今年も麦秋
やはり麦秋はローアングルでないと。
昭和を象徴する巨人軍・長嶋茂雄選手は「4番打者」。古くから伝わる「四季」「四天王」「四国巡礼」、「四面楚歌」や「四神相応」といった四字熟語から、現代の「アラフォーブーム」まで、日本の文化には4が欠かせません。数学のうえでも、4色問題は格別の難問だったといいます。こどもの日もとうに終わったが、不思議な数「4」を究めてみましょう。
野球のスーパースターのほとんどは4番打者だ。野球を美しく印象づける数字が4と言えるだろう。例えば長嶋選手も4番だった。その前の4番の川上哲治も、長嶋が衰えた後、4番打者となった王もスターだった。長嶋以前の背番号3の千葉茂が、勝率3割未満の3年連続最下位の監督としか知られていないのとは対照的だ。後に讀賣が低迷したのも、多くの人が「4番不在」を理由にあげているが、背番号3不在をあげるのはよほどの馬鹿だけだ。4つのベースを回って点が入る野球で最も華やかなのは満塁ホームランの4点だし、イチローは4番バッターじゃないが、4割バッターが期待されている。
数学の世界で4の不思議さが現れているのは「いかなる地図も、隣接する領域が異なる色になるよう塗るには4色で十分」という定理だ。この単純な定理が長年にわたり証明されず、今もコンピューターを駆使しての「力ずく」でしか証明できない。
この4の不思議な力は、地図でなく、現実の世界が4を基本に出来ているからだろう。世界を東西南北の4方向に分けることは一般的だ。考えてみると北極、南極があるように、南北は絶対的に決まる一方、ひたすら東に行くと、やがて西になってしまうから、別に「東西」「南」「北」の3つでもいいはずだ。なのに4方向にしているのは、4が基本だからだ。春夏秋冬と1年を4分割するのも不思議だ。連続しているのだから、いくつにだって分けられるはずなのに、4分割するというのも、人々が「4」が基本と思っているからで、机の脚だって3本あれば安定するのに、わざわざ4本にしているのと同じだ。
現在の文化も4が基本になっている。そもそも文明の発祥も、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河と、四大文明だ。四大文明に限らず「四大」云々というものは多い。例えば四大都市圏だ。名古屋だけは三大都市圏と言う人もいそうだが、単に人口が多いだけの田舎が入って、複数の政令市を含む北九州都市圏が入らないのは不合理だ。「三大何とか」というのは多くは無理矢理だし、佐賀では祐徳稲荷を、茨城では笠間稲荷を三大稲荷と称しているように、根拠も論理もない。
釈迦は「生老病死」の4つの苦から脱する教えを始め、キリストの言行はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の記録によって広められ、後の多くの人々の思想的背景になっている。宗教とは無縁のように思われているマルキシズムも、チコ、ゼッポ、グルーチョ、ハーポという、実は5人兄弟だったうちの4兄弟によって作られたものだ。
一方、4人姉妹といえば、マーチ家のメグ、ジョー、ベス、エイミーが世界的には、歌江、照枝、花江の三人姉妹よりもはるかに有名だ。チェーホフの「三人姉妹」があるという反論もあるだろうが、これには「4幕のドラマ」という副題があり、さらに「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「桜の園」とあわせて四大戯曲とされている。シェークスピアには四大喜劇と四大悲劇がある。
そして、4の不思議な力を最も証明しているのは「うらない」だろう。その代表が「四柱推命」だ。何種類もある血液型の中でABO型だけが占いに使われるのも、4パターンに分けられるからだろうし、どんな馬鹿でも4パターンくらいなら覚えられるからじゃなくて、4の不思議なパワーのためだ。最も親しまれている占いツールはトランプだし、それは4種のスートからなる。
トランプだけでなく、ゲームの世界でも4には大きなパワーがある。四暗刻も四槓子も大四喜も小四喜も役満だが、3だと役満は大三元のみだ。ゆるキャラの中でも「ひこにゃん」が圧倒的に人気を得たのも、カロムという4人ゲームの本場だったからという説がある。もうひとつ、徳川四天王の井伊直政ゆかりのいいにゃんこだからという説もあるが。
この徳川四天王のように、日本人は、ある場合には、この4の不思議な力を得るべく、四天王という形の臣下を持った、金太郎さんも頼光四天王の一人だ。日本人のルーツは、源、平、藤、橘の4姓だという。
一方で、4の不思議な力を畏れることもあり、部屋番号などで四号室を避けるということも行われている。これについては「四はシで死に通じる」という俗説があり、確かに日本の音楽には、ドレミの4番目の「ファ」と「シ」を避けたものも多い。でも、それは「ヨン」と読めばすむ話で、現に他の数字は音読みの場合でも「ヨン代目」だとか「ヨ畳半」などと言っている。これは、やはり4の不思議なパワーのせいだろう。
そもそも自然界の「力」自体が4種類だ。
このblogは、日常雑記として続けてきており、5年を経過いたしました。その間、社会的な主張に言及することはありませんでした。しかしながら、先日の選挙において、千葉県知事がガラモンからイロモンとなるに至り、これは(江戸川・利根川の)対岸の恥と看過しておくにも限度があると、わが国の将来に大いなる不安を覚えた次第であります。われわれは五年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。そこで、新年度を迎えるにあたり、この場を政治blogとして運用することを決心いたしました。
政治blogとして運用するにあたり、自らの立ち位置を表明するとともに、志を同じくする同胞を糾合すべく、ここに政治団体を設立することにいたしました。もとより、私は、自らの伝統的価値観を尊重する立場であり、「右翼」と称されることを否みません。むしろ、積極的に「右翼団体」と焼死体と思います。
基本理念は、伝統的精神と現代的手段による社会の実現です。かつての人たちのいう「和魂洋才」に近いと言えるでしょう。伝統的精神のみでは、今日の世界の中で生存することは出来ませぬ。東洋、西洋を問わず、積極的に良いものは取り入れるべきですが、精神まで侵されてはなりません。
すなわち、この文自体も、中国から伝来した文字を基本とした字を使用し、西洋から伝来した電子技術を使用し、作成してますが、この文によって表明したいのは、伝統的精神の復権です。
文字がそうであるように、中国からは様々な「才」を輸入しましたが、一方で伝統的精神を侵す害毒をももたらしました。その最大の悪影響が小中華思想であり、夜郎自大な「日本像」の創作によって大きな惨禍をもたらしました。また、伝統的な自然な人間のあり方が儒教の悪影響によって縛られることにもなりました。
明治には、西洋から多くの文明や諸制度がもたらされました。近代国家などという制度も作らざるをえませんでした。かような近代の諸制度は「才」として、道具としては必要なものではありましたが、そのために森羅万象万物に神が宿るという伝統的宗教観は破壊され、西洋の宗教国家をまねたような新興宗教が作られてしまうに至りました。まさに「才」によって「魂」が侵されたのです。
このような歴史をふまえ、伝統的精神の復興と、道具にしかすぎない制度や文明を、きちんと道具として扱う社会を目指したいと思います。
そのため、当面、以下のような運動を進めたいと思います。
1.中華思想と欧米宗教の合体による「日本像」を否定し、伝統的精神の復興。
2.文化と文明の振興のため、道徳より道楽、倫理より論理。
3.伝統的なトランスジェンダー文化を受け継ぎ、粋すぎるジェンダーフリーの推進。
4.人々の知的退廃を進めるエセ科学、偽史の蔓延を狙う産経の策動を監視する。
5.日本政府の公式見解に逆らい、世界に恥をさらす反日勢力を揶揄する。
趣旨にご賛同の方々は、ぜひとも結集いただき、ともに活動したいと存じます。
手品には、タネもシカケもちょこっとある、という認識は一般的なものだと思う。ところが、たいていの手品ではタネもシカケも見えない、だからこそ手品なのだ。
そして「見えない」から「ない」とは考えない、そこに見えない「何か」があるはずだと普通は考える。そして、同じような手品を見れば、似たような「何か」があるはずと、普通は考えるだろう。
ところが、どうも世の中には、そう考えない人もいるらしい。同じような芸の一方に、タネもシカケもちょこっとある、もう一方にタネもシカケもないある、と考える人がいるらしい。なぜ、そうなるかといえば、一方が「手品」や「マジック」と自称し、一方が「超能力」だの「霊能力」と自称している。それだけの違いだ。
私にとっては不思議でしようがないのだが、自身の知識や体験に体系化というか整合のしようもない、単なる自己申告を信じているようなのだ。
こういう不思議としか思えない判断をする人は決して少なくない。そして、このような判断ができる人が、いわゆるトンデモを受け入れることが出来る。なので、あるトンデモ話を信じられる人は、他のトンデモ話を信じることが出来る。
水伝を信じることができる人なら、血液型占いも信じられる。911陰謀説を信じられるきくちゆみなら、真弓センセイの牛乳は毒説だって信じられる。偽歴史を信じられる人は、アントシアニン・ゼリーも花粉も信じることが出来る。あるトンデモ話のマーケットは、別のトンデモ話のマーケットになりうるのだ。
ということは、である。水伝だけ、マイナスイオンだけ、陰謀論だけ、超越妄想だけ、偽歴史だけよりも、トンデモ話の品揃えが多い方が、よりトンデモ受容力のある人に受け入れられる可能性がある。トンデモ・マーケットを支配する可能性がある。
トンデモ話をするなら、多くのトンデモ話をすればするほど支持される。トンデモ話の本を出すなら、トンデモの種類が多いほど、支持されるわけである。つまり、地域で一番トンデモを揃えるほど、マーケットへの訴求力があるわけである。
先の「rio 2016を勝手に支持」に賛同してくれてる方々が、次から次へとトンデモが出てくるのに感心されてるが、それには、こういう「地域一番トン戦略」の裏付けがあるのだ。
ともかくも、目に見えないサムシング・グレートや心こそが本当に大切なことだ。
南米初のオリンピック開催を世界中が応援しているんで、シンボルマークを、自分のところに貼って盛り上げようって、kuronekoさんが提案してた。
みなが応援してるからって、好ましいことばかりじゃないだろうし、オリンピックには、あんまし興味はないんだけど、どこかで開催されるわけだし、知り合い、特に東京の人たちが、熱心にリオ開催を支持してるので、私も応援したい気分だ。
後で、サイドバーに貼り付けようっと。
うちのあたりは、ゴミを出すのに市の指定のゴミ袋を使うことになっている。そのゴミ袋は個人商店やスーパーやコンビニで販売されている。私が最もよく買うのは、とあるイオン系のスーパーだ。別に市が販売手数料をコンビニやスーパーなどの大手企業には割高に設定しているので、市の取り分を減らそうとしているわけではない。
そのスーパーはレジ袋が有料なのだ。お買い物用の折り畳みバッグは「お出かけセット」に入っているし、出かける時点で、そのスーパーに行く予定ならば、競合店のレジ袋をわざわざ持参する。
ところが、急遽、そのスーパーに行くことになった場合には、買い物袋がないこともある。そういう時にゴミ袋を買うわけである。もちろん有料のレジ袋より高いし、1枚だけでは売っていない。けれども、どうせゴミ袋は買わなければならないわけだし、それなら、その中の1枚を買い物袋に使っても、ゴミ袋として利用もできるわけである。
その時に不思議なのは、レジ係の対応だ。買い物袋を持参していない人には「(有料の)袋をご入り用ですか」と聞き、持参している人には聞かない。なのに、買った物の中に袋があるにもかかわらず、「袋をご入り用ですか」と聞かれる。ゴミ袋とレジ袋、書いてある図柄や主流の大きさは違えども、素材や形状、機能は全く同じなのだ。指定化以前には少量のゴミはレジ袋を再利用して使っていた。どういうマニュアルなんだろうか。
時々書いているけど、他で見ると平気なのに、近所にいるのを見ると腹立たしいのが、冬によく見るユリカモメ。近所では「いない」ということが、昔からの文芸のテーマとかになっていたのに、ここ30年くらいのさばっているからだ。つまり「場ちがい」なのだ。
さて「場ちがい」の腹立たしさというと、この正月に、たまにTVとかを付けると占いの婆さんのCMがやたらに出てくる。今の景気状況じゃまともなスポンサーの出稿が減ってるんだろうか。
占い自体はフィクションとして楽しめばいいわけだし、新年や農耕前の「歳占」の風習は面白いと思うし、昨年は「歳占」の俵引きを見に行った。
でも、個人でやってる占い屋さんというのは、盛り場とかの薄暗い路地でちょこんと座ってやるものというか、相談者が人目につかないよう、占う側も人目につかないものだという認識がある。
なので、細木江原の類のようにメディアに露出していると、「場違い」の腹立たしさを感じてしまう。
この点、よく誤解されるのだが「占い」自体を否定しているわけでもない。フィクションはフィクションとして楽しめばいいのに、フィクションであることを否定したりするのは、フィクションを貶める行為だと思うし、また「大っぴら」にするというのが「場違い」と思うからだ。
