20/02/2021

今日のヨシ原・昨日の島原(2/20)

 今日は久しぶりにヨシ原に繰り出したものの、見事にふられた。初会や裏を返しただけじゃなく、馴染みにならねば、というのは以前にヨシ原通いをしてた時に知ったけど、数年ぶりだと馴染みもリセットされるらしい。
チュウヒ チュウヒ、Circus spilonotus。遠い。
ハイイロチュウヒ
ハイイロチュウヒ
ハイイロチュウヒ
ハイイロチュウヒ ハイイロチュウヒ、Circus cyaneus。遠い。
オオタカ オオタカ、Accipiter gentilis。遠い。
ノスリ ノスリ、Buteo japonicus。遠い。
 ところで、昨年12月にウグイスの画像のキャプションに書いたことだけど、おさらい。
 歌舞伎の「御存鈴ヶ森」の台詞に「阿波座烏は浪花潟、藪鶯は京育ち、吉原雀を 羽交につけ……」というのがある。
 阿波座烏というのは、「阿波座に住むカラス」でも「たまたま阿波座で捕獲された烏」でもない。大阪新町遊郭の冷やかし客のこと。「買う買う」と言いながら群れてるからだとか。
 吉原雀というのは江戸吉原の冷やかし客。雀というのは、かしましい町民達を言うことも多いけれど、特に「吉原雀」というのはヨシキリのことだとか。オオヨシキリなんかもっとうるさい。
 だから「藪鴬」は京島原の冷やかし客のことだというのは文脈上からは明らか。でも、何で「藪鴬」と言うのかがわからん。
 ネットで検索してもわからんので、昨日、用事のついでに現地に行ってみたんで、今日のヨシ原ついでに昨日のシマ原。
島原大門 島原大門、小暮警視のとこの団長、バビロンの妖怪とともに、三大大門と言われる。ただし、通っても普通の住宅ばかり。路面が石畳になってるのが違うくらい。
登録文化財だという旅館、たまに登録文化財だという旅館なんかがある。
角屋 角屋、ここが博物館になってるんだけど、しばらく閉館中だとか。問い合わせ電話番号があったんで、学芸員がいるか聞いてみたら、相手が代わって何を聞きたいかというんで、藪鴬のことを言ったら「聞いたことない」。何か資料でもと思って行ったんだけど、閉館中なんでそれで終わり。
 そうなると、腹が減ってきた。昼飯がまだだ。帰ろう。
 途中で、3階の廊下の奥に食堂があるという看板があった。面白いじゃないか。そう来る所じゃない、入ってみよう。客が多けりゃテイクアウトもあるらしい。
市場食堂 親子丼を注文する。値段が変わらずに大盛りに出来ると言われたが、どうも嫌な予感がするので、普通盛りにした。
市場食堂 普通盛りでも、量が多い。予感は当たった。それはいいんだけど、「藪鴬」のことは進展なし。まあ、島原の専門家が分からんということが分かったのは、それは貴重な情報だ。
 昨年の記事では「連子窓の向こうをウロウロしてる様子から」という仮説を書いてるけど、連子窓があるのは確認できた。
 そういやウグイスは、江戸時代になって「法、法華経」と鳴くようになった。その昔は「うぐひー」だったんでウグイスになった。室町時代、蓮如の時代は「法を聞け」だった。ところが。藪鴬は「法華経」と鳴かない罰当たりなのだ。そのあたりが由来かな、という仮説も考えた。

