12/11/2011

試しに

 先月末、市街地の公園でコマドリを見かけた。といっても、夕方に用事の帰りに公園に寄って、知人と話していて、帰ろうとしたら、暗い中に何か動いてるものがいて、それがコマドリだった。
 それで、カメラの設定にISO12800 というのがあるので、試しにどの程度に写るのか撮ってみた。
コマドリ 横方向のみのトリミングでこの程度。マジメに写真を撮ってる人なら使いモンにならんと言いそうで、かなり使い途は限定されそうだ。
 で、先週。同じような時刻だったけど、まだいた。この日も暗いながらも、まだ若干は明るかったので、ISO1600で撮ってみた。
コマドリ 普段、blogにアップしているのは、じゃんくさいのでカメラのjpeg画像をレベル調整したのみなのだが、タテヨコ約半分のトリミングでこんなの。
コマドリ 普段はモデルがどこに現れるかわからんので、露光や色温度の調整も出来ないことも多い。そういう場合はraw画像の現像で調整するわけで、同じ絵をrawから現像してレベル調整したら、こんなの。やっぱり効果があると見るべきか、手間の割にたいして効果がないと見るべきか。絵によるんだろな。
コマドリ 試しに、レベル調整のみではなく、彩度とトーンカーブをいじって、クッキリ目にしたのがこれ。blog画像ならこれくらいの方が見映えはするかもしれないが、どうしても「作ってる」臭がするんで、やめといた方がよさそう。
ミルンヤンマ ちなみに9月に撮って載せたミルンヤンマの産卵シーンだが、やはり暗い場所だったので、こちらもクッキリ加工してみた。
ミルンヤンマ 上のコマドリの場合よりも違いは大きいし、トンボだけならそう変でもないけど、やっぱり背景というか朽ち木や苔が不自然で「作った」絵という感じは否めない。

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31/03/2010

「人格攻撃」攻撃

 たまたまお友達のブックマークを見て、酷いモノを見てしまった。「河野美代子のいろいろダイアリー」というところの「鉄人」なる御仁のコメントなのだが。
 そのコメントには、ブログ主自身が後に反論なさってるので、特に書くこともないのだが、それよりも、なぜこんなコメントを、というのが不思議であった。
 そのコメントでは宗教的倫理観(というと聞こえはいいが、水子供養屋のセールストークにも読める)から人工妊娠中絶への反対意見が述べられているのだが、そんなもん抜きにしても、誰もが人工妊娠中絶を望まないし、避けたいと思っていると、この方は想像できないのだろうか。にもかかわらず人工妊娠中絶を選択するのには相応の理由があるということを、この方はご存知ないのだろうか。そのブログの読者には、おそらく人工妊娠中絶を選択せざるを得ない人やその周囲の人の比率が高いであろうことが想像できなかったのだろうか。その上で、彼女ら(そして、逃げなかったが同意せざるを得なかった下手人や、ハンコを押したり、費用を負担した人)の罪悪感を煽るようなコメントをなぜ書いたのだろうか。殺人よばわりも「書くのは躊躇したが、自分は本気です」「仏教の考え方からのもの」「真面目にコメントさせていただきました」という留保によって免責されると思われたのだろうか。
 その人工妊娠中絶を選択せざるを得なかった少女たちを殺人者よばわりするかのような「鉄人」なる御仁のコメントが、悪意からではないだろうと思われたか、そして、他の「原理主義者」に同じような意見があるだろうと思われたか、ブログ主はきちんと、相手にもわかるように対応されている。
 ところが。この鉄人なる御仁は、そこに「原理主義」と書かれたのが、ご不満のようで「人格攻撃」だと仰ってる。そして「人格攻撃」されたのがショックで自分のブログを休むそうだ。
 で、うちのブログじゃ、ここまでは前フリで,、酷いという感を強くしたのはこの「人格攻撃」攻撃についてだ。
 さて、この鉄人なる御仁は橋本真宏と仰るらしい。かのブログ主もおそらくそうだと思うが、私も橋本真宏なんて方は知らない。知っているのは「鉄人」という署名によって書かれた文だけだ。従って、最初に結論を言ってしまえば、「鉄人」という署名によって書かれた文について言及することは可能だが、橋本真宏氏について、その人格について言及することは不可能だ。
 鉄人名でのコメントが原理主義と思う意見であったから「原理主義」と評する。それは意見についての批判であって、「原理主義」じゃない、違う、というのなら反論すればいいだけだ。それを「橋本真宏は頭だけの原理主義者」と言われたかのように「人格攻撃」攻撃をされている。ワケワカラン。
 彼の当初のコメントを不愉快に思う人、反感を持つ人は少なくないことは想像に難くない。ここで最初に書いたような、人工妊娠中絶を選択せざるをえなかった少女たちや、かつて選択した人の心情を、ほんの少しでも想像することさえ出来れば、そうなるだろう。
 「鉄人」名での意見は、いわば、ココロの傷に塩を塗り込むようなものと思う人は少なくないだろうが、橋本真宏氏が、意図的に他人の傷に塩を塗り込むような人とは誰も思わないと思う。酷い意見であると思っても、彼が酷い人間だとは思わないだろう。その違いがわからないのかなぁ。
 「鉄人」名での文では、誰かを個人的に批判したものではないが、コメントしたブログでは、鉄人個人へ批判を受けた、それを曖昧にしてはいけないと仰ってる。個人を特定さえしなければ、やむを得ない選択を「殺人」と言っても、該当する人の人格への攻撃にはならないけれども、個人を特定して、その意見を批判するのは人格攻撃になるらしい。私とは考え方が反対だ。
 「ブログの危険性を認識したのは事実」と書いてられる。まさか批判されることを危険性と思ってられるわけじゃあるまいが、自分の文がどう読まれるか考えずに書くのは危険だろう。「鉄人」名での文や休止宣言を読んで、悪気があると思っている人はいないと思う。イノセントと思われてるだろう。自分の意見への多面的な検証や書く場の状況判断を、あまりせずに純粋に自身の信条を書いたと。それをヒトコトで言い表すと、時として罵倒に使われるのと同じ語彙を使うので、イノセントという婉曲表現で評されている。そのように評価されるのは、おそらく望んではおられなかっただろうし、その危険性も認識されたのならいいが。もちろん、鉄人名での意見が「イノセント」ということで、橋本真宏氏が「イノセント」ということではない。