手品も嫌いじゃない。でもスプーン曲げやカード当て程度しかできないのに、というか、しかできないから「手品」であることを否定している連中が嫌いなのも、芸が下手ということと、同じような「場違い」感を感じるからだ。
今日は「初寅」だそうだ。「初午」は旧暦で行うところが多いが、「初寅」は新暦のところが多いような気がする。近所で有名な「初寅」は裏山に天狗さんのいるとこらだけれど、今日は別のところに行ってみた。
なんかすいてた。
大きなお釜で甘酒を炊いて、参拝者に配っていた。
とらの土鈴を売っていたので、つい買ってしまった。
総菜屋さんをよく見る。見るだけであまり買わないが、こんなの作ってみようというヒントになるからだ。昨日、見かけたのは、ウィンナーソーセージとちくわとピーマンの組み合わせ。ウィンナーとちくわ?と思ったが、ピーマンとだと面白いかも知れない。
今まで、日野やいすゞや日産や三菱、ベンツ、대우のバスというのは乗ったことがあるが、乗ったことのなかったトヨタのバスというのに初めて乗った。
昨日に乗った「は」と「ほ」をまちがえてるわけではないバスがトヨタ製だった。客席定員は8人。
前エントリーの野良鳥同様に山の下見の際に見た看板。
降りた駅にあった便所の表示。ちょんまげの人がこんすで、専用ということではないようだ。専用便所を作るほどの頻度はないし。
それで、山に登るのも面倒になって、「は」と「ほ」を間違えてるわけではないバスで、山の反対方向に行って野良鳥を見た。
驚いたことに、平日だというのにバスが観光客で満員になっていた。
虎御前山の編隊。
小谷山の編隊。
帰りに肉まんを買おうと降りた駅の前の像。
以前に見かけた「究極の自販機」には入っていなかったが、仕事先の近所でラーメン缶を発見。以前に入っていなかったのは夏だったからか。
今日、見かけた同系統の自販機。うどん缶もあるらしい。そして、ラーメン缶には「冷し面」まであった。
パト馬。お祭りの時とかに見るが、駐車違反の取り締まりとかはやっていない。さて、駐車違反といえば、例えばレッカー車が駐車違反で交通の邪魔になっていたとする。どうすればいいのか。簡単だ。別のレッカー車でレッカー移動すればいいだけだ。
こういうことがわからない人は、たぶん「クレタ人は嘘つきであるとクレタ人が言った」というパラドックスも理解出来ない。「ウソを言う」という「言葉」と「現象」が別というだけの話だ。そして、こういう人は「懐疑主義を懐疑できるか」と悩んだりするんだろう。
それはともかく、今日も野良鹿を見かけた。

紅葉の下にいてくれたが、石垣越しだし、あまり色づいていないのが残念。
公園をお散歩した後、ミニスーパーでお買い物をしたら、カメラを持ったむさ苦しい一団が群れている。このミニ・スーパーに隣接した駅まで、電車の引退興行があったらしい。こちらもカメラを下げているわけで、他から見たら同類としか見られないわけで、居直って、引退興行を終えて楽屋入りをするところを撮ってみた。
とあるオトモダチ経由で知った記事だが、米国議会での決議採択に多大の貢献をなされたすぎやまこーいち先生が「超党派」の「と」系の議員、元議員のテーマソングをお作りになられたそうだ。
とあるオトモダチのとこでは、元議員のが「好評」で「しーんねん」のメロディが「アーイアーイ」に似ていて、つい「おさるさんだーよ」と歌ってしまうとか。議員さんのが、間奏とかにドラクエティストがあるけれど、元議員のは、キダタローが「食道園」のCMソングを作ったら、という雰囲気だ。
それで、改めて思ったのが、浪速のモーツァルトは偉いんだなぁ、ということ。やはり、耳に付くメロディに載せて、ひたすらワンフレーズ連呼というのが、売り込みの基本なんだと思った次第。そして、やはり坂田師匠には立候補して貰いたいなぁ。
この時期、夏物と収納した冬物を交換したりするわけだけど、その作業の際に出てきた冬の遊び道具。そのひとつがスノーハイク用の毛皮の尻当。山伏装束では引敷というが、座った時に熔けた雪で濡れないようにする座布団であり、前掛けを前後逆に付けるようなもの。
最近はスノーハイクよりゲレンデばっかりで使ってはいなかったのだが、ふと思ったのが、B級アドベンチャー映画とかで、こういうのを前に付けた人が出てきたりする。なので、冬ではなく夏に誰かに着せてもオモシロイかなということで、冬の遊び道具から夏の遊び道具に変更した。
その存在は知っていたペットボトル入りのラプサンスーチョンだが、近所のコンビニとかにはなかったが、自販機にあるのを発見。
どうやら販売しているのはJR東海の関連会社のようなので、キオスクやホームの自販機で売っているようだ。
琉球舞踊は、元々、冊封使のレセプションのための芸能だった。一部には薩摩在番のレセプション用に作られたのものもあるのだが。それで古典的な舞踊は宮廷舞踊とも言われている。
ところが、琉球処分によって琉球王国が強制廃止されてしまうと、ダンサーは失業してしまう。そこで、一般向けに公園を行うようになり、庶民生活を描写した舞踊も創作され、それらを雑踊りと言う。その中の代表曲ともいえるのが「谷茶前」で、恩納村谷茶の漁民の男女の様子を描いたもので、一般に日本の舞踊は足袋を穿くことが多いが、ナマ足というのが珍しいと思ったし、櫂を持って踊るところ、頭の筒状の被り物とビジュアル的にもユニークなダンスと感じた。
この「谷茶前」を見たしばらく後に、江差に行ったのだが、そこで「江差追分踊り」というのを見た。おそらく作られた当時の「異文化」への興味からだろうけど、先住民の漁民を描写した踊りで、それが、ナマ足で櫂を持って、頭に筒状の被り物をしての踊りだった。
なので、音楽的には全く違うのだが、ビジュアル的には、何か似ている感じがする。でも、それぞれの踊りの経緯のように、「たまたま」似ただけなのだが、そういう経緯を無視しちゃうと、列島古来の舞踊が周縁に残っただの、昆布の流通の影響がだの、そういう妄想が生まれてくる可能性はある。
さて、このblogを読んでいる人なら、生物が現在の形態で何らかの知的存在に作られたなんてヨタ話は信じてないと思う。進化がモンスターのヌードル触手によって進められたということは常識であろう。
そのヌードル触手が「収斂進化」といわれる状況を起こすことがある。異なった形態へ進化してきた生物が、似たような生態となることで、身体的特徴が似通った姿になるという状況だ。例えば、夕方に鳥と蝙蝠と蛾が飛んでいても見分けにくい。鳥は恐竜のなれのはてで、蝙蝠は恐竜とは別の系統であり、蛾にいたっては骨すらない。いるかとさめの形が似ていても、魚類と哺乳類であり、卵胎生と胎生だし、変温と恒温で、生理的に違っているし、ヒレの由来も違えば、知能だってさめは低い。
このblogに、このところ、やたらに鳥の写真が載っているし、ネットには鳥の写真を載せているblogは他にも多数ある。けれども、このblogの鳥の写真は、日常雑記の延長だ。毎日に見たものの写真を載せていくうちに、その中の鳥の比率が高くなって、見た鳥のカテゴリーが出来たという経緯だ。一方、他の鳥の写真のblogはというと、これも2系統くらいに分けられるだろう。ひとつは鳥が好きな人。見るだけでは写真も撮る。そして、それを載せるblogを開設するという経緯だ。もうひとつは写真の好きな人。いろいろ撮っているうちに、鳥を捕ることが中心になっていった人。前者なら生態的におかしな絵は載せたくにだろうし、後者ならあまり気にしないだろう。
私の場合、その経緯から、その日に撮ったのが原則だ。やはり、鳥好きからの人なら、あまり見られない鳥を優先するだろうし、写真好きからの人なら、写真としての出来を優先するだろうけど。私の場合、その日の撮った種類の中からセレクトするだけで、あんまり珍しい種類は載らないし、随分と酷い写真が載るし、もっとましな写真になりそうな気配もないのだ。
見て回ってるblogの主に「右翼的」な方がいる。観測者が「右翼的」であろうが「左翼的」であろうが「右でも左でもない」でもあろうが、事実は事実である。事実を検証する科学的手法や「学問研究の成果」は変わらないし、臨床試験で効果のないゼリーが効くはずはない。当然、「右翼的」な方は、思想の左右で変わるはずがないことも書かれるが、そうすると、その部分については「左翼的」な方と同じことを言っているように見える。すると、なぜかサヨク認定してしまう人がいるのだ。ヒラヒラ飛ぶからと蛾を鳥と認定するような人がいるのだ。
それで、私の回ってる範囲には、政治的主張をしている所は少ない。というか、そういうトコってあんまり行かない。皆無というわけではない。なので、思想的な傾向はわからないけれども、ニセ科学だのニセ歴史が嫌いな人が多い。考え方の右も左もない下は嫌いやという感じだ。
もちろん、あらゆる言論は政治に関わるともいえるわけだが。ただ、そういう所に「政治的な主張をしている所と似ている」ということで、妙に政治的ボキャブラリーで言及しているのには、やはり違和感を感じてしまう。
すすき。
はぎ。
で、もち米粉を買ってきて、こねこね、ぐにゅぐにゅしたのである。
そして、丸めて茹でる。
しかし、軟らかすぎて、重力に負けてしまい、ひらべっちゃくなった。団子じゃなくて、もち状である。
そこで、急遽、冷凍枝豆をチンして、中身を取り出す。後はフープロ処理して、甘味を付ける。
どこで、どう間違ったのか、ずんだ餅ができたのである。
以前から他に置いていたもの(しばらく利用者なし)と統合しました。
なお、旧バージョンの今月以降のログは以下に。
いつもは「普段より山奥」に行っても市街地じゃないというだけで、せいぜい1時間程度で行ける範囲だが、昨日は、市街地からバスで1時間以上、さらに徒歩で数時間という散歩だった。
もうススキの穂が出ている。小さいアキコ見つけた。
一方、近所じゃ終わってるネムノキの花も、まだ咲いてる。
怪体な格好で、キノコであるのは確かだろうが、名前がわからない。
こちらにもフルハシ隊員がいらっしゃいました。あまり日向にはいないのだが、妊娠中の雌だけは日向ぼっこをするらしく、ちょうど今の時期に見つけやすいそうだ。
で、眼のアップ。

夕方に通りがかった池が「立入禁止」になっていた。鯉ヘルペスのためだそうだ。
さらには、池周辺に警官がいっぱい。兵庫県警、愛知県警、香川県警、徳島県警からも応援が来ているようだ。鯉ヘルペスもたいへんそうだ。

途中の公園でお弁当を食べることにした。
睡蓮が咲いてた「たまご」みたいに撮ろうと思ったけど、距離があって俯瞰しきれず。
ところがこの公演、やたらと野良猫と野良烏、野良鳩が多い。場所を探し、子供が多くて、野良の方々がいない所で食べた。テキトーに作ってるので弁当の見栄えは悪い。そのうちキャラ弁に挑戦しようかな。
薄汚れたパンダを見ながら食べた。綺麗にしても、ドジョウを奇麗にしたり、焦げ付きを繕うより安上がりだと思う。
いつもは、省線じゃなくて国電JRか営団地下鉄に乗り換えたり、タクシーに乗るところを歩いてみた。
マジメに写真を撮る人なら、手前のタクシーが通り過ぎるのを待つんだろうが、テキトーに撮ってるのがよくわかる。
うちでコーヒーを煎れる時にはコーヒーメーカーを使う。使い捨ての紙フィルターの方式だ。それで、一度にマグカップ1杯と保温ボトル一本分くらいを煎れるわけだ。
でも1杯だけほしい時もある。その場合は、カップの上に陶製の枠を載せ、紙フイルターを入れて作る。煎れた後にそのままフイルターごと捨てればいい紙フィルターが面倒でなくていい。
布フィルターもある。主にアウトドア用だ。軽い布フィルターだけあれば作れるわけだし、概ね、流水が豊富なトコロでは洗うのは面倒ではない。
缶コーヒーのキャッチコピーに「ネル・ドリップ」というのがあるので、布フィルターの方がうまいのだろうか、ふとそう思って、たまたま、今日は布フィルターを使ってみた。
飲んだら一緒。洗うのが面倒なだけであった。やっぱり、布フィルターはアウトドア専用でいいや。
前にも書いたが、我ながら写真の出来が良くないとは思っているのだ。そこで、初心者向けの写真の入門サイトみたいなのを以前に探したことがある。そこに書いてあったのが「日の丸」構図からの脱却ということであった。
オートフォーカスであろうとマニュアルであろうと、カメラのピントは画面中央で合わせるのが基本であった。なので、初心者は、撮りたいモノを画面中央に置いてしまい、適当に周囲も入れてしまうと、ちょうど「日の丸」のような構図になってしまう。なので、単に撮りたいモノを中央に置くんではなく、構図を考えろということである。
なるほどである。でも、ファインダーを覗いたら、普通は構図くらい考えるだろ、私の場合は、とりあえず撮って、トリミングで構図を変えちゃうこともるけど。
と思ったら、らさらには、構図ってどのように考えればいいんですかという質問だって見かけた。そんなもんなんだろうか。
構図って、そんなの難しく考えなくても、撮ってみりゃわかるだろうと思うのだけど。逆に、何を撮りたいか、被写体が何かだけでなく、そのどういうとこを撮りたいかで、イロイロに考え方が違って来るだろうし、説明された方がかえって難しいだろう。マニュアル読むと難しくてワカランので、とりあえず使ってみる、というのはMacの人だけ?
