29/07/2008

PING言論

 2・3年前に、何度か言及していたのが、「意思疎通」のためではなく「位置確認」のためのコミュニケーションだ。
 最初に例にあげたのが「オタク」の世界である。語源的に言えば「オタク」というのは、2人称の使い分けができない人が、オールマイティの2人称に「おたく」を使ったことに由来する。つまり、コミュニケーションのプロトコルを確立しない相手と、ただただ趣味について語るだけで、連帯感を得ている例だった。
 このような例にいいサンプルになってくれたのが、2年半ほど前に話題になった「伊勢崎のドンキホーテ」だった。コミュニケーションのためなら「説得力」に対応して、相応の「納得力」が期待できるはずが、「自分の位置」を確認したいだけのコミュニケーションだから、相手と自分の位置が優先で、その位置次第で「納得力」が大きく変わるということだった。位置を知りたいだけだから、違うと全く「納得力」を発揮しないから、いかに「説得力」があっても無駄であり、逆だと全く「説得力」がなくていい。

 今になって、なぜにこういうことを持ち出して来たかというと、とある所での「アタマがくるくるぱーになりそうになるんです」という話からだ。そういう「不可解な言説」についてのコメントの後半に書いたのが、こういう方々のうち何人かについては「主張や意見の「中身」は重要ではなく、表明することに自体に意義があるのでは、としか思えない。概念を共有するためではなく、立場を示すだけ、自分の妄想に浸るためだけのコミュニケーションというのが存在する」ということである。なので、その内容について理解しようとすること自体が期待されていないわけで、「アタマがくるくるぱーになりそうになるんです」ももっともだ。
 およそ、どういう意見を表明するにあたっても、その根拠が事実か事実でないか、どうでもいい、ということは通常はありえない。それを不思議に思わないということもない。つまりは、自分たちが交換している意見自体はどうでもいい、ということだからだ。なのに意見を表明し交換する。その「どうでもいい意見」に賛成であれば、よりバカバカしいコメントでも喜ぶし、否定的に言及されると「攻撃」と見なす。つまりは、概念の共有でなく、立場の確認のためだけのコミュニケーションなのだ。

 このコメントを書いた3日後に、コミュニケーションを行うこと自体が目的で、その内容に意味はない、というスタイルのコミュニケーションについて、「光るナス」でも記事を書いていた
 そのコメント欄で、このようなコミュンケーションをネットワークにおける「データ交換」と「コネクション」に例えている人がいた。ネット上でコミュニケーションについて語る時に、ネットワークの仕組みを比喩的に使うことはよくする。例えば、言語によるコミュニケーションにおいては、まず共通の言語を使う必要、言語の概念を共有していることを確かめる必要について説明する際に、ネットワーク用語でいう「プロトコル」や「シェイクハンド」という用語を使ったりしたこともある。
 その意味では、「根拠が事実かどうかはどうでもいい」ような内容自体に意味がないのに、コミュニケーションを行っているような言論は、ICMP言論やPING言論と言えばいいのだろうか。ただ、ICMPというのはそう一般的じゃないし、「PING−blog」なんていうと、blogの更新通知用のPINGサーバーと紛らわしいか。

 前述の「光るナス」では、このような「PINGコミュニケーション」の典型例として、知人どうしの挨拶をあげている。考えてみれば、というか、考えてみなくても、このblogだって、ほとんど毎日は、テキトーに撮った写真を載せているだけで、別に意味らしい意味はないわけで挨拶みたいなもんだ。「更新したぞ」という意味しかないようで、二重の意味での「PINGコミュニケーション」かもしれない。
 一方で、「アタマがくるくるぱーになりそうになるんです」の例の方では、スタイルとしては「言論」のカタチをとっている。
 全く話は変わるが、人類の文明は遊戯化する。狩猟採集社会から、農耕や牧畜が始まった。すると「狩猟」や「採集」は遊びになった。農耕や牧畜も園芸や飼育という遊びになった。工業も工作になったし、ネットオークションも儲けるためやリサイクルより、遊びとしての商業としてやっている人が多いだろう。なので、研究や言論だって遊戯化するわけである。「研究ごっこ」や「言論ごっこ」である。ごっこであるから、内容や効果よりも、カタチが重要なんだろうし、それで一部は「PING言論」になってしまうこともあるのだろう。
 なお、釣りや園芸や工作が立派な趣味であるように、「研究ごっこ」や「言論ごっこ」も立派な趣味だし、否定する気はない。ただ「研究」や「言論」のツールとしてネットを使っている人、専門家でない人でも「研究」や「言論」の普及をしようとする人、さらには、理解しようと学習ツールにしている人だっているわけであるから、「PING言論」の方々は、釣り人の漁師に対するような遠慮はした方がいいと思う。

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12/05/2008

ロード・オブ・ザ・ループ

 一部の人が見ていた話だが、もはや第3部になると見ている人も少ない。今も第2部のエピローグは続いているし、第3部の途中であるが、第3部は話がループに入ってきているだけではなく、もっと歴史的に根深いループに突入しているようだ。
 以前に、第1部や第2部が話題になった時は、ほとんど取り上げなかったのだが、この「大きなループ」には以前から触れてきたので、ここで感想をあげてみる。
 そもそも、この話の発端はひとつの物語、それも死んだも同然のクダラナイ物語だ。

