26/08/2014

ゴールドパピヨン

ゴールドパピヨン 久々のDVDネタ。
 「ゴールドパピヨン」である。「ゴールドバタフライ」でも「パピヨンドール」でもない。そこに何となくバカ映画の臭いが漂ってたので、観てみた。その通り、その道のマニア向けなんだろうけど、やはりおバカな名作であった。
 原題は「Gwendoline」、で「Sweet Gwendoline」という有名なボンデージ漫画が原作らしいのだが、いかんせんこの分野には疎いので、知らなかった。二見文庫の「クラシック・アート・コレクション」の「ボンデージ・コミックス」(大類信、赤坂真理著、ISBN-13: 978-4576920016)あたりを読んだ方ならご存じなんだろうけど。
 どういう内容かは、この原題の「Gwendoline」で画像検索すれば一目瞭然だろう。
 さて、半分くらいまでは、インディージョーンズとかのようなフツーの探検とアクションの話である。それが、ビキニアーマーのお姉ちゃんが出てきてから、突然、荒唐無稽度が方向転換して、何ともケッタイなティストになってしまう。
 探検の末に辿り着いたのが、女性しかいないという城郭都市というか鉱山。そこはビキニアーマーのお姉ちゃんだらけ。ビキニアーマー、それもヒモ状のTバックというのは、それなりの支持者がいるんだろうと思う。
 で、ビキニアーマーのお姉ちゃんのキャットファイトもあるし、ポニーガールによるチャリオットの追っかけあいとか、まあ盛り沢山の見せ場が用意されているが、なぜか、こっけいなのである。
ゴールドパピヨン というのも、この女人国、女王以外は、なぜか頭がちょんまゲなのだ。ポニーガールの場合、馬のたてがみに似せてモヒカンにするというのはよくあるそうだが、戦士もちょんまゲ。
 そして、女王さんとか、その衛兵は、なぜか着物に肩衣を付けている。俗に「裃」というが、肩衣だけで袴はなく「かみしも」の「かみ」だけというのは、見馴れてないせいなのか何ともおかしなテイストだ。
ゴールドパピヨン そして、なぜかは知らないが、着物のあわせが、女王は右間、その他は左前になっている。日本的な解釈だと、女王のみが生きていて、他は死人ということになる。この女人国は、ラストでは埋まってしまって滅亡するわけだが、主人公達が大量殺人をしたわけではなく、生きていたのは女王だけで他はマボロシであったということになるけど、たぶん、そんなことは考えてないだろう。
 フランス製の映画なので、洋装の解釈から言えば、女王だけが「男性」的な権力を持つという意味になるけど、そうでもなさそう。単にたまたまそうなんだと思う。
 話としてつながっていないとこもあるんで、たぶん元の映画よりもカットされてるんだと思うけど、そんなことを気にする必要もないと思う。ある方面のマニアというか愛好者でなくても、その絵面を見てるだけでも「アホやなぁ」と充分に楽しめると思う。

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09/04/2013

レジェンド・オブ・パイレーツほか

レジェンド・オブ・パイレーツパイレーツ・オブ・アイランド パイレーツ・オブ・カリビアン・シリーズをはじめとする海賊ブームに便乗しただけの映画。その続編。それなりに暇つぶしにはなっても、それだけにすぎない、というのが大方の評価だろう。なるほど、そうだろう。でも、出回っているDVDは、この映画にとって、極めてというか、最も重要なシーンがカットされているのだ。それを踏まえて、一手間かけるだけで、評価は変わるはずである。
 その「一手間」というのは、出演している女優の名前を画像検索することだ。そうすると「カットされている重要なシーン」がどのようなシーンかは想像がつく。しかし、想像するだけしかできない。
 あっけらかんとしたすっぽんぽんよりも隠された方がエロい、ということはよくある。カットされているようなシーンは、他のDVDでいくらでも見ることができる。でも、それよりも、カットされているがゆえに、かえって想像力をかき立てられるのだ。わかりやすい映画よりも幾通りにも解釈の可能な作品の方がより魅力的ということがある。ストーリーとしてはアホほどわかりやすいこの映画も、様々に想像力を刺激する映画となる。秘すれば花。
 で、余談だけど、あっちゃのこういう女優って、たいてい胸に詰め物とワンポイント・タットーが相場なんだなぁ。その詰めモノも、いかにも詰めましたという感じで、なんで、もっとナチュラルに仕上げないんだろう。それで思ったのだが、むしろ「偽物」であるよりも、詰めモノには詰めモノとしての美学があるんかも知れない。よく、いかにも「ズラ」というのを被っている人がいるけれど、あれだって髪に見せようとしてるんじゃなくて、モーツァルト(ザルツブルグの方、念のため)の時代のように、「ズラ」としての美学を主張してるのかも知れない。

