2008.06.18
あるトコロで、公開した文は、他人がどのようにでも言及することが出来る。他人が勝手に出来ることは、止めてくれと言っても無意味で、つまりは、公開した文はどのように言われるかわからない。その言われたことに対応するしかない。ということを書いた。アタリマエのことだ。
このことを、「批判される覚悟」と表現した人もいた。それで、その用語をそのまま使ったりもしたのだが、何か落ち着かない。ちゃんと準備を整えて失敗しないようにしたら「覚悟の自殺」と言うけれど、いくらお鍋や調味料をきちんと揃えても「覚悟の自炊」とは言わないわけである。普通は「覚悟」ってのは死ぬの生きるのって場合に使うことが多いわけで、中学生のイジメじゃないんだから、単なる批判だのネットの匿名記事だのに「覚悟」などと言うのはやはりオサマリが悪い。
いわば、言語感覚の差なんだけど、相手の納得力を引き出すのは、相手の言語感覚に合わせた表現のわけで、その場の主も、覚悟たぁ大層なと思ってそうなので、同じことを違う書きか方で書いたわけである。
一方で、批判に愛が必要なんて書いてる人もいる。言わんとすることはわかるが「愛」という用語はどうなのかと思う。こちらによかれと思っていろいろ言う人はいるし、大きなお世話だと思っても、無下にはできない。相手に悪意がなく善意だとわかってる場合というのは、迷惑でも何とか穏便にオヒキトリいただきたいと思うわけである。そういう「善意」を「愛」という極めて多様な概念を含む用語で表現するのも何かオサマリが悪いように思う。
こういう言語感覚にはスタイルの問題もあるのかとも思う。blogには「ごっこ」要素というのがあると思う。映画とかDVDとかの感想を書くのだが、つい「評論ごっこ」化しそうになってしまう。客観視の必要な「評論」ではなく、主観的な見方を説明している感想のわけであるから、何か「評論ごっこ」ぽくなるのは嫌だ。それでも「馬鹿げた見方」の時にはあえて「評論ごっこ」みたいなスタイルにしたりもする。書く内容というか書いてる内容にあわせて、つい「ごっこ」スタイルになって、日常的な言語感覚と離れていくというのもあるのだろうか。
「批判される覚悟」も「愛ある批判」も、「私自身の言語感覚からするとオサマリが悪い」だけのことで、スタイルなのか言語感覚なのか、理由あってのことだろう。感覚なんて人それぞれだ。読み手の好き嫌いはあるだろうけど、言語感覚の差だとわかってしまえば言いたいことはわかるわけだし、ご自由にされればいいことである。むしろ面白いからいいと思う。
落語に「延陽伯」というのがあって、「土埃がたって眼に入った」というのを「ドフウ、ハゲしうしてショウシャ、ガンニュウす」、米の置き場所を聞くのに「あーら、わがきみ、しらげのありかはいづくなりや?」なんていう人が出てくるわけだけど、そんな感じ。落語だと、言ってることがわからないもんで「カンヤ、ダンブツのギなり」なんて返事をするわけである。ヤカンと仏壇をひっくり返して。それに対して「批判される覚悟」も「愛ある批判」も言いたいことはわかる。
ただ、こういうわかりやすい場合だけじゃなくて、単なるスタイルだ、単に言語感覚がズレてるだけということに気付かない場合もけっこうあると思うわけで、こういう参入障壁もあるんだなと思った。
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2008.05.06
以前にネットの著作権を考える場合には、インセンティブ論ではなく「特殊な人格権」と考えられている側面があるということを書いた際に、日本舞踊の公演を例にした。
日本舞踊の公演には、歌舞伎俳優が行うものとどこかの教室が行うものがある。前者はお金を貰って踊るし、後者はお金を払って踊る。観客は前者にはお金を払うが、後者は払わないし、お菓子のひとつもお礼に貰える。そして、後者は、どんなに下手糞でも褒めるというマナーが存在する。
さて、この2種があることを知らずに、前者に対して行うのと同様の基準で後者の下手な芸に対して感想を述べるとどうなるだろうか。おそらく、猛反発を喰らうだろう。「そんなことはわかっている」ではすまない、「言ってることは正しくても言い方があるだろう」「悪意を感じる」「お温習い会の意味がわかっていない」とかだけじゃなく、競合する教室の工作員だと決めつけられるかも知れない。「伝統芸能を伝承するという大きな目的があるのに、愛好家同士でそんなことを言い合うのは悲しい」なんていう人だって出てくるだろう。
そういえば似たような経験をしたことがある。現代演劇はプロもアマも区別なく公演とは「作品を世に問う」ものだと思っていた。なので知人が出た公演の後に「合評会」というのがあって、時間があれば残ってくれと言われ、そこで感想を求められたので、正直な感想を言った。とたんに空気が変わった。その後に他の人も感想を言ったようだが、作品の完成度に言及する人はおらずに、「この作品を上演する意義に賛成」みたいな話ばっかりで、最後に公演の演出家が「盛り上げていただき、仲間達のありがたさを感じた」みたいな話で終わった。そこで、私は世の中にそういう芝居もあることを知った。私を呼んだ知人は、それでも作品の完成度を高めたくて、一石を投じるために呼んだらしかったが。
プロとアマの差というのは、一般的には、お金を貰うか払うかなんだけど、むしろ「表現活動」の場合には、どこかに「世に問う」意思があるかないかという所に大きな違いがある。作品の部分であっても「世に問う」ところがあって活動しているか、お友達作りのために活動しているかに本質的な違いがある。
さて、ネットの場合である。以前の「世に問う」ことを前提にした著作権概念では、ネット上に見られる著作権概念は理解できないということを書いた。さらに、著作権についてに留まらないんだと思っている。そうでなきゃ、リンクや引用に許諾を欲しがる人が理解できないし、ごく当たり前の批評を、いつまでも問題にする人たちが理解できない。
私とて、お温習い会に行って、芸の完成度に言及するような野暮はしたくない。けれども、ネット上に公開されている意見が、「世に問う」ものなのか「馴れ合いツール」なのかは簡単には判断がつかないのだ。特に社会的なテーマを扱った「主張する」blogだと後者であるとは判断がつきにくい。仲間内でだけ通用する特殊な用語とかが頻出してれば予測はできるんだけど。
できれば認証制で公開制限するとか、「転載機能」という「お友達とのツール」には便利な機能を備えたシステムとかに固まってくれると便利なのだが。
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2008.01.21
このblogは6点だそうだ。
http://onosendai.jp/hyoron/log/120091159617317.html
pokoponにっき 評論
