2008.07.06
2008.05.31
ヨコハマメリー
歌舞伎のヒーロー、江戸では花川戸の助六、上方では大星由良の助らしい。助六はカッコイイ。一方、由良の助は目的のためにカッコワルク振る舞った。

で、歌舞伎とは関係ない映画の話である。とあるトコロで、ドキュメンタリー映画は素材にチカラがあれば、加工度を抑えた方がいいんじゃないか、という話の例に出したのが、この「ヨコハマメリー」だった。
このヨコハマメリー、つまりはスジを通すというか、プリンシプルというか、プライドを持って生きている人たちのドキュメントだった。プライドというと、そういうタイトルの映画もあったが、そちらは「現実」によって虚飾が剥がされながらも、まだ体面を取り繕う老人の滑稽さを描いた「笑える」映画であった。この「ヨコハマメリー」というのは「体面を取り繕う」プライドではなく「自身の原則を通す」というプライドの話。
この「ヨコハマメリー」さん、一種異様な外面であっても、それは彼女の原則を貫いていたからであり、「施し」を拒否し続けてきた人だ。話の進行役の歌手さんも、彼自身の原則に従っている。そういうエライ人じゃないけど、むしろ「世間」とやらいうものには蔑視されているんだろうけど、自身の原則に恥じることのない人の話だ。
チョイ役で大野慶人さんが出ていたが、今でこそ「横浜市の近年で最も偉大なアーティスト」の息子さんなのだが、その父も活動を始めた当初には異様にしか見られなかっただろう。そして、メリーさんに感動し、舞台化した女優が出てきたけれど、タレントではなく、女優としての原則を通そうとしてるのかと思う。
こういったピュアなプライドを持った人たちには、素直に感動してしまう。でも、なかなか、自分が実践できるかというと、そうはいかないもんなのよ。それで、素直に自分のダメさに反省せずに、もっと醜いのを探して憎んでしまうのがせいいっぱい。例えば、ひたすら体面を取り繕ってるような人、どこの都道府県か言わないけれど、まさに弱い犬ほどよく吠えるを実践しているような都知事の類だ。自分が半端なバカだからとわかっていても、卒業しようとするよりも、もっとバカを憎んで満足するようなものだ。
せめて、こういう映画で、ピュアなプライドに感動できたことだけでも喜びたい。
2007.07.23
クリムト