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17/02/2010

なんでデフォルトにするかなぁ

 しばらく以前のことだが、このブログのトップ画面で、すべての記事が数文字+「続きを読む」という形に変わったことがあった。使っているココログというシステムがそういう機能を導入し、なぜか、それをデフォルトにしてしまったわけで、わざわざ元に戻した。
 そして、さきほど見ると、記事の最後に「その記事をニフティクリップに登録するボタン」と「その記事をtwitterに投稿するボタン」が付いている。どうやら「ボタンを設置することができます。」という機能を付け加えたらしい。そして、そっちをデフォルトにしてしまったみたいだ。なら「ボタンを削除することができます。」だろが。
 このココログの欠点として、最大のものは有料ユーザーは「広告が表示されない」と案内されながら、携帯画面や管理画面だと表示されてるってことだろうけど、次いで、こういう新機能を付け加えた場合に、そっちをデフォルトにしてしまうアホなスタッフがいる、ということがある。見ていると、一斉に追加されたこういう新機能が徐々に外されていく。まあ、デフォルトにするのは、そうしないと誰も使ってくれないからか、と思ってしまう。
 ココログの欠点だけじゃなんなので、ええとこも書いておくと、オリジナルのスタイルシートを追加できる、つまり出来合のデザインの着せ替えではなく、みばをオリジナルに出来るってことと思っている。これとて、ユーザーがシステムの隙間を突いて勝手に始めたことが、システムに取り入れられたんだけど。
 なお、オプションのはずの方をデフォルトにしてしまうというのは、基本的には変なのだが、たったひとつメリットがあるとすれば、更新が止まっているブログでも、「変わっていない」つまり、この手の新機能が加わってないことで、管理者が削除したことがわかり、生息が確認できることか。
梅 
 ぼちぼち梅も咲いているのだが、今年は「梅がうめ〜」のトラックバック先がない。今回の新機能が削除されているので、生きてはいるらしい。