脱構築的に考えると、支出命令書はグレーゾーン業者と8年間勤め、それとハンドルによって成り立っている。
総合得点 6点
パリのモンマルトル郊外に、有名なジョウビタキの店がある。それはジョウビタキなのだと言える。リバプールで見たときのミヤマホオジロは、もっと違った印象だった。ジョウビタキが欲しいなどというのは、要するに、田舎っぺなのだ。極言すれば、人生とはルリビタキとルリビタキさえあればいい。嗜みとして、最低限の29%〜40%は必要である。どういうことなのか。私にも良く解らない。けれどもウグイスには解っている。18世紀の後半に登場したライセンス切は、その後登場したライセンス切に思想を受け継がれている。どうだろう。彦根仏壇は必要ないだろうか。偉大なる女王陛下のジョウビタキは、スコットランドの誇りである。少年よ、揺...を見よ。少女よ、橋下徹氏を愛せ。だが、それでも敢えて言わせて貰えば、ウグイスの醸す雰囲気は、極上のグレーゾーン金利も及ばない。ルリビタキに漂う気品は、まるで洗練された淑女のようだ。ルリビタキなど、いずれウォルマートの店頭にならぶだろう二級品である。むしろ「ウグイス」大会などと称して、それをたたえるのはどうだろうか。まこと残念なことは、レディに29%〜40%を与える幸福は、ほんの一握りの幸運な男性にしか与えられないということだ。これを口惜しいと感じても、どうにもならない。そういうものなのだ。たとえゼリー屋だろうと。
どうすれば「ゼリー屋」事件の二の舞と成らずに済むのか。考える必要がある。
これは副長兼科学主任 界におけるスイス製アーミーナイフといったところだ。万能だが、どの用途にも中途半端である。シェイクスピアはリア王の中で「グレーゾーン業者がなければ生きていけない」と語った。
本論としては、結局のところ著作権法が彦根仏壇を駆逐する、ということだ。時に、ジョウビタキはどうだろう。少女にフォアグラはまだ早過ぎるように、ルリビタキに著作権法はまだ早過ぎるように思う。
著作権法をよく知る紳士は、きまって彦根仏壇を話題に持ち出す。実に陳腐だ。
実は、大多数の英国人はウグイスを愛用している。こっそりと。
フィッシュ&チップスなんて無粋だ。むしろ橋下徹氏とジョウビタキの組み合わせを試したい。それが粋というもの。
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2007.12.23
昨日からブログスカウターの数値がおかしくなっている。いきなり今までの10倍近くになってしまった。アクセス数が10倍になったどころか、むしろ減ってるんだけど。
付けた当時は、100台の数字で推移していて、その場末感が気にいっていて、さらに最近は近所の野良鳥の写真を貼ってるだけなので、数十になっていたのに。
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2007.09.25
このblogのデザイン、というほどのもんでもない画面構成であるが、ほとんど触っていない。というか、触らなくても雰囲気が変わるように、タイトルバックの画像を差し替えている。その上に、ちょっとしたバグがあって、そのバグを維持するために、触るのを避けている。
それで、サイドバーというかサイドのコラムの内容であるが、当初はココログ標準のままであったけれど、まずカレンダーを外した。というのも日付からエントリーを辿ることもないし、更新頻度がわかるというのが、テキトーという本blogのコンセプトと相容れない気がしたからだ。
ちなみに、このココログ標準のカレンダーというのに、当初はバグがあった。システムメッセージの言語を何語に設定しても、曜日が英語で表示されていた。それで、システムメッセージを英語以外にして遊んでいた名残が今も残っている。
プロフィールページへのリンクも外した。というのも、ココログはlinkタグのナビゲーションに対応していたので、linkタグで対応することにしたからだ。
一方、追加したのが、よそ様のblogのリストだが、先方様が更新pingの設定をしていない所が多くて、半分方、実用的でないんで、あんまり新規登録してない。
流行りのパーツでいえば、時計とかは、必要があればパソコン上で表示させてるだろうし、blogパーツとしては入らないだろうし、blogpetの類もよそ様でよく見るのでつけていない。
アクセスカウンターや「blogの価値」「blogの影響力」も付けていなかったのだが、特に低い評価が出るやつだと「場末感」が出るんで付けてみた。
以前から、webサイトの方に付けていた「ブルーリボン・バナー」を、「偽ブルーリボン」をよく見るようになった時につけた。
また、一昨年に撮ったモリアオガエルの画像は、量がまとまったので、別途に掲載して、そのリンクを付けてみた。
それで、急に、何か「くだらねえ。。。」と言われそうなパーツを付けてみたくなったので「しりとり」を付けてみた。この画像をバックグランドイメージにしようかとも思ったが、さすがに思いとどまった。下の方で目立たないからか、そもそもアクセスが少ないからか、あまりにくだらないからか、まだ、誰もやってくれない。
<追記>
何人か参加してもらっているようだけど、ひとつ、気がついたのは、blogがutf-8なのに、しりとりはshift-JISでコード指定をしていない。なのでブラウザによってはutf-8でエンコードして文字化けするようだ。しりとりもutf-8にすりゃいいんだけど、面倒なので、コードの指定を入れるようにした。
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2007.06.26
ココログの案内ページの内容が変わったようだ。
ココログプラン別比較表には、先週まではフリープランだけに広告表示がされるように書いてあったのが、ベーシック、プラス、プロでも、携帯版には広告表示されるように書き直されている。
FAQのページでも、以前は「ベーシック、プラス、プロでは広告は表示されません。」と書いてあったのが「ベーシック、プラス、プロでは、携帯版のみ広告が表示されます。」に変わっている。
今頃、変えたのはなぜかはわからないが、少なくとも、以前の案内で広告を表示することが不適切だと認識したのだろう。
ということは、以前の案内で申し込んで使用している場合には、広告を表示しなくするのだろうか。
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2007.06.18
どうにも、携帯対応画面の広告が消せないようなので、blogのサブタイトルに以下の文を入れた。
このサイトに携帯端末でアクセスされますと、会員版ココログ(ベーシック/プラス/プロ)では広告は表示されないとのニフティの案内にもかかわらず、「川村ゆきえ お宝動画」等の広告が表示されますが、この広告は、エヌ・ティ・ティ・ナビスペース株式会社(代表取締役社長 嶋崎 剛)によって配信されているもので、blogのコンテンツとは一切、無関係です。