臨終のクリムトが回想した過去という体裁になっている。だから、現実か妄想かは曖昧。それにドラマが描かれているわけではない。エピソードを重ねて、クリムトが見た世界を描いたという作り。
そういう話だから、どうしてもクリムトの絵に対する印象が、この話を受け止める前提になってしまう。それに、この映画を見ようとする人は、クリムトが何者か知らないということはないだろう。
となると私の場合、クリムトの絵は好きじゃない。「好きじゃない」というのは「嫌い」の婉曲表現の場合もあるが、そうじゃない。画像を見ても実物を見に行きたいとか、買いたいと思わなかったということだ。その理由は「うるさい」のだ。饒舌な描写というのは好きなのだが、饒舌というより、ノイズが多いという印象だ。
映画では、美のあるべき姿についての論争シーンがあって、クリムトがパリでは高く評価されながら、ウィーンではスキャンダラスに扱われるという展開になる。そういったクリムトの外の世界と、おそらくは内の世界だろうが、彼が惹かれる「レア」という女性と、彼のある部分を代弁するような役人の男が出てくる。
今日では、美のあるべき姿なんてひとつじゃないと簡単に言ってしまえるわけである。けれども、美は乱調にあり、というのは古い言葉かも知れないが、この言葉がインパクトを持つのは、美には一種の「秩序」があると考えられがちだからだ。
クリムトの当時には、その「秩序」の権威として、アカデミズムがあった。それから「分離」しようとした、ウィーン・ゼセッションの中心がクリムトだったわけである。そして、その後に、多様な「秩序」が産まれ、「秩序」がないという「秩序」も含めて、映画が作られた今日では、その「秩序」は属人化しているわけである。
「美」が社会的な秩序であった時代を終わらせようとした画家の話を、その結果「美」が属人化した時代に映画にしているということになる。
この映画で出てくる琳派の手法や五つ紋の着物というのは、私にとっては、というか多少とも日本文化への知識があれば、ある体系で意味を持った要素であり部分であると認識する。ところが、この映画のシーンでは、その体系から切り離されて使われている。全体として表現されている世界と、表現するための要素や手法の部分に整合がないのは、本来は気持ちが悪い一方で、完全な整合にはないトキメキを感じることができるわけである。今日的な「秩序」で作られている映画では、むしろトキメキだろう。一方で、クリムトに感じるノイズというのは、このような切り離されてしまった体系だと思う。だから、クリムトの絵じゃなくて、それを素直に見られない私の方にノイズがあるとも言える。
たぶん、それまでの「秩序」から分離したクリムトは、代わりうる「秩序」を求めたはずだ、けれども、違う「秩序」からの部分は導入しているけど、全体としての新しい「秩序」が見えない、こういうクリムトの絵への個人的な印象がある。
だから、この映画の「レア」を、彼の新しい「秩序」と見てしまい、目指すべきところが、リアルでない幻であって、途上で迷子になってしまった画家の物語として見てしまう。
そういう、自由な見方ができるというか、好きな解釈ができるというのが、この映画のいいところかも知れない。
映画の中の「美」論議に誘発されての全くの付け足しになるが、自然の「美」というのは、ひとつには、その中で暮らしている馴れもあるんだろうが、それだけではなく、初めて見た景色にも美しいと感じるように、自身もそうである自然法則というものが、見えない「秩序」として背景にあると見ることができる。
ところが、庭園ということになると、幾何学的な「秩序」に再構築するような方向も、自然の「秩序」の縮小化を目指す方向もあるように、人が考える「秩序」はいろいろだ。
たまたま、今、テレビで宇高志保さんが写っているけど、入隊前の方がバロック以前の芸術家には美しいと思われるだろうけど、たぶんCMの制作者はバロック以前の芸術家と違う「秩序」で判断してCMを作ったんだろう。そして、見ている中には、また全く別の「秩序」、例えば想像される密着感なんかで、入隊前の方が絶対に美しいと思う人がたくさんいたりする。これも、美を規定する「秩序」の属人化なんだろうね。
さらには、この映画で「美」と訳されている言葉と、このblogで「美」と表現している言葉、昔の中国人が作った際の「美」の字の意味も違う概念かも知れない。
「美」の字は生け贄を意味する「羊」と「大」から成るわけだけど、「大きい生け贄」は、それが可能な豊かさか、それを献げる気持ちの強さか、どちらのモノサシで「美」なんだろうか。
ともかくも、「美」の基準をアカデミズムが決めてくれた時代は100年以上前に終わっちゃったし、さらには文化によって、基準となる「秩序」やモノサシは違うし、今じゃ、人によって違う。
以前にも、少し触れたが、「美しい景観」や「美しい言葉」という言葉にインチキくささを感じるのは、そういう「美」の根拠が属人化しているのに、社会的に合意されているかのように誤魔化していることだ。「こういう基準で美しい」という言い方じゃなくちゃ、無意味なのに。「歴史的な用法に則っている美しい言葉」「現代人の多くに共通して機能的だから美しい言葉」とか、「激しく感情を揺さぶる美しい景観」「地域の昔からの印象に共通している美しい景観」じゃないと意味をなさないだろう。
ましてや「美しい国」なんて、よほどの低能でなければ、恥ずかしくて言えない言葉だ。「美という字の成立を考えるに、犠牲が大きいから美しい」とか言わないと。
2007.07.13
ホテル・ルワンダ
前エントリーの映画の出来はお粗末だが、その題材となった収容所に関して、思ったことのひとつが「巡礼」ということ。件の捕虜収容所が四国巡礼1番の地にあったこと、そのため、地域の人たちが「よそ者」を遇する文化を持っていたこと、このことが物語の背景にあったんだろうと思った。もちろん、あの映画で、既存のの宗教文化を良く描くことができなかったであろうことは、前のエントリーで書いたような事情だろう。
もうひとつ、この話の頃には、捕虜へのルールを日本軍も守ったわけであるが、この後、20年もすると捕虜は殺す、というか捕虜にしないように殺すようになり、あげくは「ひゃっく人、斬れるかなぁ」競争が自慢話になってしまうのはなぜだろうということだ。
その背景は、おそらくは「戦争」の国民化ということだろう。そもそも「戦争」というのは「軍」がするもので、軍に属していない一般人は日和見を決め込み、帰趨がわかった所で落ち武者狩りをするなり、勝者にゴマをするものだった。ところが「近代」というのはそれを許さなくなった。戦争が、軍対軍から国対国、つまりは総動員体制の戦争になるわけである。
軍と軍が戦争をしていた時代には、武士道はどうだったか知らないが、騎士道というか、プロの戦士であることには独自の帰属意識があったようで、同じ地域の民衆よりも、違う地域でも「戦士」という階層にあることや、戦士としての文化を持つことに、より共感を持つことがあったように思う。プロの職業人にはよくあることだ。
でも、国と国との戦争になり、普通の人が動員されるようになると、もはやプロの職業意識はなくなってしまう。兵であろうが民間人であろうが「敵国」の人間は敵であり、殺さなければならないし、殺されてしまうという恐怖心を植え付ける必要があるわけだ。
民間人と軍人が異質な人間であるという文化から、「敵」の集団に属する人間全てが、全て異質な人間ということになってしまうわけである。これが「近代」の、民衆参加による戦争なんだろう。
ということを考えていて、以前に見て、何か書いておきたいものの、どう書いていいのかまとまらず、放置中の映画の感想を書くことにした。その意味で、前エントリーにあげたDVDを見たのも無駄な時間ではなかったわけである。
「ホテル・ルワンダ」は、良くできた「集団脱出ドラマ」だった。「ポセイドン・アドベンチャー」や「ジュラシック・パーク」なんかと同じく、危機的な状況から、リーダーに率いられた一団が脱出に成功するという話である。
その危機的状況というのが、「民族」間の内線なのだが、この話の場合、その「民族」が、植民地支配の都合で、近代に作られた概念なのである。というか、作られたものだということが、話の中で語られる。そして、もともと存在したのかもわからない「民族」の異質さを煽るラジオ放送が、危機を演出しているわけである。
一方、リーダーはというと、如才のなさでホテルの副支配人になったという感じの普通のおじさんだ。その如才のなさと家族を守るという動機で、なりゆきで脱出のリーダーになってしまうわけである。
この映画だったか、観終わったあとに 「その後のルワンダはどうなのですか?」と外務省に思わず電話をしてしまったおばさんがいるらしいが、私の場合は、サベナ航空に電話をしたくなった。どこかに行く予定はないが、この航空会社を使わなきゃと思ったわけである。というのもサベナ航空がこのホテルの経営母体であり、脱出劇に少なからず貢献しているからであり、それ以上に、主人公の副支配人の文化的背景としても大きな要素だからだ。つまり「ホテル」という文化だ。
「ホテル」文化というのは、中世の巡礼者に対し、休息と安全を提供するという多分に宗教的な背景を持った施設が起源となった文化だ。同じ語源を持つ「ホスピタル」とともに、単なるショーバイでない文化的背景を持っているわけである。だから「他の建物が潰れる地震が来ても潰れない」というのがホテルや病院の文化であって、「耐震基準が変わる前の建物が潰れるくらいの地震なら、潰れたってばれないから、その程度にしておけ」というのは、ホテルの文化ではないわけである。
舞台となったホテルでは、主人公が現地スタッフのトップである。それだけに、表面的な「如才のなさ」よりも、むしろ、ホテルの文化的伝統に大きな帰属意識を持ち、そのことに誇りを持っているんだろう。だからこそ、本社への支援要請の論理として使っているわけであり、本社もそれに応えるわけである。
ルワンダの内戦の原因というのはよく知らないし、映画でも突っ込んでいない、ただ「近代」に作られた人為的な「異質」さを強調し、相手の「集団」は異質な人間、いや人間じゃないと煽ることで「危機」が作られている。戦争の民衆化という、極めて近代的なあり方の極端な姿に描かれている。
そして、ありふれたようなおじさんが、彼の個人的な属性、つまり原始時代からの血族という単位や、中世以来の伝統を持つ職業文化への帰属意識、そして、彼個人の才能によって脱出に成功するという話である。
私は、集団間の異質さを強調する言説は嫌いだ。リアリティを伴う人間関係や専門能力を背景にした職業的モラルという個人のものは尊重したいと思っているためか、このホテル・ルワンダをこういうふうに見てしまうわけである。だから、この映画に描かれた恐怖というのは、「個人」を無視し、ひとつの蓋然性による「集団」として扱うことによって、簡単に起こりうることだと感じるわけである。それが「虐殺」という形にならないまでもだ。
なお、電話したいと思ったサベナ航空は倒産してしまって今はない。WTCへのカミカゼアタックの影響による航空需要の落ち込みで経営難に陥ったからだ。
2007.07.12
バルトの楽園

