつぞやも書いたようなことがある「勝ち組@元祖」と似たような病理なのかとも思う。そして、どうしても錯覚が得られないほど、悲惨な部分があると「不完全でもいいじゃないか、人間だもの」思考に陥ったりするわけである。
 Yahoo!ブログの「転載機能」という不思議な機能、争点が噛み合ってない論争や揉め事、こういうネットに漂う「やや不思議な傾向」の言動というのは、「典型的な症例の人」に遭遇することで、「こういうことなのか」と思いあたることが多々ある。なので、コミュニケーションと文化についての「勉強」になることも多い。しかし、その「典型的な症例の人」というのは、書いていること自体は無意味なことが多いので、別に読みたくもないし、さらには遭遇もしたくない。でも、反応は観察はしたい。勝手なもんである。

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2006.10.16

ベタ・ネタ・スカ

 andy22さん@綾川亭も考察されて、一部で話題の「物心」だが、自己相対化の出来ない、と胃ってしまうと誰でも難しいことだし、出来ないことだが、その試みすらできない人という感覚なのかとか。「感じ」としては、物心の付かない大人という「そういう人はいる」のだが、どうもピッタリの言い方が難しい。
 それで思ったのが「私は常に嘘を言う」というパラドックス。こういう発言は「本当」か「嘘」か、それがわかるのが、ここでいう「物心」じゃないかと。このパラドックスは、言語表現として「嘘を言う」と事象として「嘘を言う」が対応していない、言葉と意味という違う次元というか位相で、同じ表現を使用しているだけの話なのだ。つまり、ひとつの表現の属する枠組みが2つあるだけ。
 先日来、書いている「枠組み」の話で言えば、たぶん「物心」というのは、抽象と具体の「枠組み」の違いがわかったとしても、抽象の中にある「枠組み」の違いに気が付かないということも言えるんじゃないかということ。
 「なぜ人を殺してはいけないか」、人を殺してはいけないという法律はない。けれども、人を殺すと罰するという法律や制度があって、人を殺すと不利益を被るように社会が出来ている。社会制度があるから「人を殺してはいけない」のではなく、「人を殺してはいけない」から社会制度があるわけだ。だから、社会制度について議論する際には「なぜ人を殺してはいけないか」などと考える必要はない。
 しかし、人を殺すと受けなければならない不利益として「殺される」が適切か、さらには「殺される」という不利益を回避する手段として「人を殺してはいけない」か、という問題に至れば、「なぜ人を殺してはいけないか」を考える必要がある場合もある。社会制度の問題ではない、文化への考察においては「なぜ人を殺してはいけないか」と考える必要がある。
 枠組みが違えば、考える必要のないこと、考える必要のあること、それぞれ違う。この枠組みの違いがわからずに「思考停止ヨクナイ」とか言っても、そもそも「物心」が付いてないわけで、いくら考えても、休むに似たりってだけだろう。
 「時うどん」という落語がある。東京にも移され「時そば」になった有名な噺なので、内容は書かない。この噺に出てくる2つのうどん屋は「松嶋屋」と「成駒屋」だった。「おまえとこ、松嶋屋か」「いえ成駒屋」がくすぐりになってたわけである。かつて落語を聞く人は歌舞伎も見た。というより、かつての上方の人の共通文化だった。ところが、若い落語家がタレント活動で人気を得て、そのファンが落語を聞きに行くようになると、歌舞伎は見ないが落語は聞くという人も多くなり、中にはこのくすぐりがわからない人もいる。それで「あたり屋」と「はずれ屋」という屋号で演じることも多くなった。
 「松嶋屋」も「成駒屋」もうどん屋の屋号としてもありうる。でも、並べることで「うどん屋」という枠組みではない全く別の枠組みと、二重の意味を持たせることが出来る。ひとつのネタである。
 一方、「はずれ屋」というのは「あたり屋」の逆というだけだ。あまりにベタである。だから、「松嶋屋」と「成駒屋」と同じように演じるとベタすぎてつまらない。
 しかし「あたり屋」はあっても、「はずれ屋」という屋号はありえない。それをしゃあしゃあと言ってのけるというのは、リアリティの枠組みを逸脱してしまうことだ。つまり、落語を相対化してしまうことにもなる。その逸脱の面白さを表現できれば、メタ落語としての面白さがある。「ベタ・ネタ・メタ」と言った方が語呂はいいんだけど、メタだと概念が広くなりすぎるので、本来の枠組みを外れてしまうので仮にスカの面白さと言おうか。この枠組みの逸脱の面白さを表現する、理解するのは「物心」が必要になる。
 文化が共有されればわかるネタに対し、世の中には単にベタだけで終わるベタもあれば、「物心」があるかどうかで、ベタとスカに分かれてしまうベタもある。
 こう考えると、うちのお客さんの笑いのセンスというのは、スカがけっこう好きなように見える。たぶん「物心」のない人には、ベタな連中と映っているんだと思う。