その上で、スタイルシートで、#banner h2 {font-size: 0px;}を指定すると、パソコンでアクセスすると表示されないが、携帯用の画面だと、この指定が無効になるので、表示されることになる。
rssリーダーで読んでいる場合も表示されるが、トップ画像に被さるという問題は回避できるので、いいとした。ところがsafariだと、font-size: 0pxが効かないようだ。
問題の解決には全くなっていないのだが、とりあえずニフティの案内では「表示しない」はずの「広告」を嫌がっていることの表明にはなるだろう。
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2007.06.17
ココログの携帯対応だが、最も基本的な問題は「オプションではない」ということだろう。
このblogだって3年以上にわたり「携帯で見られる」ことを考慮せずに作成してきたわけであり、この携帯対応は「niftyが勝手にコンテンツを改変して公開してる」としか受けとれないわけであり、画像にしても「niftyが勝手に富士フィルムに加工させた画像を公開している」ということになる。
これらが、利用規約の第11条(ニフティによる利用)、「ユーザーが作成 したblogに係わる著作権は、原則としてユーザーに帰属しますが、ユーザーは、ニフティが次の各号の範囲内でblogの利用を行うことを承認します。」の各号の範囲かには納得しかねるわけであり、公衆送信権や同一性保持権を侵害されたと受け取るわけである。
そして、前のエントリに書いたように「ベーシック、プラス、プロでは広告は表示されません。」と書いていながら、広告が掲載されているという問題も発生することになる。
幸いに、まだβ版だそうで、これらの問題が片付くまで、携帯対応の公開を中止してもいいと思うのだが。
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このblogは「ココログ」というシステムを使っている。ココログには4種のプランがあり、そのうちの「フリー」は無料だが広告が入る。このblogは「ベーシック」だが、他の3種には、ユーザーがアフェリエイトをしない限り広告が入らない。これまで、そう思っていた。
「ココログプラン別比較表」を見ても、フリー以外は広告は必須ではないと案内がある。このFAQでも「フリー」は広告が消せないが「ベーシック、プラス、プロでは広告は表示されません。」と書いている。
ところが4月から「ベーシック」でも広告が表示されるようになったらしい。2ヶ月以上もたってから気付く私もうかつではあるが、携帯端末でアクセスした場合に表示されるからで、携帯端末で見たことがなかったからだ。
携帯端末でのアクセスが出来ないので、ブラウザのユーザーエージェントを携帯のものに変えて、このblogを見てみたら、携帯端末用のurlに飛ばされて、そこで広告が表示される。
ついでに他のココログを見て回った。
しのぶさんのところでは、芸能ニュースの広告が表示された。本人が載せている画像よりも広告の方がデカイ。
サムネールをクリックしても富士フィルムが加工した画像しか出てこない。
某所を見たら「親分、てーへんだ、てーへんだ。川村ゆきえのお宝動画ですって。清純派らしからねぇ広告が表示されてやんす。」と思わず神田明神方面に駆けだしたくなった。でも、中身が空白だ。
やはり、この広告は清純派には相応しくないのだろう。広告を見えなくするのではなく、本文を白地に白文字にして、見えなくしていたようだ。
「ココログ携帯対応ご意見募集」というページで、ヤメロとは書いておいた。
以前に、so-netブログが、ある日突然に広告を表示するようになってユーザーの抗議で撤回したことがあった。その時も、一方で「広告は表示されません。」と案内しながら、広告を表示するようなことはしてなかったようだ。
6月19日追記

コメントに「川村ゆきえ」と「磯山さやか」の見分けが付かないとあった。
その「磯山さやか」のblogにも、ちゃんと「川村ゆきえ」の広告が出ている。
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2007.05.16
このblogのアクセスの増えない理由だが、前のエントリーにも書いたように、まず、内容が希薄だからである。内容が希薄でも「非モテだっていいじゃないか善意だもの」という、情報のない共感だけのコミニュケーションに走ると、はてなブックマークが集まって、アクセスも増えるだろうけど、やっぱり「居直り」は恥ずかしい。
さらには、内容が希薄で「役に立たない」というか、散漫だから情報という面ではSN比が低すぎる。初めてモリアオガエルの飼育を試みようとする人には役立つかもしれないが、そういう人はあまりいない。当地ではありふれたカエルだけど、地域によっては天然記念物に指定もされている。
つまりは、内容が希薄であり、特に共感性と有用性に欠けるのである。
次に旬の話題がない。検索で来る人には、チマタで話題のタレントで検索して来る人がいる。エントリーの中身では触れていないにもかかわらずだ。トラックバックspamには、そういうタレント名がタイトルになったのがあり、削除する前に、検索エンジンが拾って行くのだ。検索エンジンの頻度が高すぎるのだ。旬の芸能の話題というのは、それだけ見たい人が多いんだろう。残念ながら、最近の芸能のことには疎いので、そういうネタは書けない。
芸能ネタだけじゃなくて、社会ネタでも「旬」の話題がない。例えば、日本軍の性奴隷の話などを書けば、飛びつく人が多く「おしかけblog-pet」も常駐したりするらしい。
さて、とある人の言い方を借りれば、私は、現在の人類が、原始的な生物から哺乳動物、猿の一種、うぱーな人類、現在の人類へと進化してきたという「仮説」を証明するに足りる証拠が存在するという事実を発見できていない。また、うどん状の知的生命体が現在の人類を創造したという「仮説」を証明するに足りる証拠が存在するという事実もまた発見できていない。
ただし、この場合は、判断を保留するのではなく、そのいずれの仮説を支持するか、様々な傍証や専門の研究者がいずれを支持しているによって判断しているわけである。だからと言って、思考を不要とするだけの確たる証拠が提示できずに、水掛け論や揚げ足取りになりそうなことを書いてもしようがない。スパモンの信者を教化する気はない。私の「判断」は書くことの前提になっても、判断自体を説明したいとは思わない。
社会ネタにおいては、同じように、確たる証拠が提示できないという一点によって、研究者レベルでの検証で一応オーソライズされた説に異論を唱える連中がいて、それが旬の話題になったりする。よそ様のblogのコメント欄では、この性奴隷の件についての「参考資料」にマンガを挙げている人がいて唖然としたことがある。マンガの価値は認めるが、社会科学の資料としての価値とは全く別ものだろう。こういう、まともな研究書を読め、ですむ段階にまで戻らないといけないようなことを、わざわざ書く気にもならない。