そういえば、以前に「間の取り方」を聞かれて困ったことがある。「あんた名前は」「何の某」。。2人がうち解けた様子を表現したいならゆっくり言ってマイナスの間にするとか、警戒している緊張感を表現したければ「ヒト呼吸」置いて、テンポを変えるとか、それこそ何を表現したいかで変わる。そんなことを言ったら「ヒト呼吸」ってどれくらいですかと聞かれ、さらに困ったことがある。
説明は難しいけど何となくわかるって、倒れず自転車に乗る、スキーのエッジで曲がるとか、キッスのタイミングとか、そういうもんなのかな。
ともかくも、初心者向けサイトに載ってた「脱」日の丸というのは、広く知られているようだ。
うちの場合、けっこう「日の丸」が多い。対象が丸いわけじゃないから、日の丸構図だと気付かれないことも多いが、対象物の全体像をメインに据え、その環境もわかるということになれば、結果、日の丸と同じコンセプトの構図になるわけである。たまたま「環境」の方が、構図を形成してくれていることもあって、変化が付いているだけというのも多い。
ところがである、この「脱」日の丸が一人歩きしてしまい、その結果、硬直的な「反」日の丸に陥ってるんではないかという例をたまに見かける。
例えば、こんなのだけどたまに見る構図だ。「日の丸」というよりもバングラデシュをオフセットしたみたいだけれど、このオフセットに意味があるんだろうかと思ってしまう。
こういうのならオフセットにも意味があると思う。蝶の場合だと、知面の影が日差しを予感させるという効果があるわけで、花の場合だと、下の蕾の写りこみが邪魔ではあるが、方向性があって、何も写っていない部分が大きく黒いことで、蕾とともに、春爛漫には遠い印象とか、オフセットが意図的であると見える。たぶん。
一方、先のオフセットみたいなのは、別にど真ん中の方が明解なわけで、「日の丸」がヘタな構図という思いこみだけで避けてるたとしか思えない。
これは、諸般の事情で後ろ向きの人物だけど、ある意味明解だ。環境だけの部分を真っ二つにフリ分けて、人物は向こう向きの方向性を出すために中央に置いている。一方、こっちを向いている場合、顔でフォーカスを合わせて、全身を入れれば、こういう構図になる。そもそもの何も考えない構図と、多少でも意図がある構図とが、全く同じ構図になることもある。
素材そのものにチカラがあれば「日の丸」というのは最も素直な構図だし、むしろチカラのある素材を見つける方が初心者には大事なんでは、と私は思ってるのだが。
いまだに様々な人が考察を行っている「かの騒動」。どうせ続いているんだから、辟易としてもしようがない。自らの考察のネタにしてやれ、ということでもないんだろうけど、ウンコだって肥料にしちゃった方がトクだ。(この場合、ウンコというのは、比喩でも暗喩でもなく、単に、「嫌がっているより、役に立てた方が有益」ということです。念のため)
「共感」であるとか「やさしさ」とか、様々なキーワードが出ているが、今も蒸し返す人たちの気持ちはわからないでもない。それというのも、わたし自身にも「内なるらんきー一派」は存在しているからである。
というのも、このblogを批判されても困るのである。正当な批判なら受け入れるべきである。ヘタな写真を載せるな。わかりにくいことを書くな。こう思う読者は正しい、というか「ヘタな写真」「わかりにくい」については、私も同意する。だからと言って、急に「上手い写真」が写せるわけでもないし、「わかりやすい文」を書けるわけではない。なので、ガマンしていただくしかないのだ。不当な批判、つまり誤読をされたり、事実認識が異なる場合、当然、反論すべきである。しかし、めんどくさい。つまり、批判されて、なるほどと思うことも多いだろうけど、それで、どうにかなるもんでもないのだ。
原稿料を貰って書いているとか、それなりにキアイを入れなきゃならない文なら、当然、批判というのはグレードを上げるために有用だから、きちんと対応する。でも、ブームに乗っただけで、たいしたココロザシもなく始め、お友達との馴れ合いネタが主であるblogである。批判されるのは、困るし、避けたいのである。
だから「シロートが慰みで書いてるblogなので批判しないでほしい」と書きたいのである。「やさしく」してほしい。アホなことが書いてあっても「寛容」に。と、正直、思っている。
それでも、このblogを批判する人がいたなら「大人げない」と思うだろう。草野球を相手に全力プレーする引退したてのプロ野球選手、子供相手に手加減しない人という意味で「大人げない」である。
でも、私の中の「内なるらんきー一派」は閉じこめている。きちんとした考察を書いている人もいるからだ。そういう人のためには、自分のわがままを一般化できないのである。「影響力のない、つまり権力になりえない文を書いてる一般市民の私を批判しないでください」を一般化できないのだ。影響力のあるblogを書いている人に失礼だ。
主張するblogを書くのであれば、主張の説得力を高めるために批判は有用だ。だから、批判を嫌う人たちは、主張のために書いているのかという疑問が浮かぶ。ビデオゲームのようなものではないか。ゴールは「ピーチ姫の救出」であっても、そのピーチ姫は実在しているんだろうか。そして、救出するよりも、そのプロセス、隠しアイテムの発見や、裏技の方が、むしろ目的になっていないだろうか。
問おう、汝が「マリオ」か。
会議の際によくある風景であるが、「えー、飲み物は何にしますか、コーヒーの人」「はーい」「紅茶の人」「はーい」…。どうも、東京都の高校では、こういうことをやっちゃいけないらしい。そういう場合は別だとか、そもそも飲み物は各自が用意するとかかも知れないけど、何か、この記事を見たら、職員の飲み物を決めるのも校長の仕事、というのと同じレベルのバカバカしさを感じて、笑ってしまった。東京の高校じゃ小学生が高校生を教えてるみたいで。
このblogには随分とヘタな写真を載せている。別に「ヘタでもいいじゃないかシロートだもん」と居直ってるわけではない。かといって「もうちょいマシな写真を撮れるようにガムバリまっす」というイキゴミもない。
元々「いい」写真より、「とりあえず記録」ということを優先して撮り始めたので、考えるより、まずシャターを切ってしまう。そして、ヘタだから載せないでおこうという意識より、載せようとする自分なりの理由が何となくある。それで載せているということなのだ。
さて、ボーッと写真を撮っていても、他に撮っている人と遭遇することがある。近所の池のオシドリなんかは、鳥を撮る人には人気があるようだ。一方、田圃とかで撮ってても、まあ遭わない。
さて、これはイソヒヨドリの写真で、どれも載せていないけれど、たぶん載せるとすれば右側だ。しかし、鳥を撮ってる人は左のようなのを好む人が多いようだ。
光線の具合とか細部の描写は左の方がいいけれど、左は赤い実を食べている。周囲の状況とかを見れば「たまたま、実を食べている所を撮った」わけではなく「わざわざ誰かが実を置いた」というのがわかる。実際に、他に撮っていた人が置いた実なのだ。
一方、右側が人気がないのは、人工物が写っているからだ。この日に撮った写真では、桜の枝に留まったものを載せたのだが、実際にこういう状態でいたのだし、このblogには、日常生活の範囲にいるのを撮って載せているわけだし、人工物が写っているから避けようという意識はあまりない。また、枝や藪で隠れている部分があっても「そういう環境にいた」わけだから、それはそれで記録として意味がある。
このblogの写真は、トリミングや色調補正を行っているものが多い。ところが「パソコンで加工するのは邪道」とか言ってる人に出合ったことがある。自分ができないから邪道と言っているわけじゃないと思う、たぶん。私の場合、学生の頃、フイルムで撮ってた時代、カラー写真が一般的だったのにモノクロ写真を撮ったことも多い。というのも、写真部の知人のツテで暗室が使えたたので、モノクロなら自分でプリントできたからだ。するとトリミングや階調補正ができる。カラー写真でも、相当に高くつくのに、気に入った写真はわざわざ手焼きをしてもらって、細々とした指示を出したことも多い。一方、デジタルだと自分でそういう後加工が出来る。そういう経緯があって、後加工には全く抵抗がない。さらには、ここに載せるには解像度を下げる必要上、必要な加工もある。なので「邪道」というのにちょっと驚いた。
かように、人それぞれに考え方があるようだ。
さて、2月の巡業中に盛岡に行った際、近くに座敷わらしが出没するというT松の池に白鳥を見によった。とりあえず「こんなのがいた」程度の記録を写した後に、池の周囲を歩き出すと数人の爺ちゃんたちがいた。いずれも200〜300mmくらいのレンズのカメラをお持ちで、上空に向かって飛んでくる白鳥が見えると、誰ともなく「キタ〜」と叫んでる。AAなしで。
どうも白鳥が着水する間際か着水する所あたりの「画」を撮ろうと待ってるらしい。この写真よりも正面寄りのポジションになる。といっても、そう都合よい所には着水してくれないだろうし、そう頻繁に飛来するわけでもない。撮りたい「画」があって、ひたすら待ってるわけである。
私のように、とりあえず白鳥がいたから撮った、というより、撮りたい画のイメージが明確なんだろうな。
やはり2月の巡業中だ。とあるお祭に際して、竹で作った飾り物を撮影しようとした写真だが、幟だとか走ってる子供が邪魔だから撮り直そうと道路を横断しはじめたら、反対方向から「撮ってるんですぅ〜」と怒鳴る声が聞こえる。道路のわけだから、通行人が邪魔になるなら、通るのを待てばいいだけだし、何だろうと思っていたら、婆さんが走ってた子供に、もう一度走ってくれと頼んでいた。どうも、この子ども達は婆さんとその連れの爺さん達に頼まれて走っていたようで、要するいヤラセ写真を撮っていたわけである。
別に「ヤラセ」がいけないわけではない。私だって散々撮ってる。綺麗な景色、独特の雰囲気のある場所だからと裸になる人なんていないわけで、知人をモデルにして撮った写真はほとんど「ヤラセ」写真だ。裸だったから撮ったという写真より、撮るために脱いで貰った写真の方が圧倒的に多い。ただし、これらの写真は「シチュエーション」を記録するためのものではなく「ポートレート」だ。
件の婆さんが撮りたかったのは、走る子供そのものではたぶんない。おそらく「お祭で楽しげに走る子ども達」というシチュエーションを撮った写真を見たとか撮ったとかがあって、その再現をしようと、仕込みをしているんだろうと思う。別に怒鳴られたから、というわけじゃないけど、あるシチュエーションを偶然に捉えるんじゃなくて、わざわざ仕込んで楽しいんだろうかと思った。
なお、言うまでもないのが、たまたま待ってたのが爺ちゃんで、怒鳴ったのが婆さんだっただけで、世の中には、待ってる婆ちゃんや、怒鳴る爺さんもいると思うし、性差は関係ない。むしろ怒鳴る方は年齢と無関係に「オヤジ」か「オバサン」と呼んだ方がいいか。
自分の撮りたい画があって、そのためにじっと待つというのは、気持ちはわかるけども、私は辛抱できん。ある一瞬を切り取った画がいいからといって、わざわざその一瞬を仕込んだら、私は撮れたって嬉しくない。
かように、人それぞれに考え方があるようだ。
宇宙…それは人類に残された最後の開拓地である。…それは最後のフロンティア。
とにもかくにも、宇宙船USSエンタープライズ号は人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立ったし、宇宙戦艦エンタープライズ号が、新世代のクルーのもとに24世紀において任務を続行したのである。
さて、スペースシャトル・オービタの1号機もエンタープライズ であったし、原子力空母の一番艦CVN-65もエンタープライズだ。ミッドウェーで日本軍をボコにしたCV-6エンタープライズを襲名したってのもあるだろうけど、どうもアメリカ人は「エンタープライズ」という言葉が好きなようだ。ところが、この「Enterprise」の意味というのが、どう訳せるのか難しい。単純に「冒険心」に対応するというわけではなく、企てるとか、創造的な意味合いがあるようだし。
フランス人の「esprit」というのも訳しにくい。精神とか機知というのがピッタリでもない。「気がつく」「気が効く」という場合の「気」に近いのかなと思う。
韓国人の「恨」も難しい。決して「恨み」ではない。理想と現実の間の葛藤ともいうようなものだろうとは思うが、よくわからない。
一方、日本人のいう「情」というのも説明がしにくい。近世以来の芸能にとって「情」というのは非常に重要だ。単に情感でもなく情景でもあるし、それを単純に「シンパシー」と説明するわけにもいかない。
最近、他人様のコメント欄で「あはれ」という言葉が話題になっていたが、「あはれ」が近世で限定的になっていくと同時に、旧来の「あはれ」が展開していったのが「情」だろうと思う…たぶん。
それで、近世芸能の根幹、浄瑠璃の作劇法で、近松門左衛門は「情」が基本だと言ったそうだが、表現手法に言及したのに続き、「憂はみな義理を専らとす」と言ったそうだ。この「義理」というのは、今で言う「義理」というよりも「社会的な必然性」と言った方がいいだろうけれども、そういう社会の中で「難儀やなぁ」という状況の人たちへの共感を描くというのが彼の典型的な「情」の描写だったようだ。そこでは、劇的効果を直接的に言う「あはれなり」というのは下手で、必然性によって劇的効果を得るということを言っているわけである。
こういう、限定的な「情」というか「情」の劇的な展開というのが、日本の近世以降の作劇法にあるわけで、広義の「情」、単なる情感や情景の描写とは違った感動を誘うわけである。
さて、もっと近い時代になると、義理と人情を秤にかけりゃ義理が重たい男の世界が人気を得るにいたる。「男の世界」というのは、別に腐女子が喜ぶような世界ではなくて、単にジェンダー・バイアスが強い表現なわけであって、ある社会においては。その社会の必然性が個人的な感情よりも優先される、と一般化すれば味も素っ気もないことを言っているわけである。でも、そこにある葛藤に共感を感じるのが、「情」の劇的な展開ということになる。
近世芸能の観賞の障害になっているのは、そこでの「義理」や「道理」というものが、到底、理解しにくいということがあるんだろうと思うが、その一方で、吐出できない感情というのも理解されにくいからだろうな、と思う。