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2006.10.11

シュール・ナショナル

 別の所のコメント欄で「近代の虜」みたいなことを書いた。
 日本で「近代」というと明治から冷戦体制という捉え方を普通はする。だからナショナリズムやインターナショナルという枠組み自体が「近代」のものと思う。だから近代の克服というと、近世以前からの「伝統」とグローバリズムの融合という所に行き着くことは多い。
 それでも、実際に国という「近代の制度」があるからには、その中で生活しなくちゃいけない。そうすると合理主義や効率主義と同じように国もツールとして捉えてしまうのが、リベラルであって、市民派と呼ばれるリベラルもネオリベもその点では一緒。ツールとしての国の利用コンセプトが違うだけ。
 そして、文化的アイデンティティとしては、もっとローカルな文化や、近世以前からの文化や、趣味的な部分とか、一方でグローバルなところで共感できるところを探しちゃう。
 だけど、文化的アイデンティティを「近代」の日本に置く右翼と違い、自称「中道」のウヨさんというのは、単にナショナルでしかものを考えられないから、蓋然性にアイデンティティを置くだけで「近代の虜」でしかないという話。
 それで、思いついたのが、blogというメディアにおける社会問題の取り扱い方。
 このblogは、基本的に主張するようなもんなじゃくて、感想のblogなわけで、社会問題については、どういう主張であれ、まともなものには言及していなくて、山羊さんやアヒルさんのようなトンデモさんをネタにしているだけだ。なのに、社会派blogについて言及するのもナンなんだけど、その程度のblogだから書ける法螺話。
 かつて、青ヶ島のことで、同じ事象を全く正反対に解釈している2つのサイトを見て、面白がって言及したことがあった。
 以来、その一方を継続して見ている。近世短形詩をはじめとする趣味の話と、貧乏話だとかがメインになっていて、その延長上で社会問題にも言及している。耐震偽装だとか野口怪死問題以来、人気サイトになったようで、注目された理由は、掴んだ情報を発信したことで、逆に情報が集まってるみたいなことで「社会派blog」みたいに思われているんだろう。けれども、基本は、彼女の身辺の話だ。身辺に情報があったから書いているわけで、貧乏話とか短形詩作家として美意識の反動というかウップンみたいなサイトなんだろうと思う。無駄とも思える饒舌な文も詩作のウップンなのかと思う。ウップンだからダメというわけではなく、だから読者が多いんだと思う。文化的なアイデンティティや生活者としての脚元がわかるから、共感を呼ぶわけだろう。
 その人気blogを下品と評し、それを支持する左派勢力の堕落を嘆いた知性的なblogがあった。その知性的なblogが「間違いなく政治運動」とかいうのを始めたことがあった。うちのお客さんには、けっこうコイズミ嫌い、それ以上にアベ嫌いが多い。そのせいか、別のところで、参加していた人がいそうなように思われたのが、見てみると見事にいない。
 別に「団体行動が出来ない勝手なやつ」というわけでもなかろうに、結局は「社会派」blogがなくて、生活系だのお笑い系だの雑記系が多いからだ。その延長で、コイズミ氏やアベ氏にツッコミを入れてるからである。別に、知性的な方が嫌いとかそういうわけではない。
 現在の社会制度というのは、というか文明自体が近代に成立したものであって、社会問題について論じるなら、近代の枠組みの中で論じることは当然のことだ。だから、間違いなく政治運動が「近代」に囚われているのは当然のことだ。
 一方で、そのような「近代」の枠組みを超えて、文化的アイデンティティを持つ人がいるわけである。こういう人たちにとっては、国家や政治というのはツールでしかないわけである。そして、このような人たちのblogというのは、文化的アイデンティティの発露の場であるわけで、個人のものであり、個人のコミュニケーションツールだから、特定の社会問題に関してトラックバックを飛ばしあうという外への動きは行っても、「近代」の枠組みに組み入れられたくないのだろうか。
 もうひとつの可能性は、リベラルとネオリベの対立軸は近代制度の利用コンセプトであって、知性的なblogの主張するネオリベに対抗する左右の連携という構図や、日本の「近代」の始まりをモデルとする知性が、「脱近代」に対抗する「近代」の抵抗と誤読されたというか、そういう臭いを感じられたというのもあるかもしれない。
 さらには、もっと単純に、近代に囚われているblogは、近代を相対化している人には味気ない。それだけなのかも知れない。
 たぶん、右派・左派なんて言ってる人には見えない「敷居」として、「近代に囚われるか」と「近代を相対化する」があるのだろうと思う。元々、近代に懐疑的であった右翼さん、鈴木邦男さんは、意見は反対でも、同じ土俵にいるということで、リベラルな人と話が通じるわけで、だから「近代に囚われた」ウヨさんに「左翼」扱いされている。
 blogランキングで、政治カテゴリーという「近代」の枠組の中でのblogでは、上位をウヨさんが占めるのも「超近代」と「近代の虜」の軸で見ると当然のように思える。
 ある党派性を表明しているblogで、反アベの働きかけを積極的に行おうとしたが、あまり歓迎されなかったと「敗北宣言」をされている人を見かけた。それは、たぶん、政治的な、あるいは党派的な敗北ではないと思う。単に、リベラルというか「近代」を相対化している人たちのblogへのアプローチの問題だったと思う。「今後は自分のブログから出て行かず自分の書きたいことを書きたいように書いていく」と書かれているのだが、むしろ、blogというメディアでは、それが適しているんだと思う。出て行くんではなく、個々のテーマで引き込めばいいと思うのだが。党派性を表明しているblogでも、社会的な意見だけではなく、身辺雑記があったり、書き手の文化的アイデンティティとしての四万十川の風景が見えるような所だと、ワタシ的には読んでて面白いし、チョッカイを出したりしちゃうってこともあるのだ。

