22/01/2012

大鹿村騒動記

大鹿村騒動記 昨年の夏に映画館でやってて観に行こうと思っていた。ところが結局行かずにDVDで観た。なぜ行かなかったか。市内の映画館で上映はしていたが、生活圏の中ではない。なので、実際の距離以上に心理的には遠い感覚があったこと。そして、上演中はいつでも観られるわけだから、まあ明日以降でもいいや、と思っているうちに上映が終わっていた。私が映画館に行くということがほとんどなくなったのは、徒歩圏内にあった映画館が閉鎖されて以来だ。
 ところが、生の舞台だと、上演日時を指定して前売り券を買わないと好条件で観られないわけで、明日にしようというわけにはいかない。そして、市内よりも大阪や東京の方が行った回数は多いし、それどころか秋田県や熊本県まで観に行ったこともあるわけで、より「容易に観られる」ことが、足が遠のく理由になっている。
 「容易に観られない」けれど観に行った舞台には、シロートさんの舞台だって含まれる。そのうちのひとつが大鹿歌舞伎で、関東の知人と前泊、後泊の行程で観に行ったことがある。それが、この映画を観ようと思った理由だ。
大鹿歌舞伎 さて、この映画で重要なのが大鹿歌舞伎だ。地芝居、村歌舞伎によくかかる芸題というのがある。例えば絵本太功記十段目(十日目)、これは武智光秀(明智光秀)が主役ではあるが、息子の十次郎、その妻初菊、妻の操、母の皐月、羽柴秀吉にあたる久吉そして、出番は少ないがその家臣、正清とそれぞれに見せ場があるし、床だって聞かせどころがある。つまり8人が気持ちよくなれる芝居だ。この映画で演じられるのは大鹿歌舞伎独自の演目で「六千両後日之文章重忠館の段」というもので、これも6人の主な出演者がそれぞれに見せ場があって気持ちよく演じられるという芝居だ。
 そして映画の方はと言えば、原田芳雄が主演ではあるが、主なキャストが、それぞれの俳優の味を思いっきり見せてくれる。話としては、ばかばかしくも予定調和なんだけど、気持ちよさそうな芝居が見ていて気持ちいい。ベテラン俳優だけでなく、性同一性障害の若い子の役をやった俳優だって存在感を示してくれてる。
 そして、個人的には、実際の大鹿歌舞伎からの出演者である片桐登さんの元気な姿が嬉しかった。大鹿歌舞伎の竹本で、この映画でも義太夫の弾き語りを演じていたが、大鹿村役場を教育長で退職し、大鹿歌舞伎保存会の会長を務め、大鹿歌舞伎の中心人物なんだけど、私が観に行った時も、忙しい中で本当にお世話になった。
 後泊というのは、歌舞伎の日の夜、片桐さんの紹介してくれた「元民宿」という一般家庭に泊めてもらったのだが、山の中に入っていく道で、こんな先に人家があるのかという家だった。そこでは、鱒だけは、村内の養殖場で買ってきたけど、後は自家製というご飯だった。そこの婆ちゃんが、爺ちゃんが採ってきたという蜂の子を「お口にあうかわからんけど食べてみるかに」と薦めてくれて、蜂の子の旨さを知った。
 私にとって、大鹿村というのは、今でも強烈な印象が残る非日常体験だったわけで、この映画の「ありえなさ」は、むしろリアリティなのだ。
 そんなわけで、私としては高評価なんだけど、誰でもそうかとは言い難い。でも「亡国のイージス」のような、意図しないバカ映画ではないと思うよ。

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22/11/2009

パソコンでDVDを見るための551nhサラウドン・システム

 パソコンでDVDを見ていると、次々に見て時間がたって、お腹がへってしまうということがある。で、何か食べながら見ようとしても、ラーメンとかだとキーボードに、ノートパソコンならその下の本体に、汁をこぼしてしまうなどという危険性もある。それで思い当たったのが皿うどんだ。これなら麺は乾いているし、汁もとろみがあって飛散しにくい。けれども皿うどんというのは食べる直前に麺に具を載せないといけないし、テイクアウトもない。それで皿うどんの麺を買ったのだが、その具を作るのもいささか面倒だ。
サラウドン・システム さて、今日デパ地下を通ったら蓬莱でテイクアウトの八宝菜を売っていた。それを麺にかければ皿うどんになるのである。
 問題は、蓬莱に寄ったのなら、皿うどんにせんでも豚まんでええがなと言われたら、反論できないくらいだ。