 その物語を捨てなければ、この世は闇となる。
 遠い遠い昔、理性を滅ぼす魔力を秘めた“ひとつの物語”が作り出された。波動測定器なるものを高額で販売したいという欲望が、この物語に注ぎ込まれていたのだ。
 その物語に屈していった人たちもいた。しかし、物語があまりにバカバカしく無視していた勇者たちが、科学を僭称していると物語に立ち向かった。そして、物語は科学でないと否定された。ニセ科学が敗れたのだ。
 しかし、その後も物語は消えたわけではなかった。

第1部「旅の仲間」
 「網つ国」の街道を旅をする仲間がいた。私が見た所、そもそも同じ村の中で街道を行ったり来たりして、お喋りを楽しんでるようにしか見えないのだが、本人たちは目的地があって旅をしていたつもりのようだ。
 ところが、この旅をする一人が、件の「物語」を語り始めた。何しろ、同じ村の中といえども、天下の街道である。ミンポーカイセーに向かって旅をするとある勇者の末裔に見つかり「こんなのを見つけました。ずばり、「あのインチキ物語」を、信じていらっしゃる一行ですよ。」と言われてしまった。
 「旅の仲間」たちは、仲間に文句を言ったということで、この人相手に口ゲンカを始めたのだが、やはり天下の街道のことである。方々から人々が集まり、オマエらの方が悪いと責められることになった。
 そうして「旅の仲間」は、ある者はいじけ、ある者は一人で騒ぎ、ある者はモーソーの世界に旅立ったり、ある者はなかったことにして勇者にすり寄る。この「旅の仲間」は以下の話にも出ては来るのだが、もはや回想シーンでの端役である。長編にはよくあるパターンだ。

第2部「二つの塔」
 第1部から3ヶ月たった。
 昔から象牙の塔という塔がある。この塔の名は人々に揶揄された呼び方だ。しかし、この塔の功績には大きなものがある。世間の風潮とやらと無縁の所で、ものの理を考える、考察のグレードを上げるための方法論を確立してきたわけである。
 その功績のひとつに「批判」があった。人々が知を共有するために、その知を違いに磨くために使われる。「網の国」では知を共有することが簡単になった。誰でも「知」を磨くことが出来る。
 一方、バベルの塔という塔があった。この塔は今は崩壊している。なぜなら、この塔を建てた人々が、それぞれ違う言葉を使っていたからだ。意思の共有が出来なかったからだ。その教訓から、ある者は、意思を共有できるまで徹底して言葉を尽くそうとする。しかし、ある者は、そもそも塔を作ることが傲慢だ、所詮、意思の共有など出来ない、私がそう思ったんだから、それでいいじゃないか人間だもの。とか思うようになっていた。
 そして「批判は攻撃だ、私はそう思いました」ということから、第2部が始まるわけである。そして、この第2部は、私にとっては、意外な結末を迎える。
 理屈にあわないからイケナイということに対して、感情を害したからイケナイのですねということで「イケナイ」が一致してしまい、何と無く終わる。
 ただ、この終わり方に満足できない人は多いようで、事実関係をきちんと検証することの大切さという話は今も続いている。

第3部「王の帰還」
 第2部から1ヶ月。
 「網つ国」は共和制だ。王などいない。しかし、昔から「御作法」という王を擁立しようという動きがあった。この「御作法」という王は、他の国では統治はしていないのだが君臨している。
 「網つ国」の「御作法」王は、「無断リンク禁止」とか「引用や言及には許可を」とか、およそ、著作物の公表という概念にはなかったものに、「おつきあい」のレベルのマナーを持ち込むというものであった。
 このような王の擁立に対しては。共和制の人たちは「そもそもwwwとは」とか「仕様でも法的にも可能なことは前提にすべき」と撃退してきたのであるが、「網つ国」に「著作物の公表」より「井戸端会議」や「給湯室の雑談」や「居酒屋談義」に馴染んだ人が移住してくる度に、十年一日のごとく、擁立騒ぎが巻き起こる。
 そして、この巨大なループにこの話が呑み込まれていくというのが第3部だ。そもそもの勇者の指摘はケシカラン、「御作法」王に不敬であるということになる。
 第2部で登場した「批判は攻撃」の種族が、このループに巻き込まれると「私は権力は批判するが、一般市民は批判しない」ということになる。およそ、どこの誰ともわからない一般市民の批判は不可能だ、一般市民が公表した意見を批判しているわけであり、「批判」と「攻撃」の混同と「著作物の公表」と「井戸端会議」の混同という、ダブル混同でっす。なお、このシーンは俯瞰撮影ではないと思うのだが。
 話は、第1部や第2部の続きではあるが、もはやテーマは「網つ国」の昔からのループに入ってしまった。ジャンプ漫画が長編化するとネタにつまって格闘技大会になるように、「網つ国」の話は長編化してネタにつまると、御作法ネタになる。ただし、このループに入ってしまうことで、発端のニセ科学という「物語」がクダラナイということが前提と化して定着するのなら、それはそれでいいことだろう。