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2006.10.10

Under the Moon

月 Under the Moonと言っても、壷を売ったり、ニセ科学を信じたり、家族を崩壊させる連中の話ではない。そのMoonじゃなく月のこと。
 そういや「Under the Sun」というサイトを作っている人たちがいるけど、「Under the Moon」をお祝いする政治家に対抗するという意味もあるんだろうか。
 ともかくも、仲秋の明月は曇り空だった。それで、月が西北に向かってすごい勢いで移動していた。そう見えるけど、ホントはもちろん雲の方が移動しているわけで、周囲の景色とか一緒に見れば簡単にわかる。動いてるように見えても、動いてるのは止まってみえる方なのだ。
 それで、動いているように見える太陽も星も動いているんじゃないかと思うのは不思議じゃない。地動説というのを知ってしまえば、こんなことは簡単に言える。けれども、今なら「誰でも思いついて不思議じゃない」ことを思いつくのに、人類は凄く時間がかかっている。
 別のblogのコメント欄で、「近代」について書いていて、「近代」の枠組み、つまり「国」という中でしかアイデンティティを得られないし、世界を見られないという人たちについて書いていて思ったのが、このこと。
 国家はツールであり国民はそのユーザーというのは、そんなに到達が難しい考え方なんだろうか。

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2006.08.07

超層インターネット・プロトコール

 「雛人形の並べ方」について調べようとしたら、いきなり他のblogに書いた自分の文が出てきた。季節はずれの雛人形のことを調べようとしたのは、並び方が変わったのと外交プロトコールの関係について、確認しておこうと思ったのだが、ネット情報は鵜呑みにしちゃいけないというのがよくわかる。
 ともかくも、儀礼やマナーというのは文化によって異なる。けれども異文化間の交流のために、仕様や手続きを定めておかないといけない。ウチの国では2000年以上昔から、夫が左で妻が右です、ウチの国に来る以上、ウチのマナーに従うべきだ、というのは外交を行う上では通用しないのだ。国際社会に出てくる以上、そこでは共通のマナーに従うことになる。
 同じプロトコールという用語でも、インターネットの場合は「プロトコル」と書く。こちらは物理的なレベルでの仕様や手続きを決めているだけで、コンテンツのレベルでの「プロトコル」はない。けれども、儀礼やマナーに対して対立する点についても、「プロトコール」らしきものはあると考えた方がいいだろうと思う。というより、なぜ考えられないのか不思議に思う。
 とっくにけりがついてるはずの「無断リンク」がいまだに問題になる。次々に新しくインターネットを使う人がいるのだから、定期的に問題になるのは仕方がないか。
 最近話題なのは電通のサイトだ。「無断リンクお断り」ではなく、「当社サイトへのリンクは、原則お断りいたします」だ。「特に以下のリンクは固くお断りいたします。」の例がオモシロイ。

● サイトの管理・運営者が不明、またはハンドルネーム等により運営されているサイト、あるいは代理運営されているサイトなどからのリンク
はお断りだそうだ。ちなみにこのリンクはどうなんだろう。「サイトの管理・運営者」はニフティ株式会社なのか、私なのか。私が代理運営しているのだろうか。
● 違法なコンテンツを掲載したり、違法な活動に関与した、または関与した可能性のあるサイトからのリンク
もダメだそうだ。「社員の安全配慮義務を怠って」就労させるのは違法な活動だろうから、サイト内リンクもダメということになるが、会社が行ったわけで、サイトで行ったわけじゃないからいいのかな。
 「リンクするのにいちいち許可なんか求めてくるな、うっとうしい」という人、「勝手にリンクされるのは嫌」という人、それぞれがいる。リンクする場合は知らせてほしい人がいて、リンクするのにいちいち通知など嫌な人がいる。リンクしてほしくないと言ってるんだから聞いてくれてもいいだろう、という人がいたら、公開した以上ワガママ言うなという人がいるわけである。
 これは、どちらが多数とか、慣例とか、そもそもハイパーテキストの思想とは、という話を持ち出すまでもない。仕様として、勝手にリンクが可能なのだ。そして、対抗手段として、許可したリンク先以外からアクセスさせないようにする方法があるのだから、嫌ならそうしろ、ということになる。
 ここにも 「無断リンクを禁止します!」と書いている人がいるが、その前の記事から考えるとネタっぽい。「無断リンク禁止」とすることで、リンクが増えるのを面白がろうということかな。
 ちなみに、このblogへのリンクだが、この例では「お願い」されてもかえって返事に困るし、トラックバックの意味もないだろう。この例でも「お願い」されても困るが、トラックバックした方が、ここに検索で来た人のためには親切だろうなと個人的には思う。でも、リンクを先方が勝手にしているのが当然であるように、トラックバックも勝手にしてくれればいい。それが、インターネットのプロトコルならぬ、インターネットの「外交」プロトコールだからだ。
 ただ、少し気になることがある。ブログサービスを行っている各社の中には、ユーザー囲い込みやspamコメントやトラックバックの対策のため、自社サービスへのログイン・ユーザー相互以外にはコメントやトラックバックの制約を行っていたり、アクセス履歴を参照できる例がある。こういう、囲い込みの手法が、ユーザーに「公開」の意味について誤解を与えていないのだろうかという点だ。というのは、公開されたサイトにも関わらず、こういうシステムのサービス利用者には「リンクには挨拶を」どころか「読み逃げ禁止」などという信じがたいことを書く連中がいるからだ。