さらに、文が拙くて読みにくい。日常に考えたことを垂れ流しているような文が多い。原稿料を貰って書くなら、「安倍晋三にもわかるように書く」努力もするが、好き勝手に書いているから、予備知識を共有できていないと意味不明の不親切さだったり、本筋と関係ない余談が、やたらに多かったりする。
そして、このblogって「何かエラソー」なのだ。けっこう本心から謙っている記述があるのだけれど、それがかえってエラソーかも知れない、と近頃は思っている。
ネットではロコツにエラソーな文は、かえってバカに見える。例えば、かつて知事選挙に立候補を表明して敵前逃亡したおじさんが、日本語の乱れをエラソーに憂いたblogが炎上した。そのおじさんの方が間違っていたからだ。おじさんは自分の間違いを認めるのはエラソーじゃないと思ったか、ひきあいに出したタレントを批判したからファンが怒ったということにして、炎上に際しても敵前逃亡したということがあった。このおじさんは、この炎上を根に持ってるらしくて、逃亡先でもこの件についてエラソーに書いている。そもそもの出発点である、日本語表記への自分の間違いを認めないまま、つまりはエラソーにしたがために、バカさにも気付かないバカというようにしか、見えなくなっているのだ。
世の中、だいたい上もいりゃ、下もいるわけである。自分が上にいるかのような書き方は、下を基準にしているわけであり、自分が下であるという書き方は、上を基準にしているわけである。つまり、下に属しているか、上に属しているか、ということを言外に言っているみたいなもので、謙ることで、かえってエラソーになることは多々ある。
でも、よーわからんことはよーわからんのだ。よーわからんことを書く際には、よーわからんけどと書くしかない。それが、もっとわからん人から見れば、たぶん、エラソーなのだ。
というあたりが、このblogのアクセスが少ない理由で、この逆をやればアクセスは増えると思う。でも、そういう羞恥プレィはしたくないので、500人の壁は絶対に越えないと思う。
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ロジック姐さん経由で見た記事によれば、何でもblogでは、一日の訪問者数50人というのが、ひとつの壁だそうで、訪問者数50人以下の Blog が7割以上を占めるとのことだ。
もちろん、これは設問での訪問者数の区切りを、5、10、50、100、300、1000と切っているからであり、対数的にほぼ等しく切れば、3、10、30、100・・・になるわけで、この区切りで聞くと、おそらく、一日の訪問者数30人以下が大半で、30人が壁ということになる。
むしろ、対数的にほぼ等しく切らずに、50人で切ったというあたりに、調査した方の意図として「1日30人くらいなら、学校の1クラスだし、その程度の数の知人なら誰でもいるだろうから簡単だろうけど、50人越すには新規開拓に一工夫要るんじゃねーの」というのがあるんだろう。
このblogで言えば、検索で来る人の数が平均1日60人くらいなので、50人というのは、壁というよりもオプションみたいなもんだが。
検索で来る人でも、例えば無修正の漫湖の画像を見て、すぐに出て行く人とかではなく、まじめに調べものをしているらしき人もいるわけであり、以前に書いたもので、数こそは週に1・2件だが、コンスタントにアクセスがあるというエントリがある。こういうの、ロングテールと言うんだろうか。
例えば、マイナーな映画の評だとかカエルの餌だとか「イスタンブールの東郷通り」だとか「西瓜を囓るチャー」だとかだ。チャーに関しては、ネタ記事の方に来るので、最近にまともな記事の方から自己Tバックを張るとか、ちゃんとフォローしている。
伊勢崎のドンキホーテのエントリーもロングテールなのだが、これはローカルなBBSにURLを貼られたせいだ。そういやエキスポランドの事故で、泉陽興業が注目されてしまい、社長の政治家との関係まで知られてしまった。風車に挑み掛かるドンキホーテが観覧車に触れない理由も「そういうこと」なんだろね。
検索で1日に60人来るのにアクセス人数はほとんど増えない。増やそうともしていないのだが、意図的に減らそうとしているわけでもない。「たまたま見ても、継続して見る価値はない」とほとんどの人が思うわけである。
50人という、7割のblogにとっての「壁」を、毎日「無駄」にしているのが、このblogなのである。なぜ「継続して見る価値はない」と思われるのか、もちろん内容が希薄なのがその主たる理由だろうけど、いくつか考察してみた。以下、次号である。
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2007.04.07
blogの検索ツールというのはいくつかあるようだが、「blog」相互の関係性はリンクやトラックバックによって判断するらしい。なので、このblogだと、ロジックな姐さんの所から、よくリンクされているようなので、関連性が深いということになるんだろう。と言っても、こちらでは「狂言」の話題はエントリーしていないが。
なお「狂言」というのは、「狂言綺語」が語源だそうで、ロジックでない物言いやデコレートされたコトバという意味から派生し、「芝居」や「フィクション」の意味である。なので、よく使われる「狂言」には、3種の意味があると思っておけばいい。
ひとつめは、今では「能楽」の一部となっている古典芸能のジャンルである「狂言」で、「間狂言」だとか「お豆腐狂言」という場合の「狂言」だ。
ふたつめは、象徴的身体表現の「舞踊」に対する具体的身体表現の「狂言」で、歌舞伎公演などで、「地方公演では、狂言2幕を舞踊1幕を挟んで上演する」なんて言う場合だ。民俗芸能でも、例えば新潟の綾子舞が、少女の「踊り」と少年の「狂言」があるとか、八重山の祭礼芸能に、女性の「踊り(ブドゥイ)」と男性の「狂言(キョンギン)」があるとか、こういう場合だ。
みっつめは、偽りのツクリモノの意味で、「狂言自殺」、「狂言強盗」、「和泉流狂言宗家」とか言う場合だ。
さて、こういったリンクやトラックバックではなく、エントリーで言及している内容によって、blogの関連性を判断するというシステムもあるらしく、そういうサイトからのアクセスがあった。
そのサイトによれば、このblogに最も関連しているblogというか、ネタが共通しているのは、埼玉の旅館の女将のblogらしい。リンクもトラックバックもしていないのだが、先日来、秩父方面や花の話に言及していたために、そうなったらしい。