「バ○ト」なら好物なんだけど、バルトはどうでもいい、むしろ、原作本が潮出版社で、製作にシナノ企画が入っているとくれば「○ルトの楽園」かもしれないと敬遠していた作品だ。
ところが、プロデューサーが冨永理生子だ。「千年の恋・ひかる源氏物語」「北京原人うぱー」「デビルマン」の「東映三大コメディ」のプロデューサーだ。そういえば、この映画、やたら金をかけたわりに話題にもならなかったし。それで、ひょっとしたら、おバカ映画になってるかも、違う意味での「○ルトムービー」かもしれないと思って観たのだが。
徳島の現在の○ルト市が舞台である。その映画で徳島語のネイティブ・スピーカーの板東英二が九州弁を喋ってるという不思議なキャスティングの導入部分では、やっぱりと期待を持たせる。ところがである、全く笑えないまま、ラストの第九の演奏シーンに来てしまう。かといって、感動作でもない。共感もなく、盛り上がりもないまま、ベタなストーリーをこなしているだけという感じ。
個人的には、会津から下北に来た人たちが、雪景色に呆然とするシーンにちょっと笑った。というのも、下北よりも会津の方が雪が深い印象があるからだ。夏のヤマセでは絵にならないんだろうし、たまたま、私が行った冬がそうだったに過ぎないのかも知れないし、幕末あたりじゃ気候も違ったんだろうと思うことにした。
でも、エンドロールを見ると会津でロケしているようなのだが、そんなシーンがない。それで後で調べたら、下北のシーンは会津で撮影したそうで、これなんぞは、隠されたギャグを発見した気分になって、さらに笑わせてもらった。
これは特殊な例で、それまでにメリハリがないので、クライマックスのはずの第9演奏シーンも盛り上がらない。何しろ演奏会のホストのトップのドイツの総督もゲストのトップのマツケン収容所長も演奏途中の会場から立ち去るくらいだし。それで中座したマツケンが鏡を見ると父の顔という、必然性の全くない行動の上のベタな表現は、見ていても恥ずかしい。
ドイツと会津の光景と被らせるという「砂の器」の劣化コピーのような演奏会が終わると、マツケンと総督が石庭の前に座ってるという不思議なシーンがあって、なぜかカラヤン指揮のだとか、「年末恒例」みたいなのだとか、余計としか思えない第9演奏がついていてエンドロールと、結局、ラストになってハチャメチャになる。
クライマックスの演奏シーンからそのまま、エンドロールで終わらせたっていいのに、うまい表現法がなくて積み残したシーンを無理矢理納めるために、第9を繰り返しただけという感じ。
結局、中途半端に破綻してるという感じで、破綻の「向こう側」に突き抜けた「東映3大コメディ」の域には及ばない。○ルト系企業が絡んだといって○ルトムービーにはならないようだ。
2007.06.14
小説吉田学校