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25/02/2020

すずがも……り

 昨年末にちょびっと触れたことを、もうちょい詳しく。
スズガモ 15日に撮ったスズガモ、Aythya marila。近所にいないので、見かけたら撮るし、撮ったら載せることも多いのだけど、この時期には必ず見られるということで、記録の意味もあまりない。なので当日には載せなかった。
スズガモ 沖をカモの群れが飛んでて、群れの1/3くらいだけど、ほとんどスズガモ。
 スズガモと書こうとすると予測変換で出てくるのが「鈴ヶ森」。鈴ヶ森といえば東京の地名で、かつて刑場があった場所。今も学校名や公園名に残っているので刑場だったから忌避したというわけでもないと思うのだけど、地名としては消えている。
 「御存鈴ヶ森」という芝居がある。「ご存じ」というくらいだから「鈴ヶ森」といえばこの芝居、というのは広くご存じされてるのだろう。元はもっと長い芝居の一幕だったようだけど、特に話の展開もなく、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。記憶に残っているのは金比羅歌舞伎で、片岡孝太郎の権八を見たくらい。
 むしろ 私の場合「鈴ヶ森」といえば、「恋娘昔八丈」の七段目、「鈴が森」の段である。
 モデルとなったのは、亨保年間の1726年に、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」で、長女のお熊らによって、入り婿の夫が殺された事件で、翌1727年にお熊は市中引き回しの上獄門となった。その際にお熊が黄八丈の小袖を着ていたことが、当時の人々に大きなインパクトを与えたようである。
クマタカ ついでながら、24日は天気が良かったので、ちょびっと近場の山際に行ってきた。もうウグイスやミソサザイの囀りが聞こえているけど、シャターを切ったのは遠くの稜線の上を飛ぶおくまさんだけだった。
 その白子屋の事件から約半世紀、1775年に江戸で初演されたのが、人形浄瑠璃の「恋娘昔八丈」である。この芝居では、主人公の名は「お熊」から「お駒」に変えられている。
 この芝居のラストが「鈴ヶ森」。冒頭に、江戸の野次馬の会話が出てくるけど義太夫節で語られるので上方アクセントというのが何か変。この芝居では、結局、お駒は違法性阻却事由が明らかになってお咎めなしとなる。そして、タイトルにもあるように、モデルのお熊と同じく、お駒が着ている衣装も黄八丈。
 この芝居は大ヒットとなったようで、初演の翌1776年に大流行した風邪,、というより今でいうインフルエンザだったろうが「お駒風」と名付けられたくらいだった。
恋娘昔八丈 こちらは人形浄瑠璃から歌舞伎に移された「恋娘昔八丈」で、さらに後の幕末の月岡芳年の絵。黄八丈といえば、黄色地の濃色の細い格子というのが、現在では一般的だけど、錦絵などでは、こういうパターンも見られるようだ。そういう背景もあって、八丈って島じゃなくて織物じゃね、と思ったのが昨年の記事。
ツグミ
ツグミ 23日に撮ったいつものハチジョウツグミ。
 それで、八丈つぐみの名前は、1794年の「観文禽譜」という書に見られるらしい。なので、この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、見てみた。
観文禽譜 なんのこっちゃない「八丈ノ産に非ズ猥ニ名ツクルノミ大サツクミノ如シ赤褐色八丈嶋産スル所紬ノ色ニ能似タリト云ヘリ」とあるやん。
 上の絵で見ると随分と違うけれども、この「観文禽譜」に書かれているように、当時の人は、腹部が白と黒ではなく、濃い黄色や赤褐色なので「黄八丈」のツグミと思ったんだろう。
 ハチジョウの由来は不明ということらしいが、ネット上では「八丈島で捕獲されたから」という珍説も見られる。八丈島のサイトを見ると、そもそも「八丈島」というのは「黄八丈」を含む八丈絹の産地ということで、そう呼ばれたのが由来だとか。それだけでも、普通に考えれば、このツグミだって織物が由来じゃね、と思えるのだけど。

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02/02/2011

先週の関羽

関羽 載せ忘れてたけど、先週、地下鉄構内に、なぜか関羽さんがいらした。

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11/02/2009

神楽

夜神楽 しめ縄。
夜神楽 御幣。
夜神楽 「神楽宿」
夜神楽 顔が赤いのは恥ずかしいからではなく、岩戸を開けようと力を入れたからだと思う。
夜神楽 しめ縄が柱にくくってある。
夜神楽 最後に、しめ縄を引く。

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11/01/2009

松竹座1月公演「霊験亀山鉾」(1月10日)