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風の丘を越えて(西便制)

風の丘を越えて 10数年以上昔に見て、気に入った映画だ。特に、珍道アリランを歌いながら旅芸人が歩く名シーンの風景を実際に見たくなったほどだ。実際に行った知人がいて、かなり辺鄙な島だったそうで、結局、行きそびれてはいるが。
 それがDVD化されていたので、ひさしぶりに見た。それで気付いたことがある。ラストシーンの意味だ。映画のストーリーとは全く無関係に、盲目の芸人が若い女性に手を引かれて旅をしている。
 この映画は「パンソリ」という芸能をテーマにした映画だ。最初に見た時にはパンソリの知識なんて全くなかった。ただ、この映画を見て、その後に生パンソリを聞きに行ったこともあるし、この映画と同じイムグォンテク(임권택)監督の「春香伝」というパンソリの代表曲を映画化したのも見て、ほんのわずかな知識は得たわけである。
 それで、この映画の中でも「春香歌」を語るシーンは出てくる。でも途中で、はて「春香伝」にこんな場面があったかなという所に気付く。どうも「沈清歌」という別の歌らしい。「春香歌」というのは春香という女性の物語であり、「沈清歌」というのは、盲目の父親につくす孝女沈清の話。
 そこまでわかれば、というか韓国の観客には簡単にわかることだろうけど、ラストシーンに「沈清」を思わせる若い女性が出てくるということは、この映画の主人公の女性は「春香」になぞらえてあるということに気付かされる。可哀想な放浪の旅芸人が他にもいる、そんな付け足しではなく、この映画の中で、あえて曖昧にされてもいる人間関係を説明するというか、種明かしをするためのシーンだったわけである。
 「春香歌」というのは、簡単に言ってしまえば、恋人といったん離ればなれになった春香が、彼女に横恋慕した土地の長官の言うことを聞かなかったので投獄されたものの、恋人が戻って来て再会する、という話だ。一方、この映画は、姉弟と2人のパンソリの師匠でもある父親の物語だ。でも親子、姉弟といっても血縁関係はない。そして、弟が逃げ出し、父親は彼女に失明する薬を飲ませる。やがて一人となった彼女の所に弟が訪ねて来て再会し、彼女の歌と弟の太鼓で一晩かけてセッションをする。
 弟が逃げ出した後、彼女は生きる気力さえ失ったように見える。一方、この父親はその彼女を親身にいたわり世話をする。血縁はないといいながら父親だからだろうか。でも、そこまでの愛情を持ちながら、失明させる薬を飲ませるという残酷なことをする。つまりは、恋人と別れた春香と、彼女に恋し、そして自分の支配下におくために投獄する長官という構図だ。投獄する代わりに、彼女が逃げられないように失明させるわけだ。そして再会した姉弟のセッションを聞いた居酒屋兼宿屋の主人は、恋人同士が睦みあってるようだという。
 状況は異なっているけれど、恋人と一緒にいたいという「恨」、自分のものとしたいのに出来ないという「恨」、そして、その支配下に置かれざるを得ない「恨」、つまりは、この物語に描かれる「恨」というのは、「春香歌」における「恨」と通底するものとして描いてあるのだろう。そして、パンソリの境地として「恨」を越えるということが言われるが、弟とのセッションにおいて、彼女はそれらの「恨」を越えて歌うことができたのだろうか。
 「春香歌」では再会した恋人はハッピーエンドで終わる。しかし、この映画は再会し、互いに相手が誰かわかりながら、セッションをしただけで別れる。構図としては違うんだけど、どちらも「恨」の物語としては終わっているわけである。
 古典が古典として価値があるのは、何もその歴史性故だからだけではない。古典の中に描かれた普遍性ということも大事だろう。そして古典の構図を近代の物語として再構築することで、現代にも通じる普遍性を描いた映画だと思う。
 最初に見た時の私がそうであったように、パンソリのことを何も知らなくて、この主人公が春香であると気付かなかくても、それはそれで「気に入った」映画であった。とりもなおさず、それが古典の普遍性だろう。