追記
 ちなみに私の別途に運営しているwebサイトの場合、リンクの許可願いがあると原則として断っている。
 承諾の必要もない「リンク」に承諾を求めてくるからには「承諾が必要なリンクの仕方」を意図していると思えるからだ。例えば、フレームを残して、その内部に表示したり、自分のページに、画像だけを表示したり、私のサイトの内容を自分のサイトの内容のように見せる、そういう「リンク」の意図があるからこそ「承諾」を求めているんだろうと疑わざるをえないのだ。

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2006.07.20

ガセの谷

○ガセというのは「偽金」→「ネガセニ」→「ガセ」が語源で、明治時代の刑事が角袖の着物を着ていたから「角袖」→「デソクカ」→「デカ」になったように犯罪者の隠語から。
○ガセというのは「人騒がせ」の「がせ」が語源で、偽物によって人を「大騒ぎ」させることから、そういう偽物を言うようになった。
○ガセというのは「ウィリーをさがせ」の末尾の「がせ」が語源で、そういうタイトルの絵本にウィリーの偽物がいっぱい描かれていたことから、紛らわしい偽物を言うようになった。

 以上は、今考えたネタである。ひょっとしたら、偶然に正しい説も混じっているかも知れないが、少なくとも2つはガセだ。
 ここを読んでいる人は、こういうタネ明かしをせずに、いろんな説があるとして並べただけでも、そのまま信用する人はないと思う。「蛙跳行事」のエントリーに、冗談かと思ってググッて、確認した人もいれば、アメリカ留学したと自称している安倍晋三座長の「jender」に関するサイトを紹介した時には「どこかのイタズラ好きな人が作ったネタ」と思った人もいる。他のサイトでだが、私にだまされちゃいけませんと教育的指導をやってくれてる人もいる。
 でも、このblogではガセネタを紹介するより、「サーロイン」の語源だとか、イスタンブールの「東郷通り」だとか、「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」が国際法だとか、そういうガセを信じ込む人について触れる方が多いんだけど。
 最近、見たガセで、ネタ以上にタネ明かし後の反応が対照的で面白い例があった。ひとつが、先の広報活動をやってくれてる人のところ経由での「俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・」で、もうひとつが、「馬鹿騒ぎ」を「大騒ぎ」と“誤訳”する日本メディアの“思いやり”というので、後にネタばらしがある。
 このガセ、ともに信じていない人も大勢いるわけで、騙された方は「騙されただけ」であって、波動測定器を買わされたり、おすすめの本をリストに従って買わされたわけでもない。
 前者の場合は「芸」としてネタばらしの後で完結してしまったようだが、後者の場合はネタばらしの後に、騙された連中を見下したような書き方でさらに挑発している。それで、その見下された連中が急にベタな良識人になって「ぼくはひとをだますのはよくないとおもいます」というような反論をしているのが滑稽だ。一度、騙されたんだから、この尊大な態度も次ステップの仕掛けじゃないかと、なぜ疑わないんだろうか。行き着くのは「騙されたっていいじゃないか人間だもの」ということなんだろうけど。
 先日「電車男」を実話と信じる不思議さについて、ある人と話したことがある。多くの人は、宝くじで1億円が連続して誰かに当たることがあるとは思わなくとも、自分に当たることはあると思っている。その確率は一緒なんだけれども「願望」は「客観性」を超えるわけである。
 願望というのは欲得には限らない。誰にでもあるそういう「願望」ならともかくも、ガセに対する態度によって、どういう「願望」というか「自己幻想」かが明らかになっているのは、単に迂闊さで騙されただけよりも恥ずかしいように思うのだが、やはり、願望が客観性を超えているようだ。

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2006.06.04

飛蝗の生態研究なのか?