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15/11/2007

奇跡の出会い

 「心底どうでもいいこと」ということがある。この場末blogに書いていることは、ほとんどがそうだ。カモの一種のその一羽の羽が1ヶ月で変わっていく経過、なんて、誰にとっても「心底どうでもいいこと」だろう。感想を求められても、棒読みで「へー。わー。すごーい。」と言うくらいがせいぜいだ。
 さて、最近、ネットで少し話題になっている「心底どうでもいいこと」がある。「心底どうでもいいこと」なのでリアルタイムでは経緯を知らない。話題になって、ようやく概要がわかった。そして、あまりにも「心底どうでもいいこと」なので、かえって言及しようかと思ったわけである。
 子供が生まれることになって、そのうれしさをblogに綴った人がいたらしい。本人は有頂天で、ありったけの文章テクニックを総動員して書いたようなはしゃぎっぷりだったらしい。ありがちなことである。
 それに、文句を付けた人がいるらしい。他人が喜んでいることに文句なんていくらでも付けられる。
 「大学に合格した嬉しい」「オマエが合格したために落ちた人のことを考えろ」「オマエがその大学に入るおかげで定員割れする大学があることも考えろ」「そもそも大学に行けない人のことを考えろ」
 「今夜はてっちりだ嬉しいな」「フグが買えずにカワハギですましてる人の気持ちも考えろ」「フグに当たって死んだ人の遺族の身になれ」「そのフグを調理した料理人の...」「そもそも食事さえろくに...」
 本人の喜びが大きいほど、それを味わえない人の怨嗟は大きく表現できるわけである。究極の言いがかりとしては「俺がワーキングプアで非モテの一方で、喜んでいる人がいる社会は不公平だ。戦争でも起こってほしい」というのもある。さらには「そういう本を出すのは不快だ、本を出版する予定がなくなって、サギ呼ばわりされてる人のことを考えろ」ときりがない。
 それで、言いがかりを付けられて、はしゃいでた方は、消したり、復活させたり、そしてまた消したりした。ということらしい。世の中に、行き当たりばったりというと悪いが、状況の変化によって適切な対応をとろう、とすることはよくある。その度に説明の文を付けたということだ。
 そして、誰もが両者に「ほっときゃいいのに」と思っている、ということのようだ。「ほっときゃいいことをほっとけない」という2人がたまたま遭遇するというのは、奇跡的な出会いではあるが、当事者以外には「心底どうでもいいこと」だなぁと思う。
 街路樹にメジロが留まっている。多くの人は見えているのに気付かない。見えていても、それがメジロであることというか、樹木と分離させて小鳥であるとさえ認識しないような脳のメカニズムがあるんだろう。「ねえちゃん、茶、しばけへんか」と言われて、それを繰り返すことが出来る人でも、未知の言語で言われたら、繰り返すことは難しい...ようなものか。残念ながら、同じようには無意識には「心底どうでもいいこと」に反応しないですますことはできないし、削除したりの手間がいる。なので意識的に反応しないことが必要だ。それだけのことだ。
 「心底どうでもいいこと」に反応するのは、それを面白がれる時だけでいいと思う。

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08/10/2007

おまん

 先々週末、急に病院に行く用事があり、それ以来、先週は、篤さも和らいだのにビールばっかり飲んで,、ほとんど引き籠もり状態というか、政治部遊軍状態だった。
 あんまり書くネタもないし、そんな折、「なかのひと」というblogパーツを貼っつけてみた。「なか」の人というのは、昔は花魁で今は泡姫だからってわけではない。よそさまのblogで見た、日本地図のblogパーツがあって、アクセス地域がわかるんだろうと思って付けてみた。けれども、一般のプロバイダーからの分だと表示されないし、別にどこのドメインからか分かっても、面白くもないんで、1週間で外してしまった。
 そんな折、このところ清純派の姉さんが「彷徨える詐欺人」について書いているんで、関連のページとか流し読みをしていた。「さまよえるオランダ人」は「Flying Dutchman 」だけど、この詐欺人も、ついに飛んだらしい。もっとも、ネット上で飛んだだけで、リアルな世界じゃ既に飛んでしまっているかも知れない。
 私はこの人のblogは「見たことはある」程度だし、むしろ騙された側のことを考えた方が面白いので、清純派の姉さんのとこでも、そういうコメントをしている。
 さて、飛んだ方の人は、何を考えているんだろうか。普通なら、刑事上の訴追をどう免れるか、民事上の責任からどう逃げるか、そんなことを考えるんだと思う。
 まず、刑事上の訴追を逃れるためには「騙す意思がなかった」ということになればいい。実際にフラッシュを作るつもりであったが、何らかの理由で、先延ばししている、ということにすればいいし、寸借だって、返すつもりがあるということにすればいい。ということは、立件のためには、金を受け取った時点で、すでに騙す意思があったことを証明しなくちゃいけないということになるんだろう。一方、民事の方だけど、民事訴訟には被告人の住所と氏名が必要なんじゃないの?
 さて、被害者の方だけど、刑事告発の際に、カンパや寸借において、欺罔行為があったと主張できるんだろうか。民事訴訟におそらく必要だと思う被告人の住所・氏名はわかってるんだろうか。このあたりの法律には疎いんだけど、どうなんだろう。
 清純派の姉さんも、そもそもの「旧宮家復籍キャンペーン」がワケがわからん、と書いていたけれども、この詐欺疑惑も、当初から騙すつもりなのか、それとも、いつかの時点で騙すことになったのか、さらには相手が誰かもわからんのに信用して金を出すってどうなのとか、やはりワケがわからん。姉さんには、是非、このあたりを考察してほしい。
 さて、この詐欺疑惑の関連のページとかを見ていると、たまにAds by Googleで「西尾」という八つ橋屋の広告を見かける。ここの人気商品に生八つ橋でアンコを包んだ「おまん」というのがあるのだが、なぜか「おまん」の広告は見ない。