現代においては、社会的な活動を行う上でさえ、モロに個人的感情を吐出することが許容されているわけであり、さらには共感を示さない方が批判さえされてしまう。それは、ある意味では抑圧からの解放であり、好ましいことかも知れない。でも「情」の大安売りみたいに思えてしまい、近世芸能ファンとしては、伝統的な「情」とは違うなぁと思ってしまう。
一般化できるような個人的感情については、社会的な合理性からも認められるというのは、現代の社会の到達点である。例えば、許容されない恋愛なんてものはない。今日、バスの中で最後部シートに座ったのだが、隣に座っていた2人の高校生は、男性の方が女性のウエストに手を回し抱くような体勢だった。そして手の先で女性の方を撫でようとするのだが、女性の方は、場所が場所なので、その手を捕まえて握っては、撫でられないようにしていた。そういう光景を見ると、高校生の頃を思い出してとても微笑ましい。これも一種の「情」のある光景ではあるんだろうけど、劇的なものではない。
その一方で、一般化されないような個人的な感情というのもあるわけであり、感情を社会的な合理性の基では抑圧しなければならないこともある。自分の親やその親が属する集団が非道なことを行ったなどとは思いたくない、というのは自然な感情だ。けれども実証的な研究の結果などから、事実と考えざるを得ない。そこで合理性の方を否定するというような心性では、近世以来の芸能の中の「情」というのは理解できないんじゃないかと思う。
感情的には受け入れたくない合理性を受け入れられるような心性のもと、その感情に共感するというのが「情」の劇的なる部分だろうかと思う。岡山だったかでホームから突き落とされた人の父親が、犯人が「社会復帰したら、世の中のためになる青年になって欲しいと思います」と語ったというニュースがあった時、これこそ「情」だと思った。彼の加害者への「情」という意味ではない。彼に道理のもとに抑制された「感情」があるだろうと、様々な人が想像した上での「共感」である。こういう人がいて、それに共感できる人がいるうちは、「情」という伝統的概念が継承されるんだなと思った。
コンビニに「岩手県立盛岡農業高等学校パン研究班との共同開発商品」というのが売っていた。パッケージに「座敷わらし」のような絵が描いてあるが、2月にT松の池に白鳥を見に行った際に見たような。
東京と大阪の中間はどこか、地図を見ればわかる。ラダトームとメルキドの中間はどこか、ゲーム上のマップを見ればわかる。では、大阪とラダトームの中間はどこか。
このblogでは、これまでしばしば「位相の違い」というか、枠組みが違うということを理解できないような話を、例えば「物心がつかない」とか、そういう表現で嘆いていたわけである。世にトンデモさんと言われるケースはその典型なんだろうと思う。
東京も大阪も現実の地名である。ゲーム上の地名とは違う枠組みにあるわけである。その中間というのはないのだ。
ところがである。世に位相が違うのに、その中間であると称する人が少なからず存在する。違った枠組みの中の「論」の中立という形だ。
科学というのは万能ではない。というか、科学というのは発展すればするほど謎が増えてくるようである。昔の人は4つの力はどのように統一的に考えられるかなんて悩まなかったのだ。でも、4つの力について分かってないからと言って、そこにニンゲンリョクを排除するな、ニンゲンリョクが最も大切だから5つの力だ、なんて言い出す馬鹿はいないだろう。でも、いたとして「現代の科学では未知のことも多いので、私は、どちらが正しいとも言えない」というのは輪をかけたアホだろう。科学は事実を理解する方法であり、新たな事実を作るためのものだ。科学でわからないことが多いのは、わかったことが多いからだ。
進化論と創造論の中立というのもありえないはずだ。進化論というのは「科学」の範疇であり、現実を説明するための成果だ。創造論というのは、ある種の人が尊重してる創作を基にしたフィクションである。位相が違うのである。まともな人は、事実を説明するために進化論を理解し、創作は創作と認識し、その創作に込められた思想を尊重している。科学と創作は、位相が違うから立派に両立しているわけで、わざわざ、否定された位相に持ち出すこともない。一方が否定されている位相にあっては、その中立もまた既に否定されているわけである。
プロレスラーやバラエティタレントとして、立派に(でもないか)評価されているのに、わざわざ否定された古典芸能界にいるかに振る舞うような滑稽ささえ感じてしまう。
ニセ科学批判や歴史修正主義批判において、不思議と湧いてくる「中立」というのは、こういう位相の違いが基本的にわかってないんだろうなと思う。
歴史学だって、過去の事実を説明するための科学だし、科学の範疇の方法で歴史研究が行われている。そこにはわからないことも多いと思うし、新たなことがわかることで、さらにわからないことが増えることもある。わからないから様々な仮説で説明しようという努力も行われている。それは「こうだったらいいな」というハナシとは別世界のわけである。学問研究の成果とは言い難いようなシロモノや歴史小説とは違った位相のハナシだ。読んで心地いいのはどちらか、というのならともかく、事実を説明するという点では、歴史学とニセ歴史の「中立」はありえない。
時代劇や歴史ドラマはたぶん歴史学のハナシより人気があるし、歴史なんか教えなくても歴史ドラマを教えりゃいいという考え方もあるだろうし、その中立として、歴史ドラマを教えるのはそのドラマのコンセプト次第だという立場もあるだろう。けれども、歴史学をシロートがどう理解するかという位相の上では、両方とも当初から否定されている。
中立であることは、時として客観的であり、よくわかっている、かのような錯覚をもたらす。ニセ科学やニセ歴史をまるっきり肯定してしまうのも恥ずかしいからと「とりあえず中立」なんて場合もあるだろう。でも位相の違う間で中立であると表明することは、客観視ができていない、わかっていないと表明しているということだ。
股間を隠しているものに「危険!触らないで!」と書いてある。
確かに、隠されたモノを使用して人に危害を与えることもあるだろうが、そもそも「危害」と感じない場合にしか、普通は触らないだろう。幼児向けの表示かとも思ったが、「触」と漢字を使用しているのでそうでもなさそうだ。
2月末日
同じキャリアーの利用者が10万人を切る。
3月30日
とりあえずMNP番号予約をする。この時点でも、4月1日以降は、同番号継続が出来ないと案内される。
3月31日
従来は、4月1日0時に契約解除となるため、3月31日までに契約を切り替えないと番号は引き継げない、と案内されていたのが、4月1日以降も引き継ぎ可能という案内がwebサイトに掲載される。なお、4月1日以降も同番号継続可能ということは3月27日に「部外秘」で代理店に案内されていたようだ。
23:56 携帯電話が趣味というお友達から電話。最近は早寝だそうなので、前もって「かけて来ますか。こちらからかけようか」と聞いていたため。
4月1日
0:00 通話が続く。ネットで見ると「圏外になった」という書き込みが見られる。
0:10 ネットにまだ話せてます、と書く。同じ書き込みが数人から。電話の相手から音声が小さくなったと聞く。
0:20 まだ、通話は続く。ネットで見ても、数人が通話中の模様。通話相手は無料通話分が残っているとのことだが、長時間になると悪いからかけ直す、ということが不可能な状況。
0:25 通話している限り、切れることはないのかと電話を切る。表示が圏外になる。
0:29 ネット上に、関西エリアの人から通話中に切断との書き込みがある。もう5分、粘ればよかったのかも。
0:30 自分の携帯番号に電話をかけてみると、使われていないとアナウンスされる。
1:00過ぎ 関東エリアでも切断された模様。
13:30 新しい携帯電話の契約・購入に行く。番号継続は可能。新規契約になるが新規契約事務手続費用は無料。
14:00 登録が済むまで40分ほど待って欲しいとのこと。
15:00 混んでいて登録が済まないので、もうしばらく待って欲しいと言われる。
16::00 従来の端末が「圏外」のまま電源を入れていたため、急激にバッテリーを消耗したらしく、電池切れ。メモリーの転送は再来店してということになる。その前にと、店の人は1900年代発売の機種からのメモリー転送が可能か調べる。新しい携帯電話を受け取る。留守電に一本入っている。
18:00 メール・アドレスは継続不可能だったことがわかる。関係各位には、新アドレス設定後に連絡します。
22:00 1時間ほどかけて、やっと新端末の待ち受け画面のうっとうしいアニメやニューステロップを消すことが出来る。
よそで見かけたので拾ってきた。
問1:コンビニで買うおにぎりの種類は?
ます寿司
問2:コンビニでよく買う飲み物は?
ビール
問3:目玉焼きはソース派?醤油派?
どっちもつけない
問4:寿司で好きなネタは?
はまち
問5:好きなアイスクリームの種類は?
シンプルなバニラ
問6:いつもつい買ってしまうお菓子は?
フルーツパウンドケーキ
問7:マックで好きなハンバーガーは?
なし。もちろんマクドでも。
問8:ミスドで好きなドーナッツは?
飲茶セット
問9:味噌汁で好きな具は?
○めこ
問10:好きなおでんの具は?
コロ
問11:好きな中華まんは?
豚まん
問12:ご飯が少しだけ余った。さて何で食べる?
お箸。1杯分くらい余るとチャーハンにしてレンゲで食べることもあるけど。
問13:他人には理解されない食べあわせは?
イナゴとシイタケ。一部の人には理解されないだらふ。
問14:マヨネーズ好きはマヨラー。ではあなたは何ラー?
ギャンブラーかな。普通に美味そうよりも、とても美味いか不味いかわからんというのに惹かれる。
問15:最近はまってる食品は?
度々、載せている「塩ばら」
問16:アンパンマンに出てくるキャラ、誰を食べてみたい?
ドキンちゃん
問17:次にバトンを渡す人の名前と、その人を連想させる食べ物を。
ご自由にお取り下さい
寒い季節になるとコンビニのカウンターに並ぶのが「おでん」と「豚まん」。ついつい買ってしまう。その際に付いてくるのは小袋入りの「からし」。面倒で使わなかったり、うちにあるチューブ入りの方を使ったりで、たまってくる。
梅は咲いても、今日のようにちょい寒いと、つい豚まんを買っれしまい、まだまだ小辛子の季節は終わりそうにない。
たまたま見かけた金属製のポストと革製のポスト。この写真では革製のポストにピントがあっていないので読めないが「新聞・牛乳」「この中に入れて下さい。」と書いてある。郵便はどうするんだろう。
ランドセルはゴミからよみがえった。
明日から数日のお出かけ。なので生鮮品を使い切ってしまう必要上、お弁当を作った。
例の塩バラと野菜を軽く茹で、豆板醤を軽く絡め片栗粉にまぶして揚げたものと、茹でた野菜を炒めたもの。それと卵焼き。
kuronekoさんが、アメリカ兵の犯罪について書いてたけど、この手の事件の場合、「米軍が「綱紀粛正」といい、現地で抗議行動が盛り上がり、日本の中央マスコミは政局ねたで扱い、日本のほかの地方では活動家だけが抗議活動をする。」そして沈静化しちゃう。そしてまた同じような事件が起きる。
ところが「例の沖縄問題」に関しては、これまでになく、各所で言及がされているようだ。単なる印象だけど。それでkuronekoさんちにも書いたのだけど、これには花岡信昭の功績も大きいだろう。花岡がセカンドレイプ言説をタレ流すものだから、今までになく沖縄の基地問題に関心が集まっているような状況だ。
それで、花岡の活躍といえば、アメリカ議会での性奴隷非難決議というのもあった。当初は「日本は反省しているので今さら決議は必要ない」と反対していた委員までもが共同提案者に名を連ねるに至ったのには、花岡らがアメリカの新聞に出した広告の「重み」が役割を果たしている。
今回の事件でも、アメリカ兵の犯罪と花岡信昭とは無関係なはずだけど、セカンドレイプ言説批判を盛り込むことで、抗議が盛り上がっている。
ただ、「反基地」の立場の人にしてみれば、花岡やその言説が、世間的にはあまり知られていないのが残念だろう。花岡に賛同する国会議員とかが現れてくれないと、アメリカ議会での性奴隷非難決議採択に至った際ほどの効果は得られないかも知れない。
ちなみに、私も花岡信昭を知ったのは一昨年で、玄倉川さんのところだった。ここのコメント欄で、真っ正面から批判されて「釣りでした」というのに、当初は巨大掲示板に出入りしている子供だと勘違いしていた。
その後に、花岡blogの炎上で、いい歳をした爺さんだと知ったわけである。ところで、この炎上について誤解があるようだ。例えばWikipediaの記述だ。
「2006年には「モーニング娘。」が日本語を壊したとのコラムをホームページにアップした。また「歌もダンスも下手だ」と記述していたため、ファンから「よく調べもせず断定的にイメージだけで攻撃している」と強い反感を買い、ホームページが炎上し現在閉鎖されている。」
この炎上は、例えば「バカのくせにエラそう。」というように「…。」という日本語表記は間違いと花岡が主張したことが要因だ。モーニング娘が「歌もダンスも下手だ」というのは、花岡信昭は「言い繕いも逃げ方も姑息だ」と同じくらいに。ファンはもちろん世間一般の共通認識であり、それが要因で炎上するはずもない。ただ、花岡は「日本語に無知で炎上した」と認めたくないようで、「モーニング娘を中傷したので炎上した」と、お得意の言い繕いを行っているのが、Wikipediaの記述にも反映しているようだ.。なぜか、この件についてだけは花岡の姑息な言い繕いが通用している。
今回のセカンドレイプ言説も、そろそろ言い繕いの段階に入っているようだが、反基地の人にとっては、まだしばらくは頑張ってくれ、まだ逃走しないでほしいという所だし、花岡より知名度のある賛同者が現れてほしいだろう。
安倍晋三あたりだと、所信表明のわずか2日後に辞めた際に、長野の知事選挙の資金集めパーティのわずか2日後に辞めた「先輩」として、健康問題を理由にすればいいのにと、花岡が言い繕いのアドバイスもされていたようなので、どうだろうかと思うが、政治的には「もう死んでいる」安倍じゃ無理か。
内閣官房長官というのは、国務大臣であり、内閣総理大臣臨時代理予定者なのだそうだ。つまりは、プライムミニスターのサブだろう。