ちなみに、先方の最新エントリは、その地域の神社、小鹿神社の旧社地というか、小さな社の話だった。なぜか、その社の写真を撮ってたりする。4月20・21日には、この旧社と現神社の間で神輿渡御や屋台、傘鉾の行列のある「春祭り」がある。秩父地方にお婆ちゃんちがある人や、西武線沿線に実家のある人は、21日にでも日帰りで見に行ってはいかがでしょうか。
そして、この女将、うさぎが好きなのか、旅館のトイレの消臭剤がうさぎ形だったり、廊下にうさぎのお雛様が置いてあったりする。
ということで、この旅館は先日に泊まった旅館なのだが、全くリンクもないのに、ネタが被っているということで、blogを書いてたということがわかったのだ。
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2007.02.05
この前のエントリーで、グーグルマップにリンクしていた。ところが、よそ様でGoogle Maps APIを使っているのを見て、利用することにした。
説明通りに、地図を表示するhtml文を書いてみた。それをblogに表示させるために、objectタグで記事に貼り付けたら、スクロールバーが表示されてしまった。それで、iframeタグで表示させてみた。
ところが、そうして貼り付けた地図はrssでは表示されない。scriptがoffでも表示されずに空白になる。そして、当然だが、Googleからのデータ転送が完了しないと、表示されない。
このblogを表示させるためには、ニフティのサーバー以外にもpodfeed.podcastjuice.jpだとか、www.blogpeople.netのデータが必要なのだが、記事本文の表示には必要ない。どうも、表示速度のボトルネックになってしまっている。
ということで、やはり記事中に貼り付けるよりは、ということで、ポップアップで表示させることにした。
ちなみに、これはGoogle Maps 何?。
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2007.01.21
以前に無修正のまんこの画像を掲載したことがあったが、そのことに、先日触れていたロジックなテキストで、「この記事をブログのトップに表示」ということがココログで出来るようになったとかで、「取扱説明書」を掲載していた。といっても、今までなかったわけだから、読まなくても取り扱いは可能なのだが。
私は「取扱説明書」を読むことはあまりない。読まないと使えないようなものは嫌いだ。ひょっとして、こういうことが出来るんじゃないか、と思った時に見る程度だ。「利用上の注意」みたいなことを書いているwebサイトもあるが、読まないことが多い。
なので、自分のサイトにはそういうことは書いていないのだが、半分ネタとして書くこともある。例えば、以前にも触れた「有断リンクお断り」だ。リンクなんぞという勝手にすりゃいいことのために、わざわざ煩わせるなということだ。
それで、ネタとして、このblogのポリシーを作ってみようかと思った。
世の中には、リンクのように「他人が勝手に出来ること」について、お断りとか書くサイトもあるわけである。なので、「無断リンクは禁止しませんが、無断嫌悪お断り」とか「このblogについて、これはひどいと思いたい場合は、必ず開設者に許可を受けてください。」とか書いてみようか。
ちなみに「罪を犯しちゃいけない」というのは「モラル」の分野で、「ルール」の分野では「罪を犯すと罰を与える」ということになる。なので、ルールらしくするには「禁止する」のではなく、「不利益を与える」と書く必要がある。「このblogに対して悪意のある記事を見かけた場合は、深夜に数時間かけて数十の反論にもなっていないコメントを行うことがあります」なんてのはどうだろうか。でも、そんなアホなことをするとは誰も思わんだろうし。
ともかくも、このblogは、その場のノリで、書いて運営している。無意味なコメントや迷惑なトラックバックは削除しているけれども、きちんとしたポリシーがあるわけでもない。気分次第。
間違って別のエントリーについてのコメントをされた場合でも、そのまま、コメントを返し、コメント・チェーンが続いたりするわけである。常時、読んでる人には、それがわかるし、このblogらしい「イイカゲンさ」で面白いかと思ったからだ。検索で来た人には、わけがわからんだろうが。
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2006.12.18
先日のエントリーでココログ3周年とか書いたのだが、それに関連して、どうもココログの人は愛ココ心に欠けるのではないか。このblogにしても、ココログのロゴやお知らせが載らないのを喜んでいるし、それをウラヤマシイという人もいる。ココログの恩恵を受けているなら、お知らせを載せるのは自然な感情ではないか。
さらには、ココログのグッズのデザインや、長時間メンテの失敗についてアレコレ言ったり、メンテの前にはバックアップを取ろうとか、反ニフ言動は数多く見られる。そんなにココログが嫌いなら、他のシステムに乗り換えろと言う愛ココ者もいない。
というバカ話はともかく、ツールに過ぎないblogシステムに愛着はともかくも、帰属意識まで持ったりする人は、少なからずいる。
以前に、知人が「アルファ・クリッパーって気持ち悪い」と書いた時、その話題について、それ以上は言及しなかった理由が「ニフ者対はてなユーザー」という構図に変換されてしまいかねないという理由からだった。
システム毎のユーザー気質というのは、ネタ的には面白い。よそのコメント欄で、ココログやアメブロはネタblog、楽天やヤフーはベタblog、はてなはメタblogが多いなんてことを書いたが、血液型占い並みにイイカゲンな根拠だ。楽天blogのごく一部に「無断リンク」だの「読逃げ」などという不思議な言語があり、ヤフーblogに転載ボタンというアホな機能があって、それが原因で揉めてるblogというのを見ただけの印象だ。けれども「下流社会」並みに、サンプルとしてはイイカゲンでも、結果が妙に実感できる。
これというのも、各システムがユーザーの囲い込みに作った機能のせいかと思う。帰属意識を持たせるためにユーザーをムラ化するわけだ。
so-netの「nice」ボタンとか、アメブロにもログインユーザーだけの「読者になる」とか「ベタを残す」とかがある。でも、あまりトラブルの要因とはなっていないようだ。so-netには、spam niceというのがあるらしいけど。
楽天の「読み逃げ」という不思議な言語も、ログインユーザーに関してのみアクセス履歴が残るところから発生したらしい。
さて、blogの記事に関して、他の記事から触発されたりすることは多い。だからこそトラクバック機能が使われるわけだが。そういう記事を書く際に、単にリンクするだけではなく、元の記事をコピーすることはよくある。ただ、コピーというのは「範囲指定・コピー・ペースト」だけですむわけではない。それが1クリックで出来るというのは、イージーにエントリーを書くのは便利なんだろうし、それが出来るblog間の交流やエントリー拡大には有効だし、ヤフーblogもそれを狙ったのかと思う。