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07/10/2007

ムチとツリ

 このblogでも、「事実と違う、理屈が一貫してない」という記述がけっこうある。その理由は、大きく分類すると次の3つだ。
1.一種の表現手法。ストレートに書くと問題あるので、逆の表現を使う場合、例えば「伝統と品格を重視する大相撲」での「かわいがり」のような場合、あるいは、読む人に「?」と思わせて、実はこういうことだと書いて、印象づけたりするような場合だ。
2.騙そうとしている。これは例示するわけにはいかない。
3.無知。よくわからないのに書くから、いいかげんな記述になる。自分がやっていても、というかやってるだけに、ヨソ様のこともとやかく書いたりするけど。
 このblogに限らず、ウソというかイイカゲンな記述というのは、おおむね、この3つの理由のどれかだろう。ところが、1の場合だとわかりやすくしてあるけれども、2か3の場合、どの理由かが明らかにするということは少ない。
 そのために、2だろうか3だろうかと思うことがよくある。例えば、いわゆる従軍慰安婦が「その多くが佐官どころか将軍よりも遥かに高い収入を得ていた」などという記述は、あのワシントンポストに出したという「FACT(主催者発表タイトル)」という広告にも出ている。普通はおかしいと思うわけで、少し調べれば、額面通り支払われたわけでもなければ、円の価値に大きな地域差があったことなど簡単にわかる。それがわかっていて騙そうとしたのか、そもそも書いた連中がそこまで無知なのか、どちらなんだろうか。
 最近だと、こちらのblogで紹介されているけれど、あの古森義久が小説を根拠に、性奴隷問題について書いているとかで、知っててやってるのか、そう思いこんでるのか、判断に迷うとコメント欄で指摘されている。
 ところで、アルファ・ブロガーという人の中には、どう見ても3だというケースでも、それを指摘されたりすると、実は1でした。という技を使う人がいるらしい。アルファ・クリッパーもやるそうだが。
 「無知」ではなく「釣り」でした。というわけで、初心者でも可能な「ムチ」よりも、縛りをマスターしないといけないし天井補強も必要な「ツリ」の方が高等テクニックというのとは無関係だけど、やっぱり「無知」より「釣り」が何かエラそうだ。
 そういえば、かのネットから姿を消したことになっている「理系保守」先生も、当初は3だと誤解されたけれども、いくら何でもこんな馬鹿はいない、ということで1だろうと認められ、先生といわれるようになったわけである。
 そう考えてみると、騙そうとしているのか、馬鹿なのか、2か3かよくわからない人たちも、ひょっとしたら1なのかも知れない。
 日米関係の強化のために性奴隷決議を推進するための「釣り」でした。時間がなくなったり受験対策で学校でまともに扱われない近・現代史に若い人のが興味を持ってもらえるための「釣り」でした。ひょっとしたらこういうことかも知れない。偽史ではなく「馬鹿」を演じた義士かも知れない。もし、そうだとしても、彼らの秘められた目的に協力するには、やはり「釣られ」ないといけないのだろう。
 ただし、伊勢崎のドンキホーテは、やっぱり3だと思う。