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12/09/2009

お玉おばさんをあえて擁護してみる・・

 前回総選挙に対して今回は、その裏返しだったという感想を持っている。前回での自民党戦略で印象的だったのは「マーケットセグメンテーション」であり、「刺客という演出」だった。そして、意図的なものかどうかはともかく、同じ手法によって自民党は公明党は敗北した。その「マーケットセグメンテーション」で有名になったコトバに「B層」がある。つまり「IQが低く具体的なことはよくわからない」が小泉のキャラクターや「改革」を支持する層と定義されていたと思う。それらの層は、今回、「IQが低く具体的なことはよくわからない」が麻生のキャラクターを嫌い「政権交代」を支持することになったわけである。
 それが悪いというわけではない。政治について、私も「具体的なことはよくわからない」という分野は多々ある。明日の飯に困るというわけではないが、今日と同じかそれ以下の明日への閉塞感を感じ、新しい展開を望むという意識を持つ人も多いと思う。そして、何よりも「具体的なことはよくわからない」が、何かしらのイメージによって投票行動を行う人たちにより、政治的な方向性が決まるからと、それをどうにかできるものでもない。ならば、その層を取り込むことが、政治活動にとって重大になってきているということだろう。
 政治ネタを扱う個人ブログはけっこう巡回先にあるのだが、「政治ブログ」というのは概ねくだらないなぁと思うから、見ることは少ない。個人ブログとして「政治」に言及するのではなく、マスメディアの「政局」評論の「ごっこ」をしているようなものや、それこそ、具体的な内容はなく「いい話」やスローガンで、イメージ訴求に終始しているようなもの、そして妄想だらけのもの、こういう自称「政治ブログ」が氾濫しているのが、くだらないなぁと思う所以だ。
 なので、ネット上で政治的主張を行うことの効果を信じている人などいないだろう。可能だとしても非常に困難だろう。ネットと政治といえば、むしろ政治的判断のために、マスメディアは埋もれてしまうような情報の収集であったり、分析というと大層だが「見方」の参考にしたり、さらにはネタに転がすというのが、むしろ政治的主張よりも伝わることが多いように思う。
 そういう「政治ブログ」の中で特異なのがお玉さんで、リアルな政治運動との連動を常に意識しているということを感じていた。「主張」ではなく「一緒に勉強しましょう」というスタンスであったように思う。いわば、子どもを教えるというのではなく、子ども目線で一緒に考えるという姿勢のように思う。
 お玉さんは、両生類ファンだとかレシピの参考にしたという「義理」があるからじゃなく、ネットでの政治活動のあり方として、「情報共有」からは進んでも「主張」として完結させないというのは、ひとつの方向性だと認めざるを得ない。
 護憲というコトバがある。お玉さんもそうらしい。いわゆる護憲派も改憲派にも、現憲法の文言そのものを変えるべきでないとは考えていないだろう。憲法の背景には、その国はどうあるべきか、という考えがあるわけで、国のありかたについて、玉虫色の解釈ができるようじゃいけない。それで、現憲法の制定時の理念の見直しをしよう、というのが改憲であり、その理念を追求していこうというのが護憲ということになっているようだ。つまり、現在の体制を護るか改めるか、ということではないわけである。
 「具体的なことはよくわからない」が閉塞状況に希望を見いだしたい、そういう流れに、現状維持ではないという点で「新憲法」というイメージが結びつくこと、つまり、未だ実現できてはないない、なし崩しにさえされている、現憲法の理念が検証されることもなく、「現行」というだけで否定されるというのは、護憲派にとっては怖れる事態だろうと思うし、そうなりかねない層を取り込むことが重要になってきているんだろうと思う。
 レイシズムも歴史修正主義も、憲法によって排除されているわけではなく、むしろ、個人にその自由が保証されているように見える。しかし、現憲法の理念からは、というよりも、国際的な理性からも、政治に携わる人には相応しくない。護憲の理念の両極のものだろう。
 護憲派のお玉さんが、城内実さんを温かく見守る、というので、ちょっと驚いたし、他にも意外に思った人は多いようだ。
 でも、リアルな政治運動との連動を考えるお玉さんなら、堅固な「護憲派」や「改憲派」へのアクションではなく、イメージに流れそうな「あやうい」層へのアクションが重要だと思っても不思議はないわけだし、ネット上の活動では、ネットウヨだの堅固な護憲派は置いてでも、護憲を自称しつつ、結果的にレイシズムや歴史修正主義を容認してしまっているというような、どうにでも流れそうなあやうい層とこそ、積極的に対話し、一緒に考えましょうというアクションをとろうとし、その目線に降りてみるのは、それはそれで「マーケットセグメンテーション」としては、有効なことかも知れない。
 なので、決して支持をするわけではないが、城内実を容認してしまうような人たちと、その行く末を一緒に見て行きましょう、というのならわからないでもない。