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07/04/2009

ヤッターマン

ヤッターマン 平日の昼間からラブホテルに隣接した映画館のさらに道路を挟んだ隣の映画館でヤッターマンを見てきた。
 本格的バカ映画として極めて完成度が高く、爽やかな感動を覚えた。30年前のアニメのバカバカしさをそのまま現代の技術で実写化しているんだけど、おそらく、当時のファンをターゲットにしていて、今の同年代の人たちはあんまり考慮してないんじゃないか、と思うのだが、けっこう子どもの笑い声もしてた。笑いにしても、いろんな種類があるのだけど、基本的には「アホらしさ」の笑いに徹している。アホらしさというのは、そう色あせないんだろうか。
 テレビサイズのアニメを映画サイズの実写+CGにするわけだから、当然にはるかに作り込みが必要になるけれど、それをきちんとやっているのがいい。ドロンジョさまが深キョンと聞いて「?」と思ったけれども、そうか、ドロンジョさまをこういう風に豊富化するのもあるんだなぁ、と思った。
 30年前のファンがターゲットなんだから、ハッチやマジンガーやタイガーマスクのネタは出てきたりは当然として、一瞬、チェリオの瓶が出てきたり、言語指導スタッフまで用意してのたった1行のスーパーとかもアホらしい。ドロンボー一味の悪徳商売も原作同様のインチキだけじゃなく、今風の洗脳商法があったりだ。
 そして、クライマックスシーンは、ラブストーリーアニメのパロディと、SFとかにありそうな自己葛藤風に見せかけて「そのままや」と、クライマックスの雰囲気だけで、バカ映画に徹しているのが気持ちいい。

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06/07/2008

サイボーグ II

サイボーグII 今をときめきたまうアンジェリーナ・ジョリーのデビュー主演作だそうだ。にもかかわらず、本邦未公開。ということで、だいたい予想がつくけど、その通り。そんなにバカっぽくないのが期待はずれ。
 アンジェリーナ・ジョリーは「コバヤシ」への自爆攻撃用のサイボーグなんだけど、格闘技インストラクターの人間の男と逃げ出すという話。ともかく「コバヤシ」が無事らしくてよかった。

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31/05/2008

ヨコハマメリー

 歌舞伎のヒーロー、江戸では花川戸の助六、上方では大星由良の助らしい。助六はカッコイイ。一方、由良の助は目的のためにカッコワルク振る舞った。
ヨコハマメリー で、歌舞伎とは関係ない映画の話である。とあるトコロで、ドキュメンタリー映画は素材にチカラがあれば、加工度を抑えた方がいいんじゃないか、という話の例に出したのが、この「ヨコハマメリー」だった。
 このヨコハマメリー、つまりはスジを通すというか、プリンシプルというか、プライドを持って生きている人たちのドキュメントだった。プライドというと、そういうタイトルの映画もあったが、そちらは「現実」によって虚飾が剥がされながらも、まだ体面を取り繕う老人の滑稽さを描いた「笑える」映画であった。この「ヨコハマメリー」というのは「体面を取り繕う」プライドではなく「自身の原則を通す」というプライドの話。
 この「ヨコハマメリー」さん、一種異様な外面であっても、それは彼女の原則を貫いていたからであり、「施し」を拒否し続けてきた人だ。話の進行役の歌手さんも、彼自身の原則に従っている。そういうエライ人じゃないけど、むしろ「世間」とやらいうものには蔑視されているんだろうけど、自身の原則に恥じることのない人の話だ。
 チョイ役で大野慶人さんが出ていたが、今でこそ「横浜市の近年で最も偉大なアーティスト」の息子さんなのだが、その父も活動を始めた当初には異様にしか見られなかっただろう。そして、メリーさんに感動し、舞台化した女優が出てきたけれど、タレントではなく、女優としての原則を通そうとしてるのかと思う。
 こういったピュアなプライドを持った人たちには、素直に感動してしまう。でも、なかなか、自分が実践できるかというと、そうはいかないもんなのよ。それで、素直に自分のダメさに反省せずに、もっと醜いのを探して憎んでしまうのがせいいっぱい。例えば、ひたすら体面を取り繕ってるような人、どこの都道府県か言わないけれど、まさに弱い犬ほどよく吠えるを実践しているような都知事の類だ。自分が半端なバカだからとわかっていても、卒業しようとするよりも、もっとバカを憎んで満足するようなものだ。
 せめて、こういう映画で、ピュアなプライドに感動できたことだけでも喜びたい。