ヤフーblogは、画像は他から参照できないようにと、ある意味閉鎖的な部分もある。でもユーザー間では記事を簡単に転載できるわけで、かなりムラ化を指向するシステムのようだ。
はてなだって、ブックマークをツールとして使っているうちはともかく、ユーザーとしての帰属意識が出てくると、ユーザー間でのムラ化はおこるようだ。
さて、ムラが出来ると、ムラだけの風習が生まれたりするだけではなく、名主というより、お山の大将が生まれやすい。普遍的なオピニオン・リーダーという人ではなく、そういう人の多くは「常識的」というか「みつを的」だ。なぜかはわからないが、たぶん、ムラ化を指向するユーザーというのは、そういうのが好きなんだろう。
・・・・個人宛メッセージみたいなエントリーだわ。
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2006.12.13
先月で、10年以前前からwebサイトを作って置いていたso-netのサービスが終了した。開設の当時、ニフティに入っていたのだが、webサイトを開設できるサービスはなかったので、so-netにも加入した覚えがあり、以来、数年間、IP接続での利用はso-net、無手順接続での利用はニフティという形だった。
ニフティが無手順接続をやめた今となっては、ニフティに加入している意味は全くないのだが、blogの方がニフティのサービスを使用していることで、やめる機会を逸してしまっている。そのニフティのblogサービスのココログだが、3周年だそうだ。私の場合、サービス開始の4ヶ月後にやっと始めたので、まだ3周年にはなっていない。
といっても「とりあえず始めた」というだけで、方向性もスタイルも何も決まっていなかった。今もそうだけど。web化されて利用しにくくなった無手順の「フォーラム」の難民間の生存証明みたいなものだった。その後に、他のblogにコメントしたりで、このblogを始めてから知り合った人もいるわけである。
カエルネタについては、無手順時代からの知人がきっかけになって扱うようになったのだが、このblogで始まったものだ。ドロンジョネタについては、blogを始めた頃に、不要なUFOキャッチャーの景品を処分しようとしたのがきっかけだ。DVDの感想もこのblogから始めたものだから、内容的に無手順時代の「フォーラム」から連続しているものは少ない。むしろ「フォーラム」で書いてた劇評は、ここでは書いていない。
近頃、web2.0を標榜しているようなシステムで起こっているトラブルが「無断リンク」や「チェーンメールやマルチポスト」や「匿名問題」だったりと、10年以上昔に片づいていることを延々とやっているのだが、ココログに関して、そういう話題をあまり見かけないのは、けっこうフォーラム難民も多いからなのか。
先日、フォーラム難民の人と、blogを通じて知り合った人と話す機会があった。フォーラム難民の人は私を「保守的な人」、blogを始めてから知り合った人は「リベラルな人」と思っているのではと聞いてみたら、その通りだった。おそらく、このblogで、コミュニケーション論や「ロジック」に関するネタで、バカなウヨの言説を揶揄的に取り上げたから「リベラルな人」と思われているんだろうが、立場の違いよりも、どういうバカが恥ずかしいかの羞恥感覚の違いの方が気になるからだけなんだが。
その話の際、コメントしようとしたら、わけのわからない言葉が表示されたので、ビビってやめたと言われた。
このココログには、今は表示していないがカレンダーが表示される。サービス開始当初に、システムの使用言語を何語にしても、カレンダーの曜日が英語で表示されるというバグがあった。それで、使用言語をフランス語にしても、カレンダーの表示が変わりませんと、ココログにバグ修正を要求したということがあって、別に英語でなきゃ何語でも良かったのだが。
カレンダーのバグは修正されたのだが、このblogには別のバグが残っている。ココログに強制的に表示されるココログのロゴと「ココログからのお知らせ」が表示されない。このバグは残しておきたいので、システムの設定をなるべく触りたくない。それで、別に感覚的に操作しても不都合がないので、システム表示言語がフランス語のまま残っている。
そんなわけで、イタリア人のドロンジョファンにフランス語でコメントを書かれて、困ってしまっている。
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2006.10.02
人は見た目が9割だとか。同じような「いかにも考えることが苦手そう」な「見た目」を「まともなことを考えないバカ面」と見る人も「悪いことは考えなくて誠実そう」と見る人もいるわけで、実は残りの1割の方が重要なんだが、「見た目」の影響というのはけっこう大きい。
本人が見えないネット上だと、サイトの見た目も重要と考える人も多いから、blog選びに際して、独自のcssが使えるかを気にする人、つまりデザインのカスタマイズをしようという人も多いわけである。
サイトのデザインを行うに際して困るのが、自分のデザインセンスの欠如だ。だから、私の場合、センスの必要のないデザイン、機能をそのまま見た目にしたような「情緒よりも理屈」のデザインにしてしまう。だから私のサイトは「品格」がないのか。
先日に作った頼まれもんのwebサイトも、開業医だったということもあり、スタイルシートを無効にして、フォントサイズを大きくしても、あまり変わらないレイアウトなぞというデザインコンセプトに逃げ込んで引き受けた。院長が自分で作ったみたいな雰囲気で。オサレなショップなら断る。
たまたま、これを書いている時点で、コメント欄のトップにいてられるので引き合いに出すが、うちゃさんのblogと同じデザインのひとつが、ある民主党の立候補予定者のblogだ。明らかに内容は違うのだが、私の中では、似たキャラクターの人という印象を持ってしまっている。もう辞めた島さとしやいまだに粘っている前原や慎吾によって、私の民主党への印象は極めてよろしくないのだが、この立候補予定者に好印象を持っているのは、うちゃさんのせいでもある。
どこのblogサービスもカスタマイズが可能というわけではないので、出来合いのデザインから選ばなければならないことも多い。ベーシックなものや無難なものなら、類似によって印象を左右するという要素も少ないだろう。キャラが立っていないと十把一絡げに「はてな」の人という印象を持たれることもあっても。
逆に、以前の瑠璃子さんの苺模様だとか絵ロ具のスポンジボブのように、あまりに饒舌なデザインだと「シャレ」や「偽悪趣味」になって、かえって印象に影響を与えないというケースもあるので、これはこれでアリだと思う。