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18/06/2008

愛と覚悟

 あるトコロで、公開した文は、他人がどのようにでも言及することが出来る。他人が勝手に出来ることは、止めてくれと言っても無意味で、つまりは、公開した文はどのように言われるかわからない。その言われたことに対応するしかない。ということを書いた。アタリマエのことだ。
 このことを、「批判される覚悟」と表現した人もいた。それで、その用語をそのまま使ったりもしたのだが、何か落ち着かない。ちゃんと準備を整えて失敗しないようにしたら「覚悟の自殺」と言うけれど、いくらお鍋や調味料をきちんと揃えても「覚悟の自炊」とは言わないわけである。普通は「覚悟」ってのは死ぬの生きるのって場合に使うことが多いわけで、中学生のイジメじゃないんだから、単なる批判だのネットの匿名記事だのに「覚悟」などと言うのはやはりオサマリが悪い。
 いわば、言語感覚の差なんだけど、相手の納得力を引き出すのは、相手の言語感覚に合わせた表現のわけで、その場の主も、覚悟たぁ大層なと思ってそうなので、同じことを違う書きか方で書いたわけである。
 一方で、批判に愛が必要なんて書いてる人もいる。言わんとすることはわかるが「愛」という用語はどうなのかと思う。こちらによかれと思っていろいろ言う人はいるし、大きなお世話だと思っても、無下にはできない。相手に悪意がなく善意だとわかってる場合というのは、迷惑でも何とか穏便にオヒキトリいただきたいと思うわけである。そういう「善意」を「愛」という極めて多様な概念を含む用語で表現するのも何かオサマリが悪いように思う。
 こういう言語感覚にはスタイルの問題もあるのかとも思う。blogには「ごっこ」要素というのがあると思う。映画とかDVDとかの感想を書くのだが、つい「評論ごっこ」化しそうになってしまう。客観視の必要な「評論」ではなく、主観的な見方を説明している感想のわけであるから、何か「評論ごっこ」ぽくなるのは嫌だ。それでも「馬鹿げた見方」の時にはあえて「評論ごっこ」みたいなスタイルにしたりもする。書く内容というか書いてる内容にあわせて、つい「ごっこ」スタイルになって、日常的な言語感覚と離れていくというのもあるのだろうか。
 「批判される覚悟」も「愛ある批判」も、「私自身の言語感覚からするとオサマリが悪い」だけのことで、スタイルなのか言語感覚なのか、理由あってのことだろう。感覚なんて人それぞれだ。読み手の好き嫌いはあるだろうけど、言語感覚の差だとわかってしまえば言いたいことはわかるわけだし、ご自由にされればいいことである。むしろ面白いからいいと思う。
 落語に「延陽伯」というのがあって、「土埃がたって眼に入った」というのを「ドフウ、ハゲしうしてショウシャ、ガンニュウす」、米の置き場所を聞くのに「あーら、わがきみ、しらげのありかはいづくなりや?」なんていう人が出てくるわけだけど、そんな感じ。落語だと、言ってることがわからないもんで「カンヤ、ダンブツのギなり」なんて返事をするわけである。ヤカンと仏壇をひっくり返して。それに対して「批判される覚悟」も「愛ある批判」も言いたいことはわかる。
 ただ、こういうわかりやすい場合だけじゃなくて、単なるスタイルだ、単に言語感覚がズレてるだけということに気付かない場合もけっこうあると思うわけで、こういう参入障壁もあるんだなと思った。