 いわゆるコメント欄が炎上するというのは、間違ったことを書くから炎上するわけではない。
 間違った記事は食いつきやすい。けれども、正しいとも間違っているとも言えないことを書いても、間違っていないことを書いても餌になるようだ。
 はたして実験をやってるつもりなのか、それとも天然なのかわからないが、明らかに違ったこと、どちらともいえないこと、違ってはいないこと、その3種の餌を並べて炎上しているblogがあって、観察しているとオモシロイ。
 花岡信昭なる人のblogで、炎上と聞いて初めて見たのだが、例によって、知識はあってもロジックには弱い人のようだ。
 「・・・・。」という書き方が日本語の乱れという主張は、明らかにデタラメのようだ。要するに花岡のデスク周辺に置いてあった週刊誌の類ではそうなっていただけで、花岡は、その一部の例をもって「正しい日本語」と思いこんでいただけのようだ。つまり花岡の主張は間違っているわけだ。
 「遷移」という言葉は、私は生物の分野でしか知らなかったが、物理、化学、情報工学でも使うようだ。花岡は情報工学の分野で使われているのを知らずに、銀行のサイトで使用するのは、おかしいと主張している。確かに分野によって概念が違う用語であるから、一般的な用語ではないかも知れない。しかし、少なくともwebサイト上で情報工学の用語を使うことが不適切とも思えないし、まともな日本語ユーザーなら、情報工学の知識がなくとも「遷」と「移」の用例から意味を把握することは可能だろう。つまり、花岡の主張は間違っているとまでは言えないが、同じようにみずほ銀行の用例も間違ってるとは言えないわけだ。
 冗談のつもりでか引き合いに出した「モーニング娘。」について、そのメンバーが「歌もへただし、ダンスもひどい、とてもではないがエンターテインメントの領域には達していない現代的な娘たち」というのは、そうだろう。だから人気があるのだ。そこらにゴロゴロしているような娘を、スタッフワークでエンターテンイメントに仕立てているのが「モーニング娘。」というプロジェクトなんだから、歌やダンスのタレントと同じ基準で比較するのがオカシイ。だから花岡の主張は間違っているわけではない。誰もがわかっているが、言及すべきでないのだ。CMタレントをしていても、谷亮子に関しては柔道には言及しても容姿には言及しないのと同じような「良識」なのだ。
 以前、週刊誌に、竹中平蔵がある首相候補を「頭脳となって支える」という趣旨の発言したという記事があった。その発言が事実かどうかはわからないが、週刊誌の記事となっていた。「谷垣の頭脳となって」「福田の頭脳となって」という発言は誰もしないと思うし、記事にもならない。というのも、その首相候補の弱点が頭脳であるということが共通認識になっているからだ。でも、頭脳に弱点があるからこそ木偶として使いやすい、だから彼を支持する人たちにとって、彼の頭脳は弱点であるがゆえに、言及しないのと同じことなのだ。
 そして、コメント欄では、以上の3点のそれぞれについて、コメントがついている。間違っていることについては訂正すればいい。どちらとも言えないことについては「見解の相違」ということですむかもしれない。最も厄介なのは「間違っていないこと」を書いたから炎上した場合だというのがよくわかる。