森繁ヒサヤ演ずるぢ由党総裁・吉田茂ほか、ぢつ在のぢん物がぢつ名で出てくる。「小説」というからにはフィクションだろうし、「巨人の星」や「あぶさん」にぢっ際の選手が、タイガーマスクに馬場や猪木が出てくるようなものか。でも、あぶさんやタイガーマスクに相当する架空の人は出てこないので、退屈なのは否めない。
けれども、話の本筋とは全く別のトコで笑いドコロがある。何しろ、ファーストシーンに出てくるのが夏目雅子、で、ローゼン閣下の母上だそうだ。その息子らしき少年も後でチョイ役で出てくる。
前半はサンフランシスコ講和条約前の話で、池田勇人の出番が多い。その補佐役の宮沢喜一もよく出てくるのだが角野卓造。宮沢喜一と近藤春菜とは意外。1983年制作ということからか、ついでにワンシーンだけ安倍晋太郎と竹下登も出てくる。安倍晋太郎はまだ新聞記者で、その通夜でTVゲームをしていたというバカ息子はまだ産まれておらず、出ても来ない。
後半は、出入りのないヤクザ映画風。身体を悪くした親分が芦田信介で、鳩山由紀夫の祖父さん。でも組を仕切っているのは若山富三郎。武闘派の若頭が梅宮辰夫、そのアンナパパが演じているのは河野洋平パパ。
実在の人物と言っても、過去の人なので、特に印象があるわけじゃなく、結局、そのジュニアを連想してしまって、笑ってしまうのだ。
なお、芝居自体は、若山富三郎だとか藤岡琢也のように、ジュニアが政界にいない人の役の方がいい。
ところで「吉田学校」って、「吉田school」の意図的な誤訳なんだろうか。
2007.05.12
青い門/파란 대문

韓国映画はほとんど見ないのだが、キム・ギドク(김기덕)監督は2作ほど見て気に入った。それで、そういや、これは見ていないというので見たのだが「普通にいい」という感じだった。
「普通にいい」場合、ほとんど感想を書かない。つまり、当たり前に、ちゃんと作ってあり、それを当たり前に受け止めたわけであるから、書くことがないのだ。
今までに見た「悪い男/나쁜 남자」や「島/섬」だと、「淡い色を重ねていって独自の絵を描く」作業を見ているような感覚、どんな絵が出来るんだろうかという期待感を持ちながら見られた。それだけにラストで「さらに輪郭線を入れる」ようなくどさがあって、もっと自由に解釈できる余地を残してくれればいいのに、と思った。
その前に作っているこの映画だと、部分として「淡い色を重ねていく」感はあるのだけど、全体としては、アタリマエっぽい物語。もちろんアタリマエというのは、リアリティということではなく「物語」としては「あるある」感覚だ。もっとも、この映画より後に作られた「下妻物語」や「かえるのうた」と、同じく相容れなかった女2人に友情が成立していく物語を先に見ているので、アタリマエ感が強いのかも知れない。
作りも「真っ当」で、金魚で気分を象徴するというベタが効果的。舞台となった民宿の名前が「鳥籠」だそうで、これは後で知った。日本語字幕が出なかったのだ。かえって、それが、ワンポイントで金魚を使っているのを引き立てた感じがする。
主人公の女2人以外は、かなり「装置的」な単純なキャラクターを基本にしつつ、もう一面というのを、どこかで見せる。それが、この作品での「淡い色を重ねていく」感の大きな要因になってる。
民宿の娘の撮り方なのか演技なのか、前半とラストで全く、見た目の印象までが変わってしまうあたりが、「一見、シアワセ」という閉塞感を表現していていい。
なお「悪い女」という日本語タイトルのオマケは、内容には全く無関係。
2007.05.11
存在の耐えられない軽さ

私はあまり本を読まない方だと思う。通勤電車で本を読む人とかに比べたら、かなり少ない。それで、この本の原作も実は読んでいない。「あれだけ有名な小説だから読んでて当然」という偏見を持たれても困るので。
それでもタイトルくらいは聞いたことがあり、「耐えられない軽さ」というのは不思議だと思っていた。「耐えられない重さ」ならわかる。スーパーで買い物をした時、卵を袋の一番下に入れたりはしない。他の品物が卵の「耐えられない重さ」なら潰れるからだ。重いものを運ぶトラックにはタイヤがたくさんついている。ひとつのタイヤに道路の「耐えられない重さ」が集中しないよう分散している。三菱ふそうのトラックだと、そのタイヤが外れて人にぶつかったりしたわけで、そのタイヤが「耐えられない重さ」だったわけで死んだ人がいるわけである。建物の構造の話だと、アパ・グループは、建物のヨコ方向に「耐えられない重さ」を誤魔化したわけだ。
かくのごとく、普通には、耐えられないかどうかが問題なのは軽さじゃなく、重さである。軽さに耐えられないというのは、たわむれに母を背負った石川啄木くらいしか思いあたらない。
さて、映画のハナシであるが、1960年代末のチェコスロバキアの話だ。男性外科医と女性画家が出てくる。この2人はお友達どうしであるから、お互いに相手を尊重している。だから相手に「耐えられない重さ」を感じさせないよう配慮して、おつきあいしているわけである。もちろん、この場合の重さを与えないというのは、上になるか下になるかという話ではなく、精神的な自由度を保障するという意味だ。と言っても、ご両人はそれなりに重い人なのである。といっても太っているわけではなくて、精神的に動かし難い所を備えているという意味だ。
さて、この外科医が田舎に行った際に知り合った女性がいて、彼の所に転がり込む。ところが、この田舎娘は、自分にとって自分が重いから、他人にも重く扱って欲しいというワガママ娘なのである。田舎娘は軽さに耐えられなかったが、外科医は田舎娘の重さに耐えられたという話である。
「愛があれば重さに耐えられる」とか、「human beingなんて雨が降ったら消えちゃう軽さ」だとか、そういうキョークンめいたことを感じ人もいるんだろうし、それもアリとは思うけど、何よりも「長くて退屈な話」を淡々と描きながらも、飽きさせずにワクワクして見せてくれるのが好きだ。なんでだろうね。たぶん「軽い」からだと思う。チェコ事件後の閉塞的な状況の中での話だけど、逃げることの出来る人の話だし、画家は外国に逃れ、外科医は田舎に逃れてシアワセそうに見える。決して「軽さ」を失わない2人を描いているからだろう。
画家の描き方で象徴的に出てくるのが、重さの帽子と軽さの鏡。こういうベタも安心して映画に浸るのに効果的。
重い話を軽く見せるというのも、考えてみりゃ大変なことだと思うけど、それに成功していると思う。
2007.04.18
エイリアンvsヴァネッサ・パラディ