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06/05/2008

公演blogか温習会blogか

 以前にネットの著作権を考える場合には、インセンティブ論ではなく「特殊な人格権」と考えられている側面があるということを書いた際に、日本舞踊の公演を例にした
 日本舞踊の公演には、歌舞伎俳優が行うものとどこかの教室が行うものがある。前者はお金を貰って踊るし、後者はお金を払って踊る。観客は前者にはお金を払うが、後者は払わないし、お菓子のひとつもお礼に貰える。そして、後者は、どんなに下手糞でも褒めるというマナーが存在する。
 さて、この2種があることを知らずに、前者に対して行うのと同様の基準で後者の下手な芸に対して感想を述べるとどうなるだろうか。おそらく、猛反発を喰らうだろう。「そんなことはわかっている」ではすまない、「言ってることは正しくても言い方があるだろう」「悪意を感じる」「お温習い会の意味がわかっていない」とかだけじゃなく、競合する教室の工作員だと決めつけられるかも知れない。「伝統芸能を伝承するという大きな目的があるのに、愛好家同士でそんなことを言い合うのは悲しい」なんていう人だって出てくるだろう。
 そういえば似たような経験をしたことがある。現代演劇はプロもアマも区別なく公演とは「作品を世に問う」ものだと思っていた。なので知人が出た公演の後に「合評会」というのがあって、時間があれば残ってくれと言われ、そこで感想を求められたので、正直な感想を言った。とたんに空気が変わった。その後に他の人も感想を言ったようだが、作品の完成度に言及する人はおらずに、「この作品を上演する意義に賛成」みたいな話ばっかりで、最後に公演の演出家が「盛り上げていただき、仲間達のありがたさを感じた」みたいな話で終わった。そこで、私は世の中にそういう芝居もあることを知った。私を呼んだ知人は、それでも作品の完成度を高めたくて、一石を投じるために呼んだらしかったが。
 プロとアマの差というのは、一般的には、お金を貰うか払うかなんだけど、むしろ「表現活動」の場合には、どこかに「世に問う」意思があるかないかという所に大きな違いがある。作品の部分であっても「世に問う」ところがあって活動しているか、お友達作りのために活動しているかに本質的な違いがある。
 さて、ネットの場合である。以前の「世に問う」ことを前提にした著作権概念では、ネット上に見られる著作権概念は理解できないということを書いた。さらに、著作権についてに留まらないんだと思っている。そうでなきゃ、リンクや引用に許諾を欲しがる人が理解できないし、ごく当たり前の批評を、いつまでも問題にする人たちが理解できない。
 私とて、お温習い会に行って、芸の完成度に言及するような野暮はしたくない。けれども、ネット上に公開されている意見が、「世に問う」ものなのか「馴れ合いツール」なのかは簡単には判断がつかないのだ。特に社会的なテーマを扱った「主張する」blogだと後者であるとは判断がつきにくい。仲間内でだけ通用する特殊な用語とかが頻出してれば予測はできるんだけど。
 できれば認証制で公開制限するとか、「転載機能」という「お友達とのツール」には便利な機能を備えたシステムとかに固まってくれると便利なのだが。

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21/01/2008

評論されてみた

 このblogは6点だそうだ。
http://onosendai.jp/hyoron/log/120091159617317.html


pokoponにっき 評論
脱構築的に考えると、支出命令書はグレーゾーン業者と8年間勤め、それとハンドルによって成り立っている。
総合得点 6点

パリのモンマルトル郊外に、有名なジョウビタキの店がある。それはジョウビタキなのだと言える。リバプールで見たときのミヤマホオジロは、もっと違った印象だった。ジョウビタキが欲しいなどというのは、要するに、田舎っぺなのだ。極言すれば、人生とはルリビタキとルリビタキさえあればいい。嗜みとして、最低限の29%〜40%は必要である。どういうことなのか。私にも良く解らない。けれどもウグイスには解っている。18世紀の後半に登場したライセンス切は、その後登場したライセンス切に思想を受け継がれている。どうだろう。彦根仏壇は必要ないだろうか。偉大なる女王陛下のジョウビタキは、スコットランドの誇りである。少年よ、揺...を見よ。少女よ、橋下徹氏を愛せ。だが、それでも敢えて言わせて貰えば、ウグイスの醸す雰囲気は、極上のグレーゾーン金利も及ばない。ルリビタキに漂う気品は、まるで洗練された淑女のようだ。ルリビタキなど、いずれウォルマートの店頭にならぶだろう二級品である。むしろ「ウグイス」大会などと称して、それをたたえるのはどうだろうか。まこと残念なことは、レディに29%〜40%を与える幸福は、ほんの一握りの幸運な男性にしか与えられないということだ。これを口惜しいと感じても、どうにもならない。そういうものなのだ。たとえゼリー屋だろうと。

どうすれば「ゼリー屋」事件の二の舞と成らずに済むのか。考える必要がある。
これは副長兼科学主任 界におけるスイス製アーミーナイフといったところだ。万能だが、どの用途にも中途半端である。シェイクスピアはリア王の中で「グレーゾーン業者がなければ生きていけない」と語った。