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アデル

アデル 「ありえねー」というバカ映画である。私の好きなバカ映画だけど、よくあるバカ映画にするつもりはなかったバカ映画じゃなくて、コミックが原作で、バカ映画を作ろうとして、きちんと作られたバカ映画だ。
 しばらく前に「SFの賞味期限」というフレーズを読んだことがある。科学的知見のハッテンにより、書かれた時代にはあったリアリティが荒唐無稽になってしまうというようなことだった。この映画は、むしろ「賞味期限切れ」のSFとしての面白さを狙って作ってる。映画の中では「もはや20世紀で科学の時代」というような台詞がある。でも、その時代というのは、やっとライト・フライヤーが飛んだ頃であり、ABO血液型だけが発見された頃だ。ホメオパシーだって、ナチが熱心だったことで知られるように、この後40年くらいは医療行為と見なされていた。まあ、ミイラや化石の復活も当時信じられてたかは怪しいけれど。
 そういう時代では、充分にリアリティがあったものとして「ありえねー」話が作られているので、何でもアリゆえの破綻は感じられず、テンポのいいコメディに仕上がってると思う。
 おそらく、当時の人々にとっては最も「ありえねー」のは、ルーブルの中庭にピラミッドを作ればいい、という台詞だろう。

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22/01/2012

大鹿村騒動記

大鹿村騒動記 昨年の夏に映画館でやってて観に行こうと思っていた。ところが結局行かずにDVDで観た。なぜ行かなかったか。市内の映画館で上映はしていたが、生活圏の中ではない。なので、実際の距離以上に心理的には遠い感覚があったこと。そして、上演中はいつでも観られるわけだから、まあ明日以降でもいいや、と思っているうちに上映が終わっていた。私が映画館に行くということがほとんどなくなったのは、徒歩圏内にあった映画館が閉鎖されて以来だ。
 ところが、生の舞台だと、上演日時を指定して前売り券を買わないと好条件で観られないわけで、明日にしようというわけにはいかない。そして、市内よりも大阪や東京の方が行った回数は多いし、それどころか秋田県や熊本県まで観に行ったこともあるわけで、より「容易に観られる」ことが、足が遠のく理由になっている。
 「容易に観られない」けれど観に行った舞台には、シロートさんの舞台だって含まれる。そのうちのひとつが大鹿歌舞伎で、関東の知人と前泊、後泊の行程で観に行ったことがある。それが、この映画を観ようと思った理由だ。
大鹿歌舞伎 さて、この映画で重要なのが大鹿歌舞伎だ。地芝居、村歌舞伎によくかかる芸題というのがある。例えば絵本太功記十段目(十日目)、これは武智光秀(明智光秀)が主役ではあるが、息子の十次郎、その妻初菊、妻の操、母の皐月、羽柴秀吉にあたる久吉そして、出番は少ないがその家臣、正清とそれぞれに見せ場があるし、床だって聞かせどころがある。つまり8人が気持ちよくなれる芝居だ。この映画で演じられるのは大鹿歌舞伎独自の演目で「六千両後日之文章重忠館の段」というもので、これも6人の主な出演者がそれぞれに見せ場があって気持ちよく演じられるという芝居だ。
 そして映画の方はと言えば、原田芳雄が主演ではあるが、主なキャストが、それぞれの俳優の味を思いっきり見せてくれる。話としては、ばかばかしくも予定調和なんだけど、気持ちよさそうな芝居が見ていて気持ちいい。ベテラン俳優だけでなく、性同一性障害の若い子の役をやった俳優だって存在感を示してくれてる。
 そして、個人的には、実際の大鹿歌舞伎からの出演者である片桐登さんの元気な姿が嬉しかった。大鹿歌舞伎の竹本で、この映画でも義太夫の弾き語りを演じていたが、大鹿村役場を教育長で退職し、大鹿歌舞伎保存会の会長を務め、大鹿歌舞伎の中心人物なんだけど、私が観に行った時も、忙しい中で本当にお世話になった。
 後泊というのは、歌舞伎の日の夜、片桐さんの紹介してくれた「元民宿」という一般家庭に泊めてもらったのだが、山の中に入っていく道で、こんな先に人家があるのかという家だった。そこでは、鱒だけは、村内の養殖場で買ってきたけど、後は自家製というご飯だった。そこの婆ちゃんが、爺ちゃんが採ってきたという蜂の子を「お口にあうかわからんけど食べてみるかに」と薦めてくれて、蜂の子の旨さを知った。
 私にとって、大鹿村というのは、今でも強烈な印象が残る非日常体験だったわけで、この映画の「ありえなさ」は、むしろリアリティなのだ。
 そんなわけで、私としては高評価なんだけど、誰でもそうかとは言い難い。でも「亡国のイージス」のような、意図しないバカ映画ではないと思うよ。