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23/07/2007

クリムト

クリムト デラックス版 臨終のクリムトが回想した過去という体裁になっている。だから、現実か妄想かは曖昧。それにドラマが描かれているわけではない。エピソードを重ねて、クリムトが見た世界を描いたという作り。
 そういう話だから、どうしてもクリムトの絵に対する印象が、この話を受け止める前提になってしまう。それに、この映画を見ようとする人は、クリムトが何者か知らないということはないだろう。
 となると私の場合、クリムトの絵は好きじゃない。「好きじゃない」というのは「嫌い」の婉曲表現の場合もあるが、そうじゃない。画像を見ても実物を見に行きたいとか、買いたいと思わなかったということだ。その理由は「うるさい」のだ。饒舌な描写というのは好きなのだが、饒舌というより、ノイズが多いという印象だ。
 映画では、美のあるべき姿についての論争シーンがあって、クリムトがパリでは高く評価されながら、ウィーンではスキャンダラスに扱われるという展開になる。そういったクリムトの外の世界と、おそらくは内の世界だろうが、彼が惹かれる「レア」という女性と、彼のある部分を代弁するような役人の男が出てくる。
 今日では、美のあるべき姿なんてひとつじゃないと簡単に言ってしまえるわけである。けれども、美は乱調にあり、というのは古い言葉かも知れないが、この言葉がインパクトを持つのは、美には一種の「秩序」があると考えられがちだからだ。
 クリムトの当時には、その「秩序」の権威として、アカデミズムがあった。それから「分離」しようとした、ウィーン・ゼセッションの中心がクリムトだったわけである。そして、その後に、多様な「秩序」が産まれ、「秩序」がないという「秩序」も含めて、映画が作られた今日では、その「秩序」は属人化しているわけである。
 「美」が社会的な秩序であった時代を終わらせようとした画家の話を、その結果「美」が属人化した時代に映画にしているということになる。
 この映画で出てくる琳派の手法や五つ紋の着物というのは、私にとっては、というか多少とも日本文化への知識があれば、ある体系で意味を持った要素であり部分であると認識する。ところが、この映画のシーンでは、その体系から切り離されて使われている。全体として表現されている世界と、表現するための要素や手法の部分に整合がないのは、本来は気持ちが悪い一方で、完全な整合にはないトキメキを感じることができるわけである。今日的な「秩序」で作られている映画では、むしろトキメキだろう。一方で、クリムトに感じるノイズというのは、このような切り離されてしまった体系だと思う。だから、クリムトの絵じゃなくて、それを素直に見られない私の方にノイズがあるとも言える。
 たぶん、それまでの「秩序」から分離したクリムトは、代わりうる「秩序」を求めたはずだ、けれども、違う「秩序」からの部分は導入しているけど、全体としての新しい「秩序」が見えない、こういうクリムトの絵への個人的な印象がある。
 だから、この映画の「レア」を、彼の新しい「秩序」と見てしまい、目指すべきところが、リアルでない幻であって、途上で迷子になってしまった画家の物語として見てしまう。
 そういう、自由な見方ができるというか、好きな解釈ができるというのが、この映画のいいところかも知れない。


 映画の中の「美」論議に誘発されての全くの付け足しになるが、自然の「美」というのは、ひとつには、その中で暮らしている馴れもあるんだろうが、それだけではなく、初めて見た景色にも美しいと感じるように、自身もそうである自然法則というものが、見えない「秩序」として背景にあると見ることができる。
 ところが、庭園ということになると、幾何学的な「秩序」に再構築するような方向も、自然の「秩序」の縮小化を目指す方向もあるように、人が考える「秩序」はいろいろだ。
 たまたま、今、テレビで宇高志保さんが写っているけど、入隊前の方がバロック以前の芸術家には美しいと思われるだろうけど、たぶんCMの制作者はバロック以前の芸術家と違う「秩序」で判断してCMを作ったんだろう。そして、見ている中には、また全く別の「秩序」、例えば想像される密着感なんかで、入隊前の方が絶対に美しいと思う人がたくさんいたりする。これも、美を規定する「秩序」の属人化なんだろうね。
 さらには、この映画で「美」と訳されている言葉と、このblogで「美」と表現している言葉、昔の中国人が作った際の「美」の字の意味も違う概念かも知れない。
 「美」の字は生け贄を意味する「羊」と「大」から成るわけだけど、「大きい生け贄」は、それが可能な豊かさか、それを献げる気持ちの強さか、どちらのモノサシで「美」なんだろうか。
 ともかくも、「美」の基準をアカデミズムが決めてくれた時代は100年以上前に終わっちゃったし、さらには文化によって、基準となる「秩序」やモノサシは違うし、今じゃ、人によって違う。
 以前にも、少し触れたが、「美しい景観」や「美しい言葉」という言葉にインチキくささを感じるのは、そういう「美」の根拠が属人化しているのに、社会的に合意されているかのように誤魔化していることだ。「こういう基準で美しい」という言い方じゃなくちゃ、無意味なのに。「歴史的な用法に則っている美しい言葉」「現代人の多くに共通して機能的だから美しい言葉」とか、「激しく感情を揺さぶる美しい景観」「地域の昔からの印象に共通している美しい景観」じゃないと意味をなさないだろう。
 ましてや「美しい国」なんて、よほどの低能でなければ、恥ずかしくて言えない言葉だ。「美という字の成立を考えるに、犠牲が大きいから美しい」とか言わないと。