で、普通には、その中間くらい。あまりに無味乾燥でもなく、饒舌でもないものを選ぼうとするのだが、このケースのデザインが最も印象を左右してしまうように思う。
サイトデザインを情緒でなくて理屈でやってしまう私は、見る際にも、かように理屈で見てしまうのである。
カスタマイズを始めた場合、いろいろ変えても、そのうち固定するし、cssの枠組みは固定し、画像ファイルや色指定だけを交換していくようになる。カスタマイズというのは、最初はやってみたくて、そのうち飽きてくる、という要素もあるのだが、最初はアイデンティティを模索し、やがて安定するという、ネット上での「人格形成」という様相もあるんだろうか。
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2006.07.31
日本のblog人口が何百万人だかというニュースがあったが、継続的に書いている人は、複数のblogを開設しては、1カ所以外は放置というパターンも多いだろう。かの「くまぇり」も放火の実況中継をやったメインのblogは閉鎖されたが、放置されていて残っているのもあり、記念にコメントを書く人がいるようだ。
だから、ブログを書いている実数は、登録数の何百万の何割というところだろうけれども、それでも、百万人は超えているんだろうなと思う。それで、各blogサービスのトップには新着エントリーが紹介されているのだが、見たこともないblogが並んでる。
以前に、ネットというのは「大海」であると同時に「井の中」の要素もあると書いたが、なるほど「大海」と思う。
さて、ここにコメントを寄せてくれている瑠璃子さん経由で、とある画家の人のblogを見ている。コメントとかしていないので、ここのサイドバーには紹介していない。仮にAさんとする。
同じ区に在住しながら、この瑠璃子さんと、このblogで初めて対面したのが、コバヤシさんだ。そのコバヤシさんとこ経由で、私と意見の8割は一致するが2割が違って、結果的に多くの問題に対して反対の結論を持つという人のblogも見るようになった。たまに、鏡の法則のような問題だと、意見が一致することもある。やはり、サイドバーに載せていないので、仮にKさんとする。
どういう経緯で知ったかは覚えてはいないのだが、伊勢崎のドンキホーテの件以来、たまにコメントをしているblogにうちゃさんとこがある。
このお三方は私の感覚では、全く、別ルートというか、違う井戸の住人という感覚だった。
さて、コバヤシルートのKさん経由で、くだんのメモに関するあるblogの記事がおもしろそうだったので、そちらを最近読み出した。
その「あるblog」というのは「綾川亭日乗」というのだが、Aさんのサイドバーに紹介されているのに気付いた。うちゃさんも書き込んでいるのにも気付いた。このblogで、全く別方向と思っていた3ルートが一致したわけである。
一人が何箇所のblogとやりとりをしているのか。仮に100としてみよう。となると、全く単純な計算だと、Aさん、Kさんの距離にある人は1万人、だから、次の距離の人は100万人ということになる。だから「状況」として、こういうケースは起こりうるのかも知れない。でも、1万人分のblogを辿って読んでみることはしないし、間に超有名ドコロのblogとかが挟まっているわけでもない。最大でもテクノラティの被リンク数は200までだ。。。。共通して見ている超有名ドコロはあるだろうけど。
まあ、単に私にとって意味のある偶然にすぎないわけだが、ネットは大海であっても、遊泳範囲の棲み分けというのが、けっこう出来ているのかも知れないと思った出来事だった。
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2006.07.18
たまに見ているblogで紹介されていた「漫画家アシスタント物語」というblogがある。先日、それを読んでみたのだが、何とも不思議な気がした。
サブタイトルに「どーすりゃ漫画家に成れるのか、何で漫画家になれないのか?」と書いてあるのだが、読んで思うのは「なって何が書きたいの?」なのだ。
この人は漫画という表現形式にとてもマジメで真剣で努力もしているのだが、どういうコンテンツを作りたいのか、さっぱりわからないのだ。かつて、賞を貰ったという作品も紹介してあるのだが、漫画家志望者の話だ。漫画家になれるかどうかの必死さはわかるけど、なったとして何を描くの? この人はその回答を持ってるんだろうか。
もし、描きたいテーマや世界があれば、それはけっこうだし、漫画で書きたいからblogには描かないのもいいと思う。でも、この人のblogを読んだ限り、コンテンツへの思いが伝わってこない。漫画というプロトコルに拘ってるのはわかるのだけど。
このblogはいいかげんなもんだし、最初はblogというプロトコルを使ってみたかっただけで始めた。でも、自分で作ってみたいコンテンツ、という大げさだが、ちょっと書き留めておきたいことがあって、続いているわけだ。ここからリンクしているblogだって、それぞれにテーマをいくつか持っている人ばかりで、blogが書きたいからやってる、という人はいない。普通はコンテンツがあるからこそのプロトコルだろう。
「blog論」みたいなことを書いてる人も、自分なりのテーマの延長で書いている人のは読ませるが、単に技術論とベタな良識論を直結しているだけだと、それこそ「ITみつを」っぽくて、見ていて痛々しい。文明や文化への視点が欠如していて、ツールについてだけ論じてどうすんだと思う。
同じように、漫画の技術を追求し、漫画家になる努力しているのを読んでいても、目的が見えない、漫画家になるのは彼だけの目的であって、どういう作品を書きたいかという読者が共有できる目的が見えないと、他人にはどうでもいい努力をしているとしか思えないのだ。
皮肉なことに、この人のblogは「書きたいこと」があってやってるわけだ。何か書きたいテーマがあるわけでもなく、単に「アルファブロガー」になりたいだけとか、ネット上で存在を認めてもらおうというようなblogじゃない。だからblogは読み応えがある。コンテンツがあってプロトコルを使っているわけだ。けっこうアクセスもあると思う。でも、読んでみると、漫画というプロトコルへの努力は伝わるのにコンテンツが全く想像できない。
どこかに、コンテンツを持たないのにアルファブロガーになりたくて頑張ってる人っていないかな。その顛末を漫画にすると漫画家になれるかも知れない。
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2006.06.06
飛蝗の生態研究なのか?の続き。
言語表現というのは、共通したルールに従っている。そのルールのひとつが「文法」だ。文法には2つの側面があるように思う。