「vsモノ」である。「エイリアン」はともかくも、「ヴァネッサ・パラディ」というのは、出演している歌手の名前だ。映画の中では「コンチャ」という役名もついてるのに、不思議な日本語タイトルを付けたものだ。原題は「Atomik Circus」なのだが、いわば「フラガール」に「閉山vsしずちゃん」というタイトルを付けるようなもん、でもないか。
こういうタイトルを付けられたというのも、このヴァネッサ・パラディに興味がある人くらいしか観ないだろうと思われたのか。というのも、やっぱりバカ映画の部類に入ると思う。でも、面白いと思うのだが。
とにかく、イイカゲンというかテキトーな展開なのだ。全体からストーリーが構成されているという感じではないし、エイリアンが出てくること自体が唐突。そのノーテンキさがかえって面白い。そもそも、ヨーロッパの映画で何でメキシコが舞台なんだろう。田舎の田舎という意味なんだろうけど、ヨーロッパ人が見たアメリカのバカっぽさみたいな感じも面白い。
それに、このテキトーさや、ヘンとしか言いようがない部分、そして、ちっとも「落ち」になってないラスト、それは、狙ってやってると思うし、狙いどおりに、心地いい脱力映画になっている。
2007.04.12
ヤクザvsマフィア

今から2年ほど前に、某blogで話題になったのでタイトルだけは覚えていた。それが、たまたま、レンタル屋にあった、というか以前からあったのだろうけど、立ち寄ることのない所だったのが、たまたま気付いた。それで「ロード・オブ・ザ・リング」からも数年経っているし、ホトボリも醒めてるし、今なら借りても「羞恥プレィ」にもならないかと借りてみた。
意外だったのは、これって1993年作だったこと。つまり、2年前に「ロード・オブ・ザ・リング」で、ヴィゴ・モーテンセンのファンになったうら若き女性がこのDVDを買うのは「羞恥プレィ」かよ、とか話題にされていたが、せっかくブレイクしたのに、10年前の出演作を発掘されて話題にされたヴィゴ・モーテンセンにとっても「羞恥プレィ」だったのかも知れない。
ちなみに原題は「AMERICAN YAKUZA」。これなら、かえって「ヤクザvsマフィア」の方がバカっぽくて羞恥度が低いかもしれない。でも、東映の映画なのに原題があるってことは、マジメに海外で売ろうとしたってことなんだろうか。
そして内容はというと、東映ヤクザ映画のパロディでけっこう笑える。作った人は「パロディ」という意識はないんだろうけど、様式というかお約束の世界で成立しているハナシを違う環境で展開すると、こんなに素敵なおバカ映画になるのか、という感じ。
日本からのヤクザが、親分や身内を殺され、復讐に単身マフィアになぐりこみをかけようとするところに、やって来たヴィゴ。「お供させていただきやす」とも「旅の仲間に」とも言わないが、目と目で会話。お馴染みのシーンだけど、BGMに「兄弟仁義」も「唐獅子牡丹」も流れないのが、かえって笑える。
ラストシーンは、そのヴィゴが、日本からのヤクザをお姫様だっこして、階段を降りてくる。腐女子ならずとも感激すると思う。
ルー・サロメ 善悪の彼岸

19センチュリーに実在したルーさんをモデルにした1977年のムービー。アットザットタイムに見たのなら、とてもフェバリットだったと思う。But、今、見ると陳腐で冗長なインプレッションをアクセプトしてしまう。そのティピカルなシーンが「神と悪魔のダンス」。オツムのネジが緩みかけたオヤジが見ている「幻想」ということなんだけども、「よくある」というか「もう飽きた」と言ったフィーリングのモダンバレエを延々とショーするなよとアイシンクするわけよ。でも、30イヤーの間にそうなっただけで、おそらく、プロダクト当時は「ありきたり」じゃなかったはずだ。ムービーにとってかなりインポータントな「頽廃」をイメージ化したシーンも、そういうインプレッションなのだ。
たぶん、この「色褪せよう」は、それだけ、このムービーがグレィトということなんだろう。後のイメージを先取りしてしまったがために、30年後には「ありきたり」になってしまい、フレッシュさが失われてしまったわけである。
このムービー、最近になって「ノーカット」でリバイバル上演され、DVD化もされたものだ。ということは、ジャパンでは、かつてはカットして上演したということだろう。どこがカットされたか予測がつく。
カレントでは「冗長でありきたり」だが、アットザットタイムとしては「ショッキング」なシーンだとシンクする。つまり、ジャパンでは、アットザットタイム、わざわざつまらなくして上演し、つまらなくなってからオールを公開したということなんだろう。
2007.02.25
フロッグマン