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22/11/2009

パソコンでDVDを見るための551nhサラウドン・システム

 パソコンでDVDを見ていると、次々に見て時間がたって、お腹がへってしまうということがある。で、何か食べながら見ようとしても、ラーメンとかだとキーボードに、ノートパソコンならその下の本体に、汁をこぼしてしまうなどという危険性もある。それで思い当たったのが皿うどんだ。これなら麺は乾いているし、汁もとろみがあって飛散しにくい。けれども皿うどんというのは食べる直前に麺に具を載せないといけないし、テイクアウトもない。それで皿うどんの麺を買ったのだが、その具を作るのもいささか面倒だ。
サラウドン・システム さて、今日デパ地下を通ったら蓬莱でテイクアウトの八宝菜を売っていた。それを麺にかければ皿うどんになるのである。
 問題は、蓬莱に寄ったのなら、皿うどんにせんでも豚まんでええがなと言われたら、反論できないくらいだ。

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07/04/2009

ヤッターマン

ヤッターマン 平日の昼間からラブホテルに隣接した映画館のさらに道路を挟んだ隣の映画館でヤッターマンを見てきた。
 本格的バカ映画として極めて完成度が高く、爽やかな感動を覚えた。30年前のアニメのバカバカしさをそのまま現代の技術で実写化しているんだけど、おそらく、当時のファンをターゲットにしていて、今の同年代の人たちはあんまり考慮してないんじゃないか、と思うのだが、けっこう子どもの笑い声もしてた。笑いにしても、いろんな種類があるのだけど、基本的には「アホらしさ」の笑いに徹している。アホらしさというのは、そう色あせないんだろうか。
 テレビサイズのアニメを映画サイズの実写+CGにするわけだから、当然にはるかに作り込みが必要になるけれど、それをきちんとやっているのがいい。ドロンジョさまが深キョンと聞いて「?」と思ったけれども、そうか、ドロンジョさまをこういう風に豊富化するのもあるんだなぁ、と思った。
 30年前のファンがターゲットなんだから、ハッチやマジンガーやタイガーマスクのネタは出てきたりは当然として、一瞬、チェリオの瓶が出てきたり、言語指導スタッフまで用意してのたった1行のスーパーとかもアホらしい。ドロンボー一味の悪徳商売も原作同様のインチキだけじゃなく、今風の洗脳商法があったりだ。
 そして、クライマックスシーンは、ラブストーリーアニメのパロディと、SFとかにありそうな自己葛藤風に見せかけて「そのままや」と、クライマックスの雰囲気だけで、バカ映画に徹しているのが気持ちいい。