 某「宗家理解者」の今年の歌舞伎見物の目標は「片岡ススヌ君を拝みたい」だそうだが、こちらは早くもクリアーしてしまった。クリアーしたかったわけではないけど。
 さて、6年前の前回の国立劇場での上演も見ているのだけれど、焼き場の場面しか記憶に残っていない。けれども、見ているうちに前回の記憶も戻ってきた。
 初っぱなは飛脚が仇討ち話を聞くシーン。そういや、この飛脚、前回は松三郎さんだったっけ。今回、改め仁三郎は次のシーンで、巻物を松之助さんに渡す役。そして次がススム君が殺されるシーン。見ていないけど、20年前の前々回は我當さんがやってたらしい。
 歌舞伎にしては、ややこしめの話だけど、要するにお父さん3兄弟が「藤田」方で、息子のいとこたちが「石井」方。仁左衛門、秀太郎、孝太郎、段四郎は前回と同じ役。で、前回染五郎がやったヒーロー役が愛之助で、その跡に薪車。芝が扇に。
ハクセキレイ 前回の焼き場の場面しか記憶に残っていないというのが、秀太郎さんが本水の中で逃げ回りながら殺されるシーンが印象的だったから。今回は、あまりにあっさり殺される。この場面、3人が3様に殺されるわけで、せっかく本水を使うわけだけど、やっぱり正月ってことで、あっさりめにしたのか。
 大詰、祭礼の傘鉾を持った「祭の衆」が出てきて、そういや前回、この先頭が松三郎さんだったと思い出す。歌舞伎の公演について書くのなら、主役級を中心に言及すべきだろうけど、仁三郎さんの名題披露公演でもあるので。そして、仁三郎じゃなくて「仁王三郎」で仁左衛門が討たれ、おしまいの口上。
 正月らしくない演し物だけど、松嶋屋を見せる芝居でした。なお、画像は松竹座の隣のすき焼き屋の屋根にいたハクセキレイ。

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21/12/2008

まねき2

 今月初めに乗せたまねきは明るいうちで逆光だったが、今日は夜景。
まねき
まねき 小さな「松三郎改め」の板の付いた「片岡仁三郎」のまねきをバックに本人。

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02/12/2008

まねき

まねき
まねき
まねき 南座に「まねき」が上がっていた。左の「片岡仁三郎」さんのは脇に「松三郎改め」という小さな札が付いているが、下から見たときには気付かず、写真を見て初めて気付いた。8年前に名題試験に合格していたんだけど、この人が抜けると脇役が手薄になって困るのか、この11月に名題披露となり、仁三郎となったわけで、まねきが上がるのは今年が最初ということになる。

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23/10/2008

古いポスター

 先週末に行った古い劇場にあった映画等の古いポスター。
ポスター
ポスター

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27/08/2008

第12回内子座文楽

 以前に行くと書いたので、行っての感想も書いておこうかと。
C12
 まずは文楽と無関係に、内子駅前の蒸気機関車。確か、以前は内子座の奥の方に置いてあり、そのうち、駅前の道路脇にシートを被せて置いてあったりしたが、今は駅前に鎮座している。
内子座
 で、内子座。
内子座
 屋根の上の招き狐。
 さて、文楽というと、個人的には「多様姓と一体性」のビミョーさがオモシロイ。太夫、三味線、人形、それぞれが単純に一体化というよりも、それぞれが個性を発揮しながら、なおも全体としての一体性があるというか、単純な調和じゃないオモシロサだ。
 それで、義太夫というのが、音楽的であり演劇的であるのだけど、その多様性の抱え込み方が演者によって違うように思える。
 まずは、卅三間堂棟由来、平太郎住家より木遣音頭の段。当然ながら中抜きバージョン。この演目にROSEさんと清治さんだから、やはり音楽的な部分が強調される。お柳の透明感も出ていたと思うし、そして、やっぱり木遣り音頭の「轟く音ぞ勇ましや」で、ウキウキしちゃう。この音楽的な盛り上がりの中で徐々に演劇的な哀愁を含ませていくという部分、「木遣音頭」の旋律のくリかえしで聞かせていくというのは、よくいう「付かず離れず」じゃなく、むしろ三味線とのコンビネーションなんだなとか思う。
 もう一方の、碁太平記白石噺は、どちらかといえば演劇的な演目。演劇的であっても、芝居の「演劇的」とは違う、音楽におけるというより、義太夫における「音楽的」というのがあるんだろうけど、浅草雷門の段の咲さんは、芝居的。ここは、そういう聞かせるでもなく、笑いとネタ振りということなんだろうか。なので、音楽的な部分では燕三さんの三味線が華やかさが印象的。
内子座 そして、この日は、新吉原揚屋の段がやはり文楽的。千歳さんも演劇的な語りではあるのだが、義太夫として演劇的。そういや千歳さんは、いい悪いというのではなく、何か時に「一生懸命感」が気になることのある人だったのだが、楽に聞けた。
 嶋さんは、音楽としての義太夫の中での演劇的表現ということでは、最もワタシの好みに合った人だし、人形の方じゃ、文雀さんは「楽しそう」だし、地元出身の和生さんはキアイが入ってるという感じだし、玉女さんはお得意のキャラだしと、そぞれが一見「勝手」なように個性を出しながら、劇場の空気を作るという文楽のオモシロサを感じる幕だった。
内子座 さて、このハナシは、おのぶの奥州弁というのがひとつの趣向になっている。当然に、本当の奥州弁ではなくて、作られた当時の人たちの奥州弁イメージを戯画化したものなおだが、その表現がそれぞれに違う。 咲さんは戯画化したという表現。咲甫さんもそういうつもりだったのか。千歳さんは「わからなさ」を強調。嶋さんは音楽的というか、大阪弁ベースの義太夫に異なった旋律を持ち込んだ感じで、詞の意味はわかりやすい。それぞれのシーンの違いもあるんだろうけど。そして、文雀さんが、何気ないトコロで、おのぶがマジメに動いているのだが、見ていると何か面白いという所を見せていたが、これも、おのぶはマジメに喋っているのだが面白く聞こえるという、当時の趣向の、人形としての解釈なんだろうなとも思う。
内子座