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13/07/2007

ホテル・ルワンダ

 前エントリーの映画の出来はお粗末だが、その題材となった収容所に関して、思ったことのひとつが「巡礼」ということ。件の捕虜収容所が四国巡礼1番の地にあったこと、そのため、地域の人たちが「よそ者」を遇する文化を持っていたこと、このことが物語の背景にあったんだろうと思った。もちろん、あの映画で、既存のの宗教文化を良く描くことができなかったであろうことは、前のエントリーで書いたような事情だろう。
 もうひとつ、この話の頃には、捕虜へのルールを日本軍も守ったわけであるが、この後、20年もすると捕虜は殺す、というか捕虜にしないように殺すようになり、あげくは「ひゃっく人、斬れるかなぁ」競争が自慢話になってしまうのはなぜだろうということだ。
 その背景は、おそらくは「戦争」の国民化ということだろう。そもそも「戦争」というのは「軍」がするもので、軍に属していない一般人は日和見を決め込み、帰趨がわかった所で落ち武者狩りをするなり、勝者にゴマをするものだった。ところが「近代」というのはそれを許さなくなった。戦争が、軍対軍から国対国、つまりは総動員体制の戦争になるわけである。
 軍と軍が戦争をしていた時代には、武士道はどうだったか知らないが、騎士道というか、プロの戦士であることには独自の帰属意識があったようで、同じ地域の民衆よりも、違う地域でも「戦士」という階層にあることや、戦士としての文化を持つことに、より共感を持つことがあったように思う。プロの職業人にはよくあることだ。
 でも、国と国との戦争になり、普通の人が動員されるようになると、もはやプロの職業意識はなくなってしまう。兵であろうが民間人であろうが「敵国」の人間は敵であり、殺さなければならないし、殺されてしまうという恐怖心を植え付ける必要があるわけだ。
 民間人と軍人が異質な人間であるという文化から、「敵」の集団に属する人間全てが、全て異質な人間ということになってしまうわけである。これが「近代」の、民衆参加による戦争なんだろう。
 ということを考えていて、以前に見て、何か書いておきたいものの、どう書いていいのかまとまらず、放置中の映画の感想を書くことにした。その意味で、前エントリーにあげたDVDを見たのも無駄な時間ではなかったわけである。