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27/09/2007

坊主はお経、政治は妥協か

対立と枠外 ある疾病に対し、外科的療法が適切か、内科的療法が適切か、こういう選択肢があるとする。外科的療法を支持する医師でも、というか医師でなくても「心霊手術」には反対するだろうし、外科的療法は不要と考える人でも、まともな人なら「マイナスイオンで治る」などという意見にには耳を貸さない。「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」だのというのは、医療上の選択肢ではない。
 「外科的療法」か「内科的療法」か「医療」という科学分野の論議に対して、ニセ科学は最初から除外されるわけである。
 「医療」という専門職によって成り立っている分野なら、「排除されるべき選択肢」は、わかりやすい。でも、世の中には、玄人と素人の境目がはっきりしない分野、素人でも何か言いたい分野、素人が参加しなけりゃいけない分野がある。
 歴史の話題の場合、私のようなシロートでも、現代人は、「専門家」による「専門の手続き」によって得られた説を「歴史」と考え、「物語」とは別次元のものと考える。ただし、説であるが故に史料解釈によって、専門家の見解が分かれることだってある。ところが、専門家は正確であろうとして、断定を避けるのをいいことに、歴史学の専門的訓練を受けていない人による「物語」までもが、「歴史論争」にノコノコ参加しようとする。もちろん、歴史の専門家の場には参加できないけど、本くらいは出せる。
 裁判は原則として公開で行われる。だから、シロートも、裁判に関して、シロートなりの判断による意見を持つべきだろうけど、最低限の前提がある。裁判は事実認定、法や判例の適用を巡って争われるわけで、それが公正かどうかのために公開されている。刑事事件だと、裁判官は、検察側と弁護側が提示した、いずれの「事実」と「量刑」が正しいか判断するわけである。だから、シロートであっても、公正かどうか意見をまず持つべきだし、意見を述べるためには、両者の主張くらいは把握している必要がある。それで、私の場合は、把握してない裁判についての意見は書かない。それでも、裁判に関しては、放送界の人より法曹界の人の言うことの方が信頼できると思っている。
 素人が参加しなけりゃいけない分野というと政治分野があるが、このblogにおいては、政治的な主張は行ったことはないし、するつもりもない。しかし「政治的な選択肢」でさえない次元のことには、度々、振れている。外科的療法が適当か内科的療法が適当かはシロートだからわからないが、とりあえずは「心霊手術」だの「マイナスイオンで治る」は看過したくないというような感覚なのだ。
 つまり、ある問題について賛成か反対かという対立軸ではなく、その議論の前提として適当か適当でないかの対立軸に沿ってでしか触れていない。別に政治問題に詳しいわけでも、見識があるわけでもなくても、明らかにリクツにあわないことってあるわけである。
 例えば、かの伊勢崎のドンキホーテにしても、その主張に批判的なコメントをしていた人たちは、理屈がおかしい、とか、セカンドレイプまがいの言説を批判していたわけだし、史上最もシンプルな南京大虐殺否定論にツッコミを入れていたのも、ニセ科学批判の延長で、ニセ歴史を批判する人たちであって、その人達は政治的立場を一切、表明していない。にもかかわらず、彼女は、政治的な立場の違いと主張していたあたり、まさにドンキホーテだったのだが。
 もっとも、対立軸が別にあるのもわからない人ばかりじゃなく、リクツで対抗できない場合に、対立軸を立場に集束させてしまい、立場が違うから攻撃するのだというレッテル貼りをするのもひとつの方法だけど。
 ところが、政治問題というのは、利害というのもからむし、リクツだけではすまない。何より数がモノをいう世界だ。だから「外科的療法」に反対するためには「内科的療法が適切」という人も、「マイナスイオンで治る」「ナノ化食品で治る」「信心で治る」という人とも協力した方が、より主張を通しやすいことになる。そういう妥協ができる人とできない人がいると思う。
 自民党で憲法改正草案を作っていた舛添氏が、国会で山谷えり子が披露した抱腹絶倒の前文案をどう思っているか知らないが、どう思ったかは広言しないと思う。政治家としては、広言しないという妥協が必要なんだと思う。もっとも、最大の妥協はあの阿呆を担いだことだろうけど。
究極の選択 最近に、思想的にリベラルであり、安倍政権に反対の立場を表明していたblogで、城内実に対する評価が全く分かれている例があった。これも当面の「経済政策」に対抗するために、妥協が出来るか、妥協にも程があると思うかの差かと思う。
 武士道やら騎士道というのはよくわからんのだが、以前にDVDの感想で触れたことがあるように、専門の戦士には専門職としてのアイデンティティがあるんだろう、と思う。だから、戦う「敵」であっても、同時に職能としての共感がある。だから、戦場以外では互いに敬意を払うということがあるのだろう。各国の軍にそういう意識が残っていたのが、20世紀の「総力戦」となると、敵と身方という概念の方がメインになって、そういった意識は、どこかに行ってしまった。
 別に、議論の専門家でも何でもなくても、少なくとも、テレビや匿名掲示板に書いてあることを鵜呑みにしないとか、議論の際にはロジックの整合しないことは言いたくないとか、他人の意見をトレースしてみるとか、そういう配慮が出来るか出来ないかというのは、意見が違っているかどうかよりも共感を覚えることはあると思う。
 考えてみりゃ、議論において、リクツの通じる相手といない相手がいて、というのも「上から目線」のようで、相当に「嫌味」な意識かも知れないけれど、一方で、私なんぞよりも、もっと高度なレベルで論議を行っている人もいるわけであって、世間の皆様は、それぞれ相応のレベルで議論してるんだろうと思うし、自分に大した知識や見識があるわけじゃなくても、やはり、事実認識のおかしい人やリクツの通じない人とは、結果として同じ意見になっても、あまり関わりあいたくないと思う。
 首相の靖国参拝に関して、賛成か反対かという話をする中で、2種類の分岐点があった。
 ひとつは「内心の自由」から、個人的にどのような宗教に参拝するのは勝手だという意見である。「内心の自由」があっても、あくまで「内心」であり、内閣総理大臣にそれを具体的な行動に移す自由があるのか、それがあるか否かが分岐点だった。
 もうひとつは、首相の参拝を望む遺族の心情があり、その心情のために賛成かという意見だった。つまり、遺族の心情のためであって、宗教法人である靖国自体への関与が目的でないから、習俗の範囲内なので許容される、ということになるんだろうが、カトリック形式の結婚式に行っても許容されるからといって、統一教会の合同結婚式に行ってもいいのか、どこまでが習俗の範囲かが分岐点ということになる。
 分岐点を探っていくと、「外国が反対しているから行くべきでない」とか「戦死者でだけはなく、戦後に絞首刑になった連中まで祀られているから反対」、「国の犠牲になった人を国の代表が追悼するのが当然」というような理由は、分岐点にならないと思うのだが、こういう主張はよく見かける。おそらく「政治的な妥協」にとって都合のいい理由なんだと思う。なお「軍国主義者だから賛成」、「反日だから反対」という人はいなかった。
 私としては、分岐点を探る議論の出来る人の方が、つきあいやすい。けれども、政治的な主張には、結果的に賛否が同じ人と妥協ができる人の方が向いていると思う。リアルな世界じゃ、いろいろ妥協も必要だろうけど、ネットじゃトンデモさんはトンデモさんと言いたいわけで、このblogで政治的な主張をしたくない理由のひとつだ。

