昨年末にちょびっと触れたことを、もうちょい詳しく。

15日に撮ったスズガモ、
Aythya marila。近所にいないので、見かけたら撮るし、撮ったら載せることも多いのだけど、この時期には必ず見られるということで、記録の意味もあまりない。なので当日には載せなかった。

沖をカモの群れが飛んでて、群れの1/3くらいだけど、ほとんどスズガモ。
スズガモと書こうとすると予測変換で出てくるのが「鈴ヶ森」。鈴ヶ森といえば東京の地名で、かつて刑場があった場所。今も学校名や公園名に残っているので刑場だったから忌避したというわけでもないと思うのだけど、地名としては消えている。
「御存鈴ヶ森」という芝居がある。「ご存じ」というくらいだから「鈴ヶ森」といえばこの芝居、というのは広くご存じされてるのだろう。元はもっと長い芝居の一幕だったようだけど、特に話の展開もなく、幡随院長兵衛が白井権八と出会うと言うだけの芝居だ。私も見たことはあるのだが、どうも印象が薄い。記憶に残っているのは金比羅歌舞伎で、片岡孝太郎の権八を見たくらい。
むしろ 私の場合「鈴ヶ森」といえば、「恋娘昔八丈」の七段目、「鈴が森」の段である。
モデルとなったのは、亨保年間の1726年に、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」で、長女のお熊らによって、入り婿の夫が殺された事件で、翌1727年にお熊は市中引き回しの上獄門となった。その際にお熊が黄八丈の小袖を着ていたことが、当時の人々に大きなインパクトを与えたようである。

ついでながら、24日は天気が良かったので、ちょびっと近場の山際に行ってきた。もうウグイスやミソサザイの囀りが聞こえているけど、シャターを切ったのは遠くの稜線の上を飛ぶおくまさんだけだった。
その白子屋の事件から約半世紀、1775年に江戸で初演されたのが、人形浄瑠璃の「恋娘昔八丈」である。この芝居では、主人公の名は「お熊」から「お駒」に変えられている。
この芝居のラストが「鈴ヶ森」。冒頭に、江戸の野次馬の会話が出てくるけど義太夫節で語られるので上方アクセントというのが何か変。この芝居では、結局、お駒は違法性阻却事由が明らかになってお咎めなしとなる。そして、タイトルにもあるように、モデルのお熊と同じく、お駒が着ている衣装も黄八丈。
この芝居は大ヒットとなったようで、初演の翌1776年に大流行した風邪,、というより今でいうインフルエンザだったろうが「お駒風」と名付けられたくらいだった。

こちらは人形浄瑠璃から歌舞伎に移された「恋娘昔八丈」で、さらに後の幕末の月岡芳年の絵。黄八丈といえば、黄色地の濃色の細い格子というのが、現在では一般的だけど、錦絵などでは、こういうパターンも見られるようだ。そういう背景もあって、八丈って島じゃなくて織物じゃね、と思ったのが昨年の記事。


23日に撮ったいつものハチジョウツグミ。
それで、八丈つぐみの名前は、1794年の「観文禽譜」という書に見られるらしい。なので、この「観文禽譜」は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されているので、見てみた。

なんのこっちゃない「八丈ノ産に非ズ猥ニ名ツクルノミ大サツクミノ如シ赤褐色八丈嶋産スル所紬ノ色ニ能似タリト云ヘリ」とあるやん。
上の絵で見ると随分と違うけれども、この「観文禽譜」に書かれているように、当時の人は、腹部が白と黒ではなく、濃い黄色や赤褐色なので「黄八丈」のツグミと思ったんだろう。
ハチジョウの由来は不明ということらしいが、ネット上では「八丈島で捕獲されたから」という珍説も見られる。八丈島のサイトを見ると、そもそも「八丈島」というのは「黄八丈」を含む八丈絹の産地ということで、そう呼ばれたのが由来だとか。それだけでも、普通に考えれば、このツグミだって織物が由来じゃね、と思えるのだけど。
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