ということは、町村信孝をサブプライム大臣と呼んでもいいんだろうか。そういや、第3次小泉改造内閣のサブプライム大臣は不良債権だったが。
私は誰かを説得しようという場合、自分はなぜそういう結論に及んだか、それを説明しようとする。私は、というか普通はそうすると思う。批判的に言及しようとする場合には、同じ論理を用いたデタラメを書くということもする。それでも、基本は「自分の思考プロセス」をトレースしてもらう、ということだ。
リソースを無駄にしてはいけない、という説得を行おうとする場合も、同じことだ。リソースを無駄にすることによって、どのような不利益が相手なり社会なり環境にあるかを説明しようとする。ところが、世の中には、全く違う説明の仕方がある。「もったいないオバケが出るぞ」という説明だ。「いい子にしてればサンタクロースがプレゼントをくれる」「早く寝ないとガオーさんが来る」という類だ。
このような説得法は、いかなる場合に使用されるのかといえば、幼児相手の場合というのが典型だろう。相手が自分の思考プロセスを理解できないと判断した場合だ。
こういったファンタジーを否定するわけではない。ファンタジーにはファンタジーの価値がある。すでに説得する必要がない、つまり、同じ考え方をしている間では「いい話」と共感も得られるだろう。
けれども、かようなファンタジーを、説得のために使用する、意見表明の根拠に使用する。これは「相手が自分の思考プロセスを理解できない」と判断しているからと思われてもしようがない。こういう姿勢を「上から目線」というんじゃないかな。そうじゃないなら、自分の知識や思考プロセスを説明すべきだろう。
よそ様のblogで拾ったネタだが、昨年末に東京都教育委員に就任した瀬古利彦氏が、「個人としては、日の丸を見たら涙がいつも出てくる。日の丸を見て国歌を聞いて泣かない人は私には考えられない」「オリンピックに連れて行き、日の丸が揚がる姿を見てもらいたい。そうしたら変わります」と語ったそうだ。
リンク先では「日の丸で泣く」に突っ込んでいるようだが、私は、瀬古利彦氏が日の丸で泣くのは自然だと思う。瀬古氏はこの体験を表彰台でする3度のチャンスがあったけれど、結局、観客席でしか体験できなかったことを考えれば。
表彰台で体験できる第一人者とみられていたモスクワは不参加、ロスでは調整失敗、不透明な代表選出が批判されながら出場したソウルでもは9位。だから、瀬古氏がオリンピックで日の丸が揚がる姿を見て、悔しさや挫折感から泣くのはもっともだと思う。
でも、そういう背景がある人って、そういないと思う。むしろ、突っ込むなら、自分の感情が特殊な体験から来ているのに、他人も共有できると思ってるところだろう。
近所の「ひこにゃん」。仏壇屋の店頭に置いてある。というのも彦根は仏壇の産地なので、彦根仏壇の店に置いてある。
店主が言うには、今は「ひこにゃん」のライセンス切り替え期で、例えばこの「ひこにゃん」には尻尾があるが、作者が後姿を描いていなかったので適当に付けたらしいが、そのあたりの設定も正確になるらしい。
それで、新ライセンスの「ひこにゃん」を売るつもりらしい。仏壇屋で。
私はこれまで、橋下徹氏に対して、法曹界ではなく放送界の人だとか、氏の弁護士としての活動を極めて低いものかのような表現をしてきました。
しかしながら、報道等によりますと、橋下徹氏は、グレーゾーン金利(29%〜40%)で取り立てている商工ローンの顧問弁護士を8年間勤め、「8年間負け知らず」だったとのことであり、この報道が事実であれば、昨今は違法金利だとして無効とされることが多い中、商工ローンの暴利の擁護に相当の実績を残されていると考えざるをえません。
従って、ここに、橋下氏とともに、橋下氏に利益を守られたグレーゾーン業者、橋下氏を支援するゼリー屋さん等に、氏の弁護士としての実績を不当に低く表現してきたことを、謹んでお詫びいたします。
「引用」という言葉がある。著作権法上での「引用」と、一般的な用法での「引用」は微妙に違う。
著作権法の第32条には「公表された著作物は、引用して利用することができる。」とある。その後に「この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。」とあり、判例等で「公正な慣行」や「正当な範囲内」がある程度、定義されている。
一方、一般的な用法では、著作権法上の「引用」に合致しない場合であっても、他の著作物を、自分の文に利用する場合も「引用」と言うし、それ故に「無断引用」という言葉もある。一方、著作権法上の「引用」だと無断でしても何ら問題ないし、むしろ、著作物を公表するという行為は、それを無断で「引用」されることを許容していると見なすべきものなのだ。
だから、私は、知らない相手から「引用していいですか」と聞かれたなら、無断で出来るはずの著作権法上の「引用」に、許諾を求められた時点で、著作権法上の「引用」ではない「引用」だと判断してお断りする。私はリンクは勝手にしてくれと思っているが、リンク許可のお願いは、基本的に拒絶しているのも同じ理由だ。
もちろん、相手が自由に出来る「引用」にあたって礼を尽くしている場合などもあるわけである。
まあ、こちらがハンドルを勝手に読んでるような相手なら、どんな「引用」でもいいとかしずくのですが。(この文は私信への返答です)
お話し変わって「命令」という言葉がある。この命令も一般的な用法とは違った使い方をされる場合もある。税金等の過払いで「支出命令書」を書いた経験をお持ちの人は。この「命令」という用語に違和感を感じたこともあると思う。
沖縄の集団自決に関する知人の文に、決して誤った認識を持っているわけではない人が、集団自決を軍の「命令」とすることに反論してきた。「命令」というのを、軍の用語として厳密に使おうとしているからである。決して、世間一般でいう意味での「命令」についてまで否定しているわけではない。1年9ヶ月前どころか、60年以上の昔のことに今さら言及するなという趣旨でもない。単に、今現在に問題となっているのは、戦史研究の場ではなく、子ども達に説明するという場での用語だということがわかってないだけの話だ。
それに、どう説得したものか、と聞かれたので。「説得するより、説得された方がオモシロイ」ので、「今後、一般の読者を想定した文には、日本軍の『命令』と書きますが、彼に対する文には日本軍の『強要』と書きます」ということにすれば、と提案したら、却下されたけど「エー加減な」と褒めてもらった。
言葉の定義というのは、必ずしも共有されているわけではない。私なんぞは、けっこうエー加減に言葉を使っているので、どういう意味で使ってるか、わかってくれないと困るのだが。
生活時間が不規則なので、テレビを点けている時間はそこそこあっても、まともに見ることは少ない。そして、NHKを見ることなど、ほとんどというか、全くといっていいほどない。なのでNHKの会長に誰がなろうが、直接には、アイスランドかグリーンランドのどこかの村の村長に誰がなるか程度の影響しかない。ところが、世の中に「NHKの影響」を受ける人がけっこういるようで、間接的には大きな影響があるはずなのだが。
そのNHK会長が決まったらしい。どういう人か知らない。飲料会社の社長だったらしい。この人じゃないが、同じ飲料会社の社長が鉄道会社の社長に就任した影響か、車内販売でまともなビールを売らずに、発泡酒みたいなビールだけを売るようになって不自由した、とか、その人が防衛問題に首を突っ込んで、おかしなことを言ってたという記憶があって、この飲料会社は嫌いだ。
さらには、そもそも酒屋の社長が放送局の会長に相応しいかという問題もあると思う。
けれども、この会長人事にとりたてて反対しようとも思わない。その大きな理由が、直接的な影響がないというよりも、NHKの経営委員のうち、ニセ科学「研究所長」が反対したという報道があったからだ。
ネオリベ政策に反対する人でも、ニセ歴史信奉者よりは、片山さつきの方がいい、というのと同じような感覚だ。
まあ、そもそもは、科学番組を作ってる局がニセ科学「研究所長」を経営委員にしているのがおかしいのだが。新会長には、ぜひ反対した経営委員に報復人事を行ってもらいたい。その上で、その混乱を元に引責辞任をしていただくのが、最もいいのか知れない。
国営鳥用水飲み場で、フィールドスコープにコンパクトデジカメを取り付けて写真を撮ってる人を見かける。望遠鏡というか「てれすこ」+「デジカメ」で「デジスコ」というらしく、固定用の器具があるらしい。
それならと、両方を三脚に載せれば、コンパクトデジカメで天体が撮れるだろうか。天体望遠鏡はないのでフィールドスコープとセットし、すばるか火星でもと思ったが、今日は雨なので実験は後日。
横山ノック氏は、政界転身前の職では、大阪ザイ界(マンザイ界)の「第一人者」であり「実績」もあり、同業者に慕われ、目標とされていた。
横山ノック氏の政界転身は、前職の絶頂期であって、トラブルが出ていたわけではない。立候補に反対した人は、「政治家になる」のに反対したわけではなく、「漫画トリオ」をやめるのに反対した。
横山ノック氏は、一期目は大きな失敗もなく、合格点を付けてもいいと思う。
横山ノック氏の辞職理由はセクハラ問題の裁判の敗訴であるが、支持を失ったことには、欺瞞的な自己正当化を行ったことが大きい。このような行動がそれまでと一貫したものではないために「らしくない」と思われたわけである。
多少の撮り損ねでもアップしているんだけど。
上段はいつも撮り損ねるウグイス。全身を見せないので、たまに見せるとあわててしまう。それで、左はピントをちゃんとあわせないまま撮ってる。右は早い目に帰った途中で遭遇し、といっても16:33なので暗く、露出時間が1/15秒で、羽ばたきでブレてる。
中段はこのところの撮り損ねの定番のキクイタダキ。動きが早く、左は撮すタイミングがズレてる。右はオデコが見えてるのに、露出補正をしていない。
下段はチョウゲンボウかハイタカか。新ネタなのに失敗。左は位置が悪くて隠れている部分が多すぎ。それで移動して撮った右は露出補正せず。

たまには史跡の類での紅葉。なぜか望遠で撮ってしまう。
公衆便所の屋根。
落葉の上を足音を忍ばせて歩く猛獣。
午前中の雨のせいで人が少ない。なので辺りを窺い柵と生け垣を乗り越える爺ちゃんたちもいる。乗り越える時にコケてケガしそう。
スライムはギラをとなえた。
たまには「鳥なし」の紅葉。
もう咲いてるツバキ。ツバキの日は近い。
西方紅、太陽没。いづこも同じ秋の夕焼け。
何か分からないけど赤い実がいっぱい。ツグミ、Turdus naumanniがいた。
ひつこいようだが、アヒルに関して。
豚(Sus scrofa domesticus)はイノシシ(Sus scrofa)を家畜化したもので、「猪」の字が中国じゃ豚を意味するといっても、豚肉を「猪」と表記しては売らない。
なので、アヒル(Anas plathyrhynchos domestica)がマガモ(Anas plathyrhynchos)を家畜化したもので、「鴨」の字が中国じゃアヒルを意味するといっても、アヒル肉を「鴨」と表記して売っているのには、どうもゴマカシみたいで抵抗がある。
それで思い出したのだが、アヒルに関するゴマカシで有名なものに「アヒル文字」というのがある。
江戸時代の国学者が、漢字到来前に日本に文字があったと主張するために「神代文字」というものを各種作ったのだが、もちろん、現在では、まともな歴史や言語の研究者には否定されている。その中でもハングルのパクリそのままで有名になったのが「アヒル文字」で、対馬の占部阿比留家に伝えられたということになっているので「阿比留文字」や「アヒル文字」と言うようだ。阿比留氏は昔から「新しい歴史をつくる」のに貢献していたらしい。
イロコイとカイユース。ワルキューレの騎行でも流したくなるコンビが飛んでた。
コブラも飛んでた。ワルキューレの騎行のコンビの他にも、騎兵隊が馬から乗り換えたヘリにはスー、アパッチ、コマンチ、カイオアなんて名が付いてるが、なぜAH-1はコブラなんだろう。
「暴君」スープというのを先日から見かける。暴君と言えば、暴君竜、ティラノザウルスというわけで、タイトルを付けてみたが、驕るティラノ一族は久しからずと絶滅したわけで、チキン・スープのご先祖というわけではない。
期待したほど辛くないという評は聞くが、このあたりで話題になっていないので、試しに飲んでみた。うまいとは思わなかったが、特に不味いというわけでもなかった。
福田首相が風邪引いたそうだ。アベは風邪を引かないと言うから、居抜内閣でもアベ離れを進めているのだろうか、とか思っていたら、昨晩から何か寒気がして喉がいがらっぽいので、こりゃいかんと早々に寝てしまった。おかげで夜に目が覚めて、また明け方に寝るなんてことをしていた。なので、汗をかいて風にあたるのはよろしくなかろうと、川沿いを通るのは中止。
野良鳥の新ネタもないし、以前の写真を加工。
柿の木、栗の木、かきくけこ、キツツキコツコツ、枯れケヤキ。
「声に出して読みたい」だろうけれど、絵で見るとあまりにバカらしいので、いっそ、シリーズで続けようかとも思う。ネックは雷鳥とオオルリもしくはルリビタキが撮れるかだが。
鉄道車輌のブレーキの基本は、空気圧で作動する空気ブレーキだ。電車だと普段は電気ブレーキを使うが、非常制動には空気ブレーキを使う。なので、鉄道車輌を連結する際には、列車全体のブレーキを揃って作動させるために、圧縮空気配管を繋げる必要がある。なので、新しい車輌には連結器と空気管が一体になった場合もあるが、鉄道車輌の連結器の脇にはエアホースが付いている。
そのエアホースの写っている写真を集めてみた。印刷して、カレンダーにでもしてください。
海賊情報センターというところがあるらしい。その情報によると、ソマリア沖で日本時間28日午前11時16分、日本企業の所有するケミカルタンカーからの「海賊に乗っ取られた」との救難信号が入ったらしい。
実は、同じ頃に海賊を目撃した。魔女と仲間らしいが、距離から考えて別の海賊だろう。海賊は増えているんだろうか。海賊は「選ばれし民」で、増えることが温暖化防止になるらしいが、あんまり荒っぽいことは困る。
先日のF1日本GPについて、「クソ」グランプリだとか、阿鼻叫喚のスカトロ地獄だとかの表現で、批判めいたエントリーをあげた。けれども決してトヨタ等に対する個人的な嫌悪によるものではありません。
このblogにも写真を載せているのでわかるだろうけど、私の場合、写真の質に対しては無頓着だ。平気でボケた写真とかも載せている。