ひとつは現実を合理的に説明できる法則という側面。ニュートンが万有引力の法則を発見した。しかし、ニュートン以前から万有引力はあった。人は誰も文法を意識せずに言語を使う。現実に使われている言語にある「意識されない法則」を、意識できるように体系化したものが文法だ。
もうひとつは準拠すべきプロトコルとしての側面。言語が他者間で同じ概念を共有するためのツールである以上、法則を共通させて、それに従う必要がある。その法則としての文法だ。
「DVDが見れる」という表現がある。いわゆる「ら抜き表現」だ。現実にこの表現が会話に使われている。現実に使われている以上、こういう表現を行う「文法」は存在する。しかし、日本語ユーザー全体が準拠すべきプロトコルとしての「文法」には存在しない。
つまり「ら抜き表現」を許容する文法というのは一種のローカルルールなのだ。 ①のようなものなのだ。マイクロソフトのユーザーは①というのは、○に1を現す文字として認識し、使用する人もいる。しかし、インターネットの世界では文字と見なされない。
先のエントリーにあげた花岡の間違いは、自分のローカルルールしか知らないのに、それを一般的なルールと思いこみ、他分野のローカルルールを間違いと決めつけたことだ。つまり、自分の世界だけが世界だと思いこんでいる「井の中の蛙」であったことだ。
¥というのは円を表す記号なのに、区切りに使う人がいるのはオカシイと言ってるようなものだろう。区切りはバックスラッシュなのだ。それがあるマシンでは¥と表示されているだけなのに。
モーニング娘についても「知らないのに書いた」わけである。歌もダンスも「素人レベル」というのはその通り。そういう聞きかじっただけの情報で、なぜ彼女たちが支持されているのかとか、そもそもエンターティンメントとは、ということもわからずネタにしてしまったわけだ。オヤジどうしの宴席でしか通じない「ネタの域に達していない」文をネットに公表してしまったわけで、ここでも「井の中の蛙」ぶりを発揮しているようだ。
つまり、花岡blog炎上は、井の中でしか通用しないことを大海に公表した結果、異文化の衝突が起こったからだ。
「自衛隊は憲法違反」というのは政治的な意見としては無意味だ。そこから、立場や考え方で「自衛隊をなくす」「憲法を変える」と政治的には正反対のの2つの展開ができるからだ。
同じように、花岡が「国歌・国旗に敬意を払うのは世界の常識」と書いていることからも、2つの結論が導き出せる。「敬意を払われないから、国歌・国旗に相応しくない」「敬意を払わない人は国際的な常識がない」ということだ。花岡は後者が言いたいのだから、論理の点では、こう書いただけでは中途半端なのだが、前者の展開はサンケイ的常識ではありえない。
政治的な意見では、いかに論理になってなくとも、サンケイ的常識で補強することによって趣旨は通じる。サンケイ的常識への評価がどうあれ、サンケイ的常識を踏まえることが彼の文を読む上で必要だから異文化の衝突は起きない。
でも今回は、彼は記者的常識とオヤジ的常識の中でしか通用しないことを書いたわけである。だから、異文化の衝突が引き起こされた。
記者であっても記者的常識は社会に共有されていないこと、オヤジであってもオヤジ的常識が社会に共有されていないことは、「・・・。」という事例も見つかる程度の読書量があれば、簡単に理解できることだ。
ネットには大海の要素と井の要素がある。様々な人と接触する可能性があるわけであり、その意味では大海だ。
「以前から疑問に思っていましたが、誰も説明してくれませんでした。でもこのページを見て、目から鱗が落ちる思いでした。ネットのおかげで、真実を知ることができました。」トンデモ系のサイトにはよくある文だ。ネットの中には、一般社会では全く通用しない「真実」が通用する井がたくさんあるのだ。そういう極端な世界だけではない。私も「みつを」や「ラッセン」という固有名詞を揶揄的に使う。固有の文化的価値観を前提にした表現で、誰にでも通じる用法ではないのだが、ネットだと通じる人がいるわけで、通じる人にだけ向けた表現だ。井の中でだけしか通じない表現がネットだと使えるのだ。
ネットを大海とだけ思うと書いていてもつまらないし、それこそ「みつを」っぽくなってしまって恥ずかしい。井だと思いこむと炎上する。大海の中にうまく井を作ることが、blogを楽しく書くのにはいいのかなと思う。読む方がオモシロイかはわからないが。
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2006.03.31
実験で「三十三間堂棟由来より木遣音頭」というのをアップしてみたが、ポッドキャスティングは以前から使えたはずだけど。
さて、もうひとつの新しい機能のマイフォトも試用してみたけど、問題アリのようだ。
ひとつは、画像のオリジナルのサイズが保存されないこと。最大500ピクセルなのでblogにアップできる大きさと大差ない。(その後、気付いたが設定で640ピクセルにも出来るようだが、アップしたものは変えられない)
もひとつは、サムネイルが「トリミング」して表示されること。余白を付けた形じゃないと、どんな絵かがわかりにくい。(その後、気付いたが元の縦横比のままに設定を変更できるようだが、アップしたものは変えられない)
さらにひとつが、blogにアップした写真のアルバムが事実上、作れないこと。だらだらと未整理のアルバムなら作れるが、テーマ毎のアルバムを作ろうにもアップ時にアルバムを選べない。だから、同じ画像を両方に2重にアップしないといけない。これが選択できる形式だと、過去にアップした画像も、アルバムのディレクトリにコピーして、一覧性が出来るのだが、アルバムのディレクトリがコントロールパネルのファイルからは見えない。
こういう仕様は、どういうユーザー層を念頭に置いているんだろうか。とりあえずアルバムだけを簡単に作りたいというユーザー対象なら、blogの機能に付帯させる意味はない。別に「ニフティアルバム」とかいうシステムを作ればいいだけ。
ということで、試用してみたが、実用にはならないようなので、そのうち消しちゃいます。
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2006.03.29
ココログに強制的にマークやお知らせが入るようになったようだ。更新してないと、まだ入ってないが、すると現れるのかな?
記事の更新だけじゃ出てこない。デザインを触ると出てくるようだ。しばらく触れないでおこう。。。

他を見ていたら、あれ、記事が消えているというblogも。

よくみると、こんなところに隠れている。この状況で、トラックバックを送ったり、コメントを書くのはけっこう大変。。。
って、ブラウザの設定で、スタイルシートを無効にすればいいんだけど。
と思
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