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14/09/2007

勝利の好きな人

 将棋の必勝法を紹介しよう。その説明の前に、まずクリック、は不要だ。まず、一手目に、王将の前に飛車を動かす。相手は角道をあけたりと歩兵を動かすだろうが、それはどうでもよい。そして、2手目に、飛車で相手の王将を取るのである。飛車という限り、歩兵を飛び越えることが出来るのが当然である。そんなのルール違反だと言われても、アインシュタインの相対性理論では、何事も相対的なものであり、自分の知っているルールだけを絶対的だと考えること自体のがおかしいのだ。アインシュタインが間違っていると言うのか。
・・・・なんて、主張する馬鹿はいないだろうが、だいぶ以前に「議論に負けたことのない人」からトラックバックをいただいたが、その方の論調を誇張するとこんなのだった。
 さすがに、このようなことを本気で書いているはずもなく、ネット上のトンデモさんを揶揄する芸だろう、いわば「bogusnews」ならぬ「bogus opinions」だろうと思われ、「先生」と呼ばれたりしていた。しかし、残念なことに、ネット上から姿を消されたことになっているようだ。
 さて、この「先生」の場合は「芸」だとしても、その「芸」で揶揄されているような人、竹内久美子や井沢元彦のネタを鵜呑みにする人、さらには自分流にアレンジまで加える人、理論や法則を自分流に改変するは、方向違いの分野に当てはめるは、こういう類の人は世の中に少なくなく、ネット上でも散見できる。
 さて、こういう人は、「先生」が揶揄していたように、なぜかネット上で相応の存在である、ということにこだわりがあるようで、そのあまりに「アクセス乞食」と化したり、「議論」の内容よりも「勝ち負け」が大切だったりする。
 さて、BBSやblogの炎上に関して、コメント欄に押し寄せる匿名さんが問題になったりする。確かに「厄介」ではあるが、まともな意見にだけ対応する、という方法がある。労力はかかるが。
 無意味な罵倒、本文が読めていない故のピント外れの意見、単なるウケ狙いのツッコミなどは無視したって、芸のないコメントは削除したって、それ以上に荒れることはない。
 匿名であるということは、「ネット人格」を背負っていないわけであり、議論の内容によって「リアルな人格」が人知れず得るものがあったとしても、失うものはなく、「ネット人格」が得るものも失うものもないわけである。だから、押し寄せるのも早いが引き下がるのも早い。それなりの労力や時間は必要であっても、匿名によって荒れた場合は沈静化が可能だろう。
 ところがである、相手が「ネット人格」を背負っている場合、それも「先生」が揶揄していたような、まともな議論の土俵に載っていない人の場合は、第三者的にどう見えようが、ご本人が得るものがあったと思いこむ、簡単に言えば「勝った」と思うまでは、粘着してしまいがちだ。
 そもそも、ある炎上がきっかけで、やりとりを始めた人がいるのだが、最近も「プチ炎上」されたようである。法曹界では相手にされなくて、放送界でご活躍の御仁について批判するエントリーだ。そのきっかけになった刑事事件や裁判当事者に対しては論評を避けている。その避けている論評を創作した読み手のコメントによってプチ炎上したわけであるが、少なくとも匿名さんについて言えば、それがわかれば引き下がっても失うものもないわけで、すぐに鎮静化したわけである。
 ところが、「ネット人格」を背負っている人は、簡単に引き下がれないわけである。SNSのように、そのシステム上の「人格」を背負っている場合もである。何らかの「勝利」がないと納まらないようだ。
 この状況について「匿名が故に多少とも「ウケ」を狙おうとする「オープンなblog」のイナゴよりも、「SNS」の方が、かえって「ガチ」が多いみたいですね。」という感想を漏らしたら、この「ガチ」という表現が気に入ったようで、自分なりの「ガチ」の人の分析まで始められたようだ。
 私の場合には、むしろ匿名性の問題で興味をひいた感想だったわけである。
 古い話であり、攻守は逆であるが花岡信昭blogの炎上も、花岡信昭が自身の「日本語表記についての主張が誤り」であり「調べもせずに書いた」ことを認めれば、それですむことだったろう。ところが彼自身は実名でそれを認めることが出来ずにイザに逃亡した。
 自身の個人的な理由と社会的な状況をゴッチャにして「弱者男性」と一般化して論じる方も、メジャーな雑誌に取り上げられたこともあるという実名を背負ってなければ、あちこちで粘着することもなかっただろうにと思う。
 匿名だと「ガチ」になりにくい。ネット人格を背負うことで、さらには実名を背負うことで、第三者的にはどうでもいいような場合でも、そもそも議論の土俵に載っていなかったり、単なる勘違いだったりするのに、「ガチ」になってしまう人がいる。時として、自分は実名で書いているから、責任ある意見だなんて主張さえ繰り広げる。
 他人の意見をトレースできないままコメントする人は、匿名さんは量的に厄介なだけだが、ネット人格を背負っている人は質的に厄介なことがある。

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02/02/2007

機械の性能を錯覚したい人

 Yahoo!ブログの「転載機能」は、私にとっては、不思議であり、バカみたいな機能だと思った。けれども、そのアホな機能を備えたYahoo!ブログと、このblogは、ネットの上で繋がっているわけであり、クリックひとつで行き来できるわけである。なので、アホかだけですますわけにもいかずに、自分の判断とこの機能を作ったYahoo!ブログの中の人との「分岐点」はどこかと考えたのが、先日のエントリーだ。
 その結果が、著作物への考え方が違うんじゃないかということだった。この差というのは、ネット上に著作者の権利についても、従来の著作者人格権を歪めたような「人格権」と捉えてしまうことが多くなっていることとも関連しているのではないか、ということだった。
 それに対して、同じく「転載機能」を不思議な機能と思ったロジックな姉さんがTバックを送ってきたのは、blogコミュンケーションでは「議論」や「意見交換」ではなく「共感」だけを求めているからだろうというハナシだった。
 blogを書いている人がいる。書く機械と言っては何だが、機械によって著作物という製品が生産されたとすると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね。製品の批判的検証によって機械の性能向上に頑張ってもらうことで、よりよい製品が作られるというのが、従来の考え方だ。
 ところが「製品への批判は機械そのものへの否定である」という考え方を、ネット上でしばしば見かける。
 「なぜならば」売ることを前提としない製品は改良の必要がない。機械の性能向上ということも考えないから、というのが私の仮説であり、「そうだから」機械の性能が充分に高いと思いたいために、互いの自分の製品の宣伝を、ただ、しあってるんだろうというのがロジックな姉さんのハナシを受けての仮説だ。ヤフーblogのファン登録とか、はてなのブックマーク数をひたすら集めるというのも、この錯覚の効果的な材料になっているんだろうな。
 この「錯覚による現状肯定」というのは、いつぞやも書いたようなことがある「勝ち組@元祖」と似たような病理なのかとも思う。そして、どうしても錯覚が得られないほど、悲惨な部分があると「不完全でもいいじゃないか、人間だもの」思考に陥ったりするわけである。
 Yahoo!ブログの「転載機能」という不思議な機能、争点が噛み合ってない論争や揉め事、こういうネットに漂う「やや不思議な傾向」の言動というのは、「典型的な症例の人」に遭遇することで、「こういうことなのか」と思いあたることが多々ある。なので、コミュニケーションと文化についての「勉強」になることも多い。しかし、その「典型的な症例の人」というのは、書いていること自体は無意味なことが多いので、別に読みたくもないし、さらには遭遇もしたくない。でも、反応は観察はしたい。勝手なもんである。