元々、表現とか技術とかより、とにかく記録ということで撮ってたわけで、考える前に撮ってしまう。けれども、同じ撮るなら多少は考えようかとも思い、小雨の後に虹が出てたので、構図を変えて撮ってみた。
どれがいいかアンケートをするわけじゃないけど、個人的には、下左、次いで下右が好きなのだが、普段はむしろ上段のようなのを撮ることが多い。
今日は、時々、小雨。秋雨というんだろうか。それで、猫がベンチの下で雨宿りしてた。濡れるのが嫌なのか、近づいても逃げない。
こちらは大サメ。
以前に撮ったものだが、何となくぼやーっとした写真だったので、試しにphotoshopの自動レベル補正というのをかけてみたら、街中でキャッチセールスやってる絵みたいになってもーた。
ここ数日、飛んでた連中。
上は、MD902、たぶん朝日新聞のヘリ。テールローターがない。
中は、エアロスパシルAS365N2ドーファン、この色は消防用。
下は、ベル206ジェットレンジャー、この色は警察用。
以前に店頭で見かけたものの買わなかったので、えらい非難をあびたので、今回は見かけたら、ちゃんと買った。まだ食べてない。
なお、賞味期限は来年8月までなので、磐梯山に行くまでに、再度買ってお届け可能。
この所、いじられキャラが定着した産経新聞であるが、正論(主張者発表)が掲載されることがある。この「性差を超えたエンタメ人気 社会モラル崩壊の象徴?」(魚拓はこれとこれ)についても、グローバル化に反対する国粋主義者、改革に逆行する保守派などの右翼連中から批判されているが、よく調べてから批判したらいかがだろうか。
性差を超えたエンタメといえば、白拍子というのを御存知だろうか。義経の生母、常盤御前、愛人の静御前で有名だ。女性でありながら、烏帽子を被り、水干を着用するという男装で舞うエンタメであり、この白拍子が人気を得て以来、社会モラルが崩壊したことは、保元・平治の乱が起こったことでも明かである。さらに、テレビに源義経が再々出ているように、この時代のテレビ露出度は高く、テレビ文化の影響だというのは間違いない。
余談ながら、この静御前という白拍子であるが、義経とともに吉野から逃亡する際に、男装だから大峰山を通ってもいいと言ったそうである。そういえば、道成寺においても、女人禁制であるが男装しているからと、立ち入って踊った白拍子がいるらしい。男装していれば、女人禁制に当たらないという社会の風潮には困ったものである。
さらに、テレビによく出る人物といえば戦国武将があげられる。やはり、この時代にも、カブキ者という連中が現れて、自称出雲の巫女というから女性であるはずの阿国が、男装してカブキ踊りで人気を得ている。この例も、テレビ文化の影響で性差を超えたエンタメ人気であり、戦国の世の社会モラルの崩壊を象徴しているではないか。だいたい「国」という名前なのに、なぜ「阿国」と書くのか。「阿Q正伝」の例をひくまでもなく、中国の陰謀としか考えられない。
北野武の祖母は竹本八重子という女義太夫であった。最近はテレビに出ているので知っている人も多いだろう。今日でこそ女流義太夫は伝統芸能として認められているが、概ね芸歴を積んだ高齢になって認められている。しかし、この竹本八重子にしろ、有名な竹本呂昇にしても、若くして引退しており、若い女性がそもそも男性の行う芸能である義太夫節を男装して行ったという性差を超えたエンタメである。このテレビ文化の影響による性差を超えたエンタメに通ったために、石川啄木は借金を増やし、金田一京助は探偵を行わなかったりと、社会モラル崩壊の象徴のような出来事が起こっている。それだけではない、この時代以降、日本は中国大陸において戦争を行うようになるのである。これも、中華秩序という社会モラルの崩壊ではないか。
このように、テレビ文化の影響による性差を超えたエンタメ人気が社会モラル崩壊の象徴であることは歴史が証明しているのである。
今日のテレビ文化の影響には、もうひとつ見逃せないものがある。かつての衆道やゲイは男性のものであった。一方、男装の女性に憧れる宝塚歌劇のファンは多くは女性であったし、女学生の間に「S」(今日のSMのSとは異なる)が流行した。ところが、今日は、男性達が「レズ」のビデオを見て、女性達がBLモノを持てはやすのである。「男は男どうしを、女は女どうしを」という社会モラルが崩壊してしまっている。これは、ビデオやマンガ、ライトノベルの影響でテレビ文化じゃないという反論もあるかと思うが、東海大学文学部広報メディア学科の時野谷浩(ときのや・ひろし)教授の指摘する通り、テレビもメディアであり自動販売機も花瓶もメディアだから、この際、メディアの形態はどうでもいいのだ。10月9日の朝刊一面に「ウホッ、でも大丈夫」などという見出しを掲げる朝日新聞(大阪本社14版)の責任も問われるだろう。
かくして、かつての「性差を超えたエンタメ」はリアルな行動と直結していたのが、今日では、単なる妄想と化しており、このような、エンタメとリアルの分離状況では、斧で殺すゲームがあっても、その影響で実行する人間はいないし、南京の真実(加害者側発表)を映画化しても、単なる妄想としか思われない。これこそ、テレビは本当のことを伝えている。みのもんたも細木数子も江原啓之も橋下徹も正しいという社会モラルが崩壊していくのに繋がるのではないか。
刈りとった稲を干している。農協出荷米は機械で乾燥するらしいが、自家消費用は天日で乾燥するらしい。経験的に美味いからしてるわけだろうけど、どう違っているのだろうか。紫外線とか作用してるんだろうか。
ともかく、紫外線だと波長が400nm以下だし、ナノメートル単位の波長の電磁波に当てているわけで、ナノ加工食品と言ってもいいかも知れない。少なくとも似非科学食品じゃないし。
先々週末、急に病院に行く用事があり、それ以来、先週は、篤さも和らいだのにビールばっかり飲んで,、ほとんど引き籠もり状態というか、政治部遊軍状態だった。
あんまり書くネタもないし、そんな折、「なかのひと」というblogパーツを貼っつけてみた。「なか」の人というのは、昔は花魁で今は泡姫だからってわけではない。よそさまのblogで見た、日本地図のblogパーツがあって、アクセス地域がわかるんだろうと思って付けてみた。けれども、一般のプロバイダーからの分だと表示されないし、別にどこのドメインからか分かっても、面白くもないんで、1週間で外してしまった。
そんな折、このところ清純派の姉さんが「彷徨える詐欺人」について書いているんで、関連のページとか流し読みをしていた。「さまよえるオランダ人」は「Flying Dutchman 」だけど、この詐欺人も、ついに飛んだらしい。もっとも、ネット上で飛んだだけで、リアルな世界じゃ既に飛んでしまっているかも知れない。
私はこの人のblogは「見たことはある」程度だし、むしろ騙された側のことを考えた方が面白いので、清純派の姉さんのとこでも、そういうコメントをしている。
さて、飛んだ方の人は、何を考えているんだろうか。普通なら、刑事上の訴追をどう免れるか、民事上の責任からどう逃げるか、そんなことを考えるんだと思う。
まず、刑事上の訴追を逃れるためには「騙す意思がなかった」ということになればいい。実際にフラッシュを作るつもりであったが、何らかの理由で、先延ばししている、ということにすればいいし、寸借だって、返すつもりがあるということにすればいい。ということは、立件のためには、金を受け取った時点で、すでに騙す意思があったことを証明しなくちゃいけないということになるんだろう。一方、民事の方だけど、民事訴訟には被告人の住所と氏名が必要なんじゃないの?
さて、被害者の方だけど、刑事告発の際に、カンパや寸借において、欺罔行為があったと主張できるんだろうか。民事訴訟におそらく必要だと思う被告人の住所・氏名はわかってるんだろうか。このあたりの法律には疎いんだけど、どうなんだろう。
清純派の姉さんも、そもそもの「旧宮家復籍キャンペーン」がワケがわからん、と書いていたけれども、この詐欺疑惑も、当初から騙すつもりなのか、それとも、いつかの時点で騙すことになったのか、さらには相手が誰かもわからんのに信用して金を出すってどうなのとか、やはりワケがわからん。姉さんには、是非、このあたりを考察してほしい。
さて、この詐欺疑惑の関連のページとかを見ていると、たまにAds by Googleで「西尾」という八つ橋屋の広告を見かける。ここの人気商品に生八つ橋でアンコを包んだ「おまん」というのがあるのだが、なぜか「おまん」の広告は見ない。
公園で遊ぶ子供の声がうるさいと、近くに住む女性が市に対し、噴水の使用とスケボーで遊ばせることをやめるよう求める仮処分を申請し、東京地裁八王子支部が認める決定を出していた。というニュースがあった。
その決定はともかくも、この「西東京いこいの森公園」は東京都西東京市緑町3丁目にあるそうだ。私の場合、この地名の方が受忍限度を超えている。
某SNSのインターフェースが変わって、とても見辛くなった。そして、「友人」のお誕生日一覧という変な機能が付いた。
それらによると、私の「友人」とされている女性のうち、同じ職業の2人、同じ祭り(@川崎)のレポートをblogに書いてた2人、その4人が今月に誕生日を迎えるらしい。
たぶん、当日には忘れてると思うので、まとめてで失礼ではありますが、ここで書いておきます。おめでとうございます。
一昨日、相撲協会の使者(と言うのか?)が時津風部屋に口裏合わせ、じゃなくて事情聴取に行ったらしい。
Q:その時の状況は
A:夢中で何も覚えていません
Q:それで、どうしたんだ
A:親方に言われた通りしただけです。
というのは想像だが、この時、時津風部屋の力士と報道陣がもみ合いになり、この騒動でテレビ局のスタッフが押し倒され、救急車が出動する騒ぎになったとか。
NHKは、黒崎めぐみを取材に派遣し、喧嘩沙汰にしてほしかったな。それに、救急車の嫌いな時津風部屋なんだから、救急車を妨害し、消防の人と揉めて欲しかった。そうしてこそ、伝統だろう。
前エントリーで触れた時津風部屋だが、廃部屋がまだ決定していないし、関係した相撲取りも逮捕されていないので、けいこを再開したらしい。
それで、今後の相撲部屋リンチ殺人の防止のために法案を考えてみた。何しろ「伝統ある」らしいし、愛好者も多いので、4点に配慮した。
1.歴史と伝統を尊重する。
相撲の歴史は、野見宿禰と當麻蹶速に始まるという。もちろん伝説だし、蹴り合ったそうだから、今の相撲とは違う。「相撲」という文字が使われた最初としては、日本書紀に、雄略天皇が2人の采女に褌をさせて、相撲をとらせたという記述があるらしい。
ここらは、物語の類だが、相撲に長い歴史があることは間違いないし、相撲を題材にした美術や文学なども多く、日本文化に大きな貢献をしている。現在の大相撲が、看板大関や八百長を否定するなど、伝統から逸脱しているとしても、やはり歴史と伝統は尊重するべきだと思う。
そこで、大相撲同様に歴史と伝統があり、大相撲以上に日本文化に影響のあった職業についての法律を参考にした。
2.愛好者が多数存在することを尊重する。
前項同様、大相撲以上に愛好者が多数あった職業についての法律を参考にした。
3.慢性的な傷害も防止する。
相撲取りは短命だそうだ。というのも相撲部屋での生活習慣が原因ということなので、相撲部屋は、いわば慢性的な傷害を行っているようなものだ。その防止も同時に行う。
4.相撲そのものは対象としない。
大相撲や相撲部屋に対しての、傷害や傷害致死の再発防止のためのもので、知人どうしが行う相撲や、業として行っているのではないアマチュアの相撲までは対象としない。
こんな法律を作っても、神事や健康法を口実に、実質的に相撲を取って見せたりは行われるだろうし、芸能ビザで入国しながら、パスポートを取り上げられて相撲を取らされたり、という問題も生じるかも知れない。でも、東京見物させてやる、飛行機に乗せてやると騙されて、相撲部屋に入れられた子供が逃げ出した際に保護できるなど、一定の効果はあると思う。
なお、この法での罰金等は、大相撲の慣行を尊重し、4000倍の額とする。
(目的)
第一条 この法律は、大相撲が人としての尊厳を害し、健康に反し、社会の善良の風俗をみだすものであることにかんがみ、大相撲を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照して大相撲を行うおそれのある男子に対する補導処分及び保護更生の措置を講ずることによつて、大相撲の防止を図ることを目的とする。
(定義)
第二条 この法律で「大相撲」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方に相撲を観せることをいう。
(大相撲の禁止)
第三条 何人も、大相撲をし、又はその観客となつてはならない。
(適用上の注意)
第四条 この法律の適用にあたつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。
第二章 刑事処分
(勧誘等)
第五条 大相撲をする目的で、次の各号の一に該当する行為をした者は、六月以下の懲役又は一万円以下の罰金に処する。
一 公衆の目にふれるような方法で、人を大相撲の観客となるように勧誘すること。
二 大相撲の観客となるように勧誘するため、道路その他公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
三 公衆の目にふれるような方法で客待ちをし、又は広告その他これに類似する方法により人を大相撲の観客となるように誘引すること。
(周旋等)
第六条 大相撲の周旋をした者は、二年以下の懲役又は五万円以下の罰金に処する。
2 大相撲の周旋をする目的で、次の各号の一に該当する行為をした者の処罰も、前項と同様とする。
一 人を大相撲の観客となるように勧誘すること。
二 大相撲の観客となるように勧誘するため、道路その他公共の場所で、人の身辺に立ちふさがり、又はつきまとうこと。
三 広告その他これに類似する方法により人を大相撲の観客となるように誘引すること。
(困惑等による大相撲)
第七条 人を欺き、若しくは困惑させてこれに大相撲をさせ、又は親族関係による影響力を利用して人に大相撲をさせた者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2 人を脅迫し、又は人に暴行を加えてこれに大相撲をさせた者は、三年以下の懲役又は三年以下の懲役及び十万円以下の罰金に処する。