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2006.03.04

オヤジ・ロールプレイング

 いつも書いてるけれど、このblogはけっこうイイカゲンに書いている。よく「わかっている」ことは飯のタネなので、タダのところには書かない。ほとんどわからないことは書けない。なので、いきおい、日常のスケッチとか「わかっていないことがわかっている」ことが中心になる。
 多いパターンは、「どうも、よくわからない」ことを書くことで、どう捉えたらいいか整理するという感じだ。
 それで、私が読んでるところも、ここを読んでる人も、そういうパターンの人が、比較的、多いように思う。文章として断定していても、内容は断定していない人が多い。
 私の場合、webサイトが「こんなデータでも興味があったら共有してくれ」というスタンスに対し、blogの場合は「こんなプロセスでも興味があったら共有してくれ」という感じだ。プロセスというのは、論理や組み立て方、一般化、比喩である。
 そういうプロセス共有のエントリーに対して、様々なコメントのスタンスがあるが、一般的なのは、私のプロセスに対するバリエーションであり、プロセスに対する別の表現であったり、さらには、結論に至る別のプロセスだったりするわけである。
 さて、そういうコメントをしている方が、本人のblog上でのキャラ設定では、おそらくは「30年後のまる子ちゃん」であって、充分に女性独自のネタがあっても、ここでのコメントでは、私のプロセスをトレースした上での場合が多ければ、入ってるオヤジが露出するんじゃないかと思う。
 他の人のblogへのコメントというのは、自分のblog上の人格の一部が強調されてしまうんだろうなと思う。
 私の場合も、自分のところの文と、他の人のblogのコメントでは、ずいぶん雰囲気が違っている。
 誰かに相談を受けた場合、その相談内容に思ったことを素直に答えるという人は、あまり人付き合いの得意な人ではないと思う。普通は、まず、なぜ相談をするのかを考える。区役所がやってる法律相談じゃあるまいし、それなりに親しい人に相談するというのは、言って欲しい結論が決まっていることが多い。最大限に納得力を発揮するから説得してよ、という場合が多い。さらには、一緒に悩んでくれるだけでいい場合もあれば、「真剣な悩み」を茶化してほしいことだってある。「とってもいい人だけど」で終わるか「人が真剣に悩んでいることをギャグにするなんてひどい。。。だから、あなたが好きなのよ」かの差である。
 かように、誰でも対人関係の上では、期待されている役割が形成されていくわけであり、それを中心にふるまうわけであり、その役割が変化したり発展するものだ。
 そういうリアルな関係ほどでもないが、ネット上でも、相互の役割が暗黙の上で形成されていく。そして、コメントの場合、短い文なので、相手と自分の関係が構築されていて、そういった共通認識がないと、コミュニケーションが成立にしにくい事情がある。
 だからこそ、コメント欄というのは「内輪ノリ」なり「馴れ合い」という雰囲気が漂うわけである。しかし、そこにある「ロールプレイ」が読めれば、入っていくのは簡単だ。
 このような「関係性」を前提にしたコミュニケーションとは別の前提だってある。オタク的「知識」であったり、一種の帰属意識であったりする。
 こういう「既存の共有」でも「出会い」にはいいんだろうけど、ネットを思考のツールに使うには、やはり、相互の「役割」を構築していく方が有効なような気がする。

追記
 コメントの場合、そのblogのコメント欄での「生態系」というのも無意識に考慮することもあるように思う。何か書こうとした場合、つい、そこのコメント欄で希薄な生態学的位置を選んでしまう。