本論としては、結局のところ著作権法が彦根仏壇を駆逐する、ということだ。時に、ジョウビタキはどうだろう。少女にフォアグラはまだ早過ぎるように、ルリビタキに著作権法はまだ早過ぎるように思う。

著作権法をよく知る紳士は、きまって彦根仏壇を話題に持ち出す。実に陳腐だ。
実は、大多数の英国人はウグイスを愛用している。こっそりと。
フィッシュ&チップスなんて無粋だ。むしろ橋下徹氏とジョウビタキの組み合わせを試したい。それが粋というもの。

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23/12/2007

ブログスカウター変ちゃうん?

 昨日からブログスカウターの数値がおかしくなっている。いきなり今までの10倍近くになってしまった。アクセス数が10倍になったどころか、むしろ減ってるんだけど。
 付けた当時は、100台の数字で推移していて、その場末感が気にいっていて、さらに最近は近所の野良鳥の写真を貼ってるだけなので、数十になっていたのに。

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25/09/2007

しりとりはじめました

 このblogのデザイン、というほどのもんでもない画面構成であるが、ほとんど触っていない。というか、触らなくても雰囲気が変わるように、タイトルバックの画像を差し替えている。その上に、ちょっとしたバグがあって、そのバグを維持するために、触るのを避けている。
 それで、サイドバーというかサイドのコラムの内容であるが、当初はココログ標準のままであったけれど、まずカレンダーを外した。というのも日付からエントリーを辿ることもないし、更新頻度がわかるというのが、テキトーという本blogのコンセプトと相容れない気がしたからだ。
 ちなみに、このココログ標準のカレンダーというのに、当初はバグがあった。システムメッセージの言語を何語に設定しても、曜日が英語で表示されていた。それで、システムメッセージを英語以外にして遊んでいた名残が今も残っている。
 プロフィールページへのリンクも外した。というのも、ココログはlinkタグのナビゲーションに対応していたので、linkタグで対応することにしたからだ。
 一方、追加したのが、よそ様のblogのリストだが、先方様が更新pingの設定をしていない所が多くて、半分方、実用的でないんで、あんまり新規登録してない。
 流行りのパーツでいえば、時計とかは、必要があればパソコン上で表示させてるだろうし、blogパーツとしては入らないだろうし、blogpetの類もよそ様でよく見るのでつけていない。
 アクセスカウンターや「blogの価値」「blogの影響力」も付けていなかったのだが、特に低い評価が出るやつだと「場末感」が出るんで付けてみた。
 以前から、webサイトの方に付けていた「ブルーリボン・バナー」を、「偽ブルーリボン」をよく見るようになった時につけた。
 また、一昨年に撮ったモリアオガエルの画像は、量がまとまったので、別途に掲載して、そのリンクを付けてみた。
しり それで、急に、何か「くだらねえ。。。」と言われそうなパーツを付けてみたくなったので「しりとり」を付けてみた。この画像をバックグランドイメージにしようかとも思ったが、さすがに思いとどまった。下の方で目立たないからか、そもそもアクセスが少ないからか、あまりにくだらないからか、まだ、誰もやってくれない。

<追記>
 何人か参加してもらっているようだけど、ひとつ、気がついたのは、blogがutf-8なのに、しりとりはshift-JISでコード指定をしていない。なのでブラウザによってはutf-8でエンコードして文字化けするようだ。しりとりもutf-8にすりゃいいんだけど、面倒なので、コードの指定を入れるようにした。

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26/06/2007

ココログの案内が変わった

 ココログの案内ページの内容が変わったようだ。
 ココログプラン別比較表には、先週まではフリープランだけに広告表示がされるように書いてあったのが、ベーシック、プラス、プロでも、携帯版には広告表示されるように書き直されている。
 FAQのページでも、以前は「ベーシック、プラス、プロでは広告は表示されません。」と書いてあったのが「ベーシック、プラス、プロでは、携帯版のみ広告が表示されます。」に変わっている。
 今頃、変えたのはなぜかはわからないが、少なくとも、以前の案内で広告を表示することが不適切だと認識したのだろう。
 ということは、以前の案内で申し込んで使用している場合には、広告を表示しなくするのだろうか。

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