3 前二項の未遂罪は、罰する。
(対償の収受等)
第八条 前条第一項又は第二項の罪を犯した者が、その大相撲の対償の全部若しくは一部を収受し、又はこれを要求し、若しくは約束したときは、五年以下の懲役及び二十万円以下の罰金に処する。
2 大相撲をした者に対し、親族関係による影響力を利用して、大相撲の対償の全部又は一部の提供を要求した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
(前貸等)
第九条 大相撲をさせる目的で、前貸その他の方法により人に金品その他の財産上の利益を供与した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
(大相撲をさせる契約)
第十条 人に大相撲をさせることを内容とする契約をした者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2 前項の未遂罪は、罰する。
(場所の提供)
第十一条 情を知つて、大相撲を行う場所を提供した者は、三年以下の懲役又は十万円以下の罰金に処する。
2 大相撲を行う場所を提供することを業とした者は、七年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
(大相撲をさせる業)
第十二条 人を自己の占有し、若しくは管理する場所又は自己の指定する場所に居住させ、これに大相撲をさせることを業とした者は、十年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
(資金等の提供)
第十三条 情を知つて、第十一条第二項の業に要する資金、土地又は建物を提供した者は、五年以下の懲役及び二十万円以下の罰金に処する。
2 情を知つて、前条の業に要する資金、土地又は建物を提供した者は、七年以下の懲役及び三十万円以下の罰金に処する。
(両罰)
第十四条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関し、第九条から前条までの罪を犯したときは、その行為者を罰するほか、その法人又は人に対しても、各本条の罰金刑を科する。
(併科)
第十五条 第六条、第七条第一項、第八条第二項、第九条、第十条又は第十一条第一項の罪を犯した者に対しては、懲役及び罰金を併科することができる。第七条第一項に係る同条第三項の罪を犯した者に対しても、同様とする。
(刑の執行猶予の特例)
第十六条 第五条の罪を犯した者に対し、その罪のみについて懲役の言渡をするときは、刑法(明治四十年法律第四十五号)第二十五条第二項ただし書の規定を適用しない。同法第五十四条第一項の規定により第五条の罪の刑によつて懲役の言渡をするときも、同様とする。
<以下略>
前エントリーで触れたF1日本GPだけど、バスがウンコウせず、観客がウンコ漏らしたみたいで、まさに「クソ」グランプリだったようだ。シャトルバスでまともに観客が捌けず、雨まで降り出す寒空に数時間も待たされたり、トイレのあまりに長い待ち時間で、野糞はもちろん、漏らす人がいたりで、その臭気でゲロ吐く人はいるはの阿鼻叫喚のスカトロ地獄というレポートがあったり、さらに、6万いくらなのにコースが見えない席があったりというニュースもある。
そうなると、次回以降は、広口のペットボトル飲料が売れるか、使用後にしびんとして使えるし、とも思うのだが、まあ、ほとぼりが冷める30年くらいは、鈴鹿でやった方がいいんだろう。
F1日本GPには、かつて1度だけ行った。もちろん鈴鹿だ。渋滞もあったけど、ウンコ漏らすほどではなかった。スタンドからコースも見えた。
でも、高速で通過するもんだから、どの車がどの順位かも、よそを回ってる間に、それが変わってもさっぱり分からない。ただ、当時のF1の「お約束」だった、「○○が壊れちゃったよ。次、頑張る」で有名な鈴木亜久里のリタイヤを間近に見たくらいだった。その時に、レース観戦に行くというのは、たぶん、レースを「観る」もんじゃないと思った。
考えてみれば、野球だってゲーム展開を「観る」ならテレビの方がいい。球場じゃ球種なんてわかんない。たいていの人は「球場」の雰囲気を体験しに行ったり、騒いだりしに行くんだろうし、そもそもライブってのは観たり聞くもんじゃなくて「浸かる」もんだろう。
そう考えると、今回の「クソ」グランプリに行った人は、レースを観るというよりも、凄い「非日常」体験ができたわけだ。濡れた衣類の感触、冷気、野糞を踏んだ時のにゅるっとした感触、何よりもいつまでも消えない臭気は絶対にテレビじゃ伝えられない。その昔は、畑で「立ち小便」をしているお婆さんなんて珍しくもなかったらしいが、女性の立ち小便や野糞を見たなんて、今では、ちょっとした自慢話だ。行った人がネット上で体験談を書いているんだけど、子供連れなので決勝はあきらめたなんて同情すべき人もいるが、中には「凄い体験」の自慢半分という要素が混じってるケースもある。今回、行った人は、やがて「今時の若者は根性がなくて、すぐに弱音を吐く、F1日本GPに行かせるべきだ」なんて言う資格があるわけだ。
それに、世の中には「気持ちいい体験」をさせるだけじゃなくて、「過酷な体験」をさせる商売だってあるようだ。津軽の地吹雪体験とか、地獄の特訓なんてのを聞いたことがある。
ということで、むしろ「過酷な体験」を売り物にして、富士SWでの開催を継続するって考えもあるな。スカトロ・羞恥プレィもある。ただし、救護所は観客のいる間は閉めないほうがいいだろう。
時津風部屋も新弟子に「辛抱」を叩き込むために、富士SWのF1日本GPに行かせればいいんじゃないかな。もっとも、時津風部屋の方も、今後の継続は危ないか。
F1日本GPの開催地となった静岡・小山が「経済効果」が実感できずに「浮かぬ顔」だとか。
期間中に人口約2万人の町に約28万人の観客が来る。同町だけで経済効果は約7億円という試算があるものの、交通渋滞を避けるため、主催者が「チケット&ライドシステム」を採用し、来場者は駅や場外駐車場を指定され、そこから無料のシャトルバスで会場に向かうことになっており、町内の駿河小山駅に降りる来場者はわずか500人と予想され、大半は町を素通りするため、同町の観光協会や商工会から「バスは会場と町の外を行き来するだけ」と不満の声が上がり、町商工会会長は「我々が手がけるのは大会スタッフの弁当くらい」と表情がさえないとか。
なお、富士スピードウェイや静岡大によると、経済波及効果は国内で約135億円(静岡県内は約32億円)、同町分は約7億円で、会場内での売り上げなどを見込んでいるが、地元の人たちには実感できていないということだ。
さて、ハナシは突然、青森に飛ぶ。新しいデータがなく、2000年時点だが、青森県の「コンピューターと付属機器製造」「旅館・ホテル」「エンターティンメント産業」は、それぞれ経済規模はほぼ同規模で800億円弱だ。ということは、この3つの産業で、同じくらい青森県が潤ってるかというと、そうとも考えられない。
まず、800億年のうち、従事する人の給与にどれくらい行くかと言えば、コンピューターだと76億円、旅館・ホテルだと233億円、エンターティンメント産業だと190億円だ。国際競争の激しい分野だと、アジア地区でも割高の人件費の比率を低く押さないとやっていけないから当然だ。それぞれの産業は、当然ながら、他の産業から原材料を調達している。コンピューターだと、同じ「コンピューター産業」、「半導体素子・集積回路」、「電子部品」の3分野から、それぞれ、120〜150億円の材料を調達していて、そして、これらの産業の青森県内での自給率は60パーセントくらいだ。一方「旅館・ホテル」は、農業から12億円、食品工業から52億円、飲料製造から23億円、商業が47億円、金融・保険業に47億円と、かなり分散している。そして、自給率は、飲料こそ30%ちょいだが、他は70%を超えている。農業は85%、金融・保険は97%だ。
つまり、同じくらいの産業規模でも、県内がどれだけ潤うかとか、潤い方も違うわけだ。県内の精密機械工場も旅館・ホテルもない集落でも、農業や食品工場があれば、旅館・ホテル業によって潤うわけであり、誰かが集落外の産業に勤めていれば、その産業で潤うというわけで、旅館・ホテル業の方が、その機会が多いということになる。
経済については素人なのでよくわからんのだが、経済効果というのは、どれだけ売れるかという「額」だけじゃなくて、売れたモノやサービスの流れがどうなっているかが、むしろ地域にとって、大事なんじゃ、という気がする。

ここで青森県を例にしたのは、先日に「地域振興と整備新幹線—「はやて」の軌跡と課題」という本を読んだからなのだが、新幹線の青森延伸によって、いろんな産業の規模に影響を受けると思う。でも、考えないといけないのは規模だけではなくて、その流れじゃないかという気がする。単純に、延伸によって旅館・ホテル業の規模が拡大するということじゃなくて、増えるであろう宿泊客と、泊まらずに帰れるようになった人がいて、それぞれによって、旅館・ホテル業の人件費や原材料費がどう変わるか、また、どう変えるかを考えないといけないんじゃ?ということだ。秋田だと新幹線の直通によって、買い物客の流出が激しいという。おそらく、青森だって、いろんな分野で流出と流入が起きるんだろうと思うけれど、産業規模が減る部分と増える部分じゃ、その内容が相当に違っているだろうし、原材料の構成とかも違うはずで、そのあたりが、これまで延伸した所でどうで、だから青森はどうするというのが必要なはずだ。この書によれば、そういうことは、これまであんまり考えられてこなかったようだ。それで、著者は、書きたいことの半分も書けてないと述べてられるんで、そういう方面をこれからまとめられるのかも知れない。
静岡・小山の話に戻ると、この人口2万人の町では、6千人が町外で働いている。その内訳はわからないけれど、町内を観客が素通りし、町内にカネが落ちずに町外だけが潤ったとしても、この6千人を通した経済効果というはありうるわけである。
さらに、元の記事では「いかにもF1の経済効果に無関係そう」なおじさんの写真が写っている。商工会が手がけるのが大会スタッフの弁当だけでも、数日の需要のための設備投資は出来ないだろうし、臨時に人を雇っても数日だ。ところが、このおじさんが半年かけて作る米は、観客が町外で購入する弁当や食事に使われるかもしれないわけである。同町分の経済効果が7億円ということは、700万円の地方消費税があるということになるのだが、これって、町に行かずに出店業者の地元に行くってことだろうか。
結局、経済波及効果というのは、その地域でいくら使われるかだけじゃなくて、使われるうち、いくらが回ってくるかという話だから、町内で使われる金が少なく、経済効果が「実感できない」ということじゃなくて、観客が素通りするならするで、実感できなくたっていいんで、回ってくる分をどう増やすか、どう考えていたんだろうという方が問題じゃないかと思う。
さて、このおじさんは当日はどうするんだろう。交通が混雑するんで野良仕事を休んで、ウチにいて、爆音がうるさいんで窓を閉め切ったために、季節はずれのクーラーをかける。休みにしたので、昼間から一杯やるかも知れないし、近所のカラオケに行くかもしれない。そうすると必要になる電気代や、酒代、カラオケ代も「経済効果」になる。
例えば、東京で大規模イベントをする。遠くの知人や親戚が来て泊まるかもしれない。そのために布団を買ったり、クリーニングをしたりも、このイベントの経済効果ということになる。「経済効果」がいくら、というと「それだけ潤う」と考えがえちなのだ。この例だと確かに東京の布団屋は潤うが、それはイベントのために余計に払う都民がいるからだ。イベントのために、土建工事や広告キャンペーンをすると、その費用も「経済効果」だから、すればするほど「経済効果」は大きくなる。でも、そのための金を払っている人は、イベントに来るよその人じゃないわけである。もちろん、友人が来るんだから、布団代を払うだけの価値があると思えればいいんだけど、こんなものまで、ということもあるはずだ。「経済効果」は、その行き先とともに、そもそも誰が出してるのか、にも注意した方がいいと思う。
何か、安倍さんを誉めるというのが流行ってるみたいなので、安倍晋三について書くのも今宵限りだろうし、総括的に誉めてみる。
安倍晋三が辞めて、というか辞めることになり、それも政治生命に致命的な辞め方をして、何となく安堵感を感じる。この安堵感というのは「政治的」な立場からのものではなく、虚構が崩壊したという安堵感だ。安倍晋三の政治理念や政策、「戦後レジュームからの脱却」とか「美しい国」が嫌だとか反対ということではなく、そもそも、そんなのに実態があったかも疑わしいという安倍政権という「まやかし」が払拭されるという安堵感かと思う。
私は、安倍晋三が首相になるとは思っていなかった。石原慎太郎と同様、国政レベルでは「ピエロ」で終わると思っていた。それを確信したのは、例の郵政選挙の時だった。
この、成蹊大を卒業し、南カリフォオルニア大に8ヶ月通って専門の単位を取得できず、父親の秘書になったものの閣僚経験のない人がへらへら笑って握手しているのは、東大を卒業し、大蔵省から、実践訓練で知られるフランス行政学院に留学し、予算案編成という国政の「現場」で働いていた人だ。エリート官僚というのは、競争社会の勝者といえる。だから、勝者には敬意を払う。それは学歴社会の勝者だけではなく、逆に高等教育の機会に恵まれなかったのにのし上がった人、研究者など専門性でトップレベルの人や芸術家など未知の分野の人もである。その逆の人をどう思っているかはわからない。
そして、この片山さつきによって落選さされた方の城内実というのは、数少ない安倍晋三の弟分だったという。この選挙区の状況を見れば、霞ヶ関や永田町で、安倍晋三を利用することは考えても、「リーダー」として認めようとする人などいないだろうと確信した。
小泉氏も酷い仕打ちをすると思ったのだが、そもそも安倍晋三が世間に知られるようになったのは、小泉氏が幹事長に抜擢したからだ。「自民党をぶっ潰す」と広言した小泉氏が、ぶっ潰そうとする党の運営に抜擢したわけである。そして、実際に、安倍幹事長は選挙に弱く、武部幹事長になっての郵政選挙の時には、自民党は組織選挙ではなく、浮動票頼みとなっていたわけで、「自民党をぶっ潰す」に幹事長として貢献し、抜擢に応えたことは評価していいと思う。