 例えば、あるblogでは、私が誰にもやさしいいい人にも関わらず、「毒の吐きあいをする人」という役割が他にいないとすると、同じことを書くにしても、つい、毒気を含んだ書き方をしてしまいがちなのだ。

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2006.02.27

「自分たち基準」考

 とある教員が書いていたエピソードである。講義のレポートに、○○部なので単位下さい、と書いている学生がいるそうだ。この教員は、そう書きながらもちゃんと水準に達した部と達していない部があったことで、フェアプレィの問題として考察してられる。
 私としては、フェアプレイよりも羞恥プレイに興味があるので、この○○部の連中は、恥ずかしくないのか、どうやって自己正当化してるのだろうと気になった。
 △△学の講義の単位は、△△学の講義の理解に対して与えられる「反対給付」である。どうもこの方たちは、××大学の単位は××大学への努力に対して与えられる「反対給付」と思いこんでいるんじゃないか。というのが私の推測だ。
 「反対給付」は成果へのものではなく、努力に与えられるべきだという考え方、これはよくある。頑張ったねエライねの類である。そして、「△△学の講義の単位」を「××大学の単位」と勝手に読み替えるメンタリティ、これもありうる話しだなと思う。でも、こういう2重の変換をされると、△△学の専門家である教員には、容認しがたいことになってしまう。
 ○○部の人たちは間違った主張をしている意識は全くない。きちんと努力をしているし、それを認めてもらいたいだけなのだ。彼らにとっては社会正義を実現してほしいだけなのだ。
 結局、自分が何を考え、何を得るかより、自分が何に帰属するかが大事だと思っているのかなと思う。彼らの正義というのは、自分に正しくふるまうのではなく、自分の帰属に対して正しくふるまうことなのかと思う。
 コバヤシさんが以前に書いた炎上分析は、「社会正義」をアプリオリに主張するblogを例にしていた。けれども、前エントリーに上げた例で、「炎上系」の分析をやりなおすかと書いてられる。
 でも、前エントリーに上げた2例も、本人達は「社会正義」のつもりなのだ。瑠璃子さんが批判しているところは、「嫌韓」という「正義」のためには、何を書いても許されるはずだと思いこんでおり、コバヤシさんがあおりを食った所も「小娘」が「実態がないが、もっともらしい用語で定型的な説教を垂れる」ようなオヤジにありがちな「社会正義」を主張しているだけなのだ。
 そのあたりは、「男女混合名簿」に反対すれば、何を書いても「正義」であり、結論ではなく、ロジックが批判されているだけなのに、それは「揚げ足取り」であり、結論が「正義」なのに批判するのは「思想が違う」としか思えない、伊勢崎のジャンヌダルクにも共通している。
 それが「媚びる」ということだ。ある集団の「良きメンバー」でいることが、「社会正義」の基準なのだ。そして、ロジックは特にない。
 たぶん「自分基準」や「オレ様」とは少し違うのだ。「自分基準」に徹すれば、皆様、放置してくれるのだ。ところが、ある集団の「良きメンバー」であろうとして、その集団の多様性を読み違えたり、ある集団の「弱点」や「汚点」になってしまうと炎上する。
 冒頭に上げたような「帰属への努力」が基準の若い人たちは、コバヤシさんの学生にもいるに違いない。そういう若い人たちに辟易として、むしろ「自分基準」で傍若無人にステテコで歩き回る類のオヤジに憧れたのが、コバヤシさんのオヤジ化の理由のひとつかもしれないと思う。