疲労時には、みつをよりもアルバトロスのおバカ映画が効く。フロッグマンといっても、水中工事の人でも、古墳少女コフィーちゃんでもない。薬品工場がこっそり投棄した化学物質によって遺伝子が異常に変化し、形態変異を起こした水棲生物である。
日本版の予告編では、スパイダーマン、バットマン、Xメンに並べていて、ジャケ写真はそういう系だけど、ちょっと違うぞ。かなりおバカ、ちょっとエロなモンスターパニック。
特典映像に、フロッグマンのダンスも収録されているので、作った方もバカ映画のつもりで作ってる。
いきなりレズの絡みシーン。一方は、環境保護庁の人、水棲生物の奇形が発生しているということで調査に来ているのだが、原因は地元の肥料工場。そして、車の前にヘコヘコ歩く「フロッグマン」に驚いて事故を起こす。フロッグマンは化学薬品の影響で遺伝子が変化し、異常に進化したもので、何と人間の遺伝子構造と対になるような構造と「XY」染色体を持つという、ようわからん生物。というのも、人類の女性を襲う理由のためのコジツケっぽい。
それで、邪魔する男性や、枯れた女性を犠牲にしつつ、肥料工場の社長の娘や、女子学園の寮を襲うわけである。作りは、モンスター・ホラーっぽいのだが、フロッグマンの造形や無理矢理感で、どうにもおバカ。
ネタばらしになるが、フロッグマンは、誕生の原因となり、娘を襲われた肥料工場の社長に射殺されるわけだが、ラストシーンはその娘の出産シーン。父を祖父に殺されるというフロッグマン2世で、続編も作れそうだ。
2007.02.22
近頃なぜかチャールストン

1981年の作品だけど、始まると、とてもそうは思えない。モノクロだからというだけじゃなくて、何というか「戦後」テイストなのだ。高度成長とバブルの谷間の時期の映画とはとても思えない。たぶん、それが狙いなんだろうと思うし、時代設定を曖昧にすることで、かえって、今、見ても新鮮なんだと思う。
内容は、暑さのせいで、はたして本当にその気があったのか疑問だけど、婦女暴行未遂をやってしまった不良少年と、無銭飲食の老人の一団が留置所で出合い、その後に奇妙な共同生活を送るというもの。それに定年間近の刑事がからむ。この面々が脱力感いっぱいなのに「キャラが立って」躍動的。こういう、ちょいワルというよりも、ちょいダメ連中の抵抗と反攻を描いているのだが、展開のテンポはすごくいいのに、何かぬるーい感じがして、脱力感がいっぱい。こういう雰囲気の映画は好きだ。
不良少年の家の女中・タミ子役の古館ゆきも、美人でもなく、スタイルももひとつなのに、妙に抜けていて、とても魅力的。
ALWAYS 三丁目の夕日

普通に「よかった」映画については書きにくい。なぜ「よかった」か、作った方の狙い通りに受け止められたからで、わざわざ書くこともないことが多いから。
一昨年の日本映画で最も人気の高かった「ALWAYS 三丁目の夕日」も、普通に「よかった」映画で、感想が書きにくい。ひとつには、褒めるのが口惜しい、という気も少しする。
何しろ、ベタベタだし、予定調和の世界で意外性はないし、とにかく「アタリマエ」すぎるのだ。そのアタリマエにだけど、ひたすら丁寧に作ってあるという感じなのだ。
ひょっとして、これを作った人は、自分の能力をあまりに過小評価してるんじゃないかなと思った。なので、出来ると思ったことを、とにかく、きちんと作ったんじゃないかと思わせる。
だから、コミック原作という映画ということでは、比較するのも失礼かもしれないが、あの「キャシャーン」の正反対の印象を受ける。「キャシャーン」が「勘違いしてる」人のオナニーを見せられた印象に対して、こちらは、そこそこの美人が「私ってブスだから、その分、誠意とテクニックで頑張るから、嫌わないでね」という感じなのだ。だから、あまりに好評なのも気にくわない。
内容としては、原作と同様に「どこか別の世界」を描いたわけである。「別の世界」を創造するため、「この世界」との関係や現実感を持たせるため、近過去という設定を使うのが、原作同様だが、「過去の世界」というわけではない。その「別の世界」の「コンセプト」は共通しているものの、登場人物は名前こそ同じであっても変えてあるし、エピソードも創作だ。
その「別の世界」の予定調和を、ただ肯定だけしてしまうのはアホみたいだけど、かと言って、否定するようなものでもない。結局、133分の間、どれだけ「別の世界」に浸れるかということになるのだけど、細部まで丁寧に作り上げられているので、気持ちよく浸れるわけである。
良かったんだけど、何か、これをイイと言うのは、あまりにアタリマエの感想で口惜しい。
ドリーマーズ

ベルナルド・ベルトルッチ監督作品。タイトルが「ドリーマーズ」というのだから、夢を見ている人の話だ。男女の双子の兄弟が見ている夢に、アメリカ人留学生が「割り込んでくる」という話。
観ている夢は3種類。ひとつはフィクションという夢。この3人は映画ファンというかマニアというか、映画のシーンを再現しては作品を当てあうというゲームに興じている。別世界の夢。もうひとつの夢は、現実になってはいけない夢。双子の男女は性的な関係への夢を見ているが、現実にはしてはいけないし、ならない。実現できない禁忌だから夢でしかないのだけれども、夢への「寸止め」を楽しんでいる。さらに、もうひとつの夢が、社会への夢。それで1968年のパリの5月革命前夜が背景になっている。おそらく、社会への意識というものがありそうもない双子にとって「5月革命」というのは一種の「夢の実現」というだけのもの。
そして、割り込んで来た留学生というのは、現実の世界に生きる人。現実と離れた夢は夢として共有できる。現実化可能な性的な夢は現実化して共有してしまう。そして「5月革命」に対しては共有しない。
こうした、夢に生きる双子と、現実に生きる留学生の間での、夢をめぐる物語、と理屈で言えばなるんだろうけど、それが映画が留学生の視点で構成されているから、そう思うのだろう。たぶん、この双子には、別の物語が見えているんだろうなと思わせる。
「夢見ること」が「危うい」がゆえの美、を描いた映画のように感じられる。絵面もきれい。
妖怪大戦争