ホテル・ルワンダ
 「ホテル・ルワンダ」は、良くできた「集団脱出ドラマ」だった。「ポセイドン・アドベンチャー」や「ジュラシック・パーク」なんかと同じく、危機的な状況から、リーダーに率いられた一団が脱出に成功するという話である。
 その危機的状況というのが、「民族」間の内線なのだが、この話の場合、その「民族」が、植民地支配の都合で、近代に作られた概念なのである。というか、作られたものだということが、話の中で語られる。そして、もともと存在したのかもわからない「民族」の異質さを煽るラジオ放送が、危機を演出しているわけである。
 一方、リーダーはというと、如才のなさでホテルの副支配人になったという感じの普通のおじさんだ。その如才のなさと家族を守るという動機で、なりゆきで脱出のリーダーになってしまうわけである。
 この映画だったか、観終わったあとに 「その後のルワンダはどうなのですか?」と外務省に思わず電話をしてしまったおばさんがいるらしいが、私の場合は、サベナ航空に電話をしたくなった。どこかに行く予定はないが、この航空会社を使わなきゃと思ったわけである。というのもサベナ航空がこのホテルの経営母体であり、脱出劇に少なからず貢献しているからであり、それ以上に、主人公の副支配人の文化的背景としても大きな要素だからだ。つまり「ホテル」という文化だ。
 「ホテル」文化というのは、中世の巡礼者に対し、休息と安全を提供するという多分に宗教的な背景を持った施設が起源となった文化だ。同じ語源を持つ「ホスピタル」とともに、単なるショーバイでない文化的背景を持っているわけである。だから「他の建物が潰れる地震が来ても潰れない」というのがホテルや病院の文化であって、「耐震基準が変わる前の建物が潰れるくらいの地震なら、潰れたってばれないから、その程度にしておけ」というのは、ホテルの文化ではないわけである。
 舞台となったホテルでは、主人公が現地スタッフのトップである。それだけに、表面的な「如才のなさ」よりも、むしろ、ホテルの文化的伝統に大きな帰属意識を持ち、そのことに誇りを持っているんだろう。だからこそ、本社への支援要請の論理として使っているわけであり、本社もそれに応えるわけである。
 ルワンダの内戦の原因というのはよく知らないし、映画でも突っ込んでいない、ただ「近代」に作られた人為的な「異質」さを強調し、相手の「集団」は異質な人間、いや人間じゃないと煽ることで「危機」が作られている。戦争の民衆化という、極めて近代的なあり方の極端な姿に描かれている。
 そして、ありふれたようなおじさんが、彼の個人的な属性、つまり原始時代からの血族という単位や、中世以来の伝統を持つ職業文化への帰属意識、そして、彼個人の才能によって脱出に成功するという話である。
 私は、集団間の異質さを強調する言説は嫌いだ。リアリティを伴う人間関係や専門能力を背景にした職業的モラルという個人のものは尊重したいと思っているためか、このホテル・ルワンダをこういうふうに見てしまうわけである。だから、この映画に描かれた恐怖というのは、「個人」を無視し、ひとつの蓋然性による「集団」として扱うことによって、簡単に起こりうることだと感じるわけである。それが「虐殺」という形にならないまでもだ。
 なお、電話したいと思ったサベナ航空は倒産してしまって今はない。WTCへのカミカゼアタックの影響による航空需要の落ち込みで経営難に陥ったからだ。

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12/07/2007

バルトの楽園

バルトの楽園 「バ○ト」なら好物なんだけど、バルトはどうでもいい、むしろ、原作本が潮出版社で、製作にシナノ企画が入っているとくれば「○ルトの楽園」かもしれないと敬遠していた作品だ。
 ところが、プロデューサーが冨永理生子だ。「千年の恋・ひかる源氏物語」「北京原人うぱー」「デビルマン」の「東映三大コメディ」のプロデューサーだ。そういえば、この映画、やたら金をかけたわりに話題にもならなかったし。それで、ひょっとしたら、おバカ映画になってるかも、違う意味での「○ルトムービー」かもしれないと思って観たのだが。
 徳島の現在の○ルト市が舞台である。その映画で徳島語のネイティブ・スピーカーの板東英二が九州弁を喋ってるという不思議なキャスティングの導入部分では、やっぱりと期待を持たせる。ところがである、全く笑えないまま、ラストの第九の演奏シーンに来てしまう。かといって、感動作でもない。共感もなく、盛り上がりもないまま、ベタなストーリーをこなしているだけという感じ。
 個人的には、会津から下北に来た人たちが、雪景色に呆然とするシーンにちょっと笑った。というのも、下北よりも会津の方が雪が深い印象があるからだ。夏のヤマセでは絵にならないんだろうし、たまたま、私が行った冬がそうだったに過ぎないのかも知れないし、幕末あたりじゃ気候も違ったんだろうと思うことにした。
 でも、エンドロールを見ると会津でロケしているようなのだが、そんなシーンがない。それで後で調べたら、下北のシーンは会津で撮影したそうで、これなんぞは、隠されたギャグを発見した気分になって、さらに笑わせてもらった。
 これは特殊な例で、それまでにメリハリがないので、クライマックスのはずの第9演奏シーンも盛り上がらない。何しろ演奏会のホストのトップのドイツの総督もゲストのトップのマツケン収容所長も演奏途中の会場から立ち去るくらいだし。それで中座したマツケンが鏡を見ると父の顔という、必然性の全くない行動の上のベタな表現は、見ていても恥ずかしい。
 ドイツと会津の光景と被らせるという「砂の器」の劣化コピーのような演奏会が終わると、マツケンと総督が石庭の前に座ってるという不思議なシーンがあって、なぜかカラヤン指揮のだとか、「年末恒例」みたいなのだとか、余計としか思えない第9演奏がついていてエンドロールと、結局、ラストになってハチャメチャになる。
 クライマックスの演奏シーンからそのまま、エンドロールで終わらせたっていいのに、うまい表現法がなくて積み残したシーンを無理矢理納めるために、第9を繰り返しただけという感じ。
 結局、中途半端に破綻してるという感じで、破綻の「向こう側」に突き抜けた「東映3大コメディ」の域には及ばない。○ルト系企業が絡んだといって○ルトムービーにはならないようだ。