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06/07/2008

サイボーグ II

サイボーグII 今をときめきたまうアンジェリーナ・ジョリーのデビュー主演作だそうだ。にもかかわらず、本邦未公開。ということで、だいたい予想がつくけど、その通り。そんなにバカっぽくないのが期待はずれ。
 アンジェリーナ・ジョリーは「コバヤシ」への自爆攻撃用のサイボーグなんだけど、格闘技インストラクターの人間の男と逃げ出すという話。ともかく「コバヤシ」が無事らしくてよかった。

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31/05/2008

ヨコハマメリー

 歌舞伎のヒーロー、江戸では花川戸の助六、上方では大星由良の助らしい。助六はカッコイイ。一方、由良の助は目的のためにカッコワルク振る舞った。
ヨコハマメリー で、歌舞伎とは関係ない映画の話である。とあるトコロで、ドキュメンタリー映画は素材にチカラがあれば、加工度を抑えた方がいいんじゃないか、という話の例に出したのが、この「ヨコハマメリー」だった。
 このヨコハマメリー、つまりはスジを通すというか、プリンシプルというか、プライドを持って生きている人たちのドキュメントだった。プライドというと、そういうタイトルの映画もあったが、そちらは「現実」によって虚飾が剥がされながらも、まだ体面を取り繕う老人の滑稽さを描いた「笑える」映画であった。この「ヨコハマメリー」というのは「体面を取り繕う」プライドではなく「自身の原則を通す」というプライドの話。
 この「ヨコハマメリー」さん、一種異様な外面であっても、それは彼女の原則を貫いていたからであり、「施し」を拒否し続けてきた人だ。話の進行役の歌手さんも、彼自身の原則に従っている。そういうエライ人じゃないけど、むしろ「世間」とやらいうものには蔑視されているんだろうけど、自身の原則に恥じることのない人の話だ。
 チョイ役で大野慶人さんが出ていたが、今でこそ「横浜市の近年で最も偉大なアーティスト」の息子さんなのだが、その父も活動を始めた当初には異様にしか見られなかっただろう。そして、メリーさんに感動し、舞台化した女優が出てきたけれど、タレントではなく、女優としての原則を通そうとしてるのかと思う。
 こういったピュアなプライドを持った人たちには、素直に感動してしまう。でも、なかなか、自分が実践できるかというと、そうはいかないもんなのよ。それで、素直に自分のダメさに反省せずに、もっと醜いのを探して憎んでしまうのがせいいっぱい。例えば、ひたすら体面を取り繕ってるような人、どこの都道府県か言わないけれど、まさに弱い犬ほどよく吠えるを実践しているような都知事の類だ。自分が半端なバカだからとわかっていても、卒業しようとするよりも、もっとバカを憎んで満足するようなものだ。
 せめて、こういう映画で、ピュアなプライドに感動できたことだけでも喜びたい。