林家三平の父親の方の林家正蔵は生で見たことがない。けれども「妖怪百物語」という映画で怪談噺を演じているのをDVDで見て、こういう人だったのかと思った。レッツゴー正児の兄のルーキー新一が出ていた。藤巻潤が主人公だったが、月代がどうだったか覚えていない。
この「妖怪百物語」の続編が「妖怪大戦争」で、こちらも中身はどうってことはないのだが、若井はんじ・けんじが門番役で出ていたのを覚えている。バビロンから飛んで来た妖怪に憑かれたというか乗っとられた代官役が神田隆だった。
なので、このリメイク版の「妖怪大戦争」の主役を「神田隆之介」と思いこんでいたが、チェックしてみたら神木だった。劇場ではなく、DVDが出てすぐ見たのだが、もひとつ「中途半端」な感じがして、何も書かないでいた。
「中途半端」というのは、惜しいなぁ、という感覚だ。「渾身の脱力作」になりきれていない惜しさなのだ。確かに「大戦争」と言いつつ、ぬるーい感覚というか、脱力作を作ろうという意欲はひしひしと伝わる。その「ひしひし」が伝わることが、もひとつ脱力感に欠ける理由だろうか。スネコスリというのも半端な存在。
ダイナソー・ファイター
だいたいタイトルが「ダイナソー・ファイター」で、副題が「カンフーVS.巨大恐竜」で、これは絶対にバカ映画だと誰でもが思うわけで、つい観てしまった。それで、期待通りというか、期待さえも肩すかしを食わされるバカらしさ。
DVDは2005年に発売されたそうだ。とっても21世紀のものとは思えないので、調べてみたら、1997年の製作だそうで、日本未公開。それでも、この時代になって、あえて、こういう映画が作られたのは奇跡だと思う。
製作されて8年も、日本で公開もされてないのに、なぜに吹替までして、売ることになったのか。デビルマン効果だろうか。というのも、テイストはたまらなく「東映特撮」っぽい。世界制服が幼稚園バスの乗っ取りに、悪魔対人類の壮大な戦いが茨城のショッピングモールに展開されるようなもんで、背景というか設定の大きさと内容のチープさのギャップが半端じゃない。「人類の存亡をかけた壮絶の肉弾」だそうだけど、主人公は段ボール箱と思うほど、とにかくやたらと段ボール箱が積まれた中でのシーンが多い。
サイボーグが支配する未来、人類は道具として使われていた。そこから現代のアメリカに男が逃げてくる。逃げた男を追跡・抹殺するため、サイボーグは狂暴な肉食恐竜を大量に過去から送り込む。その肉食恐竜の「存在感」というか脱力感は素晴らしい。各サイズあるけど数匹なのが残念。
恐竜が現れ、街はパニックに陥ったらしいが、皆さん、普通に生活してます。人類の未来を守ろうと、男は唯一の武器であるカンフーで戦いを挑むわけだけど、街の人たちは「パニックに陥った」ことさえ知らないわけで、列車に乗って逃げ出したはずが、なぜか戻ってきた主人公と見習い尼さんは、数人のお友達と戦うことになる。
ちなみに、カンフーなのかよくわからないけど、格闘する相手は、ほとんど動かない恐竜よりもサイボーグ。貧相なプレデターにボーグの眼が付いてる感じ。一人しか出てこないけど。
ともかくも、実写版デビルマンをおもしろがれる人は、見て損はない。原題は「FUTURE WAR」。このタイトルで売ってちゃ、観る機会もなかっただろうけど。
ダ・ヴィンチ・コード

しばらく、映画・DVDの感想を書いてないので、溜まってるメモを消化。
見る前に、キリスト教の教義をめぐってのミステリーということで、「薔薇の名前」みたな雰囲気なのかと思っていたし、変死体を操作する刑事役でジャン・レノが出てきた所で、「クリムゾン・リバー」みたいな雰囲気かとも思ったが、結局、もっとお気楽な映画。アクションのないインディジョーンズという感じ。原作、読んでないのかと言われれば、その通り。
だから、次々と新しい展開に移るリズムも心地いいし、伝説というか偽史を前提にしていながら、主人公がトムハンクスで、あまりカッコヨクないというところで、荒唐無稽さを防いでいる。ミステリーの謎解きも、中世史を背景としていながらも、それは単なる背景にすぎず、よーするに「秘密」をめぐる攻防の、対立構造ということなので、分かりやすい。
そういうことで、充分に楽しめるエンターティンメントなのだが、前宣伝というか、いろんなところでの言及が「歴史」に重きを置いているのが意外。
2007.02.16
ヴァンパイヤ侍
オープニング。着物というかキモノ姿の女性がニンジャから逃げている。胸元がユサユサ揺れるんで、つい注目してしまうが、左前だわ。そら縁起が悪いわと思ったら、やっぱり吸血鬼に襲われてしまう。一方、公園の休憩所みたいな所では、やたらとタイソウな甲冑を付けたおじさんが気張ってる。。。これだけで、この映画への期待は膨らむし、それを裏切らないバカらしさ。
で、ストーリーは配給元のサイトに出ているが、この「ひとつ、人の世を忍び。ふたつ、不死の力を授けられ。みっつ、未来の月となる。」というコピーのように、 完全にネタ映画扱い。
作った方も、たぶん、そういう気なんだろうと思う。
2006.11.25
かえるのうた