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16/10/2006

ベタ・ネタ・スカ

 andy22さん@綾川亭も考察されて、一部で話題の「物心」だが、自己相対化の出来ない、と胃ってしまうと誰でも難しいことだし、出来ないことだが、その試みすらできない人という感覚なのかとか。「感じ」としては、物心の付かない大人という「そういう人はいる」のだが、どうもピッタリの言い方が難しい。
 それで思ったのが「私は常に嘘を言う」というパラドックス。こういう発言は「本当」か「嘘」か、それがわかるのが、ここでいう「物心」じゃないかと。このパラドックスは、言語表現として「嘘を言う」と事象として「嘘を言う」が対応していない、言葉と意味という違う次元というか位相で、同じ表現を使用しているだけの話なのだ。つまり、ひとつの表現の属する枠組みが2つあるだけ。
 先日来、書いている「枠組み」の話で言えば、たぶん「物心」というのは、抽象と具体の「枠組み」の違いがわかったとしても、抽象の中にある「枠組み」の違いに気が付かないということも言えるんじゃないかということ。
 「なぜ人を殺してはいけないか」、人を殺してはいけないという法律はない。けれども、人を殺すと罰するという法律や制度があって、人を殺すと不利益を被るように社会が出来ている。社会制度があるから「人を殺してはいけない」のではなく、「人を殺してはいけない」から社会制度があるわけだ。だから、社会制度について議論する際には「なぜ人を殺してはいけないか」などと考える必要はない。
 しかし、人を殺すと受けなければならない不利益として「殺される」が適切か、さらには「殺される」という不利益を回避する手段として「人を殺してはいけない」か、という問題に至れば、「なぜ人を殺してはいけないか」を考える必要がある場合もある。社会制度の問題ではない、文化への考察においては「なぜ人を殺してはいけないか」と考える必要がある。
 枠組みが違えば、考える必要のないこと、考える必要のあること、それぞれ違う。この枠組みの違いがわからずに「思考停止ヨクナイ」とか言っても、そもそも「物心」が付いてないわけで、いくら考えても、休むに似たりってだけだろう。
 「時うどん」という落語がある。東京にも移され「時そば」になった有名な噺なので、内容は書かない。この噺に出てくる2つのうどん屋は「松嶋屋」と「成駒屋」だった。「おまえとこ、松嶋屋か」「いえ成駒屋」がくすぐりになってたわけである。かつて落語を聞く人は歌舞伎も見た。というより、かつての上方の人の共通文化だった。ところが、若い落語家がタレント活動で人気を得て、そのファンが落語を聞きに行くようになると、歌舞伎は見ないが落語は聞くという人も多くなり、中にはこのくすぐりがわからない人もいる。それで「あたり屋」と「はずれ屋」という屋号で演じることも多くなった。
 「松嶋屋」も「成駒屋」もうどん屋の屋号としてもありうる。でも、並べることで「うどん屋」という枠組みではない全く別の枠組みと、二重の意味を持たせることが出来る。ひとつのネタである。
 一方、「はずれ屋」というのは「あたり屋」の逆というだけだ。あまりにベタである。だから、「松嶋屋」と「成駒屋」と同じように演じるとベタすぎてつまらない。
 しかし「あたり屋」はあっても、「はずれ屋」という屋号はありえない。それをしゃあしゃあと言ってのけるというのは、リアリティの枠組みを逸脱してしまうことだ。つまり、落語を相対化してしまうことにもなる。その逸脱の面白さを表現できれば、メタ落語としての面白さがある。「ベタ・ネタ・メタ」と言った方が語呂はいいんだけど、メタだと概念が広くなりすぎるので、本来の枠組みを外れてしまうので仮にスカの面白さと言おうか。この枠組みの逸脱の面白さを表現する、理解するのは「物心」が必要になる。
 文化が共有されればわかるネタに対し、世の中には単にベタだけで終わるベタもあれば、「物心」があるかどうかで、ベタとスカに分かれてしまうベタもある。
 こう考えると、うちのお客さんの笑いのセンスというのは、スカがけっこう好きなように見える。たぶん「物心」のない人には、ベタな連中と映っているんだと思う。