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20/09/2007

チガイのわからんオコト

 先だって、元佐渡ケ嶽親方というか、元琴桜が亡くなった。佐渡ケ嶽部屋の相撲取りは、「琴」という字が付くそうだ。だから、朝青龍も佐渡ケ嶽部屋に入っていたら琴青龍で、春日野部屋なら栃青龍、片男波部屋なら玉青龍だったんだろう。
箏 その「琴」というのはいかなるモノか。1.8メートルくらいの細長い木製の胴に、普通は13本だが、17本とか、他の数もある、の弦を張った楽器であると、多くの人は認識していると思う。ところが、この楽器は、演奏している人や、かなり重なるが鑑賞機会の多い人は「箏」と書く。読み方は「コト」である。「箏」と書いている人のなかにも、世間では「琴」と認識している人が多いため、一般向けに「お琴、教えます」なんて看板を挙げている人もいる。
 最近、書いた文で、この「箏」という単語を使用したのだが、一般向けの文だったので、注釈を入れておいた方が親切かとも思ったが、テーマとは関係ないので、そのままにしておいた。
 この「箏」と「琴」は、どう違うか、教科書的にいうなら「箏」というのは「柱によって、弦の振動する長さを固定することで音程を固定する弦楽器」ということになる。ところが、かような楽器で、古くからある日本の楽器に「和琴」というのがある。そういえば、壇浦兜軍記でも、弾くのは「箏」だが、阿古屋の琴責めと書く。なぜだろう。箏、三絃、胡弓の楽器を使うから、総称して琴責めなんだろうか。
 そんなこともあるので、下手に「正しくは箏と書く」などと書くと、かえって、正確なところがわかってないってばれてしまうかもしれない。とかく、何かを知ることで、識らないことが増えるというのはよくあるわけで、何も注釈をつけずに、ただ「箏」と書いておいた。
 以前に、ある市の教育委員会の用事で、公民館活動を行っている文化団体のリストを見たことがある。そのリストでは分野ごとに。サークルが並んでいた。そして、「お琴・三味線など」の所に、「○琴会」「琴△会」というように「琴」の字を使った団体が載っていた。ところが、このような「琴」の字を使ったサークルは、よくあるのは琴古流という系統の尺八の会か大正琴の会だ。もしくは佐渡ケ嶽部屋を応援するサークルだろう。活動内容を見てみたら、やはり尺八か大正琴で、相撲ファンのサークルはなかった。公民館の現場だと何のサークルかわかっているだろうけど、市全体で集計する段になって、名前だけで、活動内容を見ず、編集してしまっていたからのようだった。「琴」で、こういう勘違いも起きる。

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