タイトルというか、ジャケットのかえるの着ぐるみが気になって、「一応チェック」みたいな気分で見たのだが、今年見たベストワンになるかも、という気持ちのいい作品だった。
どちらかと言えば、日常的な閉塞気味の世界を描いた作品なのだが、にもかかわらず湿っぽくなく、とても爽やかなコミカルさがある。65分というのが物足りない気もするが、だからこそ、淡々とした描き方でも、全く飽きないのだろう。
ハナシとしては、対照的な女性2人の友情と自立という「下妻物語」と似たようなファンタジーなのだが、雰囲気は全く違う。妙に過剰なリアリティと、その逸脱とのバランスがとても微妙。「こんなのあるある」みたいなところと、だからこそ、少しばかりの「ありえなさ」が劇的でもある。
主演の向夏が、オンナノコってこういうとこ「あるある」みたいなところの、少し過剰気味な表現を嫌味にならないように淡々と演じていて、フィクションの世界でのリアリティがよく出てるなと思う。リアルさって「現実的」「写実的」ということじゃなくて、現実をピュアに表現するこっとなんだぁと思って見ていた。女優顔でも、女優体型でもないのもいい。後でネットをチェックしてみたら、「シロート女性」としてモデルになった写真集があるらしい。そういうところも、感情移入がしやすいとこかと思う。
実際にカエルのリュックをいつも持っているとか、カエルの着ぐるみで街を歩く人もいないだろうし、読んでる漫画の続巻を、初対面の人に取り上げられて泣く人は、あまりいないと思う。でも、ちょっと変わったアイテムを常に持ち歩くことで、自分のアタリマエサから逃避しようとする人、そして、自分の部屋では思いきった格好は出来ても、外では出来ずにいて、それが出来ることに惹かれたり、そして、人前にダダをこねて相手を困らそうとする人とか、こういうとこあるコっていたなぁ、という生々しさ感が、妙におかしい。
そして、主演の2人以外は思い切って戯画化している。だから、ケンカする女2人やカエルの着ぐるみを無視するマンガ喫茶の客、フランスパンのチャンバラとか、そしてラストシーンとか「アリエネェ」のだが、主演の2人の描写が余計にリアルに思えて、日常的な世界であってもファンタジーになっている。
なお、劇中に使われているカエルの着ぐるみは、定価だと2万円ちょい。それをリサイクルショップで数千円で買うのが、ちょっとうらやましい。
2006.10.27
皇帝のいない八月

30年近く昔の映画で「カサンドラ・クロス」みたいな話。つまり、列車を使ったサスペンスで、背景はポリティックなものなのだが、あくまで背景にすぎないと割り切って、荒唐無稽な話に徹している。その分、最近の某国のイージスみたいに下手にリアリティを付けようとしてドツボにはまることもない。
自衛隊がクーデターを起こすという話なのだが、ストーリーに説得力がなさすぎるために、かえって、細かいとこは気にせずに、サスペンスとしておもしろがれる。
ファーストシーンは、軽い交通違反を起こしたトラックをパトカーが追いかけるのだが、トラックの中から機関銃で撃たれ、炎上する。この事件がきっかけでクーデター計画が発覚するというのが後でわかるのだが、そんな杜撰なクーデターはないやろというのは後で思うこと。気付いた頃には「そういう映画」という感じで楽しめているという作りで、徐々に荒唐無稽なストーリーの世界に引き込むのがうまい。
どうでもいいことだが、風景がそんなに古くさくないのに、墓参中の三国連太郎に連絡が来るあたりで「この時代にはケータイがなかったんだ」と思った。当時と今の日常生活の最大の差だろう。
さて、クーデター計画は失敗し、特急さくらをトレインジャックした渡瀬恒彦のグループだけが鎮圧されずに残る。この渡瀬恒彦のイカれっぷりが、今聞くと笑える。
山本圭との対決シーンで、クーデターに至った心情を演説するのだが、具体的な中身がなく、「日本固有の文化」や「美しい規律ある国」を作る、「日本を骨抜きにした憲法を改正する」とか、言葉に陶酔しているだけの当時の右翼を戯画化している。もちろん、ちゃんと噛まず、まともな発音で喋っている。
ともかくも、作られた当時よりも、今見る方が、ある意味、楽しめる。
2006.10.13
けっこう仮面 RETURNS

けっこう仮面の実写版というと青木クリスという感覚があったのだけど、2004年から4作、作られたようだ。当然、素材が素材だけにバカ映画である。もちろん、エロく作ることも出来るだろうけど、4作のうち3作を見るという暴挙を行ったのだが、どうしてもバカがエロに勝ってしまうようだ。
その3作のうち、最もバカなのがこの「returns」だ。けっこう仮面の出演シーンは少ないし、ギャグも少ない。ちゃんとベタなスポーツ・ドラマの体裁を取っている。そんなわけで、おバカ度は最も高い。スクール水着がやたらに出てくるので、その方面の愛好家向けとも思ったが、その中身はスクール水着ファンの嗜好とは多少ずれているかも知れない。この方面には詳しくないので識者のご意見にまかせたい。
けっこう仮面の未向は立派な乳をお持ちなのだが、アクションシーンで揺れないのもエロくない。脇役にかえるの着ぐるみの人が出ているのだが、けっこう仮面との絡みはない。
バカ映画ファンとしては見ておいても、けっこうと思う。




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