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14/06/2007

小説吉田学校

小説吉田学校 森繁ヒサヤ演ずる由党総裁・吉田茂ほか、つ在のん物がつ名で出てくる。「小説」というからにはフィクションだろうし、「巨人の星」や「あぶさん」にっ際の選手が、タイガーマスクに馬場や猪木が出てくるようなものか。でも、あぶさんやタイガーマスクに相当する架空の人は出てこないので、退屈なのは否めない。
 けれども、話の本筋とは全く別のトコで笑いドコロがある。何しろ、ファーストシーンに出てくるのが夏目雅子、で、ローゼン閣下の母上だそうだ。その息子らしき少年も後でチョイ役で出てくる。
 前半はサンフランシスコ講和条約前の話で、池田勇人の出番が多い。その補佐役の宮沢喜一もよく出てくるのだが角野卓造。宮沢喜一と近藤春菜とは意外。1983年制作ということからか、ついでにワンシーンだけ安倍晋太郎と竹下登も出てくる。安倍晋太郎はまだ新聞記者で、その通夜でTVゲームをしていたというバカ息子はまだ産まれておらず、出ても来ない。
 後半は、出入りのないヤクザ映画風。身体を悪くした親分が芦田信介で、鳩山由紀夫の祖父さん。でも組を仕切っているのは若山富三郎。武闘派の若頭が梅宮辰夫、そのアンナパパが演じているのは河野洋平パパ。
 実在の人物と言っても、過去の人なので、特に印象があるわけじゃなく、結局、そのジュニアを連想してしまって、笑ってしまうのだ。
 なお、芝居自体は、若山富三郎だとか藤岡琢也のように、ジュニアが政界にいない人の役の方がいい。
 ところで「吉田学校」って、「吉田school」の意図的な誤訳なんだろうか。

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12/05/2007

青い門/파란 대문

悪い女  韓国映画はほとんど見ないのだが、キム・ギドク(김기덕)監督は2作ほど見て気に入った。それで、そういや、これは見ていないというので見たのだが「普通にいい」という感じだった。
 「普通にいい」場合、ほとんど感想を書かない。つまり、当たり前に、ちゃんと作ってあり、それを当たり前に受け止めたわけであるから、書くことがないのだ。
 今までに見た「悪い男/나쁜 남자」や「島/섬」だと、「淡い色を重ねていって独自の絵を描く」作業を見ているような感覚、どんな絵が出来るんだろうかという期待感を持ちながら見られた。それだけにラストで「さらに輪郭線を入れる」ようなくどさがあって、もっと自由に解釈できる余地を残してくれればいいのに、と思った。
 その前に作っているこの映画だと、部分として「淡い色を重ねていく」感はあるのだけど、全体としては、アタリマエっぽい物語。もちろんアタリマエというのは、リアリティということではなく「物語」としては「あるある」感覚だ。もっとも、この映画より後に作られた「下妻物語」や「かえるのうた」と、同じく相容れなかった女2人に友情が成立していく物語を先に見ているので、アタリマエ感が強いのかも知れない。
 作りも「真っ当」で、金魚で気分を象徴するというベタが効果的。舞台となった民宿の名前が「鳥籠」だそうで、これは後で知った。日本語字幕が出なかったのだ。かえって、それが、ワンポイントで金魚を使っているのを引き立てた感じがする。
 主人公の女2人以外は、かなり「装置的」な単純なキャラクターを基本にしつつ、もう一面というのを、どこかで見せる。それが、この作品での「淡い色を重ねていく」感の大きな要因になってる。
 民宿の娘の撮り方なのか演技なのか、前半とラストで全く、見た目の印象までが変わってしまうあたりが、「一見、シアワセ」という閉塞感を表現していていい。
 なお「悪い女」という日本語タイトルのオマケは、内容には全く無関係。

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