でも、シロートの予想もイイカゲンなもんで、案に相違し、その安倍晋三が首相になった。なぜか当時は人気があったからだ。なっても、当然に「看板」以外の意味はないと思った。
中川(薬)が、閣僚は首相に敬意を払ってあげようなんてことを言ったことがあった。看板に祭り上げたのだから、相応の扱いをしてやれということなんだろうけど、閣僚が、内心では安倍を馬鹿にしていることがよくわかる発言だった。
小泉氏も安倍も記者会見等を見ていると「会話が成立しない」という印象を受けることがある。小泉氏は質問の意味がわかっているから答えをはぐらかすという場面だった。靖国に関しても「内心の自由」と「戦死者の追悼」までしか言わない。憲法問題や対米関係にまで差し障るレベルには答えない。
安倍の場合は、問いにではなく、テーマに対して、用意した回答しか答えないという感じだ。例えて言うなら、「晩ご飯はいつ食べますか」「晩ご飯のメニューは何ですか」「晩ご飯はどこで食べますか」にすべて、「晩ご飯は、しっかり食べたいと思います」という答えしか返ってこない。そこで「適切な時刻に」「適切なものを」「適切な場所で」と「質問の形」に対応したアレンジではぐらかすことさえ出来ないという感じだった。その最たるものが、「一文字で言えば、責任」だ。自分で判断して返答することを許されていないんだろうと思った。けれども、自分で決められることもあったようにも思えるし、どの程度、安倍晋三に権限が認められていたのか、それがわからないのも気持ち悪かった。
ちなみに、来週までは安倍晋三は内閣総理大臣らしい、入院してるけど、臨時代行は置かないらしい。いてもいなくても一緒という体制が整えられていたことがよくわかる。
支持基盤と能力がないわけだから、当然、使い捨てだろう、だから小泉政権の後始末ややり残しの「汚れ仕事」をさせるんだとは思った。現に、就任早々、中国のメンツを立てに行った。中国は「安倍首相は智者」と、何とも微妙な褒め方をしたことを記憶している。
次には、人気のあるうちに、小泉政権というか小渕時代からの宿題の財政に手をつけて、結果的に人気を失って捨てられるんだろう、そのために谷垣氏を政権から外して温存してるのと思っていた。けれども、やはり、安倍晋三には荷が重いということか、以前からわかってはいた社保庁の問題を表面化させるタイミングに使われたようだ。
以前、知人と話していて「こんなのが首相でもやっていける国というのもすごい」という話になり、言ったのが「お猿の電車は、お猿が運転していいるんじゃない」ということだった。じゃあ、誰が、どんな勢力が運転してるのか、それが分からないという気持ち悪さがある。当然に小泉政権の延長上ではあるんだろうし、猿の調教は、徹底的に優位性を示すことから始まるらしいから、小泉氏の仕打ちも調教だったのかも知れない。
先日「一条大蔵卿」という芝居を見た。阿呆のフリをして陰謀を企むという話だ、阿呆相手だと油断する。安倍は阿呆のフリをしているわけではなく真性だろう。でも、私の考える程度のことを考える人はいくらでもいるわけだし、私が考えもつかないようなことを考えられる人も、政権内部にいくらでもいるに違いない。だから、政権としては、阿呆を看板にして、何か企んでいるんじゃないだろうか。何か騙されてるんじゃないだろうか。そういう感覚がつきまとうのが安倍政権だった。
だから、安倍政権にまだ支持率があった頃、次々に強行採決を行った「実績」も、もちろんタテマエ通りには受け取れないし、それを安倍晋三の「危険性」から批判することも過大評価しているようで、額面通りに受け取りにくい。首相を演じた「ご褒美」だったのだろうか。いったい、どういう意味があったのだろうか。
先日、安倍晋三ファンだという居酒屋のおばちゃんに、どこがいいのか聞いた。優しそう、嘘がつけなさそう、だった。確かに、安倍晋三自身が嘘をついたということではなく、むしろ逆に、周囲がついていたんだろう。内心で馬鹿にしている人間を担ぐということで、政権のみではなく、ジャーナリズムを含めた「政治」そのものが、安倍をネタに嘘をついていたという思いが強い。。
さて、先に例に出した「お猿の電車」は今はない。虐待にあたるということで廃止された。虐待する相手からは逃げると思うのだが、猿は飼育係になついているじゃないかと思ったが、やはり、広義の強制による芸はストレスになって、身体機能を損なうのだろう。
さて、このエントリーの趣旨である「褒める」であるが、やはり、能力にない役を、身体を壊すまで、演じ続けたのは立派だろう。それと「素直」だと思う。ポーカーフェースが出来ない。就任当初の視線が定まらずに宙に浮いたような視線から、ある時、ひたすらカメラ目線になった。たぶん、ダメを出されて変えたんだろう。とても分かりやすくて「素直」だと思った。
この上は、余生を大好きだというマンガとゲーム三昧で過ごしてほしい。本当かどうか知らないが、マンガの読書量は麻生氏を上回り、ゲームは晋太郎氏が入院した病院でもやっていたとか。何より、マンガとゲームなら、日本は世界をリードする大国らしいし。
近くのゲームセンターの前に置いてあったUFOキャッチャーの景品が入れ替わっていた。というのも、話題の「ピストル形のライター」が入っていたのだが、こんな景品を持ってると、酔っぱらいにどつかれかねないからか、他の景品に変わっていた。写真でも撮っておけばよかった。
話題のというのも、高校生が「ピストル形のライター」で遊んでいて、駅員に制止され、バッグにしまったのだが、その高校生を追いかけて、いきなり髪を掴んで殴った酔っぱらいが逮捕されたという事件があったからだ。
その酔っぱらいこと小磯慶洋が警官だったこと、この件が半端な形で報道されたことで、この警官の行動を支持するメールや電話が続々と県警に寄せられたとかで、あわてて県警は事件の詳細を発表したらしい。
もちろんネット上でも、この酔っぱらいを支持する意見が見られる。またまた花岡信昭を例に引くのも申し訳けないが、たまたまこの件についてだけ、事実確認をせずに書いた人を例にしても悪いし、やはり、その方面で定評のある人ということで。
さて、いったんは警官を支持したからには、詳細が明らかになっても、この高校生が悪くなくてはならないようである。それで、注目したのが報道にあった「ライター」という単語のようだ。高校生がライターを持っているんだからケシカラン、警官の気持ちもわかるという理屈を引っ張り出してくる。
いきなり、髪を掴んで殴るということが適切かどうかも判断できないくらい酩酊していても、ピストル形のものが、単なる形だけの玩具でも、風船を取り付けて遊ぶパーティグッズでも、水鉄砲でもなく、「ライター」と判断できる観察力があるのなら、それはそれで、なんとご立派な警察官ではあるが。
さて、私は、かえる形のライター、ミニカー形のライターを所有しているが、使うことはない。ライター形のライターじゃないと日常的に使いにくい、なんてことはライターを使用する人ならだれでもわかる。にもかかわらず「ピストル形のライター」を持っていたということは、「ライター」に意味があるのではなく、「ピストル形」に意味があると判断する。
さらには、ここから想像の域であるが、買ってきた魚を知人に披露する人はあまりいないが、釣ってきた魚を披露する人は多い、高校生にとって「ピストル形ライター」というのは、買うのはオヤジっぽくて恥ずかしいグッズであるが、取りにくい景品を獲ったということであれば自慢のタネになる、こういうことから、この「ピストル形のライター」は、ゲームの景品だろうと想像する。しかし、報道では「ピストル形ライター」の入手経路は明らかにされていない。
さて、高校生が持っていたのは何か。
形状:ピストル形であることは確からしい
用法:報道では「かまえて遊んでいた」とあるから、玩具として使用されていた。
機能:ライター。その機能を小磯慶洋が知っていたか、高校生が使用していたかは不明。
入手先:不明であるが、私は「ゲームの景品」と想像している。
この物品が報道されたように「ピストル形ライター」であることは「事実」である。しかし、読む側には「ライター」という、使用されたか不明の機能だけに反応し、「タバコは持っていなかったのか。」と、酔っぱらいを支持したことを取り繕う人もいるし、私のように、実用的でないオヤジグッズを高校生が持っていたからには「ゲームの景品」だからに違いないと想像する人もいる。そのいずれの「想像力」が、結果的に正しいのかはわからない。
ただ、私としては、「単語」による連想で文を垂れ流すのはけっこう恥ずかしいと思うので、多少とも、リアリティのある想像を、「あくまで想像である」と強調して、書いておきたいと思う。
高校生が「ライター石」を持っていたら、タバコを吸ってるからと思わずに、パチンコをしてるからと思う程度の想像力ではあるが。
そして、自分の想像を書くに留めて、自分の想像のみが根拠の論評を行うような愚かなことはしたくない。
アノクサ。がんばんなくてもよか、具体的に動くことたい。
しあわせは心がきめるたい。
自分のうしろ姿は自分じゃみえなか。
美しかもんを、美しか思える、おまえの心が美しかたい。
よかことはおかげさま。わるかことは身から出たさびたい
うまれたときはまるはだかたい。死ぬときはそれも捨てるたい。
まける人ばいるおかげで勝てるたいね。
大阪で行われていた運動会で、土佐という人がマラソンで3位になったそうだ。この人は、選手としてよりも、指導者として活躍してほしいと思った。
今夕は曇り空で月食の過程は見えず。雲の切れ目から一瞬、皆既月食の赤い月が覗いたが、前景を選ぶヒマもない。
月食の終わり頃にも雲の隙間に見えたが、雲で隠れているようにしか見えない。
十三夜の月が出ていた。明後日の準備というわけでもないのだが、フルオートでは撮れないので、どういう設定がいいのか試しに撮ってみた。
なお、明後日は、食が始まって月が出てくるらしい。東側の南寄り13°あたりから出るらしいが、うちのあたりだと北寄り14°のあたりを頂上に、東側に山が続いている。それで、その山に上って見た方がいいかと思い、行ってみた。
月の出を見るのに良さそうな場所はあったのだが、夜に暗くなってから、七つ道具を背たろうて山道を降りるのも面倒なので、やっぱり、山に上るのはやめておこう。
昨日、炎天下に出かけた。帽子を被った方がよい天候だ。
ところで、電車に乗ったら、反対側に座っていた人が、どうやら、帽子を被っているようで、気になってしかたがない。姉歯タイプというか嶋聡タイプの帽子だ。他の人も気になるようで、通路を歩いていてチラ観し、後方から振り返って観ている人もいる。
さて、学歴詐称というと、以前は「多く装う」だった。実質8ヶ月程度の受講で専門の単位を取得していないのに「南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」とか書くような場合だ。ところが、近頃は大学卒業しても高卒と少なく装うのが話題になっているようだ。
それで、思ったのが、帽子を被っているようなヘアスタイルにできないかということだ。まず、前後に分ける。後方部分だけ適当にカットする。前方だけに整髪料を付け、境目や額の生え際を隠すようにセットすると、帽子に偽装できるかも知れない。
若乃花と貴乃花という相撲取りがいた。世襲相撲取りだ。他にも世襲相撲取りはいるが、その比率は、たぶん世襲農業や世襲アパート経営者に比べると、圧倒的に低いと思う。
その理由は想像できる。必要な投資の形が違うのだ。農業やアパート経営を行うために必要な投資の中には「農地」や「アパート」が含まれている。世襲だと、自ら投資を行うことなく「相続」という形で獲得できる。その分、投資を他に振り向けることができるわけである。ところが、相撲取りが利益を上げるために必要な最大の投資は「稽古」と「ちゃんこ」だ。「稽古」は相続ができない。「ちゃんこ」は他人であっても親方に提供してもらえる。つまり、親のフンドシで相撲を取っても、事業上のアドバンテージにはならないわけである。
それでも世襲相撲取りがいるのは、相撲取りになりたいという子どもがほとんどいない中で、親が相撲取りだと、意思を持つ確率が高いからだろう。野球選手やサッカー選手のように、なりたい人間がもっと多い分野だと、世襲選手はもっと低比率だ。
余談はともかくも、世襲政治家の場合を考えてみる。世襲政治家というのは、選挙に有利だそうだ。後援会組織や知名度、さらには資金源を「相続」できるからである。ということは、政治家が行うべき「投資」の大きな部分が免除されているということだ。そういった選挙対策のための「投資」を政治活動への「投資」に振り向けることができる、結果的に政治活動のグレードを高めることができるはずである。
つまり、後援会を作ったり、新たな支援者の獲得に労力や時間を割く代わりに、世界や日本、産業や経済の情勢、政策立案について研究し、各分野の専門家との意見交換を行い、他の政治家や官僚や国民への説得力に磨きをかけることができる。だから世襲政治家には、高度の政策立案力や説得力のある政見などが期待できるわけだ。
タレントだって、選挙への投資は軽減できる。けれども、タレントとなるにあたっての投資が必要である。組織政党の政治家も選挙への投資は軽減できる。けれども、組織への貢献という投資が必要になる。
アナウンサーが「アメンボ赤いなあいうえお」と言い続け、組織政党の人が「本当がみえるくらしに役立つしんぶんとってください」と言い続け、宗教団体の人が「ナンミョーホーレンゲーキョー勝利勝利」と言い続けている間に、世襲政治家は、政策を学ぶことも、政見を説明するトレーニングもできたわけである。もっとも宗教団体の人は、そもそも政策で評価されているわけじゃないので、その必要もないのだが。
このように考えているので、世間には世襲政治家に対する批判もあるが、私は世襲自体を否定しない。
世襲でない政治家から見れば、競争という面で公正ではないかも知れないが、対抗するためには、世襲政治家とのハンディを埋めるに充分な能力が必要になるわけで、一般の人間から見れば、むしろ、政治のグレードを上げる方向に働く「不公正」
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