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11/10/2006

シュール・ナショナル

 別の所のコメント欄で「近代の虜」みたいなことを書いた。
 日本で「近代」というと明治から冷戦体制という捉え方を普通はする。だからナショナリズムやインターナショナルという枠組み自体が「近代」のものと思う。だから近代の克服というと、近世以前からの「伝統」とグローバリズムの融合という所に行き着くことは多い。
 それでも、実際に国という「近代の制度」があるからには、その中で生活しなくちゃいけない。そうすると合理主義や効率主義と同じように国もツールとして捉えてしまうのが、リベラルであって、市民派と呼ばれるリベラルもネオリベもその点では一緒。ツールとしての国の利用コンセプトが違うだけ。
 そして、文化的アイデンティティとしては、もっとローカルな文化や、近世以前からの文化や、趣味的な部分とか、一方でグローバルなところで共感できるところを探しちゃう。
 だけど、文化的アイデンティティを「近代」の日本に置く右翼と違い、自称「中道」のウヨさんというのは、単にナショナルでしかものを考えられないから、蓋然性にアイデンティティを置くだけで「近代の虜」でしかないという話。
 それで、思いついたのが、blogというメディアにおける社会問題の取り扱い方。
 このblogは、基本的に主張するようなもんなじゃくて、感想のblogなわけで、社会問題については、どういう主張であれ、まともなものには言及していなくて、山羊さんやアヒルさんのようなトンデモさんをネタにしているだけだ。なのに、社会派blogについて言及するのもナンなんだけど、その程度のblogだから書ける法螺話。
 かつて、青ヶ島のことで、同じ事象を全く正反対に解釈している2つのサイトを見て、面白がって言及したことがあった。
 以来、その一方を継続して見ている。近世短形詩をはじめとする趣味の話と、貧乏話だとかがメインになっていて、その延長上で社会問題にも言及している。耐震偽装だとか野口怪死問題以来、人気サイトになったようで、注目された理由は、掴んだ情報を発信したことで、逆に情報が集まってるみたいなことで「社会派blog」みたいに思われているんだろう。けれども、基本は、彼女の身辺の話だ。身辺に情報があったから書いているわけで、貧乏話とか短形詩作家として美意識の反動というかウップンみたいなサイトなんだろうと思う。無駄とも思える饒舌な文も詩作のウップンなのかと思う。ウップンだからダメというわけではなく、だから読者が多いんだと思う。文化的なアイデンティティや生活者としての脚元がわかるから、共感を呼ぶわけだろう。
 その人気blogを下品と評し、それを支持する左派勢力の堕落を嘆いた知性的なblogがあった。その知性的なblogが「間違いなく政治運動」とかいうのを始めたことがあった。うちのお客さんには、けっこうコイズミ嫌い、それ以上にアベ嫌いが多い。そのせいか、別のところで、参加していた人がいそうなように思われたのが、見てみると見事にいない。
 別に「団体行動が出来ない勝手なやつ」というわけでもなかろうに、結局は「社会派」blogがなくて、生活系だのお笑い系だの雑記系が多いからだ。その延長で、コイズミ氏やアベ氏にツッコミを入れてるからである。別に、知性的な方が嫌いとかそういうわけではない。
 現在の社会制度というのは、というか文明自体が近代に成立したものであって、社会問題について論じるなら、近代の枠組みの中で論じることは当然のことだ。だから、間違いなく政治運動が「近代」に囚われているのは当然のことだ。
 一方で、そのような「近代」の枠組みを超えて、文化的アイデンティティを持つ人がいるわけである。こういう人たちにとっては、国家や政治というのはツールでしかないわけである。そして、このような人たちのblogというのは、文化的アイデンティティの発露の場であるわけで、個人のものであり、個人のコミュニケーションツールだから、特定の社会問題に関してトラックバックを飛ばしあうという外への動きは行っても、「近代」の枠組みに組み入れられたくないのだろうか。
 もうひとつの可能性は、リベラルとネオリベの対立軸は近代制度の利用コンセプトであって、知性的なblogの主張するネオリベに対抗する左右の連携という構図や、日本の「近代」の始まりをモデルとする知性が、「脱近代」に対抗する「近代」の抵抗と誤読されたというか、そういう臭いを感じられたというのもあるかもしれない。
 さらには、もっと単純に、近代に囚われているblogは、近代を相対化している人には味気ない。それだけなのかも知れない。
 たぶん、右派・左派なんて言ってる人には見えない「敷居」として、「近代に囚われるか」と「近代を相対化する」があるのだろうと思う。元々、近代に懐疑的であった右翼さん、鈴木邦男さんは、意見は反対でも、同じ土俵にいるということで、リベラルな人と話が通じるわけで、だから「近代に囚われた」ウヨさんに「左翼」扱いされている。
 blogランキングで、政治カテゴリーという「近代」の枠組の中でのblogでは、上位をウヨさんが占めるのも「超近代」と「近代の虜」の軸で見ると当然のように思える。
 ある党派性を表明しているblogで、反アベの働きかけを積極的に行おうとしたが、あまり歓迎されなかったと「敗北宣言」をされている人を見かけた。それは、たぶん、政治的な、あるいは党派的な敗北ではないと思う。単に、リベラルというか「近代」を相対化している人たちのblogへのアプローチの問題だったと思う。「今後は自分のブログから出て行かず自分の書きたいことを書きたいように書いていく」と書かれているのだが、むしろ、blogというメディアでは、それが適しているんだと思う。出て行くんではなく、個々のテーマで引き込めばいいと思うのだが。党派性を表明しているblogでも、社会的な意見だけではなく、身辺雑記があったり、書き手の文化的アイデンティティとしての四万十川の風景が見えるような所だと、ワタシ的には読んでて面白いし、チョッカイを出したりしちゃうってこともあるのだ。

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