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2006.02.26

媚び方を間違った炎上

 以前に、「炎上と交際」というエントリーで、このblogにコメントしている人で、私と明らかに社会認識が違い、結論も違う人もいるわけだが、普通にコミュニケーションが成立しているのは「価値観の相違」が見えるから、ということを書いた。
 この時に、まず想定したのは、とある新興宗教に参拝に行った記事を書いた人だ。戦死者を悼む気がある。だから、死に追いやるに貢献し、死に追いやった無能で無責任な軍指導者を賛美するような件の新興宗教は容認しがたいのが私の考え方だ。けれども、戦死者を悼む人たちが、その新興宗教を追悼のために使っていることで、彼女が追悼のために使っても、公職者であったり、他人に強いることがない以上、反対する理由はない。包丁で人を殺す人もいるわけで、刀で刺身を作っても、それが正しいと言わなきゃ許容範囲だ。
 ところが、この文に反応したのは別の人だった。「社会認識が違い、結論も違う人」という意識が、実はあまりない人なのだ。天下国家を論ずる恥ずかしさが共通しているので、その意識がないのだが。
 そして、このところ、その2人が「媚びる」blogが炎上している件についてのエントリーをあげている。違うblogの違う炎上なのだが。
 まず想定した方、瑠璃子さんは「2ちゃんねらに媚びるバカ」を批判するエントリーで、バカさ加減にガマンしきれなくなったようで、きちんと批判している
 反応してくれた人の方、コバヤシさんは「オヤジに媚びるバカ」のあおりで、はてなブックマークを、ご自分の中でどのような文化か現象か、彼女流に言えば「ネット文化上のポジションか」を研究しだしたようだ。
 元のバカは、この2人がわざわざ評するほどのものでもない。でも、無視してしまえないのはどうしてだろうか、つい考えてしまった。
 瑠璃子さんは、「2ちゃんねらーには、バカもいるがまともな人もいる」と思っていると思う。その中のバカだけに媚びたような文は、「2ちゃんねらーはバカ」というメッセージを含んでいるように感じたことが、あえて批判している理由のひとつかとも思う。
 コバヤシさんは、オヤジが入ってるそうだ。だから「オヤジとは定型的な説教が好き」というメッセージを含んでいることに気付いたのだろうか。でも、彼女に入ってるオヤジは「ビール飲んでプロ野球中継を見るのが好き」であり、真性オヤジでもないので、興味は「はてなブックマーク」に移ってしまったようだ。
 たまたまだが、ここにコメントしてくれる人、それも全く異なったキャラでありながら「羞恥」に敏感な2人が、「羞恥」に鈍感なblogをネタにしたエントリーを書いているのを見て、ネット上の羞恥プレイの隆盛さを感じる次第だ。

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