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23/07/2007

クリムト

クリムト デラックス版 臨終のクリムトが回想した過去という体裁になっている。だから、現実か妄想かは曖昧。それにドラマが描かれているわけではない。エピソードを重ねて、クリムトが見た世界を描いたという作り。
 そういう話だから、どうしてもクリムトの絵に対する印象が、この話を受け止める前提になってしまう。それに、この映画を見ようとする人は、クリムトが何者か知らないということはないだろう。
 となると私の場合、クリムトの絵は好きじゃない。「好きじゃない」というのは「嫌い」の婉曲表現の場合もあるが、そうじゃない。画像を見ても実物を見に行きたいとか、買いたいと思わなかったということだ。その理由は「うるさい」のだ。饒舌な描写というのは好きなのだが、饒舌というより、ノイズが多いという印象だ。
 映画では、美のあるべき姿についての論争シーンがあって、クリムトがパリでは高く評価されながら、ウィーンではスキャンダラスに扱われるという展開になる。そういったクリムトの外の世界と、おそらくは内の世界だろうが、彼が惹かれる「レア」という女性と、彼のある部分を代弁するような役人の男が出てくる。
 今日では、美のあるべき姿なんてひとつじゃないと簡単に言ってしまえるわけである。けれども、美は乱調にあり、というのは古い言葉かも知れないが、この言葉がインパクトを持つのは、美には一種の「秩序」があると考えられがちだからだ。
 クリムトの当時には、その「秩序」の権威として、アカデミズムがあった。それから「分離」しようとした、ウィーン・ゼセッションの中心がクリムトだったわけである。そして、その後に、多様な「秩序」が産まれ、「秩序」がないという「秩序」も含めて、映画が作られた今日では、その「秩序」は属人化しているわけである。
 「美」が社会的な秩序であった時代を終わらせようとした画家の話を、その結果「美」が属人化した時代に映画にしているということになる。
 この映画で出てくる琳派の手法や五つ紋の着物というのは、私にとっては、というか多少とも日本文化への知識があれば、ある体系で意味を持った要素であり部分であると認識する。ところが、この映画のシーンでは、その体系から切り離されて使われている。全体として表現されている世界と、表現するための要素や手法の部分に整合がないのは、本来は気持ちが悪い一方で、完全な整合にはないトキメキを感じることができるわけである。今日的な「秩序」で作られている映画では、むしろトキメキだろう。一方で、クリムトに感じるノイズというのは、このような切り離されてしまった体系だと思う。だから、クリムトの絵じゃなくて、それを素直に見られない私の方にノイズがあるとも言える。
 たぶん、それまでの「秩序」から分離したクリムトは、代わりうる「秩序」を求めたはずだ、けれども、違う「秩序」からの部分は導入しているけど、全体としての新しい「秩序」が見えない、こういうクリムトの絵への個人的な印象がある。
 だから、この映画の「レア」を、彼の新しい「秩序」と見てしまい、目指すべきところが、リアルでない幻であって、途上で迷子になってしまった画家の物語として見てしまう。
 そういう、自由な見方ができるというか、好きな解釈ができるというのが、この映画のいいところかも知れない。


 映画の中の「美」論議に誘発されての全くの付け足しになるが、自然の「美」というのは、ひとつには、その中で暮らしている馴れもあるんだろうが、それだけではなく、初めて見た景色にも美しいと感じるように、自身もそうである自然法則というものが、見えない「秩序」として背景にあると見ることができる。
 ところが、庭園ということになると、幾何学的な「秩序」に再構築するような方向も、自然の「秩序」の縮小化を目指す方向もあるように、人が考える「秩序」はいろいろだ。
 たまたま、今、テレビで宇高志保さんが写っているけど、入隊前の方がバロック以前の芸術家には美しいと思われるだろうけど、たぶんCMの制作者はバロック以前の芸術家と違う「秩序」で判断してCMを作ったんだろう。そして、見ている中には、また全く別の「秩序」、例えば想像される密着感なんかで、入隊前の方が絶対に美しいと思う人がたくさんいたりする。これも、美を規定する「秩序」の属人化なんだろうね。
 さらには、この映画で「美」と訳されている言葉と、このblogで「美」と表現している言葉、昔の中国人が作った際の「美」の字の意味も違う概念かも知れない。
 「美」の字は生け贄を意味する「羊」と「大」から成るわけだけど、「大きい生け贄」は、それが可能な豊かさか、それを献げる気持ちの強さか、どちらのモノサシで「美」なんだろうか。
 ともかくも、「美」の基準をアカデミズムが決めてくれた時代は100年以上前に終わっちゃったし、さらには文化によって、基準となる「秩序」やモノサシは違うし、今じゃ、人によって違う。
 以前にも、少し触れたが、「美しい景観」や「美しい言葉」という言葉にインチキくささを感じるのは、そういう「美」の根拠が属人化しているのに、社会的に合意されているかのように誤魔化していることだ。「こういう基準で美しい」という言い方じゃなくちゃ、無意味なのに。「歴史的な用法に則っている美しい言葉」「現代人の多くに共通して機能的だから美しい言葉」とか、「激しく感情を揺さぶる美しい景観」「地域の昔からの印象に共通している美しい景観」じゃないと意味をなさないだろう。
 ましてや「美しい国」なんて、よほどの低能でなければ、恥ずかしくて言えない言葉だ。「美という字の成立を考えるに、犠牲が大きいから美しい」とか言わないと。

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